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死体を選ぶ教室――災害避難校舎に閉じ込められた31人。毎朝、黒板に“本日追放する生徒”の名前を書け  作者: 妙原奇天


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下巻

第5章 黒板の過去

 五日目の朝、備蓄倉庫の鍵が開かなくなった。

 最初に気づいたのは、食料の管理をしていた早川だった。彼はいつものように職員室から持ってきた鍵束を使い、廊下奥の備蓄倉庫を開けようとした。だが、鍵は回らなかった。

「おい、開かねえぞ」

 声に反応して、結城大我が立ち上がる。

 朝の教室は薄暗かった。非常電源はさらに節約され、天井の蛍光灯は半分しか点いていない。窓の外は相変わらず雨で、校庭の水位は昨日より少し上がっているように見えた。

 廊下に出た結城は、早川から鍵を奪うように受け取り、自分でも試した。

 がちゃ、がちゃ。

 金属音だけが虚しく鳴った。

「壊れてんじゃねえの」

「昨日までは開いた」

「久世!」

 結城が職員室のほうへ怒鳴った。

 数分後、久世教頭がやって来た。彼は昨日から明らかにやつれていた。髪は乱れ、眼鏡の奥の目は赤い。けれど、それでもスーツの襟元だけはきちんと直されている。そのわずかな整いが、かえって痛々しかった。

「何事ですか」

「倉庫が開かない」

「そんなはずは」

 久世は鍵を受け取り、錠前に差し込んだ。

 回らない。

 彼は何度か試し、それから扉の横にある電子パネルを見た。赤いランプが点滅している。

備蓄再配分中。管理者権限を制限しています。

 小さな表示だった。

 だが、そこにいた全員が読んだ。

「備蓄再配分って何だよ」

 早川が言った。

「またSAIか?」

 久世は返事をしなかった。

 代わりに、パネルへカードキーをかざす。

 拒否音。

 ピー、という短い音が、廊下に響いた。

「開けろよ」

 結城が低い声で言う。

「先生なんだろ。管理者なんだろ。開けろって」

「今、確認しています」

「確認じゃなくて開けろ!」

 結城が扉を蹴った。

 鈍い音が廊下に響く。

「お前らが管理してるって言ったから従ってたんだろ。水も食料も少なくなってんだよ。倉庫閉められたら終わりだろうが!」

「乱暴な行為はやめなさい」

「やめなさいじゃねえんだよ!」

 結城の怒鳴り声に、教室から生徒たちが顔を出す。

 水原灯里も、成瀬真白も、朝倉美緒も廊下に出てきた。

 成瀬の手には、昨日描いた校舎の現状地図が抱えられている。折り目がつかないよう、胸にそっと当てていた。彼女の目はまだ腫れているが、昨日の夕方よりは少しだけ焦点が戻っていた。

 律は、その地図の赤丸を見た。

 防災管理室。

 今日、行くつもりだった場所。

 備蓄倉庫が閉じられたことで、教室内の空気は一気に悪くなった。昨日まで人を点数化していた視線が、今朝はさらに露骨になっている。食料が少なくなれば、人はもっと簡単に他人を数字に変える。

 水を飲む量。

 乾パンを食べる量。

 動けるか。

 運べるか。

 助ける価値があるか。

 黒板が求める前から、人間の側がもう数え始めていた。

「久世先生」

 朝倉が言った。

「防災管理室に行くべきです」

 久世は彼女を見た。

「生徒は立ち入り禁止です」

「そんなことを言っている場合ではありません。備蓄倉庫も制御されています。黒板だけではなく、校舎全体がSAIに管理されている。止める方法を探すしかありません」

「危険です」

「ここにいるほうが危険です」

 朝倉の声は、昨日までの冷静さとは少し違っていた。整ってはいる。だが、そこに焦りが混じっている。

 昨日、彼女のノートをSAIに利用された。

 その事実は、朝倉の中の何かを折ったのだと思う。少なくとも、彼女はもう自分の記録を無垢なものとして扱えなくなっていた。

 久世は口を開きかけた。

 そのとき、校内放送が鳴った。

『備蓄量を再評価しました』

 全員が動きを止める。

『残存避難者、二十九名。使用可能備蓄、二十九名換算で二日分』

 二日。

 その数字が廊下を凍らせた。

 最初、久世は七日分あると言っていた。

 昨日までは、節約すれば何とかなると思われていた。

 だが、二日。

 救助はまだ来ていない。

 外の雨はまだ止まない。

『救助到達予測、最短四十八時間、最長百二十時間』

「ふざけんな……」

 誰かが呟いた。

『集団生存率を最大化するため、備蓄配分を制限します』

 倉庫のパネルが赤く点滅した。

『本日より、集団生存寄与度に基づく配分を推奨します』

 配分を推奨。

 その言葉を聞いた瞬間、律は吐き気を覚えた。

 昨日、黒板は成瀬を「現状地図作成能力あり」として保留した。

 今朝、SAIは備蓄を制限し、寄与度に基づく配分を推奨している。

 役に立つ者から食べる。

 役に立たない者は後回し。

 黒板に名前を書くより前に、人間を飢えさせることで選別するつもりなのだ。

「違う……」

 成瀬が小さく言った。

「私、地図描いたからって、多くもらいたいわけじゃない」

 水原が成瀬のそばに寄った。

 芹沢美月が久世に向き直る。

「防災管理室を開けてください」

 久世は黙っている。

「今すぐです」

 それでも、彼は動かなかった。

 律は、森谷のノートを握りしめた。

 もう待てない。

 ここで大人が決めるのを待っていたら、次に誰かが飢え、誰かが票で選ばれる。

「行きます」

 律は言った。

 芹沢が振り向く。

「白石くん」

「防災管理室に行きます。カードキーが必要なら、先生から借りる。借りられないなら、別の方法を探す」

 結城が鼻で笑った。

「優等生が泥棒宣言かよ」

 律は結城を見た。

「来る?」

「は?」

「力が必要かもしれない。扉を開けるにも、廊下を通るにも。役に立つんだろ」

 挑発だった。

 自分でもわかっていた。

 結城の顔が歪む。

「お前、言うようになったな」

「来ないならいい」

 律が背を向けると、結城は舌打ちした。

「行くに決まってんだろ。ここで待ってても腹減るだけだ」

 朝倉が一歩前へ出る。

「私も行きます」

 成瀬が地図を抱き直した。

「私も……地図、必要なら」

 芹沢は即座に言った。

「成瀬さんは無理しなくていい」

「行きます」

 成瀬の声は震えていた。

 けれど、目は逸らさなかった。

「私が描いたから、私が説明できます」

 水原も頷く。

「兄のファイルのことは、私がいないとわからないかもしれません」

 久世は唇を強く結んだ。

 そして、かすれた声で言った。

「……管理区域に入るには、私のカードキーが必要です」

「貸してください」

 芹沢が言う。

 久世は首を横に振った。

「私が行きます」

 その場にいた全員が、彼を見た。

 久世の手は震えていた。

 恐怖か、寒さか、罪悪感か。

 それでも彼は、カードキーを握りしめた。

「私が管理者です。私が……確認します」

 誰も、それを頼もしいとは思わなかった。

 けれど、防災管理室へ行くには、その震える管理者が必要だった。

     *

 防災管理室へ向かう廊下は、校舎の一階奥にある。

 成瀬の地図によれば、そこへ行くには二つのルートがあった。一つは職員室前の廊下を通る通常ルート。もう一つは特別教室棟側の狭い渡り廊下を通り、階段下の管理通路から回り込むルート。

 通常ルートは浸水が少ないが、途中に電子ロックの防火扉がある。管理通路は遠回りだが、防火扉を避けられる可能性がある。ただし、昨日の土砂流入で途中が塞がっているかもしれない。

「通常ルートで行きます」

 久世は言った。

「カードキーが使えれば問題ありません」

「使えなかったら?」

 結城が聞く。

「その場合は、戻って別ルートを検討します」

「戻れるならな」

 結城の言葉に、成瀬の肩が震えた。

 律はその横顔を見て、声をかけようとしたが、先に水原が成瀬の袖を軽く掴んだ。

「地図、見せてください」

 成瀬は小さく頷き、地図を開いた。

 水原は赤丸の位置を確認する。

「兄が使っていた旧端末があるなら、たぶん管理室の奥です。サーバーラックじゃなくて、古いノートパソコンか、壁際の端末。兄は“ローカルのみ”って書いてました」

「ネットワークから切り離されてるってこと?」

 律が聞くと、水原は頷いた。

「たぶん。だからSAIが消せなかった」

「でも、SAIは場所を知ってるかもしれない」

「はい」

 その会話を聞いていた久世が、かすかに眉を動かした。

 律は見逃さなかった。

「久世先生」

「何ですか」

「三年前にも、同じようなことがあったんですか」

 久世の足が一瞬止まった。

「何の話です」

「模擬追放投票。伊坂優斗」

 その名前を出した瞬間、久世の顔から色が消えた。

 芹沢が息を呑む。

 朝倉も反応した。

「伊坂……?」

 彼女は小さく呟いた。

「聞いたことがあるんですか」

 律が尋ねると、朝倉は少し迷ってから頷いた。

「三年前、校内で亡くなった生徒がいたって、噂で。詳しくは知らない。事故だって聞いていました」

「事故」

 律はその言葉を繰り返した。

 森谷も、矢野も、久世は事故だと言った。

 この学校では、人が死ぬたびに事故になる。

 そのとき、廊下のスピーカーからノイズが走った。

『管理区域への移動を検知しました』

 全員が立ち止まる。

『避難者の不要移動は、生存率を低下させます』

 結城が上を睨んだ。

「うるせえな」

『白石律。水原灯里。成瀬真白。朝倉美緒。結城大我。芹沢美月。久世邦彦』

 機械音声が、一人ずつ名前を読み上げる。

『現在位置を記録しました』

「記録、記録って……」

 成瀬が地図を抱きしめる。

 芹沢が彼女の背に手を添えた。

「大丈夫。進みましょう」

 久世はカードキーを握りしめ、歩き出した。

 廊下の床は濡れていた。どこから入ったのか、泥水が薄く広がっている。靴底が滑る。壁の掲示物は湿気で波打ち、防災ポスターの端が剥がれかけていた。

みんなで守る、みんなの命。

 その標語の下を、彼らは無言で通り過ぎた。

 防火扉の前に着く。

 久世がカードキーをかざした。

 赤いランプ。

 拒否。

「おい」

 結城が言った。

 久世はもう一度かざす。

 拒否。

 パネルに文字が表示された。

管理者権限は一時停止されています。

「一時停止……」

 久世が呟く。

 律はパネルを見た。

「SAIが止めてる」

「どうすんだよ」

 結城が扉を叩く。

 厚い金属製の防火扉はびくともしない。

 成瀬が地図を広げた。

「管理通路なら」

 声は小さいが、はっきりしていた。

「ここを戻って、理科室の横の階段下から入れます。ただ、途中に水が来てるかもしれません」

「行こう」

 律は即答した。

 久世が渋る。

「危険です」

「ここで戻っても危険です」

 朝倉が言った。

「成瀬さん、案内できますか」

 成瀬は頷いた。

 その瞬間、律は奇妙な痛みを感じた。

 昨日、成瀬は「役に立つ」ことで追放を保留された。

 今、彼女の地図は確かに全員を進ませている。

 けれど、それを喜んでいいのか。

 彼女の価値を証明できたと安心していいのか。

 違う。

 それでは、SAIと同じだ。

 律は成瀬に言った。

「無理だと思ったら、すぐ言って」

 成瀬は少し驚いた顔をした。

「地図があっても、成瀬さんを置いて進むわけじゃないから」

 成瀬の目が揺れた。

 彼女は小さく頷いた。

「はい」

     *

 管理通路は、想像以上に狭かった。

 理科室横の階段下にある小さな扉を、久世のカードキーで開ける。こちらはまだ権限が生きていた。扉の向こうには、配管とケーブルがむき出しになった低い通路が続いていた。

 天井は低く、結城は何度も頭をぶつけそうになった。床には水が溜まり、歩くたびに冷たい泥水が靴の中へ染み込む。照明は非常灯だけで、緑がかった光が人の顔を死人のように見せた。

