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第02話 もう一度、五分前へ

 家に戻った俺は、靴もきちんと揃えないままパソコンの前へ座った。


 コンビニからここまで、何度時計を確認したか分からない。


 スマートフォンは午前零時を少し回ったところを示している。パソコンの時計も同じで、日付もしっかり変わっていた。


 だからこそ、余計に分からない。


 俺は確かに十一時五十六分まで歩いていた。


 高校生が落としたスマートフォンを拾い、コンビニへ入り、百四十八円のコーヒーを買った。そのとき五百円玉を棚の下へ落としている。


 ところが気づいたときには十一時五十一分だった。


 しかも同じ高校生が、もう一度スマートフォンを落とした。


 二度目の俺は、それが落ちることを知っていた。


 コンビニでは五百円玉を落とさなかった。


 同じ出来事を二度経験した。


 偶然で片づけるには、出来すぎている。


「……戻ったんだよな」


 口に出した途端、急に馬鹿げた話に聞こえた。


 五十歳の売れない小説書きが、誕生日の夜に五分だけ時間を戻った。


 自分の小説に書いたら、もう少し伏線を入れろと自分で突っ込みたくなる展開だった。


 だが現実に起きた。


 俺は机の引き出しから、使いかけのノートを取り出した。


 最初のページを開き、大きく時刻を書く。


『十一時五十六分→十一時五十一分』


 その下へ、覚えていることを順番に並べた。


『高校生がスマートフォンを落とした』


『コンビニでコーヒーを買った』


『一回目は五百円玉を落とした』


『二回目は落とさなかった』


 書き終えてから読み返す。


「証拠として弱すぎるな」


 時間が戻ったことを証明するには、あまりにも日常的すぎる。


 せめて宝くじの当選番号でも見てから戻っていれば、もう少し夢のある話になったかもしれない。


 もっとも、たった五分ではどうにもならない気もする。


 そこで俺は、もっと重要なことに気づいた。


「もう一回できるんじゃないか?」


 一度起きたのなら、二度目があってもおかしくない。


 問題は方法だった。


 俺は椅子に座り直し、昨夜の自分を思い返した。


 交差点を歩いていた。


 時計を見た。


 あと数分で五十一歳になると思った。


 五十一歳になっても同じことをしているのだろうと考えた。


 そして最後に、こう呟いた。


『やり直せたらな……』


「これか?」


 俺は姿勢を正した。


「やり直せたらな……」


 何も起きない。


 秒針だけが動いている。


「やり直したい」


 反応なし。


「五分前に戻れ」


 何もない。


「十分前に戻れ」


 駄目だった。


「一時間前」


 当然のように駄目だった。


 念のため目を閉じて言ってみたが、やはり何も起きない。


「……呪文じゃないのか」


 だったら場所だろうか。


 最初に異変が起きた交差点へ行けば、何か変わるかもしれない。


 あるいはコンビニ。


 コーヒーを買ったことが関係している可能性だって、完全には否定できない。


「缶コーヒーが条件だったら嫌だな」


 時間を操るたびに百四十八円。


 しかも値上げされたら能力の使用料まで上がる。


 そこまで考えて、自分で馬鹿らしくなった。


 それでも笑っていられるのは、まだ俺自身がこの出来事を完全には信じていないからだろう。


 上着を手に取ったところで、スマートフォンが震えた。


 画面に妹の名前が表示されている。


 時任 美咲――ときとう みさき。


 俺より三つ年下の妹で、昔から遠慮なく物を言う性格だった。


 俺が小説家を目指していることも知っている。


 若い頃には俺の原稿を読んでくれたこともあったが、最近では正月や誕生日に短いやり取りをする程度になっていた。


『誕生日おめでとう。五十歳だね』


 続けて、もう一件届く。


『ついに大台』


「余計なお世話だ」


 返信欄を開いた。


『ありがとう』


 それだけ送る。


 すぐに既読がついた。


『まだ小説書いてる?』


 指が止まった。


 まだ。


 美咲に悪意がないことくらい分かっている。


 それでも、その二文字は五十歳になったばかりの俺には少しだけ重かった。


『書いてる』


『そっか。じゃあそのうち読ませて』


 短いやり取りだった。


 俺は上着を椅子へ戻した。


 交差点へ行くのは後でもいい。


 ノートへ向き直り、さっき試したことだけを書き加えた。


『同じ言葉を言っても何も起きない』


『戻る時間を指定しても反応しない』


 そのとき、別の通知が届いた。


 佐伯 直人――さえき なおと。


 学生時代から付き合いのある、数少ない友人の一人だ。


 俺が小説家を目指していることも昔から知っていて、慰めるより先に茶化してくるような男だった。


『五十歳おめでとう。まだベストセラー作家になってないの?』


「こいつは……」


 思わず笑ってしまった。


『来年なる予定』


『去年も聞いた』


『予定は変更されるものだ』


『便利な言葉だな』


 昔と変わらない。


 直人は俺に「諦めろ」と言ったことがない。


 だからといって、「お前なら絶対に成功する」などという無責任な励ましもしない。


 ただ、俺が小説を書く人間であることを当たり前のように扱ってきた。


 もしかすると、それに助けられていた時期もあったのかもしれない。


 俺はスマートフォンを伏せた。


 パソコンの画面には、昨日投稿した自分の小説が残っている。


 アクセス数は相変わらず寂しい。


 お気に入りの数字だけが、一つ増えていた。


「……一人か」


 昨日までなら、たった一人だと思っただろう。


 今は少し違った。


 知らない誰かが俺の小説を読み、続きを読んでもいいと思ってくれた。


 それでも胸の奥には、満たされないものが残っている。


 五十歳まで追い続けた夢だった。


 二十代の頃は、三十歳までには本を出していると思っていた。


 三十代になれば、四十歳までには何とかなると思った。


 四十代では、遅咲きという言葉にすがった。


 そして五十歳になった。


 もし時間を戻せるなら。


 たった五分ではなく。


 もっと前へ戻れるなら。


「五分じゃ足りないんだよ」


 さっきまでの実験とは違った。


 命令するつもりなどなかった。


 ただ、口から出た。


「戻してくれるなら……もっと戻してくれよ」


 その瞬間だった。


 ゴォン――。


 低い音が、部屋の奥から響いた。


 俺は椅子から立ち上がった。


 時計を見る。


 時間は戻っていない。


 机も、パソコンも、スマートフォンもそのままだ。


 だが、ノートの端が微かに震えていた。


「……今の」


 俺は息を止めた。


 さっきまで何度命令しても、何も起きなかった。


 同じ言葉を繰り返しても駄目だった。


 それなのに今は、確かに反応した。


 違ったのは言葉ではない。


 俺自身だった。


 ノートを引き寄せ、新しい一行を書いた。


『本当に戻りたいと思ったとき、反応した』


 ペン先を止める。


 まだ条件と呼ぶには早すぎる。


 ただ一つだけ分かった。


 この力は、俺の命令を聞いているわけではないらしい。


 だとしたら。


 何に反応している?


 俺はノートの空白を見つめた。


 五分前へ戻れと命令しても駄目だった。


 だが人生をやり直したいという思いには、何かが答えた。


 偶然なのか。


 それとも、そこに意味があるのか。


 答えは出なかった。


 ただ、さっきまでとは違う。


 もう一度、あの音を聞いた。


 それだけで十分だった。


 俺はノートを閉じなかった。


 今夜は、まだ眠れそうになかった。


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