イトラス、吐露
出立前夜。
春日大の寝室。翌日に備えて早目の就寝と思っていたのだが、ランプを消す前にしておかなければならなかった。
窓際の丸テーブルを前にしてチェアに膝を抱えて座り込んでいるイトラスの横に腰を下ろした。テーブルにはハーブティを淹れて置いた。
「どうしたんだ、むくれて」
このところ、やたらにイトラスが大人しかったのである。カトゥンに対する毒舌もなりを潜め、下手をしたら単に愚痴っているだけにしか聞こえない。いずれにせよ、言われる方のカトゥンは気を良くするわけはないのだが、これも成長なのかと最初は気にしていなかった春日大でも、それがどうも違うのではないかと思えるくらいになったのは、「背子様」と言いながら見せた快活な笑顔が力なくなっていったからである。
「むくれているわけではありません」
カップを手にして一口すする。
「私は眷属です。それなのに、まるでお役に立てておりません」
言われて春日大はイトラスが登場してからの日々を思い出してみた。カトゥンに毒を吐いて、カトゥンに嫌味を言って、カトゥンを嘲って、カトゥンを罵って……。首を横に振った。ずっと側にいて、笑顔で「背子様」と自分を呼んでくれたイトラス。
「こんな異人の眷属だなんて。ただイヌミミを持っていただけで。イトラスの方が重荷になってたんじゃないか? もっと自由にいていいんだぞ、俺になんてこだわらなくて」
「それは違います、背子様」
イトラスは明確に首を振った。
「御言葉を返して申し訳ありません。けれど、背子様はようやく私が会えた背子様なのです。私の一族の話しは以前お話ししました」
見つめてくるイトラスに、静かに頷いた。
「いったい何代続いたと思いますか、背子様をお待ちして」
言われて春日大は言葉を失った。実際、「そんなこと言われても」と反論できる。できるが、春日大はそれを言う代わりに背筋に寒さを感じていた。
「両親も祖父母も待っていました。祖父母はその祖父母も待っていたと言っていました。その上の世代は知りませんが、私が聞いたのはもう指では足りないくらいです。私の世代になりようやく出会えたのです。ようやく一族の役割を果たすことが出来ると思ったのです」
春日大は初めて時間とは重いのだと感じた。人の時間と、言えば地球の人の時間と、この国、あるいはイトラスのような獣人の時間が共通単位かどうか、春日大には知れない。そもそも春日大が感じている重さは単位では実感できない重さだった。想像した。個人ではなく、一族として待ち続ける日々。果たすべき使命の伝承。春日大が自分の一家を思い出そうとするのは無理からぬことだった。しかし、春日大は思い出すことよりも重要なことに目を向けた。耳を傾けた。
「どんな方なのだろう。厳しい方だったらどうしよう、けれどお仕えしよう。ミミをおつけになる方です。邪な方のはずはないから、きっとできるはずだ。お会いできなかったら、私は子を産んで、ちゃんと伝えなければならない。私が聞いて教えられてきたように。そんなことを考えていた時、感じたんです。匂いがしたんです。背子様がいらっしゃったと。お会いして、お会いできて良かった。失礼を承知で申し上げますが、初めてお会いした時は想像と違ってびっくりしていたんです。もっと体格のしっかりして、低い声で、寡黙で」
「それデイザンじゃないか?」
「いえ、あれは違います。あれはイヌミミを着けるにふさわしくありません。実際つけているのはネコミミじゃないですか」
ちょっとだけむくれるイトラスがかわいらしい。気分がまぎれてくれたのかと。
「そうじゃないです。背子様は想像とは違っていましたが、知的で、寛容で、それでいて決然としている」
初めて言われる評価ばかりで、春日大はむず痒さを感じた。けれどもせっかくイトラスが心情を吐露してくれているのを、否定ではぐらかすのは違うように感じた。
「それに何より背子様は私を邪険にしなかった。私の話しを聞いてくれて信じてくれて。背子様はこの国の人ではないのに。私を受け入れてくれて。イヌミミを着ける背子様がお役目を果たしているというのに、私はお力になれてなくて」
もう一口ハーブティを啜ると、それをテーブルに置いて膝の間に顔を埋めてしまった。
「イトラス」
静かなその声にイトラスはゆっくりと顔を上げた。目にはうっすらと光るものがある。
「お前がいてくれて良かったと思っているんだ」
「え?」
目が一層開き、それ以上イトラスの口から言葉は出てこなかった。
「ほら俺さ異人だろ。ずっと思っていることがあって、なんで俺がこっちに来たんだとか。どうやったら帰れるんだろうとか。なんでイヌミミ、持ってるんだろうとか。聞いたことや教えてもらったこと、調べたことを頭では理解できていても、なんだか俺一人ぼっちだなと思えてくるんだよな。けれど、いる以上はやれることはやろうと思って自分を奮い立たせてさ。イトラスが現れてから少し変わったんだ。イトラスが笑顔を向けてくれるから、俺がここにいていいんだと思えたんだ。俺がイトラスの御主人てのがまだどうしたらいいのか分からんのだけれど、お前がいてくれてるのは、俺がピコライトでこうして果たす役割を支えて、そして背中を押してくれているんだ」
「背子様……」
光る瞳はもう一杯の潤いであふれてしまいそうになっていた。
「きっとさ、なんか伝承とかだと主人と眷属って、戦闘の命令とかなんたらかんたらみたいな想像になるのかもしれないけれど、もしそれだったらそういう期待は向けないでくれよ。いや、そういう命令をしないってわけじゃなくて、命令って言うか指示って言うかお願いって言うか」
慌てて、取り繕う様子をその瞳で見ていたイトラスは、
「やっぱり、想像と違う背子様です」
精一杯の笑顔を作った。春日大は頭を掻くしかなかった。その春日大にチェアから軽やかに跳躍したイトラスはその胸の中にうずもれた。しっかりと春日大の身体を抱きしめて、
「けれど、想像の背子様はこのような振る舞いは決して許されなかったかもしれません。私は今の背子様の方が想像よりもずっとお慕いしております」
その頭にやさしく手を置く春日大だった。