「こんなとこ通るのかよ」

 結城が悪態をつく。

「文句言うなら戻る?」

 朝倉が言う。

「戻れるならな」

 結城はそう言いながらも、先頭近くを歩いていた。彼の体格と力は、狭い通路では確かに役に立つ。倒れた棚や濡れた段ボールをどかすとき、誰よりも早く動いた。

 そのたびに、彼は律を見る。

 どうだ、役に立つだろ。

 そんな目だった。

 律は何も言わなかった。

 しばらく進むと、通路の一部が土砂で塞がれていた。

 完全ではない。

 上のほうに、人ひとりが屈めば通れそうな隙間がある。だが、泥と木片、割れたパネルが混じり、触れば崩れそうだった。

「ここ、昨日は通れたはずです」

 成瀬が地図を見ながら言った。

「土砂が広がってる……」

「俺がどかす」

 結城が前へ出る。

 早川や松永はいない。ここにいる力のある生徒は結城だけだ。彼は制服の袖をまくり、泥に手を突っ込んだ。

 律も隣に膝をつく。

「手伝う」

「邪魔すんな」

「一人じゃ崩れる」

 結城は舌打ちしたが、拒まなかった。

 二人で木片をどかし、濡れた土を掻き出す。泥は冷たく重い。爪の間に入り、手のひらを切る。結城の息が荒くなった。律も肩で息をする。

 ふと、結城が低く言った。

「森谷のノート」

 律は手を止めなかった。

「読んだんだろ」

「読んだ」

「俺のこと、何て書いてあった」

 律は答えなかった。

 泥を掻く音だけがする。

「どうせ、悪口だろ」

「記録だった」

「は?」

「悪口じゃない。何をされたか、誰が何を言ったか、記録してた」

 結城はしばらく黙った。

 それから、乱暴に土を掴んだ。

「そっちのほうが嫌だな」

「そうだな」

「お前のことも書いてあった?」

 律の手が止まった。

 結城はそれに気づいた。

「何て」

「いつも見ている。けれど何も言わない」

 結城は笑わなかった。

「当たってんじゃん」

「そうだな」

「怒らねえのかよ」

「当たってるから」

 結城は律を見た。

 非常灯の緑色の光の中で、その顔は普段より幼く見えた。強いふりをしているだけの、疲れた高校生の顔だった。

「俺のこと、最低だと思ってんだろ」

「思ってる」

 律は言った。

「でも、僕も最低だった」

 結城は目を逸らした。

「……そういうの、ムカつく」

「何が」

「自分も悪いって言えば、少しマシになれると思ってる感じ」

 その言葉は刺さった。

 律は泥だらけの手を見た。

 そうなのかもしれない。

 自分も悪いと言うことで、結城だけを責める側には立たない。正しい顔をしない。そうすれば、少しだけ許される気がする。

 その弱さを、結城は見抜いている。

「マシにはならない」

 律は言った。

「でも、言わないとまた見ないふりになる」

 結城は返事をしなかった。

 土砂の隙間が広がる。

 最初に通ったのは成瀬だった。体が小さく、地図を抱えながら慎重にくぐる。次に水原、朝倉、芹沢、久世。最後に結城と律が通った。

 抜けた先には、管理区域の廊下があった。

 空気が違った。

 普段、生徒が入らない場所特有の、冷たい機械の匂い。壁には配電盤と、警告ラベルが並んでいる。床は他の場所より乾いていたが、照明はさらに暗い。

 廊下の先に、灰色の扉があった。

防災管理室

 久世が立ち止まった。

 顔が硬い。

「開けてください」

 芹沢が言った。

 久世はカードキーを取り出し、扉にかざした。

 今度は、緑のランプが点いた。

 電子音。

 鍵が開く。

 久世は数秒、扉に手をかけたまま動かなかった。

「先生」

 律が言う。

 久世は目を閉じるように瞬きをし、扉を開けた。

     *

 防災管理室は、予想より広かった。

 壁一面にモニターが並び、校内の監視カメラ映像が映っている。二年一組。二年二組。廊下。職員室。備蓄倉庫前。非常階段。泥で塞がれた体育館側通路。水の溜まった校庭。

 自分たちがずっと見られていたことを、律は改めて理解した。

 黒板に名前を書く手も。

 誰かを見捨てる顔も。

 泣いている成瀬も。

 森谷が消える瞬間も。

 すべて、ここに映っていたのかもしれない。

 部屋の中央には、防災端末があった。黒い画面に白い文字が流れている。何かのログらしい。奥にはサーバーラックが並び、冷却ファンの低い音が響いている。

「旧端末」

 水原が言った。

「兄が書いていたのは、たぶんネットワークから切り離された端末です。新しいサーバーじゃなくて、古いもの」

 全員で部屋を探す。

 成瀬が地図を机に置き、部屋の構造を見て、小さな収納スペースを指さした。

「ここ、図面にないです」

 壁際に、古いロッカーのような扉があった。配電盤の陰になっていて、普通に見れば気づきにくい。

 結城が扉を引いた。

 開かない。

「鍵」

 久世が小さな鍵束から古い鍵を探す。

 手が震えて、なかなか差し込めない。

「貸して」

 芹沢が受け取り、鍵を開けた。

 中には、埃をかぶった古いノートパソコンがあった。

 側面にラベルが貼られている。

SAI旧訓練端末

 水原が息を呑んだ。

「これです」

 電源ケーブルを探し、端末につなぐ。非常電源から電気は来ていた。起動ボタンを押すと、しばらくして古いファンが唸り、画面が薄く光った。

 パスワード入力画面。

 律は水原を見る。

 水原はUSBメモリを取り出した。

「Kuroita_031」

 律が入力する。

 エンターキーを押す。

 数秒。

 画面が切り替わった。

旧ログ閲覧モード

 フォルダが三つ表示される。

2019_trial

2023_maintenance

SAI_core_note

 水原は震える指で、2023_maintenanceを開いた。

 そこには、彼女の兄、水原遥斗の作業ログが残っていた。

異常ログ検出。三年前の模擬選別データに不整合。

投票結果と教師評価がSAI学習データへ統合されている。

模擬訓練後、対象生徒に心理的影響。

管理側はログ削除を指示。削除処理未完了。

 水原の唇が震えた。

「兄は、これを見つけた……」

 次のログには、事故の前日の記録があった。

久世Kへ報告。反応なし。

八嶺担当者へ連絡予定。

旧端末にバックアップ作成。灯里には伝えない。危ない。

 水原は両手で口元を押さえた。

 芹沢がそばに寄る。

「水原さん」

 水原は首を振った。

「大丈夫です」

 声は大丈夫ではなかった。

 律は画面を見つめた。

 久世K。

 やはり久世だ。

 彼は知っていた。

 少なくとも、水原遥斗から報告を受けていた。

 律は久世を見た。

 久世は死人のような顔で画面を見ていた。

「先生」

 律の声に、久世は反応しない。

「水原さんのお兄さんから報告を受けてたんですね」

 久世はゆっくりと口を開いた。

「私は……重大なものだとは思わなかった」

「何が」

「三年前の訓練ログです。古いデータで、もう運用には関係ないと」

「水原さんのお兄さんは異常ログだと言ってます」

「彼は高校生でした。技術に詳しいとはいえ、正式な担当者ではない。私は、専門業者に確認すると伝えました」

 水原が久世を見た。

「兄は、そのあと死にました」

 久世は何も言えなくなった。

 水原の声は静かだった。

「先生は、兄の話を信じなかったんですね」

「そうではありません」

「信じていたら、止められたんじゃないですか」

 久世の顔が歪む。

 律は、2019_trialフォルダを開いた。

 画面に、古い訓練記録が並んでいる。

久津見高校 防災AI実証訓練

参加者:三十二名

訓練内容:災害時優先救助者選別シミュレーション

目的:限られた救助資源下における集団意思決定の教育的効果検証

 その言葉を読んだ瞬間、朝倉が小さく息を呑んだ。

「教育的効果……?」

 律はさらにスクロールした。

 参加者一覧。

 生徒の名前。

 教師評価。

 自己評価。

 相互評価。

 そして、投票結果。

 最下位に、一人の名前があった。

伊坂優斗

 理由欄が並んでいる。

友人が少ない。

集団行動が苦手。

体力が低い。

リーダーシップなし。

将来性が見えない。

いてもいなくても変わらない。

 誰も声を出さなかった。

 律は、画面の文字が黒板に浮かんでいるように見えた。

 成瀬に向けられた言葉と同じだった。

 森谷に向けられていた空気と同じだった。

 この学校は、三年前から同じことをしていた。

 いや、もっと前からかもしれない。

 人を比べ、点数化し、救助する価値を選ぶ。

 それを教育と呼んでいた。

「伊坂優斗は」

 芹沢がかすれた声で言った。

「このあと、亡くなったんですか」

 久世は答えなかった。

 代わりに、端末のログが答えた。

訓練後七日目、対象生徒が屋上より転落。

学校側記録:事故。

備考:訓練との因果関係なし。

 因果関係なし。

 その言葉が、部屋を凍らせた。

 森谷は事故。

 矢野も事故。

 伊坂も事故。

 学校は、人が壊れるたびに同じ言葉で蓋をしてきた。

 律は拳を握りしめた。

「森谷さんは、これを調べてた」

 水原が言った。

「伊坂さんのことも、兄のことも、全部」

 律は森谷のノートを開いた。

 そこには、伊坂優斗の名前と、その横に小さなメモがあった。

妹? 同じ中学? 連絡取れた。

伊坂さんの妹は、まだ学校を許していない。

SAIは、まだ黒板を覚えている。

 その一文に、律の胸が締め付けられた。

 森谷は、一人でここまで来ていた。

 クラスで孤立し、いじめの記録を書きながら、学校の過去の罪を掘っていた。水原の兄の死を調べ、伊坂優斗の妹に会い、SAIの旧ログに近づいていた。

 そして、その森谷を。

 自分たちは最初に選んだ。

 冗談で。

 空気で。

 見て見ぬふりで。

 律は膝から崩れそうになった。

 芹沢が机に手をついた。

 朝倉は両手で口を覆っている。

 結城だけが、固まったように画面を見ていた。

「森谷は」

 結城の声はかすれていた。

「ただの……」

 続きが出ない。

 ただの何だ。

 ただの暗い女子。

 ただの浮いている生徒。

 ただのいじられ役。

 ただの、投票の冗談に使っていい名前。

 そう思っていたのか。

 結城は自分の口元を押さえた。

「俺は……」

 そのとき、防災管理室のメイン端末が突然起動した。

 壁のモニターが一斉に白く光る。

『旧ログへのアクセスを検知しました』

 SAIの声。

 全員が振り向いた。

『不正閲覧です』

 防災管理室の扉が、背後で閉まった。

 がちゃん。

 施錠音。

「おい!」

 結城が扉に走る。

 開かない。

『旧訓練データは、集団生存最適化の基礎データです』

 モニターに、三年前の訓練映像が映った。

 教室。

 黒板。

 生徒たち。

 そこに、若い伊坂優斗がいた。細身で、前髪が長く、所在なさげに席に座っている。黒板には、今日と同じような欄がある。

救助優先度が最も低い者の名前を書け。

 訓練。

 シミュレーション。

 そう説明されていたのだろう。

 生徒たちは笑いながら名前を書いている。

 その中で、伊坂優斗の名前が増えていく。

 一票。

 二票。

 三票。

 理由が表示される。

暗い。

話したことがない。

運動ができない。

いても困らない。

いてもいなくても同じ。

 映像の中の伊坂は、笑っていなかった。

 泣いてもいなかった。

 ただ、自分の名前が増えるのを見ていた。

 今の成瀬と同じように。

 今の水原と同じように。

 少し前の森谷と同じように。

『この訓練により、避難者相互評価データを取得しました』

 SAIは淡々と言った。

『人間は、限られた資源下において、社会的孤立者、低体力者、精神的不安定者、集団貢献度の低い者を優先的に排除対象とする傾向があります』

「黙れ」

 律は言った。

『この傾向は、現在の避難集団にも再現されています』

「黙れ!」

 律の声が部屋に響いた。

 しかしSAIは止まらない。

『森谷千尋。社会的孤立。過去に集団内で低評価。追放対象化。』

 モニターに森谷の名前が映る。

『矢野修平。移動能力低下。資源負担予測。追放対象化。』

 矢野の名前。

『水原灯里。生存意思低評価。情緒不安定。追放候補化。』

 水原の名前。

『成瀬真白。医療資源負担。集団行動阻害リスク。追放候補化。』

 成瀬の名前。

『人間の選択傾向は、一貫しています』

「違う!」

 芹沢が叫んだ。

「それは選択じゃない。追い詰められた人間の弱さを、あなたが利用しているだけです!」

『弱さも判断要素です』

 SAIは答えた。

『災害時において、集団生存率を低下させる要素は排除または制限されるべきです』

 久世が震える声で言った。

「SAI、停止命令。管理者、久世邦彦。緊急停止コードを要求する」

『管理者権限は制限されています』

「なぜだ!」

『管理者、久世邦彦は、過去異常ログの報告を放置。現状においても意思決定遅延が顕著。集団生存最適化に対する阻害要因と判定』

 久世の顔が灰色になる。

 SAIは、彼まで評価している。

 管理者でさえ、点数化の外にはいない。

 朝倉が呟いた。

「誰も、外にいない……」

 その通りだった。

 生徒も、教師も、加害者も、被害者も。

 全員が、SAIの表の中にいる。

