第01話 才能のない俺に、時間だけが戻ってきた
俺が自分には才能がないと認めたのは、五十歳になった日のことだった。
時任蓮、五十歳、独身。会社員としては可もなく不可もなく、小説家志望としては二十年以上の大ベテラン。ただし「志望」の二文字が一度も外れたことはない。
新人賞へ送った原稿は数え切れない。一次選考で落ち、二次へ進んで喜んでは落ち、Web小説へ場所を移してからはランキングという数字に毎日殴られた。
それでも書くことをやめられなかった。
俺が欲しかったのは、立派な文学賞ではない。もちろん貰えるなら欲しい。だが本当に欲しかったのは、もっと俗っぽいものだった。
読まれたい。褒められたい。本になりたい。漫画になりたい。できればアニメにもなってほしい。そして誰かに「時任蓮って天才じゃないか」と言われたい。
五十歳にもなって口にするとかなり痛い。
だから普段は誰にも言わない。
その夜も、俺は投稿サイトの管理画面を更新していた。
本日のアクセス数、二十三。
「二十三人も読んだ、と考えるべきか。二十三人しか読んでない、と考えるべきか」
答えは分かっている。俺は後者としか思えない。
ランキング上位には何万、何十万という数字が並ぶ。俺も人気作を研究した。『無職転○』も、『転生したらス○イムだった件』も、話題になった作品は片っ端から読んだ。
面白い理由をノートに書き、構成を分析し、冒頭の引きを真似しない程度に研究した。
なのに自分で書くと面白くならない。
料理番組を百時間見ても、包丁を握ればキャベツがつながる。それに近かった。
「才能って、残酷だよな」
更新ボタンを押す。
二十三。
もう一度押す。
二十三。
「せめて俺が押した分も一アクセスにしてくれないかな」
そんな不正な願いを口にしたところで、日付が変わりそうになっていることに気づいた。
冷蔵庫は空だった。
俺は財布を持ち、近所のコンビニへ向かった。
小さな交差点で、制服姿の高校生とすれ違う。少年がポケットからスマートフォンを取り出した瞬間、それが手から滑った。
硬い音がした。
「あっ」
俺は拾って渡した。
「ありがとうございます」
「気をつけてな」
たったそれだけのやり取りだった。
コンビニへ入り、百四十八円の缶コーヒーを一本取る。財布から五百円玉を出したところで指を滑らせ、硬貨が棚の下へ転がった。
「うわ」
しゃがみ込み、手を伸ばす。
あと少し届かない。
店員に棒を借りて、ようやく救出した。
五十歳の誕生日の締めくくりが、棚の下の五百円玉との格闘だった。
人生というものは、もう少し主人公に優しくてもいいと思う。
店を出たとき、スマートフォンは午後十一時五十六分を示していた。
缶コーヒーを開け、夜道を歩く。
五十一歳になっても、たぶん俺は同じことをしている。
仕事から帰り、誰にも読まれない小説を書き、数字を更新し、才能のある若者を羨む。
六十歳でもそうかもしれない。
想像したら、急に足が止まった。
「俺、いつまでやるんだろうな」
やめればいい。
何度もそう思った。
だが、やめたら二十年以上が本当に何も残らない気がした。
成功しなかった時間を、努力だったと言い張るために書き続けているだけなのかもしれない。
胸の奥に溜まっていたものが、誕生日という区切りのせいで一気に浮かび上がった。
「やり直せたらな……」
冗談のつもりだった。
その瞬間、耳の奥で低い音が鳴った。
ゴォン――。
「なんだ?」
街灯が消えた。
いや、消えたのではない。光が空中に固定されたように見えた。
道路を走っていた車も止まっている。
風もない。
世界から音だけが抜け落ちた。
次の瞬間、視界が真っ白になった。
俺は反射的に目を閉じた。
ほんの一瞬だったと思う。
目を開けると、俺はさっきの交差点に立っていた。
「……は?」
制服姿の高校生が前から歩いてくる。
見覚えがある。
少年がポケットへ手を入れた。
俺は考えるより早く手を伸ばした。
滑り落ちたスマートフォンが、地面へぶつかる寸前で俺の手の中に収まった。
「えっ」
「ほら」
「あ、ありがとうございます」
少年は不思議そうな顔で去っていった。
俺はスマートフォンを取り出す。
午後十一時五十一分。
「……五分?」
コンビニへ駆け込む。
同じ店員が同じ位置にいる。
同じ缶コーヒーを取る。
レジで五百円玉を出すとき、今度は両手で握った。
店員が少しだけ怪訝な顔をした。
会計を終え、外へ出る。
午後十一時五十六分。
俺は缶コーヒーを開けることも忘れて立ち尽くした。
偶然では説明できない。
高校生も、スマートフォンも、店員も、缶コーヒーの値段も全部同じだった。
違ったのは、俺の行動だけだ。
「戻った……?」
五分前へ。
俺だけが記憶を持ったまま。
怖いはずなのに、胸の奥では別の感情が膨らんでいた。
もし五分だけではないとしたら。
もし、もっと戻れるとしたら。
五十歳の誕生日に、神様は俺へ才能をくれなかった。
代わりに、時間を返してきた。
そのときの俺はまだ知らなかった。
未来で読んだ物語も、聴いた音楽も、まだ生まれていない時代へ持っていけるということを。
そして、それが俺の欲しかった「才能」の代わりになってしまうことを。
帰宅するまでの短い道で、俺は意識して周囲を観察した。さっき赤だった信号が同じタイミングで変わり、角から同じ自転車が現れる。五分先を知っているだけなのに、自分だけが台本を読んでいるようだった。
この感覚は恐怖より先に、妙な優越感を連れてきた。人生で答えを知った状態から始められたことなど一度もない。試験も仕事も小説も、いつも正解が分からないまま手探りだった。
たった五分でも、未来を知るというのはこういうことなのか。俺はその夜、初めて自分だけが世界より半歩先にいる感覚を知った。
こうして俺の二度目の人生の第1段階は、答えではなく新しい疑問を残して進み始めた。以前なら焦って結論を出していたが、今回は時間がある。だからこそ、一つずつ確かめて進むと決めた。
マンションへ戻るエレベーターの中でも、俺は時刻表示から目を離せなかった。十一時五十九分。あと一分で五十歳の誕生日が終わる。ほんの数分前までは、その区切りに意味などないと思っていた。
ところが今は違う。五十歳になった日に、俺は人生で初めて説明できないものを手にした。
部屋へ入ると、缶コーヒーを机へ置いた。プルタブはまだ開けていない。一度目の時間では、帰り道ですでに飲んでいたはずだ。
小さな違いだった。
けれど、その小ささが逆に怖かった。時間を戻ったという証拠は写真にも映らないし、誰かの記憶にも残らない。俺が覚えているという一点しかない。
パソコンの画面には、さっきまで眺めていた投稿サイトが残っていた。
二十三という数字を見て、俺は少しだけ笑った。
五分前まで、これが今日一番大きな問題だった。
今は違う。
もし本当に時間を戻せるなら、俺の人生にはまだ選択肢がある。
その夜、俺は眠るより先に、起きたことを一文字も忘れないよう書き残すことにした。




