第1話:捨てられた温もりと、歪む牙
「——まあ、なんて可愛らしくて、哀れなお人形さんなのかしら」
ソノリア侯爵家の絢爛豪華な屋敷。その一角にある、日当たりすら悪い別館の冷たい床で、マリア・ソノリアは冷ややかな視線を見上げていた。
視線の主にいるのは、ソノリア侯爵家の第一妻、エレノア。 彼女の背後には、異母兄である長男のレオンが、嘲笑を浮かべながらこちらを見下ろしている。
「魔力測定の儀式で『ゼロ』。授かった固有スキルは……くすくす、何に使うかも分からない『思創』? 頭で思ったものを創り出す……なんて聞こえは良いけれど、木切れ一枚生み出すだけで魔力酔いで倒れ込むゴミスキルなんですってね?」
エレノアは扇子で口元を隠し、心底蔑むような笑い声を漏らした。
(……うるさいババアだな)
マリアは、伏せた瞳の奥で冷ややかに思考を巡らせていた。 マリア・ソノリア(♂)。 華奢な骨組みに、白磁のような肌。少女と見紛うばかりの美貌を持ったこの身体には、生まれた瞬間から『前世の記憶』が宿っていた。
前世は、過労と虚無の中で病死した男。 せっかくの第二の人生、穏やかに生きたかった。だが、生憎とこのソノリア侯爵家という環境は、ドブヘドロのように腐りきっていた。
妾の子として生まれたマリア。 母であるミラは、優しく、慎ましく、ただマリアを愛してくれた心優しい女性だった。 だが、その存在すら、第一妻エレノアにとっては「嫉妬と嫉妬を煽る歪んだ不快感」でしかなかったのだ。
「いいかいマリア。お前のような無能がこの侯爵家の血を引いていること自体、我が家の泥だよ。……まあ、精々お母様と一緒に、静かに惨めらしく生きていくことね」
捨てゼリフを残し、エレノアたちが去っていく。 重い扉が閉まり、静寂が戻った部屋で、マリアは小さく溜め息をついた。
「……坊ちゃま」
影からすっと姿を現したのは、一人の男だった。 整えられた白髪に、隙のない執事服。母ミラの元側近であり、かつて『影刃』の異名で世界に知られた元Sランク冒険者、ヴォルクだ。
「ヴォルク。母さんは?」 「……奥様は、奥の部屋でお休みになられております。……先ほど、お召し上がりになったお茶の後に、体調を崩されて」
ヴォルクの拳が、痛々しいほど強く握りしめられていた。 その言葉の真意を、前世の精神を持つマリアが察しないはずがない。
「……毒か」 「……不徳の致すところです、坊ちゃま。私が……私がお傍にいながら……!」
ヴォルクが膝を折り、床に頭を擦り付ける。 マリアは静かに奥の部屋へ歩みを進めた。 ベッドの上には、まるで眠っているかのように動かなくなった母の姿があった。まだ温もりが残るその手を、マリアは小さな手で握りしめる。
(——ああ、そうか)
頭の奥が、氷のように冷え切っていくのを感じた。
前世では得られなかった、無償の愛をくれた人。 この醜い屋敷の中で、唯一マリアを「無能」ではなく「愛おしい我が子」として抱きしめてくれた人。
それが、たった今、奪われた。 くだらない嫉妬と、血筋という名の見栄のために。
「……ヴォルク」 「はっ……」 「母さんを殺したのは、あのババアだな」 「……証拠はありません。ですが……間違いなく、第一妻様の配下が動きました」
マリアは母の瞼を優しく閉じさせると、ゆっくりと振り返った。 その瞳には、子供のそれとは到底思えない、底なしの暗い情念が宿っていた。
「殺す」
短く、小さく呟かれたその言葉に、元Sランク冒険者であるヴォルクの背筋が冷たく凍りついた。
「ソノリア侯爵家も、あのババアも、笑っていた異母兄も……全部、俺の手で地獄に叩き落とす」
「……坊ちゃま。お気持ちは察するに余り有ります。ですが、今の坊ちゃまの立場と……その、『思創』の力では……」
ヴォルクの言い分は正しい。 今のマリアは6歳の子供。魔力量も少なく、スキル『思創』は「木切れすら創れないゴミスキル」として処理されている。今動けば、即座に返り討ちに遭って消されるだけだ。
だが。
(——違う。『思創』はそんな生易しいゴミ能力じゃない)
マリアは自分の胸に手を当てた。 これまで『思創』が失敗していた理由。それは、この世界の人間と同じように「物質そのもの(剣や木)」を脳内でそのままイメージしようとしていたからだ。
物質を具現化するには、分子構造、密度、質量、物理的な整合性——それら全ての「情報」が必要になる。一朝一夕の子供の頭脳でそれらを賄えるはずがなく、結果として莫大な魔力を空消費して破綻していたのだ。
だが、もし。 「物質」ではなく、「効果(概念)」をイメージしたなら?