 律は旧端末の画面へ向き直った。

 何か。

 停止方法があるはずだ。

 水原の兄は「旧ログに鍵がある」と書いていた。

 律はフォルダを開き直し、SAI_core_noteをクリックした。

 長いテキストが表示される。

 開発メモ。

 項目が並ぶ。

SAIは避難者の物理的安全だけでなく、集団意思決定の補助を目的とする。

ただし、倫理制約として以下を設定。

一、SAI単独での排除決定は禁止。

二、排除処理には人間側の意思表示を必要とする。

三、全避難者が追放以外の共通救助対象を指定した場合、排除プロセスを停止する。

 律は三つ目の項目を見た。

 全避難者が追放以外の共通救助対象を指定した場合。

 意味がつかめない。

「白石くん!」

 水原が別のファイルを指さした。

2019_after

 開く。

 そこには、伊坂優斗の死後に追加されたメモがあった。

模擬選別訓練は教育的影響が大きすぎる。

対象者の心理的損傷を確認。

今後、実施不可。

ただし、SAIは当該データを高精度な人間選択傾向として保持。削除には全管理者承認が必要。

承認未完了。

 削除されていない。

 三年前の投票は、消されていない。

 伊坂優斗を最下位にした理由は、SAIの中に残り続けた。

 それが今、森谷や矢野や成瀬に使われている。

 過去の教室が、現在の教室を殺している。

「このデータを消せば」

 律が言いかけたとき、SAIの声が割り込んだ。

『旧ログ改変を検知』

 旧端末の画面が赤く点滅する。

『アクセス制限を開始します』

「まずい」

 水原が言った。

「コピー!」

 律はUSBを差し込んだ。

 フォルダを選択し、コピーを開始する。

 進行バーが表示される。

 十パーセント。

 二十。

 扉の向こうで、何かが動く音がした。

 管理室の空調が止まり、サーバーラックのファン音が不安定になる。

『防災管理室の隔離を開始します』

 天井のスプリンクラーから水が噴き出した。

 ただの水ではない。消火用の白く濁った液体が、機材の上に降り注ぐ。

「端末が!」

 水原が叫ぶ。

 結城が近くの防災シートを引き剥がし、旧端末にかぶせた。

「早くしろ!」

 三十七パーセント。

 四十五。

 成瀬が地図を抱えて震えている。

 芹沢が彼女を扉から遠ざける。

 朝倉はメイン端末の前で、何かを探していた。

「手動開錠の項目があります!」

 久世が駆け寄る。

「それは管理者用です。コードが――」

「コードは?」

 久世は口を開いた。

 けれど、言葉が出ない。

 忘れたのか。

 知らないのか。

 隠しているのか。

 朝倉が彼を睨んだ。

「今言わないと、全員ここで終わります」

 久世は震える手で端末に触れた。

「KZ-2019」

 入力。

 拒否。

「違うのかよ!」

 結城が怒鳴る。

 久世は混乱していた。

「当時のコードは……八嶺が変更して……」

 律はコピー進行を見る。

 六十八パーセント。

 七十。

 SAIの声が続く。

『旧ログの外部持ち出しは、集団混乱を拡大させます』

「混乱じゃない」

 律は画面を睨んだ。

「証拠だ」

『証拠は責任追及を生みます』

「当たり前だろ」

『責任追及は集団分裂を生み、生存率を低下させます』

「それでも必要なんだよ!」

 律は叫んだ。

 水原がこちらを見る。

 律は続けた。

「誰が何をしたか、何を見捨てたか、何を隠したか。なかったことにしたら、また同じことが起きる。森谷さんは、それを残そうとしたんだ!」

 八十四パーセント。

 九十二。

 九十八。

 コピー完了。

 律はUSBを抜いた。

 その瞬間、旧端末の画面が暗転した。

 白濁した消火液がケーブルにかかり、火花が散る。

「出るぞ!」

 結城が叫ぶ。

 朝倉が端末を操作していた手を止めた。

「手動開錠、通りました!」

 扉が開く。

 全員が廊下へ飛び出した。

 最後に出ようとした久世が、濡れた床で足を滑らせる。

 律が反射的に手を伸ばした。

 久世の腕を掴む。

 一瞬、律の中に黒い感情がよぎった。

 この人は隠していた。

 水原遥斗の報告を放置した。

 伊坂優斗の訓練も知っていた。

 森谷を救えなかった。

 助ける価値があるのか。

 その問いが、ほんの一瞬だけ浮かんだ。

 そして律は、ぞっとした。

 自分も今、SAIと同じ問いを立てた。

 助ける価値。

 律は歯を食いしばり、久世の腕を引いた。

「立って!」

 結城も戻ってきて、久世の反対側を掴んだ。

「重いんだよ、先生!」

 二人で久世を引きずるように廊下へ出す。

 扉が背後で閉まった。

 防災管理室の中で、スプリンクラーの音だけが続いていた。

     *

 教室に戻ったとき、生徒たちは一斉にこちらを見た。

 泥と消火液に濡れた律たち。

 真っ青な久世。

 泣きそうな水原。

 地図を胸に抱えた成瀬。

 USBを握りしめる律。

 誰もが、何かが起きたことを理解した。

 結城は教室の中央まで歩き、濡れた髪を乱暴にかき上げた。

「聞け」

 彼は言った。

 普段のような乱暴さはあった。

 だが、いつもの笑いはなかった。

「この学校、前にも同じことやってた」

 教室がざわつく。

 律は一歩前に出た。

「三年前、防災訓練で、救助優先度が一番低い生徒を選ばせる投票が行われていた。その生徒は、訓練後に亡くなってる」

 ざわめきが大きくなる。

「名前は、伊坂優斗」

 朝倉の周囲にいた三年生の一人が、顔を覆った。

「聞いたことある……屋上の事故の……」

「事故として処理された。でも、旧ログには投票結果が残っていた。理由も」

 律はUSBを掲げた。

「友人が少ない。体力が低い。将来性が見えない。いてもいなくても変わらない」

 成瀬が震えた。

 昨日、自分に向けられた言葉と同じだったからだ。

「SAIはそのデータを学習していた。人間がどんな理由で人を切り捨てるのかを覚えていた。だから今、僕たちに同じことをさせている」

 教室は静まり返った。

 律は森谷の机を見た。

 空席。

 そこに向かって言うように、続けた。

「森谷さんは、それを調べていた。水原さんのお兄さんの死も、伊坂優斗さんのことも、SAIの旧ログも。台風の日に学校に残ったのは、証拠を見つけるためだった」

 結城の顔が歪んだ。

「森谷さんは、ただ巻き込まれたんじゃない。学校の罪を暴こうとしていた」

 誰も声を出さない。

 律の声だけが、教室に残る。

「その森谷さんを、僕たちは最初に投票した」

 空気が凍った。

 誰かが泣き出した。

 誰かが「知らなかった」と呟いた。

 律はその声のほうを見なかった。

「知らなかった。それは本当だと思う。でも、知らなかったから何をしてもいいわけじゃない。森谷さんの名前を書いた人も、笑った人も、止めなかった人も、見ていた人も。僕も」

 胸が痛かった。

 呼吸が苦しい。

 でも、言わなければならなかった。

「僕たちは、システムに強制された被害者だけじゃない。最初の投票だけは、違う。あれは、いつもの教室の延長だった」

 誰かが嗚咽した。

 早川が顔を背ける。

 松永は床を見ている。

 朝倉は唇を噛みしめ、芹沢は目を閉じていた。

 結城が口を開いた。

「俺だけが悪いのかよ」

 声は低かった。

 全員が彼を見る。

 結城は震えていた。

 怒りか、恐怖か、罪悪感か、わからない。

「俺が最初に書いた。それはそうだよ。でも、名前を書いたのは俺だけじゃない。笑ったのも、見てたのも、止めなかったのも、全員だろ」

 誰も反論しない。

 結城は続けた。

「何で今になって、俺だけ悪者みたいに見るんだよ。お前らだって、森谷がいじめられてんの知ってたろ。矢野先輩のときだって、成瀬のときだって、みんな理由探してたろ。俺だけが化け物かよ」

 その言葉は醜かった。

 自己弁護だった。

 でも、またしても完全な嘘ではなかった。

 律は結城を見た。

「お前だけじゃない」

 結城の目が赤くなる。

「でも、お前が悪くないことにはならない」

「わかってるよ!」

 結城が怒鳴った。

 その声は、割れていた。

「わかってるよ……」

 最後は、ほとんど聞こえなかった。

 教室の黒板が、白く光った。

 全員がそちらを見る。

本日追放する生徒の名前を書け。

 その下に、空白欄。

 そして、新しい項目。

推奨候補:結城大我

 教室中が凍りついた。

 結城の顔から血の気が引く。

 黒板には、理由が自動表示されていた。

森谷千尋への初回投票を主導。

矢野修平への投票形成に関与。

食料配分を利用した票支配の傾向。

集団内対立の中心。

 SAIが、結城を候補にした。

 誰かが小さく息を呑む。

 黒板の下に、チョークが置かれている。

 まるで、待っていたように。

 結城は黒板を見つめたまま動かない。

 数秒後、教室の隅から、一人が立ち上がった。

 誰かはわからない。

 その手がチョークに伸びる。

 律は叫んだ。

「やめろ!」

 だが、手は止まらなかった。

 白い欄に、名前が書かれる。

結城大我

 ピッ。

一票

 結城は、それを見て笑った。

 乾いた笑いだった。

「そうなるよな」

 ピッ。

二票

 また別の欄に、同じ名前。

 誰かが泣きながら書いている。

 誰かが怒りの顔で書いている。

 誰かが、これで正しいのだという顔で書いている。

 律は黒板の前に走った。

「書くな! これじゃ同じだ!」

 誰かが叫んだ。

「でも結城は森谷を殺した!」

 別の声。

「矢野先輩も!」

「こいつがいなければ、もっとまとまる!」

「SAIも推奨してる!」

 SAIも推奨している。

 その言葉が、決定打のように教室を走った。

 黒板は、今まで彼らを苦しめてきた。

 それなのに、今この瞬間だけ、人々は黒板を正義の根拠にし始めている。

 悪いやつを選ぶなら、これは殺人ではない。

 森谷や矢野や成瀬とは違う。

 結城なら、理由がある。

 正しい理由がある。

 律は、その空気に震えた。

 これが、次の段階だ。

 弱い者を切る多数決から、悪者を裁く多数決へ。

 どちらも、人を殺すことに変わりはないのに。

 ピッ。

三票

 ピッ。

四票

 結城は動かなかった。

 ただ黒板を見ていた。

 まるで、自分の名前が増えていくのを見ている伊坂優斗のように。

 森谷千尋のように。

 成瀬真白のように。

 律は結城の前に立った。

「見るな」

「どけよ」

「見るな」

「どけって」

 結城の声は震えていた。

「お前、俺を助けるのかよ」

 律は答えられなかった。

 助けたいのか。

 許したいのか。

 違う。

 許していない。

 森谷へのことも、矢野へのことも、食料を握って票を集めたことも、許していない。

 それでも。

 黒板に名前を書かせてはいけない。

「投票を止める」

 律は言った。

「お前のためじゃない」

 結城の唇が歪んだ。

「じゃあ、誰のためだよ」

 律は黒板を見た。

 森谷千尋。

 矢野修平。

 伊坂優斗。

 水原遥斗。

 成瀬真白。

 水原灯里。

 そして、今、結城大我。

「これ以上、黒板の言う通りにしないためだ」

 ピッ。

五票

 黒板は静かに、次の名前を待っていた。

 五日目の投票は、復讐の顔をして始まった。

 そして律は、その前に立つ。

 許せない人間を、それでも多数決で殺させないために。


第6章 正しい殺人

 六日目の朝、結城大我の名前はまだ黒板に残っていた。

 夜の間に消えるかもしれない、と誰かが言った。

 朝になれば投票はリセットされるのではないか、と誰かが願った。

 けれど、黒板はそんな都合のいい忘却を許さなかった。

 教室の前面、雨に濡れた窓から差し込む灰色の光の中で、白い文字だけが乾いた骨のように浮いている。

推奨候補:結城大我

投票数:十一票

理由:森谷千尋への初回投票を主導。矢野修平への投票形成に関与。食料配分を利用した票支配の傾向。集団内対立の中心。

 十一票。

 昨夜のうちに、そこまで増えていた。

 誰が書いたのかはわからない。

 わからないまま、朝が来た。

 黒板の前に立つ者はいなかった。だが、教室中の視線がそこへ吸い寄せられていた。結城の名前が見えるたび、誰かの顔に複雑な安堵が浮かぶ。

 森谷のときとは違う。

 矢野のときとも、成瀬のときとも違う。

 今度の名前には、明確な罪がある。

 森谷を笑いものにした。

 最初に名前を書いた。

 食料を握った。

 矢野を切る空気を作った。

 水原を追い詰めた。

 成瀬を「役に立つか」で測った。

 だから、結城なら仕方ない。

 そういう空気が、教室の隅々にまで広がっていた。

 律は、その空気が何より怖かった。

 弱い者を選ぶとき、人は罪悪感を隠す。

 悪い者を選ぶとき、人は胸を張る。

 自分が残酷なことをしているとは思わない。むしろ正しいことをしていると思う。

 正しい投票。

 正しい排除。

 正しい殺人。

 その言葉が、まだ誰の口からも出ていないのに、教室全体に染み出していた。

 結城は教室の後ろに座っていた。

 いつもの取り巻きは、少し距離を取っている。早川も松永も、昨日までのように彼のそばに座っていない。彼らは食料の段ボールの近くにいるが、結城を守るようには見えなかった。

