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第三話|風景として固定される


 朝、光が差し込む。

 カーテンが揺れる。

 自分の網膜に映る景色は、もはや「家」ではなく「配置」だった。

 テーブルの角。冷蔵庫の扉。妻の背中。娘の肩。

 それらの隙間に、自分の居場所が、形を変えたジグソーパズルのように嵌まり込んでいる。

 一歩も動かなくても、すべてが正しい位置にある。


     *


 妻がリビングを掃除する。

 掃除機のノズルが、自分の足元まで迫る。

 彼女は顔を上げない。

 ノズルは、自分の靴を避けて、ごく自然な曲線を描いて通り過ぎる。

 「そこ、どいて」とは言われない。

 彼女にとって、自分はもはや移動可能な人間ではない。

 そこに固定された、避けるべき「柱」や「棚」と同じだ。

 避けられることで、自分はこの家の地形になった。


     *


 娘が友人と通話している。

 「家? 誰もいないよ。静かなもん」

 自分の目の前を通り過ぎながら、彼女は屈託なく笑う。

 嘘ではない。

 彼女の視界に、自分は映っていない。

 彼女が拾っているのは「家族という情報の塊」だけであり、その中に「父」という生身の個体は含まれていない。

 壁紙の模様を誰も意識しないように、自分の存在は、意識の外側に固定されている。


     *


 昼食の時間。

 二人はテレビを見ながら笑っている。

 自分は、その笑い声を支える「音響」の一部だった。

 椅子に深く沈み込む。

 背中と椅子の境界線が、もう分からない。

 革の感触が、自分の皮膚を上書きしていく。

 自分が座っているのではなく、椅子が自分を吸収し、完成された家具としての威厳を保っている。


     *


 洗面所の鏡。

 そこに映っているのは、もう自分ではない。

 家族が使い古したタオルの色。

 使いかけの歯磨き粉のチューブ。

 それらの反射を繋ぎ合わせた、ぼやけた像だ。

 目を凝らしても、自分と呼べる一点が見当たらない。

 背景が自分を追い越し、表に出てきている。


     *


 夕方、部屋が暗くなる。

 照明が灯る。

 自分の影だけが、壁に貼り付いたまま動かない。

 照明の角度が変わっても、影は形を変えない。

 影が先に、この家に定着したのだ。

 実体であるはずの肉体は、影に従うだけの、薄い膜にすぎない。


     *


 妻が洗濯物を畳む。

 自分のシャツを手に取る。

 彼女はそれを畳み、自分の膝の上に置いた。

 僕が着ていることを忘れたかのように、ただの「平らな場所」として。

 布の重みが、足の上に積もる。

 それは温かい。

 だが、その温かさは、愛ではなく、適切に管理された「在庫」の温度だ。


     *


 夜、家族が寝静まる。

 家中が寝息と、家電の唸りに満たされる。

 自分は動かない。

 動くと、この完璧な風景が崩れてしまう。

 一ミリのズレも許されない。

 自分が「風景」であり続けることで、この家族は、永遠の安らぎを得る。

 自分を犠牲にしているのではない。

 自分を完成させているのだ。


     *


 窓ガラスに、外の景色が映る。

 街灯の光。遠い車の音。

 それらを取り込み、自分は静かに、家の透明度を上げていく。

 明日も、自分はここで待っている。

 避けられるために。

 見られないために。

 正しく固定された、ただの風景として。

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