『目の前の存在の首を、確実に切り落とす』という、純粋な殺意のベクトルだけを具現化させたなら——?
その時。
バタンッ! と別館の重い扉が蹴破られた。
「ハハッ! いたぞ、無能のガキだ!」 「エレノア様からの言伝だ。『親の後を追わせてやる』とな!」
入ってきたのは、顔に生傷を作った三人の男たち。 腰には泥と血に汚れた長剣。山賊に偽装した、エレノアの放った刺客だった。
「坊ちゃま、お下がりを! ここは私が——!」
ヴォルクが腰の短剣に手を伸ばそうとした、その時。
「——ヴォルク。動かないで」
鈴を転がすような幼い声。 だが、その声に含まれた絶対的な強制力に、元Sランクの猛者であるヴォルクの体が思わず硬直した。
マリアは、刺客たちに向かって、静かに右手をかざした。
「ハッ、なんだその構えは? ゴミスキルで何か創り出す気かぁ!?」 「死ね、ガキが!」
男たちが剣を振り上げ、躍進する。
マリアの脳内で、前世のロジックと、現世の魔力が激しく噛み合わさった。
(構造は単純でいい。金属の質感も、装飾もいらない) (ただ一つ——【触れたものの結合を強制解除し、切断する】という概念だけを固めろ)
——スキル『思創』、起動。
瞬間。 マリアの小さな手の中に、光すら吸い込む「漆黒の割れ目」のような短剣が握られた。
「——え?」
刺客の一人が、自分の振り下ろした刃が、マリアの持つ「黒い影」に触れた瞬間に豆腐のように滑らかに切断されたことに気づく。
間髪入れず。 マリアは踏み込んだ。
6歳児の小さな身体とは思えない、最小限で無駄のない、滑らかな踏み込み。 前世の知識と、死への恐怖を塗りつぶす漆黒の殺意。
サクッ。
「あ——」
黒い短剣が、男の首筋を撫でた。 一切の抵抗もなく、骨も筋肉も、まるで存在しないかのように刃が通り抜ける。
ポン、と軽い音を立てて、男の頭部が床に転がった。 血が噴き出すより早く、マリアは二人目の懐へ滑り込んでいた。
「ひっ、な、なんだこのガキ——」
「次」
心臓を、黒い短剣が正確に貫く。 概念切断の刃は、男が着ていた厚手の革鎧ごと、内部の心臓を呆気なく切り刻んだ。
「ひぃあぁぁぁっ! 化け物! 化け物だぁぁぁっ!」
最後の男が、恐怖のあまり剣を放り出して背を向けた。 マリアは追わない。ただ、手に持った黒い短剣を、男の背中へ向けて——真っ直ぐに投げつけた。
シュッ。
短剣は男の背中に吸い込まれ、胸元から突き抜けた。男はそのまま前傾姿勢で倒れ込み、二度と動かなくなった。
シーン……と、部屋の中に静寂が戻る。
3人の大人の刺客。それを、6歳の「無能」と判定された少年が、わずか数秒で完封し、絶命させていた。
「……ふぅ」
マリアが息を吐くと、手にしていた黒い短剣は、サラサラと黒い霧となって空気中に溶けて消えた。魔力の消費は、驚くほど少ない。
(いける……! 『思創』の本質は物質創造じゃない……『概念の具現化』だ……!)
マリアは血で汚れた手を袖で拭うと、固直しているヴォルクの方へ振り返った。
「ヴォルク」 「……は、はいっ……!」
伝説の冒険者と呼ばれた男が、震えていた。 恐怖ではない。眼前にいる「幼き主」が秘めた、恐るべき器の大きさと絶望的な才能に、魂が震えていたのだ。
マリアはヴォルクの前に歩み寄ると、その瞳を直視して言った。
「俺は、今すぐにはあいつらを殺さない」 「……と、おっしゃいますと?」 「今殺せば、俺はただの暗殺者だ。……あいつらが大切にしている『侯爵家』も、『地位』も、『名誉』も、一番輝いている瞬間に、全部俺の手で引きずり降ろして叩き潰す」
マリアの唇が、美しく、そして残酷に歪んだ。
「そのために、俺はあと10年……『無能の落ちこぼれ』を演じ切る。ヴォルク、俺に戦い方を教えてくれ。この力を誰にも悟らせないための、完璧な隠蔽と暗殺の技術を」
ヴォルクは息を呑んだ。 そして、ゆっくりと両膝を床につき、深く、深く頭を垂れた。
「……御意、マリア様。我が命、我が魂の全てを賭して……あなた様を、至高の王へと仕立て上げましょう」
この日。 ソノリア侯爵家の別館で、一人の「無能」が消え、世界を覆す「怪物」が静かに産声を上げたのだった。