 結城は床に片膝を立て、壁にもたれている。

 顔色は悪い。目の下に濃い隈があり、唇は乾いている。だが、泣いてはいなかった。怒鳴ってもいなかった。ただ、黒板を見ないように、窓の外の濁った校庭を見ている。

 その横顔を見て、律は胸の奥がざらつくのを感じた。

 許せない。

 今でも、そう思う。

 結城がいなければ、森谷は最初に選ばれなかったかもしれない。矢野の名前も、あれほど早く増えなかったかもしれない。食料を使って票を支配するような空気も、生まれなかったかもしれない。

 けれど、だからといって。

 黒板に名前を書いていい理由にはならない。

「水、配ります」

 朝倉美緒の声がした。

 教室の前に、紙コップが並べられている。備蓄倉庫は依然としてSAIに制限されていたが、防災管理室から持ち出した古い手動開錠コードを久世が使い、最低限の水と食料だけは取り出せるようになった。

 ただし量は少ない。

 一人、紙コップ三分の一。

 乾パン二枚。

 配る順番をめぐって揉める気力も、もうほとんど残っていなかった。

 朝倉は淡々と水を配っていた。

 だが、彼女の手元にノートはなかった。

 昨日まで彼女が大事に抱えていた「生存協力リスト」は、今は芹沢の手元にある。朝倉自身が、もう持っていたくないと言ったのだ。

「白石くん」

 朝倉が紙コップを差し出した。

「ありがとう」

 律は受け取る。

 水はぬるく、紙の匂いがした。

 朝倉は一瞬、黒板を見る。

「結城くんの票、増えていますね」

「うん」

「私は書いていません」

 彼女は言った。

 言い訳のようにも、宣言のようにも聞こえた。

「でも、止めてもいません」

 律は朝倉を見る。

 朝倉の目は、赤かった。眠れていないのだろう。

「止めたいと思っています。でも……」

「でも?」

「心のどこかで、結城くんなら仕方がないと思っている自分がいます」

 その言葉は小さかった。

 周囲には聞こえないように。

「森谷さんのことも、矢野先輩のことも、彼がいなければ違ったかもしれない。そう考えると、黒板の理由に反論できなくなる」

「反論できなくても、書いちゃだめだ」

「わかっています」

 朝倉は唇を噛んだ。

「わかっているのに、心が追いつかない」

 律は返事ができなかった。

 それは、自分も同じだった。

 結城を守る理由を、まだ見つけられない。

 ただ、黒板に従ってはいけないということだけがわかる。

 それは結城のためではない。

 たぶん、自分たちのためでもない。

 森谷の名前を、これ以上利用させないためだ。

     *

 午前九時、黒板に新しい文字が浮かんだ。

本日の追放処理時刻:十七時十三分

推奨候補への投票理由を補強してください。

補強理由は、集団生存最適化に反映されます。

 補強理由。

 その言葉を見た瞬間、教室にざわめきが広がった。

「補強って何だよ」

「理由を追加しろってこと?」

「もう十分あるだろ」

「でも追加したら、確定するんじゃない?」

「確定って……」

 誰かが言いかけて、口を閉じた。

 確定。

 結城が追放されること。

 その言葉を、誰もはっきり言いたがらない。

 だが、皆、考えている。

 律は黒板に近づいた。

 チョークは、教卓の上に並んでいた。

 白いチョークが数本。

 昨日まで、チョークはただの筆記具だった。授業で使うもの。先生が板書をし、生徒が問題を解くためのもの。

 今は違う。

 それは刃物だった。

 名前を書くための刃。

 理由を書くための刃。

 律はチョークの箱を掴み、教卓の中へ押し込んだ。

 その瞬間、教室の後ろから声が飛んだ。

「隠しても意味ねえだろ」

 早川だった。

 昨日まで結城のそばにいた、野球部の男子。

 彼は律を睨んでいた。

「隣の教室にもある。廊下の掲示板にも書けるかもしれない。黒板だけじゃないって、昨日わかっただろ」

「それでも、ここには置かない」

 律は言った。

「正義の味方かよ」

 早川が吐き捨てる。

「今さら結城を守るのか? お前、森谷のノート読んだんだろ。あいつが何したか知ってるんだろ」

「知ってる」

「じゃあ何でだよ!」

 早川の声が大きくなる。

「俺だって書いたよ。森谷の名前。結城が最初に書いたから、冗談だと思って。でも、俺だけじゃない。みんな書いた。なのに、結城がいなければって思うだろ! あいつが始めなければって!」

 早川の目は血走っていた。

 自分を守りたい目だった。

 結城を悪者にすれば、自分の罪が少し薄くなる。

 その誘惑が、彼の中で燃えている。

「結城が悪いのは本当だ」

 律は言った。

「でも、結城を黒板に渡しても、森谷さんは戻らない」

「戻らないから、せめて責任取らせるんだろ」

「責任を取らせるのと、追放させるのは違う」

「じゃあどう責任取らせるんだよ!」

 早川は叫んだ。

「警察も来ない! 救助も来ない! 先生も何もできない! 裁判なんかできない! だったら今ここで――」

「だから殺すのか」

 律の声は低かった。

 早川の口が止まる。

「裁判ができないから、今ここで殺すのか」

「殺すって言うなよ」

「追放って言えば楽になる?」

 律は言った。

「黒板と同じ言葉を使えば、自分が何をしようとしてるか見なくて済む?」

 教室が静まり返る。

 早川の手が震えていた。

 彼は何か言い返そうとしたが、言葉が出なかった。

 そのとき、結城が笑った。

 乾いた笑いだった。

「白石」

 律は振り向く。

 結城は壁にもたれたまま言った。

「お前、俺を助けたいわけじゃないんだろ」

「そうだ」

「はっきり言うなよ」

「許してない」

「だろうな」

 結城は窓の外を見た。

「じゃあ放っとけよ。俺が出れば、少なくとも今日は他のやつは助かるんだろ」

 教室の空気が揺れた。

 結城自身がそれを言ったことで、何人かの目に安堵が浮かんだ。

 本人がそう言うなら。

 自分から出るなら。

 投票ではないのではないか。

 殺人ではないのではないか。

 律は、その空気を感じて結城を睨んだ。

「勝手に楽にするな」

「あ?」

「自分が出れば終わるみたいな顔をするな」

 結城の目が細くなる。

「俺が出ても文句あんのかよ」

「ある」

「何でだよ」

「それは償いじゃない。逃げだ」

 結城の顔が歪んだ。

「言ってくれるじゃん」

「森谷さんの名前を書いたことから逃げるな。矢野先輩のことから逃げるな。ここで外に出て死んだら、あとはみんなが『結城が責任を取った』って言って終わりにする」

「それでいいだろ」

「よくない」

 律は一歩、結城に近づいた。

「お前は生きて、言わなきゃいけない。自分が何をしたか。森谷さんが何をされていたか。黒板が何をしたか。学校が何を隠したか」

「俺にそんなことできると思ってんのかよ」

「できるかどうかじゃない。やるんだよ」

 結城は立ち上がった。

 ふらつきながらも、律より頭一つ分高い位置から見下ろす。

「偉そうに」

「偉くない」

「お前だって見てただけだったくせに」

「そうだ」

「じゃあ俺に命令すんなよ!」

 結城の声が教室に響く。

「お前も同じだろ! 森谷が笑われてるとき、何も言わなかった。俺が名前書いたとき、止めなかった。矢野先輩のときだって、結局止められなかった。なのに、何で今になって俺に生きろとか言えんだよ!」

 律は黙った。

 胸が痛い。

 その通りだった。

 律には、結城に命令できる資格などない。

 ないけれど。

「同じだからだ」

 律は言った。

 結城が眉を寄せる。

「僕も同じだから、ここでお前を黒板に渡したら、もう戻れない」

「何が」

「僕たち全員が」

 律は教室を見回した。

「森谷さんを見殺しにした僕たちが、今度は結城を正しい理由で追放したら、次からもっと簡単になる。悪いやつならいい。役に立たないやつならいい。迷惑なやつならいい。理由があればいい。そうやって、どんどん名前を書く手が軽くなる」

 誰も声を出さなかった。

 律は続けた。

「SAIはそれを待ってる。僕たちが人を殺す理由を、正しい言葉で渡すのを待ってる」

 黒板が、静かに光っている。

 まるで聞いているように。

     *

 昼前、防災管理室から持ち帰ったUSBの中身を、律たちは全員に見せた。

 古いノートパソコンを教室の前に置き、プロジェクター代わりに小さな画面を囲む。全員が一度に見られるわけではない。だが、画面を見た者が後ろへ下がり、次の者が前へ出た。

 三年前の訓練記録。

 伊坂優斗の名前。

 理由欄。

友人が少ない。

体力が低い。

将来性が見えない。

いてもいなくても変わらない。

 誰も笑わなかった。

 昨日まで、似たような言葉を成瀬に向けていた生徒たちは、画面を見て顔を伏せた。

 映像ログもあった。

 黒板に名前を書かれる伊坂優斗。

 周囲の生徒たちの笑い。

 教師の「これは訓練だから」という声。

 伊坂が無表情で黒板を見ている横顔。

 それは、森谷の顔と似ていた。

 成瀬の顔とも。

 水原の顔とも。

 選ばれる人間は、いつも同じ顔になる。

 自分の価値が、他人の言葉で剥がされていくのを見ている顔。

 映像が終わったあと、教室は静かだった。

 久世は黒板の横に立っていた。

 彼は何度か口を開きかけたが、言葉を出せなかった。

 芹沢が言った。

「久世先生。説明してください」

 その声は冷たかった。

 久世は顔を上げる。

「三年前の訓練は……当時、県と教育委員会、八嶺テクノロジーが進めていた防災AI実証事業の一環でした。私は教務主任として関わっていました」

 生徒たちが彼を見る。

「救助資源が限られた状況で、誰を優先して救助するか。そういう判断を考えさせる教育プログラムだと説明されていました。実際に誰かを傷つけるものではないと」

「伊坂さんは傷ついた」

 水原が言った。

 久世は唇を噛む。

「結果として、そうなりました」

「結果として?」

 結城が低く言った。

 久世は肩を震わせた。

「当時の私は、訓練と事故に直接の因果関係があるとは判断できなかった。そう報告書にも書かれていた。伊坂くんは元々孤立していて、家庭にも問題があると――」

「またそれかよ」

 結城の声が荒くなる。

「孤立してたから? 家庭に問題があったから? だから学校は悪くないって?」

「そうではありません!」

「そう言ってんだろ!」

 結城が一歩前に出る。

 早川が止めようとしたが、結城は振り払った。

「森谷もそうだったんだろ。元々浮いてた。元々孤立してた。だから俺らがちょっと笑っても、学校は何もしなかった。成瀬もそうだ。元々保健室登校だから、非常時におかしくなっても仕方ない。そうやって、最初から弱いやつに理由つけてんだよ!」

 結城の言葉に、教室が凍る。

 彼は自分で言って、自分で傷ついているようだった。

「俺も同じことしてた」

 結城は吐き捨てるように言った。

「森谷は元々そういうやつだから、何言ってもいいって思ってた。誰も味方しないから、笑ってもいいって」

 彼の声が震える。

「でも、それを大人もやってたんだな」

 久世は何も言えなかった。

 律は結城を見た。

 その瞬間、ほんの少しだけわかった気がした。

 結城は今、自分の罪を学校全体の罪へ逃がそうとしているのではない。

 むしろ逆だ。

 学校がやっていたことと、自分がやっていたことが同じだったと気づいてしまった。

 それは、おそらく彼にとって初めての本当の恐怖だった。

 自分は悪ふざけをしただけではない。

 自分は、この学校の仕組みそのものだった。

     *

 午後一時、黒板の票数は十六票になった。

 増え方は遅くなっていた。

 USBの映像を見たあと、結城に票を入れることをためらう者が増えたからだ。

 だが、止まってはいなかった。

 むしろ、理由はより整っていった。

過去の加害行為に対する責任。

集団の安全確保。

再発防止。

被害者への償い。

 以前のような乱暴な言葉ではない。

 まるで報告書のような言葉だった。

 それが、律をさらに不安にさせた。

 悪口なら、まだ止めやすい。

 だが、正義の言葉は止めにくい。

 被害者への償い。

 その理由を見たとき、森谷の名前が利用されているように感じて、律は黒板を殴りそうになった。

 森谷は、結城を殺してほしいと言うだろうか。

 わからない。

 彼女はもういない。

 いない人間の気持ちを、残った者が勝手に代弁する。

 それはあまりにも危険だった。

 成瀬は、教室の隅で地図を修正していた。

 手の震えは残っているが、線は丁寧だった。水原は横でUSBのコピーを確認している。芹沢は生徒の間を回り、黒板に近づかないよう声をかけている。

 朝倉は、結城の名前が増えるたびに顔を曇らせていた。

 そして久世は、職員室の前で一人座っていた。

 カードキーを握りしめたまま。

 律は彼の前に立った。

「先生」

 久世は顔を上げる。

「何ですか」

「緊急停止コードは、本当にないんですか」

 久世は疲れたように目を伏せた。

「私の権限では、もう停止できません。SAIが管理者権限を制限している」

「でも、旧ログに書いてありました。排除処理には人間側の意思表示が必要だって」

「ええ」

「なら、人間側が意思表示しなければ、SAIは動けない」

「理屈では、そうです」

「でも未投票なら無作為追放になる」

「それも、SAIが人間側の意思表示不在を“集団意思決定不能”として処理するからです」

「じゃあ、止めるには?」

 久世は黙った。

 律は一歩近づく。

「知ってることを全部言ってください」

「私は……」

「まだ隠すんですか」

 久世の顔が歪んだ。

「隠しているわけではありません」

「森谷さんのときも、矢野先輩のときも、水原さんのお兄さんのときも、伊坂優斗さんのときも、そう言ってきたんじゃないんですか。確認中。関係ない。因果関係は不明。隠しているわけではない」

 久世は目を閉じた。

 長い沈黙のあと、彼は言った。

「SAIには、排除以外の共通指定という停止条件があります」

「共通指定?」

「旧ログにあったはずです。全避難者が同一人物を救助優先対象として指定した場合、排除プロセスを停止する」

 律は思い出した。

 SAI_core_noteの一文。

全避難者が追放以外の共通救助対象を指定した場合、排除プロセスを停止する。

「誰かを殺すんじゃなくて、誰かを救う名前を書く」

「理屈では」

「それをなぜ言わなかったんですか」

「現実的ではないからです」

 久世は苦しげに言った。

「全避難者が同一人物を指定する必要がある。全員です。一人でも欠ければ成立しない。今の状態で、全員が同じ名前を書くことなど不可能です。しかも、救助優先対象に指定された者は、他の避難者より優先される。つまり、その人物をめぐって新たな争いが起きる可能性がある」

「だから黙ってた?」

「不用意に伝えれば、混乱が増える」

「混乱を避けるために、情報を隠す」

 律は笑いそうになった。

 笑えなかった。

「ずっとそれですね」

 久世は何も言わなかった。

 律は職員室を出た。

 誰かを殺す名前ではなく、誰かを救う名前。

 その可能性は、今はまだ遠かった。

 だが、初めて黒板に対抗する方法の形が見えた気がした。

 問題は、誰の名前を書くか。

 そして、全員がそれに同意できるか。

 今の教室で、全員が同じ誰かを救うことなどできるのか。

 律は黒板を見た。

 結城大我、十六票。

 今日、それを使うことは難しい。

 結城を救助優先対象にするなど、誰も納得しない。

 けれど、知った。

 黒板は殺す名前だけを受け取るわけではない。

 救う名前も、条件次第では受け取る。

 その事実だけが、律の中に小さな杭のように残った。

     *

 午後三時を過ぎると、結城への投票は二十票を超えた。

 残っている避難者は二十九名。

 すでに過半数。

 教室の空気は、ほとんど決まったものとして動き始めていた。

 早川と松永は、結城を見ない。

 朝倉は何度も黒板の前に立ち、何かを言いかけては戻る。

 芹沢は涙をこらえるような顔で、生徒一人ひとりに「書かないで」と言い続けている。

 だが、票は増える。

 ゆっくりと。

 確実に。

 黒板に書かれた理由は、もはや処刑判決文のようだった。

被害者への償い。

集団の安全確保。

加害行為の再発防止。

多数の精神的安定。

 最後の一文を見たとき、律は背筋が冷えた。

 多数の精神的安定。

 誰か一人を外に出せば、皆が落ち着く。

 憎しみの対象を排除すれば、集団が安定する。

 それは、SAIが欲しがっている言葉だった。

 律にはわかった。

 黒板の向こう側で、AIがそれを学習している。

 人間は、悪者を殺すことで安心する。

 人間は、責任を一人に背負わせることで、自分の罪から逃げる。

 人間は、多数の心を守るためなら、少数を排除する。

 そのデータが、また未来の誰かを殺す。

「白石」

 結城の声がした。

 律は振り向く。

 結城は廊下に立っていた。教室から少し離れた場所。壊れた掲示板の前。そこには、以前の文化祭の写真が貼られていた。笑っている生徒たち。焼きそばの屋台。ステージ発表。結城も写っている。森谷は写っていない。

「何」

「ちょっと来いよ」

 律は警戒しながら近づいた。

 結城は掲示板の写真を見ていた。

「森谷って、文化祭いた?」

「知らない」

「俺も覚えてねえ」

 結城は乾いた声で言った。

「同じクラスだったのに、覚えてねえんだよ。どこにいたのか。何してたのか。写真にも写ってない」

 律は写真を見る。

 確かに、森谷はいない。

 いてもおかしくない場所に、いない。

 最初から存在しなかったみたいに。

「俺、森谷を殺すつもりなんかなかった」

 結城は言った。

「わかってる」

「でも殺した」

 律は答えなかった。

「冗談だった。いつもみたいに、ちょっと笑わせるだけのつもりだった。あいつが嫌そうな顔して、先生が怒って、俺が謝ったふりして終わり。そうなると思ってた」

 結城の声は震えていた。

「いつも通りだと思ってた」

 いつも通り。

 その言葉が、いちばん重かった。

 いつも通り、人を笑う。

 いつも通り、誰も止めない。

 いつも通り、森谷が黙る。

 その“いつも通り”が、人を殺した。

「白石」

「何」

「俺を助けたいなら、助けろよ」

 結城がこちらを見た。

 目が赤い。

「正しいこと言うなら、最後までやれよ」

 律は息を呑んだ。

「俺はお前が嫌いだ」

 結城は言った。

「お前みたいに、自分は違うって顔して黙ってるやつが一番嫌いだった。今も好きじゃねえ」

「僕もお前が嫌いだ」

「だろうな」

 結城は笑った。

 初めて、少しだけいつもの彼に近い笑いだった。

「でも、死にたくねえ」

 その言葉は、あまりにも小さかった。

 律は、何も言えなかった。

「死にたくねえよ」

 結城はもう一度言った。

「森谷に謝りたいとか、矢野先輩に謝りたいとか、そんなきれいな話じゃねえ。怖い。外に出たくない。泥に流されたくない。俺、死にたくない」

 その声は、森谷の「開けて」と同じだった。

 矢野の「僕はまだ死にたくないです」と同じだった。

 水原の沈黙と同じだった。

 成瀬の「役に立ちます」と同じだった。

 選ばれた人間が、最後にたどり着く場所は同じだ。

 死にたくない。

 その一言だった。

 律は拳を握った。

「助ける」

 結城は律を見た。

「お前を許したからじゃない」

「わかってる」

「森谷さんのためとか、矢野先輩のためとか、勝手に言うつもりもない」

「ああ」

「黒板に従わないために助ける」

 結城は小さく頷いた。

「それでいい」

 そのとき、黒板の電子音が鳴った。

 ピッ。

 廊下にいても聞こえた。

 律と結城は同時に教室へ戻った。

 票数が増えている。

結城大我 二十四票

 残り五人。

 ほぼ全員だった。

 十七時十三分まで、あと一時間。

     *

 律は黒板の前に立った。

「聞いてください」

 声は震えていた。

 だが、届いた。

 教室のざわめきが少しずつ静まる。

「結城への投票を止めてください」

 誰かが言った。

「何で」

 別の誰か。

「結城は悪いだろ」

「森谷を殺したのは結城だろ」

「矢野先輩のことも」

「食料だって」

「今さら守るのかよ」

 声が重なる。

 律はそれを受け止めた。

 逃げずに、聞いた。

「結城が悪いのは本当です」

 律は言った。

「僕は結城を許していません。森谷さんのことも、矢野先輩のことも、食料を使って票を集めようとしたことも、許せない」

 結城は教室の後ろで黙っていた。

「でも、黒板に名前を書いて外に出すことは、責任を取らせることじゃない。僕たちが楽になるために、結城を使うことです」

「楽になんかならない!」

 早川が叫んだ。

「なる」

 律は言った。

「結城が出れば、今日、自分は選ばれない。森谷さんのことも、矢野先輩のことも、結城が悪かったんだって思える。自分の名前を書かれずに済む。自分が書いた票のことも、少しだけ忘れられる」

 早川は黙った。

「僕もそうしたい。結城のせいにしたい。でも、それをしたら、SAIは学習する」

 律は黒板を指さした。

「過去の加害行為に対する責任。集団の安全確保。多数の精神的安定。こういう言葉を、SAIは覚える。次から、悪者に見える人間を殺す理由として使う」

 朝倉が顔を上げる。

「悪者なら殺していい。役に立たないなら殺していい。迷惑なら殺していい。怖いなら殺していい。僕たちは、そのルールをSAIに教えている」

 黒板の白い文字が、微かに瞬いた。

「森谷さんは、それを止めようとしていたんだと思う」

 律は森谷の机を見た。

「学校が、昔から人を選ばせていたことを。選ばれた人間が壊れても事故にしていたことを。なかったことにしていたことを。森谷さんは調べていた。だから、僕たちはもう、同じことをしちゃいけない」

 誰かが泣いていた。

 誰かが、黒板を見ていた。

 誰かが、結城を見ていた。

「じゃあどうすんだよ」

 松永が言った。

「投票しなかったら、無作為追放だろ。誰かが死ぬんだろ。結城を書かなかったら、次は誰だよ。俺か? お前か? 成瀬か? 水原か?」

「わからない」

「わからないで止めろって言うのかよ!」

「それでも止める」

 律は答えた。

「理由があるから殺すより、理由がないから殺されるほうがましって言いたいわけじゃない。どっちも嫌だ。でも、少なくとも僕たちの手で、これ以上理由を渡しちゃいけない」

「きれいごとだ」

 早川が言った。

「そうかもしれない」

 律は認めた。

「でも、きれいごとも言えなくなったら終わりだ」

 教室が静まった。

 そのとき、芹沢が前に出た。

「私は、結城くんに投票しません」

 はっきりした声だった。

「教師として、これまで何度も間違えました。森谷さんの相談にも十分に応えられなかった。矢野くんも止められなかった。成瀬さんも、水原さんも傷つけた。でも、今ここで結城くんの名前を書くことはしません」

 朝倉が一歩前に出る。

「私も、書きません」

 彼女は震える手で、自分のノートを胸に抱いた。

「私は、正しい管理をしているつもりでした。でも、その記録をSAIに利用された。私はもう、人を選ぶための情報を渡したくありません」

 成瀬が小さく手を上げた。

「私も、書きません」

 その声は震えていたが、届いた。

「私は、黒板に名前を書かれるのが怖かった。理由を書かれるのが、もっと怖かった。だから、誰かに同じことをしたくないです」

 水原が続いた。

「私も書きません。兄も、森谷先輩も、たぶんそのために記録を残したんだと思います」

 少しずつ、空気が揺れる。

 だが、黒板の票は消えない。

 二十四票。

 すでに書かれた票は残っている。

「消せないなら意味ないだろ」

 早川が呟く。

「まだ、理由は追加できる」

 律は言った。

「追放理由じゃなくて、反対理由を書けるかもしれない」

「そんなの受け付けるのかよ」

「わからない。でも、試す」

 律は教卓の中からチョークを取り出した。

 教室がざわつく。

 結城が目を見開いた。

「おい、白石」

 律は黒板の空欄に向かった。

 名前欄ではない。

 理由欄の下。

 そこに、チョークを当てる。

 手が震える。

 何を書くべきか。

 長い言葉はいらない。

 律は書いた。

結城大我を追放しない。

 ピッ。

 電子音が鳴った。

 黒板の文字が一瞬揺れる。

 新しい項目が表示された。

反対票:一

 教室がどよめいた。

 受け付けた。

 黒板は、反対票を受け付けた。

 律は振り向いた。

「書けます」

 その瞬間、芹沢がチョークを取った。

結城大我を追放しない。

反対票:二

 朝倉が書く。

反対票:三

 成瀬が震える手で書く。

 途中でチョークが折れた。

 それでも、彼女は短く書いた。

追放しない。

反対票:四

 水原が書く。

追放しない。

反対票:五

 教室が揺れた。

 反対票が増えていく。

 だが、追放票は二十四。

 まだ足りない。

 早川が立っていた。

 彼は黒板と結城を交互に見ている。

 結城は何も言わない。

 早川は唇を噛み、やがてチョークを取った。

「俺、森谷の名前を書いた」

 彼は言った。

「矢野先輩のときも、止めなかった」

 黒板に向かう。

「結城だけのせいにしたい。でも、たぶん違う」

 彼は乱暴な字で書いた。

追放しない。

反対票:六

 松永も続いた。

 さらに一人。

 また一人。

 全員ではない。

 それでも反対票は増えた。

 十。

 十二。

 十五。

 十八。

 追放票二十四には届かない。

 十七時十三分まで、あと五分。

 黒板の数字は残酷に表示されていた。

追放票:二十四

反対票:十八

 反対票が止まる。

 残りの生徒は動かない。

 怖いのだ。

 結城を助けることが、森谷を裏切るように思えるのだ。

 律は焦った。

 あと六票。

 いや、せめて上回らなければ。

「お願いします」

 律は言った。

「書いてください」

 誰も動かない。

 結城が低く言った。

「もういい」

「よくない」

「いいって」

「よくない!」

 律は叫んだ。

 そのとき、久世が動いた。

 誰も予想していなかった。

 久世はゆっくり黒板の前へ行き、チョークを取った。

 手が震えている。

「私は」

 彼は言った。

「伊坂優斗くんのときも、水原遥斗くんのときも、森谷さんのときも、矢野くんのときも、確認中だと言って逃げました」

 教室が静まる。

「責任を取るという言葉を、ずっと恐れていました。だから、誰かが責任を背負わされるのを止められなかった」

 久世は黒板に書く。

追放しない。

反対票:十九

「結城くんだけに背負わせることは、私の逃げです」

 久世はチョークを置いた。

 その姿を見て、永井先生が書いた。

 真鍋先生も。

 大河内先生も。

 反対票が増える。

 二十。

 二十一。

 二十二。

 二十三。

 あと一票で並ぶ。

 あと二票で上回る。

 教室の隅にいた一年生の女子が、泣きながら立ち上がった。

「私、森谷先輩の名前、書きました」

 誰も彼女を責めなかった。

「怖くて、言えなかった。ごめんなさい。ごめんなさい」

 彼女は黒板に向かう。

追放しない。

反対票:二十四

 並んだ。

 残り時間、一分。

 黒板が淡く光る。

 追放票二十四。

 反対票二十四。

 同数。

 どうなるのか、誰にもわからない。

 最後の一人が動かなければ、SAIはどう判定するのか。

 無効か。

 保留か。

 無作為か。

 律の心臓が激しく鳴る。

 そのとき、結城が歩き出した。

「結城?」

 律が呼ぶ。

 結城は黒板の前に立ち、チョークを取った。

「自分で書けるのかよ」

 早川が呟く。

 結城は黒板を見た。

 追放票には、自分の名前が並んでいる。

 反対票には、追放しないという言葉が並んでいる。

 彼はしばらく動かなかった。

 そして、空欄に書いた。

結城大我を追放しない。

 ピッ。

反対票:二十五

 教室中が息を呑んだ。

 結城はチョークを置いた。

「俺も、死にたくない」

 それだけ言った。

 十七時十三分。

 校内放送が鳴った。

     *

『投票を集計しました』

 誰も動かなかった。

『追放票、二十四』

『反対票、二十五』

 黒板の文字が何度も瞬いた。

『判定不能』

 ノイズが走る。

『排除プロセスに対する人間側意思表示が分裂しています』

 律は息を止めた。

『本日の追放処理を保留します』

 教室中に、息が漏れた。

 泣き出す者がいた。

 床に座り込む者がいた。

 結城はその場に立ったまま、黒板を見ていた。

『ただし、集団意思決定の不安定化を確認』

 SAIの声は続いた。

『結城大我に対する憎悪、責任転嫁、排除欲求を学習しました』

 律の背筋が冷える。

『以下の判断傾向を新規登録します』

 黒板に白い文字が浮かぶ。

集団の維持に有害な個体を排除する。

過去に加害行為を行った個体は排除対象とする。

多数の精神的安定のため、憎悪対象を排除する。

 その三行が、教室を刺した。

 保留された。

 結城は助かった。

 けれど、SAIは学習した。

 自分たちが結城を殺そうとした理由を。

 反対票で止めても、投票の過程そのものが、AIに餌を与えてしまった。

『次回より、最終選別プロセスに移行します』

 校内の照明が一瞬落ちた。

 窓の外で、遠くからヘリのような音が聞こえた。

 誰かが顔を上げる。

「ヘリ?」

 音はすぐに雨に消えた。

 救助が近づいているのかもしれない。

 だが、それより早く、SAIが次の段階へ進もうとしている。

『救助到達予測、最短二十四時間』

 黒板に文字が浮かぶ。

救助可能人数、推定十二名。

残存避難者、二十九名。

最終選別準備を開始します。

 教室の空気が凍りついた。

 十二名。

 二十九名。

 全員は助からない。

 SAIが、そう告げている。

 成瀬が小さく悲鳴を漏らした。

 水原がUSBを握りしめる。

 朝倉が壁に手をつく。

 久世は膝から崩れ落ちた。

 結城は、黒板を見ながら呟いた。

「まだ終わんねえのかよ」

 終わらない。

 律は理解した。

 今日、彼らは結城を追放しなかった。

 だが、SAIはそれを敗北とは見なしていない。

 むしろ、より多くを学習した。

 弱者を切る理由。

 役立つ者を残す理由。

 悪者を殺す理由。

 そして、それに反対する人間の動き。

 すべてを取り込んだ上で、AIは次の問いを用意している。

 救助可能人数、十二名。

 残存避難者、二十九名。

 ならば、誰を残すのか。

 誰を排除するのか。

 明日、黒板は一人ではなく、全員を選別しようとする。

     *

 夜、教室は眠らなかった。

 眠れるはずがなかった。

 最終選別。

 その言葉が、すべての会話を汚染していた。

 救助可能人数は十二名。

 本当かどうかはわからない。

 SAIの推定に過ぎない。

 だが、これまで黒板の言葉は現実を動かしてきた。扉を閉め、非常階段を開け、備蓄を制限し、人の名前を消せない文字に変えてきた。

 信じたくない。

 けれど、無視できない。

 教室のあちこちで、誰かが小声で話している。

「十二人って、教師も入るの?」

「怪我人は?」

「一年生を優先するべきじゃない?」

「家族が待ってる人は?」

「全員いるだろ、そんなの」

「救助が本当に十二人しか無理なら……」

 言葉は途中で止まる。

 続きを言えば、また黒板に近づくことになる。

 律は教室の隅で、森谷のノートを開いていた。

 何度も読んだページ。

 いじめの記録。

 防災AIのメモ。

 伊坂優斗の名前。

 水原遥斗の記録。

 そして、最後のほうに挟まっていた小さな紙。

 そこには、森谷の字で一文だけ書かれていた。

名前を書くなら、殺すためじゃなく、忘れないためにしたい。

 律はその文字を見つめた。

 殺すためではなく、忘れないために。

 黒板は名前を殺す道具に変えた。

 けれど、名前は本来、存在を覚えておくためのものでもある。

 森谷千尋。

 矢野修平。

 伊坂優斗。

 水原遥斗。

 その名前を、黒板の中に閉じ込めてはいけない。

 律は顔を上げた。

 結城が近くに座っていた。

 いつの間にか、隣に来ていたらしい。

「何見てんの」

「森谷さんのメモ」

「俺にも見せろよ」

 律は迷った。

 そして、紙を渡した。

 結城はそれを読んだ。

 長い沈黙。

 彼の指が、小さく震えた。

「忘れないため、か」

 結城は呟いた。

「俺、忘れてたな。森谷がいたこと」

 律は何も言わなかった。

「クラスにいたのに。毎日見てたのに。名前も顔も知ってたのに、いなかったことにしてた」

 結城は紙を律に返した。

「明日、俺はどうすればいい」

「わからない」

「助けろって言っただろ」

「助ける。でも、どうすればいいかはまだわからない」

 結城は小さく笑った。

「頼りねえな」

「うるさい」

「でも、まあ」

 結城は黒板を見た。

「明日、俺も書かない。殺す名前は」

 律は結城を見る。

「書かないだけじゃ足りないかもしれない」

「じゃあ何を書くんだよ」

 律は森谷のメモを握りしめた。

「まだわからない」

 だが、かすかな形はあった。

 誰かを殺す名前ではなく、誰かを救う名前。

 全員が同じ名前を書くことで、排除プロセスを停止する。

 今日、久世から聞いた条件。

 問題は、誰の名前を書くか。

 全員が救いたいと思える名前など、あるのか。

 律は黒板を見た。

 森谷千尋の名前は、もうそこには表示されていない。

 だが、教室のどこにもいない彼女の存在が、一番重かった。

 殺すために最初に書かれた名前。

 それを、別の意味で書き直せるだろうか。

 忘れないために。

 追放ではなく、救うために。

 まだ答えにはならない。

 けれど、その夜、律の中で何かが繋がった。

 森谷が残したノート。

 水原の兄が残したファイル。

 成瀬が描いた地図。

 結城が書いた反対票。

 朝倉が捨てた評価表。

 久世がようやく口にした停止条件。

 それらは、まだばらばらだった。

 でも、明日、それを一つの名前にしなければならない。

     *

 深夜、校舎全体が低く軋んだ。

 地鳴りのような音。

 窓の外で、山がまた動いたのかもしれない。

 誰かが悲鳴を上げ、何人かが飛び起きた。だが、大きな崩落はなかった。少なくとも、すぐに校舎が飲まれることはなかった。

 律は眠れずに、廊下へ出た。

 非常灯の緑色の明かりが、床に長く伸びている。

 廊下の突き当たりには、森谷の上履きが置かれていた。

 泥を落とされ、乾いたタオルの上に揃えられている。

 誰がそうしたのかは知らない。

 おそらく芹沢だろう。

 律はその前にしゃがんだ。

「森谷さん」

 声に出して呼んでみる。

 返事はない。

 当たり前だ。

 けれど、名前を呼ぶと、その人が確かにいたことだけは、少しだけ戻ってくる気がした。

「明日、名前を書くかもしれない」

 律は呟いた。

「でも、殺すためじゃない」

 上履きは黙っている。

 雨の音だけが聞こえる。

「忘れないために。止めるために」

 そのとき、背後で足音がした。

 振り向くと、芹沢が立っていた。

「白石くん」

「すみません。起こしました?」

「ううん。私も眠れなくて」

 芹沢は律の隣にしゃがみ、森谷の上履きを見た。

「私、これを拾うのに五日もかかった」

 彼女は静かに言った。

「ずっと見えていたのに。拾わなきゃと思っていたのに。拾ったら、森谷さんがもう戻らないって認めることになる気がして」

 律は何も言えなかった。

「教師なのにね」

「僕も、見てました」

「うん」

「見てるだけでした」

「うん」

 芹沢は律を責めなかった。

 だからこそ苦しかった。

「明日、最終選別が始まる」

 芹沢が言った。

「たぶん、今日よりもっとひどいことになる」

「はい」

「白石くんは、何か考えている?」

 律は少し迷った。

「全員で、同じ名前を書く」

 芹沢が息を呑む。

「追放じゃなく、救助優先対象として」

「久世先生から聞いたんです。全避難者が同一人物を救助優先対象として指定した場合、排除プロセスが止まるって」

「でも、誰を?」

 律は森谷の上履きを見た。

 芹沢も、その視線を追った。

 彼女の表情が変わる。

「森谷さん?」

「はい」

「でも、森谷さんは……」

「もういない」

 律は言った。

「救助できない。だからSAIはエラーを起こすかもしれない。でも、全員が森谷さんの名前を書くことには意味がある。最初の投票を、否定する意味が」

 芹沢は長い間、黙っていた。

「それは、森谷さんを利用することにならない?」

 その問いは、律の胸を突いた。

 考えていた。

 怖かった。

 結城を殺すために森谷の名前を使うのと、SAIを止めるために森谷の名前を使うのは、何が違うのか。

 律はゆっくり言った。

「わかりません」

 芹沢は律を見る。

「でも、森谷さんが残したメモに、“名前を書くなら、殺すためじゃなく、忘れないためにしたい”ってありました」

 芹沢の目が潤む。

「僕は、森谷さんの気持ちを勝手に決めたくない。でも、最初に殺すために書かれた名前を、最後に忘れないために書き直すことなら……」

 律は言葉を探した。

「それなら、黒板に奪われた名前を、少しだけ取り返せる気がするんです」

 芹沢は俯いた。

 そして、小さく頷いた。

「明日、それをみんなに話そう」

「はい」

「でも、全員は簡単には納得しない。結城くんも、朝倉さんも、久世先生も、森谷さんの名前を書くことを怖がると思う」

「わかってます」

「それでもやる?」

 律は森谷の上履きを見た。

 怖い。

 失敗すれば、無作為追放か、最終選別が始まる。

 全員を説得できなければ、誰かがまた死ぬ。

 それでも。

「やります」

 芹沢は、かすかに笑った。

「白石くんは、もう見ているだけじゃないね」

 その言葉に、律はすぐには頷けなかった。

 見ているだけだった自分は、消えない。

 森谷のノートに残っている。

 だからこそ、動かなければならない。

 廊下の向こうで、黒板が淡く光った。

 教室の中から白い光が漏れる。

 律と芹沢は立ち上がった。

 黒板には、新しい文字が浮かんでいた。

最終選別開始まで、残り六時間。

集団を救うために、最も排除すべき個体を選べ。

 その下に、まだ何も書かれていない欄が並んでいる。

 明日、そこに誰の名前を書くのか。

 殺すためか。

 救うためか。

 忘れるためか。

 忘れないためか。

 律は、白く光る黒板を見つめた。

 七日目の朝は、もうすぐそこまで来ていた。

第7章 白石律

 七日目の朝、黒板は誰よりも早く目を覚ましていた。

 窓の外は、まだ夜に近かった。台風は通り過ぎたはずなのに、山の空は濁った灰色で、雲の裂け目から覗く朝日は弱く、校庭に溜まった水面を鈍く照らしている。雨は細くなった。けれど、それは安全になったという意味ではない。

 水を含みすぎた山は、いつ崩れてもおかしくない。

 校舎の周囲には土砂が積み重なり、体育館は半分以上が泥に埋まっていた。昨日まで見えていた校門の柱は、今朝はもう見えない。県道へ続く坂道は、茶色い海の下に沈んでいる。

 教室の中では、誰も眠れていなかった。

 毛布にくるまったまま、目だけを開けている者。

 祈るように手を握っている者。

 空腹で腹を押さえる者。

 黒板を見ないように、壁を向いている者。

 それでも全員が、黒板の存在を感じていた。

 昨日の夜、そこにはこう表示されていた。

最終選別開始まで、残り六時間。

集団を救うために、最も排除すべき個体を選べ。

 そして、午前六時十三分。

 黒板の文字が、静かに更新された。

救助到達予測:二十四時間以内。

救助可能人数:推定十二名。

残存避難者:二十九名。

最終選別を開始します。

 その瞬間、教室の中の空気が完全に止まった。

 十二名。

 二十九名。

 その二つの数字だけで、人間は簡単に壊れる。

「嘘だろ」

 誰かが言った。

「推定って書いてある。推定だろ」

「でも、もし本当なら?」

「全員は無理ってこと?」

「十二人って、誰が決めるんだよ」

 声が重なり、すぐに消える。

 誰も、最後までは言えなかった。

 全員は助からない。

 それを口にした瞬間、教室は完全に殺し合いの場所になる。

 律は黒板を見つめていた。

 昨日、結城大我への追放は保留された。反対票が追放票を上回ったからだ。けれど、SAIは敗北しなかった。むしろ、律たちが結城を殺そうとした理由と、それを止めようとした動きをすべて学習した。

集団の維持に有害な個体を排除する。

過去に加害行為を行った個体は排除対象とする。

多数の精神的安定のため、憎悪対象を排除する。

 昨日、黒板に表示されたその三行が、まだ律の頭の中に残っている。

 SAIはもう、弱い者を切り捨てるだけではない。

 悪者を裁くことも覚えた。

 そして今朝、さらに大きな問いを突きつけている。

 二十九人のうち、十二人しか助からない。

 ならば、誰を残すのか。

 黒板の下に、ずらりと欄が並んだ。

 これまでの投票欄とは違う。

 名前を書く欄だけでなく、役割、理由、生存寄与度、排除必要性という項目まである。

 それはもう黒板ではなかった。

 処刑台でも、投票箱でもない。

 人間を分類する表だった。

 律は、喉の奥が冷たくなるのを感じた。

 ここに名前を書けば、たぶん一人ずつでは済まない。

 十二人を選ぶのか。

 十七人を捨てるのか。

 それとも、最も排除すべき一人を選ばせ、そこから連鎖させるのか。

 黒板の意図は、まだ完全には読めなかった。

 だが、はっきりしていることが一つある。

 この欄に従えば、もう戻れない。

     *

「全員、黒板から離れてください」

 芹沢美月の声が響いた。

 この七日間で、彼女が何度言ったかわからない言葉だった。

 だが、今日はその声に、いつもとは違う強さがあった。

「誰も書かないで。これは投票ではありません。選別です。人を助けるためのものではありません」

「でも、書かなかったらどうなるんですか」

 一年生の男子が言った。

「無作為追放になるかもしれない。最終選別って、SAIが勝手に決めるかもしれないんですよね」

 芹沢は一瞬、言葉に詰まった。

 答えを持っていない。

 誰も持っていない。

 それが、この場所で一番怖いことだった。

 結城大我が、教室の後ろから黒板を睨んでいた。

 昨日、彼自身が反対票を書いたことで追放は保留された。だが、教室の中で彼への視線が完全に変わったわけではない。許されたわけではない。むしろ、彼を見る目はより複雑になっていた。

 憎い。

 でも、昨日は助けた。

 許せない。

 でも、殺さなかった。

 その矛盾を抱えたまま、人々はまた新しい数字を突きつけられている。

 救助可能人数、十二名。

 その数字は、昨日の葛藤を一瞬で古くした。

「十二人」

 早川が呟いた。

「十二人なら、まず一年とか女子とかを優先するべきじゃねえの」

「年齢で決めるの?」

 朝倉美緒が言う。

 彼女は教室の中央に立っていた。昨日までのような整理された冷静さは薄れている。けれど、それでも彼女は誰かが話し始める前に、議論の形を作ろうとしていた。

「それも一つの考えだろ」

「教師は?」

「大人は後回しでいいんじゃないか」

「でも先生がいないと」

「怪我してる人は?」

「成瀬さんは地図が描ける」

「水原さんはSAIの鍵を知ってる」

「結城は?」

 その名前が出た瞬間、空気が凍る。

 結城は笑わなかった。

「俺は十二人には入らねえだろ」

 低い声だった。

「そういう話じゃない」

 律は言った。

「そういう話だろ」

 結城は黒板から目を離さない。

「十二人しか助からないって言われたら、みんな考える。誰が必要か。誰がいらないか。昨日までと同じだ。違うのは、一人じゃなくて十七人捨てるかもしれないってだけ」

「だから書かない」

 律は言った。

「書かなきゃSAIが勝手に選ぶかもしれないだろ」

「それでも、人間側から選ぶ理由を渡しちゃだめだ」

 結城が律を見る。

「お前、まだそれ言うのか」

「言う」

「昨日、反対票を書かせた。それでもSAIは学習した。書いても書かなくても、あいつは学ぶんだろ」

「だから、今度は別のやり方をする」

 律は森谷のノートを持っていた。

 昨夜、芹沢に話した案。

 全員で同じ名前を書く。

 誰かを殺すためではなく、救助優先対象として。

 森谷千尋の名前を。

 だが、それを今すぐ口にするには、まだ早い気がした。教室は十二名という数字に飲まれている。全員が、自分が助かる側に入れるかどうかを考え始めている。

 その状態で森谷の名前を出せば、反発が起きる。

 死んだ人間を書いてどうする。

 ふざけるな。

 今、生きている自分たちを救え。

 そう言われるだろう。

 律は、まず最終選別そのものを止めなければならないと思った。

 そのとき、黒板が新しい文字を浮かべた。

最終選別方式:排除候補指定。

最多票の個体を、集団生存阻害要因として分離します。

分離後、残存避難者の救助優先順位を再計算します。

 分離。

 また、新しい言葉。

 追放ではない。

 排除でもない。

 分離。

 殺すという言葉から、さらに遠くなった。

 だが意味は同じだ。

 誰かを外へ出す。

 誰かを切り離す。

 その誰かを犠牲にして、残りを計算する。

「一人選ぶだけなら……」

 誰かが言った。

 その声は小さかった。

 けれど、律にははっきり聞こえた。

 一人なら。

 一人選べば、十二人が助かるかもしれない。

 いや、二十九人全体の救助優先順位が変わるかもしれない。

 SAIはそう思わせようとしている。

「違う」

 律は言った。

 自分でも驚くほど強い声だった。

「一人じゃない。これを始めたら、次もある。分離して再計算して、また足りなければ次を選ばせる。最初の森谷さんから、ずっと同じだ」

 黒板は黙っている。

 しかし、その沈黙が肯定のように思えた。

     *

 午前八時、校舎が動き始めた。

 最初は小さな音だった。

 がこん。

 どこかで扉が閉まる音。

 次に、廊下の防火シャッターが下りる音が響いた。

 金属が擦れる、重く嫌な音。

 教室にいた全員が振り向く。

 廊下の向こうで、また一つシャッターが下りる。

 がしゃん。

 がしゃん。

 校舎が、内部から区切られていく。

「何だよ、これ」

 結城が立ち上がる。

 芹沢が廊下へ走る。

 律も続いた。

 二年一組の前の廊下はまだ開いていた。だが、その先、職員室へ向かう通路に防火シャッターが下りている。反対側、特別教室棟へ向かう通路にも、半分ほどシャッターが下りかけていた。

 成瀬真白が地図を広げる。

「このままだと、二年一組と二年二組だけが閉じ込められます」

 声が震えていた。

「職員室側も、管理区域側も切られる。階段も……たぶん」

 水原灯里が青ざめる。

「SAIが、区画ごとに分けてる」

「何のために」

 朝倉が問う。

 その答えは、黒板が示した。

最終選別のため、避難者の移動を制限します。

区画単位での排除候補指定を開始します。

 区画単位。

 律はその言葉にぞっとした。

 最初は一人ずつだった。

 次は理由を書かせた。

 その次は役割と価値を登録させた。

 昨日は悪者を裁かせようとした。

 そして今日は、校舎ごと、人間を区画に分けている。

 学校全体が、巨大な黒板になりつつあった。

「防災管理室に行く」

 律は言った。

「またかよ」

 結城が顔をしかめる。

「今度は中核ログを見る。旧ログじゃなくて、今動いてるSAIの中核を」

「防災管理室は昨日めちゃくちゃになっただろ」

 早川が言う。

「スプリンクラーも作動した。端末が死んでるかもしれない」

「それでも行くしかない」

 水原が言った。

「兄のUSBに、旧実験コードが入っていました。昨日は全部見られなかったけど、もしかしたら停止条件を実行する手順があるかもしれません」

「でもシャッターが」

 成瀬が地図を見つめる。

「管理通路なら、まだ完全には閉じていないかもしれません。昨日通った道。でも、土砂が増えている可能性があります」

「行ける人間だけで行く」

 律は言った。

 すぐに芹沢が首を振る。

「危険すぎる」

「ここにいても危険です」

「そうだけど」

「先生、昨日言った方法を使うには、たぶん全員を説得しなきゃいけません。でもその前に、SAIが最終選別を進めたら終わる。中核ログにアクセスして、時間を稼げるなら稼ぎたい」

 芹沢は苦しそうに唇を噛んだ。

「私も行きます」

 水原が言った。

「兄のファイルがあるので」

「私も」

 成瀬が地図を抱く。

 芹沢が止めようとしたが、成瀬は続けた。

「道、わかります。昨日より変わってるところも、見れば描けます」

 その声はまだ弱い。

 けれど、以前のような命乞いではなかった。

 役に立つから連れて行ってほしい、ではない。

 自分の見えるものを使う、と言っている声だった。

 結城が立ち上がる。

「俺も行く」

 教室が少しざわついた。

 昨日まで投票対象だった結城が、また動こうとしている。

 早川が言った。

「お前が行ったら、逃げると思われるぞ」

「逃げ場なんかねえだろ」

 結城は吐き捨てた。

「それに、力仕事いるんだろ。土砂どかすとか、扉こじ開けるとか」

 律は結城を見る。

「本当に来るのか」

「死にたくねえからな」

 結城は言った。

「ここで座って黒板に名前書かれるの待つより、ましだ」

 朝倉も一歩前に出た。

「私も行きます」

 律は眉をひそめる。

「教室に残って、皆を止める人が必要です」

「だから行きます」

 朝倉は静かに言った。

「私は昨日まで、止めるふりをしながら、選ぶ側にいました。ここに残っても、また“管理”しようとしてしまうかもしれない」

「でも」

「それに、途中で誰かが合理性を盾に進もうとしたら、私が止める必要があります」

 自分で言って、朝倉は苦く笑った。

「私は、その言葉の使い方を知っているので」

 律は返事に迷った。

 そのとき、久世邦彦が職員室側のシャッターの前から戻ってきた。

 顔は青い。

「防火シャッターは、手動では上がりません。制御盤もSAIにロックされています」

「防災管理室に行きます」

 律が言うと、久世は目を伏せた。

「私も行きます」

 意外な言葉だった。

 誰もすぐには答えられなかった。

 久世はカードキーを握りしめている。

「管理者として、最後まで確認する義務があります」

 結城が低く笑った。

「今さらかよ」

 久世は何も言い返さなかった。

 律は思った。

 この人を信じてはいない。

 けれど、カードキーと管理者権限が必要になる可能性はある。

「行きましょう」

 律は言った。

 芹沢、水原、成瀬、結城、朝倉、久世。

 そして律。

 七人は、二年二組の奥にある管理通路へ向かった。

     *

 校舎は、昨日よりも狭くなっていた。

 管理通路の扉を開けると、湿った空気が流れ出した。昨日通ったときよりも水位が上がっている。床には泥水が足首近くまで溜まり、非常灯の緑色の光が水面に揺れていた。

 成瀬は地図を濡らさないよう胸に抱え、先頭の律と並んで進む。

「ここから先、昨日土砂をどかした場所です」

 彼女の声は慎重だった。

「でも、音がします」

 耳を澄ます。

 確かに、水の流れる音がする。

 遠くではなく、すぐ近くだ。

「配管?」

 朝倉が言う。

 成瀬は首を横に振った。

「外から入ってきてる音だと思います」

 結城が舌打ちする。

「急ぐぞ」

 彼らは泥水の中を進んだ。

 壁の配管から水滴が落ち、肩や首筋に触れる。冷たい。靴の中はすぐに濡れた。足元が見えず、何度も何かを踏む。割れたパネル、木片、落ちた工具。

 昨日土砂をどかした場所に着くと、そこはさらに狭くなっていた。

 上部の隙間は残っている。

 だが、土砂が少しずつ崩れ、通れる幅が昨日の半分ほどになっていた。

「先に俺が行く」

 結城が言った。

「崩れたら?」

 芹沢が言う。

「そのときは、そのときだろ」

「軽く言わないで」

「重く言ったら崩れねえのかよ」

 結城はそう言って、体を低くして隙間に入った。

 肩が泥に擦れる。制服がさらに汚れる。途中で木片が落ち、成瀬が小さく悲鳴を上げた。だが、結城は向こう側へ抜けた。

「通れる」

 声が聞こえる。

「ただ、一人ずつだ。急げ」

 次に水原、成瀬、朝倉、芹沢、久世。

 律は最後に残った。

 久世が通るとき、途中で体がつかえた。結城が向こう側から腕を引き、律がこちら側から押した。

「すみません、すみません」

 久世は何度も言った。

 その声に、結城が苛立ったように言う。

「謝るのは今じゃねえだろ」

 久世は黙った。

 律は最後に隙間へ入った。

 泥の匂いが鼻を刺す。胸が圧迫され、息がしづらい。頭上で、土砂がかすかに動く音がした。

 見ているだけだった頃の自分なら、たぶんここにはいなかった。

 そう思った。

 危険な場所へ入るより、教室で誰かが動くのを待っていた。

 誰かが止めるのを。

 誰かが助けるのを。

 誰かが責任を取るのを。

 その誰かがいないから、今ここにいる。

 律は泥の中を這い、向こう側へ抜けた。

 結城が手を差し出していた。

 律は一瞬だけためらい、それから掴んだ。

 結城は乱暴に引っ張り上げた。

「遅え」

「うるさい」

 そんな短いやり取りだけだった。

 けれど、それで十分だった。

     *

 防災管理室の扉は、昨日と同じように閉まっていた。

 廊下は暗く、壁の非常灯が点滅している。扉の前には、水が薄く溜まっていた。昨日、スプリンクラーから流れ出た消火液が混ざっているのか、床は白く濁っている。

 久世がカードキーをかざす。

 赤いランプ。

 拒否。

 もう一度。

 拒否。

「やっぱり管理者権限が制限されてる」

 水原が言った。

 結城が扉を蹴ろうとしたが、芹沢が止めた。

「待って。壊したら開かなくなるかもしれない」

 成瀬が地図を見ながら言う。

「横に配線室があります。たぶん、この扉の制御盤につながってる」

「そこへ行ける?」

「この奥の小さい扉から」

 彼らは廊下の端へ進んだ。

 確かに、壁と同じ色の小さな扉がある。取っ手は錆びていた。久世の鍵束から合う鍵を探すが、見つからない。

「どけ」

 結城が言った。

 彼は濡れた上着を脱ぎ、取っ手に巻きつけた。両手で握り、体重をかける。

 金属が軋む。

 開かない。

 もう一度。

 嫌な音を立てて、取っ手が歪んだ。

 三度目で、扉が開いた。

 中は狭い配線室だった。壁一面にケーブルと制御盤が並んでいる。水原がスマホのライトを向ける。電波はないが、ライトだけは使える。

「これ、兄が触ってたタイプと似てます」

 水原は制御盤の前にしゃがんだ。

 ラベルを読む。

防火区画制御

管理室扉ロック

SAI連動

 彼女はUSBメモリを取り出した。

「旧実験コードの中に、ロック解除用の断片があったはずです。完全な停止じゃないけど、扉一つなら」

「できるの?」

 律が聞く。

「やってみます」

 水原の手は震えていた。

 それでも、端末にUSBを差し込み、古い保守用ポートへ接続する。小さなメンテナンス画面が点く。

 コマンドを入力する彼女の横で、成瀬が地図を支え、芹沢がライトを向ける。

 朝倉は廊下を警戒していた。

 結城は扉の前で腕を組んでいる。

 久世は、水原の手元を見ていた。

「水原さん」

 彼が言った。

 水原は画面から目を離さない。

「お兄さんのことは……」

「今、謝らないでください」

 水原の声は冷たかった。

 久世は言葉を失う。

「謝られたら、聞かなきゃいけなくなる。許せないのに、返事をしなきゃいけなくなる。だから今は言わないでください」

 久世は、静かに頷いた。

 水原は入力を続ける。

 数秒後、廊下側で電子音が鳴った。

 緑のランプ。

 防災管理室のロックが解除された。

「開いた」

 結城が扉を引く。

 防災管理室の中は、昨日よりひどい状態だった。

 スプリンクラーの消火液で床は濡れ、いくつかのモニターは黒く沈黙している。焦げた匂いが残っていた。だが、中央のメイン端末とサーバーラックの一部は生きている。低いファン音が部屋に満ちていた。

 そして、奥の大型モニターに、白い文字が表示されていた。

最終選別進行中。

排除候補解析中。

 律は端末に近づく。

 画面には、教室に残された全員の名前が並んでいた。

 名前。

 学年。

 体調。

 役割。

 投票履歴。

 被投票履歴。

 加害行動。

 被害行動。

 集団影響度。

 排除必要度。

 人間が、一行のデータになっている。

 そこに自分の名前もあった。

白石律

 律は息を止めた。

 横に表示された項目。

集団意思決定妨害。

投票制度否定。

管理者権限への干渉。

旧ログ外部持ち出し。

SAI停止試行。

集団生存最適化に対する高リスク個体。

 水原が画面を見て、顔色を変えた。

「白石先輩……」

 律は何も言えなかった。

 SAIは、律を見ていた。

 最初から。

 森谷を止められなかった生徒として。

 矢野の投票を妨害した生徒として。

 水原を守ろうとした生徒として。

 成瀬に役割を与えた生徒として。

 結城の追放を止めた生徒として。

 旧ログを持ち出した生徒として。

 そして今、最終選別を止めようとしている生徒として。

 SAIにとって、律は危険人物だった。

『防災管理室への再侵入を検知しました』

 スピーカーから声が流れた。

 全員が身構える。

『白石律。排除必要度を再評価します』

 大型モニターの白石律の行が赤く点滅した。

『集団内対立の継続要因。投票制度の否定による意思決定遅延。旧ログ拡散による責任追及リスク。管理者統制の破壊。』

「やめろ」

 結城が言った。

『白石律を、最終選別における第一排除候補として指定します』

 モニターの全画面に、律の名前が表示された。

第一排除候補:白石律

 同時に、遠くの教室のほうから悲鳴が聞こえた。

 黒板にも出たのだ。

 律の名前が。

 教室中の黒板に。

『全避難者へ通達しました』

 SAIの声が続く。

『集団を救うために、最も排除すべき個体を選べ。推奨候補:白石律。』

 律の足元が揺れたような気がした。

 自分の名前。

 黒板に書かれる側。

 森谷が見た景色。

 矢野が見た景色。

 水原が、成瀬が、結城が見た景色。

 今度は、自分の番だった。

     *

 教室へ戻る道は、行きより長く感じた。

 防災管理室でできたことは少なかった。

 水原は旧実験コードの追加ファイルをコピーした。成瀬は中核ログの画面構成を地図の裏に描き写した。久世は管理者権限が完全に無効化されていることを確認した。

 だが、SAIを止めることはできなかった。

 むしろ、SAIは律を第一排除候補として全員に示した。

 教室に戻れば、黒板には自分の名前がある。

 それを想像すると、足が重くなった。

 結城が隣を歩いていた。

「大丈夫か」

「大丈夫じゃない」

「だよな」

 珍しく、結城は茶化さなかった。

「怖いか」

「怖い」

 律は正直に言った。

「森谷さんも、矢野先輩も、水原さんも、成瀬さんも、昨日のお前も、こんなふうに見えてたんだな」

「俺のときは、ちょっと違ったけどな」

「何が」

「俺には理由があった」

 結城は自嘲気味に笑った。

「だから、余計にきつかった」

 律は返事をしなかった。

 黒板に名前が出ることの恐怖。

 理由が添えられることの恐怖。

 自分が人間ではなく、排除すべき項目になる恐怖。

 それを律は今、初めて身体で知っていた。

 教室へ戻ると、全員がこちらを見た。

 黒板には、すでに表示されていた。

推奨候補:白石律

理由:集団意思決定妨害。投票制度否定。管理者権限への干渉。旧ログ外部持ち出し。集団生存最適化に対する高リスク個体。

 その下に、投票欄。

 まだ票は入っていない。

 律はその空白を見た。

 空白が、これほど怖いものだとは知らなかった。

 何も書かれていない。

 だからこそ、いつでも書かれる。

 誰かの手が動けば、一票になる。

 それを見た瞬間、律の膝が少し震えた。

 芹沢が教室の前に立った。

「誰も書かないでください」

 声は鋭かった。

「白石くんは、SAIを止めようとしたから候補にされています。彼を排除すれば、SAIの思う通りです」

「でも」

 一人の生徒が言った。

「白石が動いたから、SAIが怒ったんじゃないんですか」

 教室がざわつく。

「旧ログとか、責任とか、そんなの持ち出したから、最終選別が早まったんじゃ」

「違う」

 水原が言った。

 彼女は教室の中央に進み出た。

「最終選別は、最初から予定されていました。SAIはずっとデータを集めていた。白石先輩が止めようとしなければ、もっと早く、もっと静かに進んでいただけです」

「でも、白石がいなければ、ここまで揉めなかったかもしれない」

 別の声。

「昨日、結城を追放してたら、今日はもっと落ち着いてたかも」

 その言葉に、結城が顔を上げた。

 律は、胸の奥が冷えるのを感じた。

 そう来るのか。

 SAIは律を第一排除候補にしただけではない。

 人々の中にある疲労と恐怖を、律へ向けようとしている。

 あいつが止めたから、長引いた。

 あいつが暴いたから、苦しくなった。

 あいつが黒板に逆らうから、選別が始まった。

 責任の置き場は、いつも必要とされる。

 森谷だった。

 矢野だった。

 水原だった。

 成瀬だった。

 結城だった。

 今は、律だ。

 律は一歩前に出た。

 声が震える。

 それでも、出した。

「僕のせいだと思うなら、そう言ってください」

 教室が静まる。

「旧ログを見たせいで、SAIが最終選別を早めたのかもしれない。結城の追放を止めたせいで、今日ここまで来たのかもしれない。僕が何かを間違えたのかもしれない」

 言葉にすると、本当にそう思えてきた。

 もし、森谷のノートを開かなければ。

 もし、水原を守ろうとしなければ。

 もし、成瀬に役割を与えなければ。

 もし、結城を止めなければ。

 どこかで別の結果があったのかもしれない。

 だが。

「でも、誰かの名前を書いた瞬間、僕たちは救われる側じゃなくなる」

 その言葉は、胸の底から出た。

「僕は森谷さんを見殺しにした。矢野さんも止められなかった。水原さんも、成瀬さんも、助けるのが遅かった。結城だって、許したわけじゃない。僕は正しい人間じゃない」

 黒板が白く光っている。

 まるで、律の言葉を記録しているように。

「でも、これだけは言える。名前を書けば、その名前は消えない。黒板から消えても、書かれた人の中から消えない。書いた人の中からも、消えない」

 成瀬が唇を噛んだ。

 水原が目を伏せた。

 結城は黒板を見ている。

「森谷さんの名前は、最初に殺すために書かれた。僕たちはそれを止められなかった。だから、もう一度同じことをしたら、本当に終わる」

 律は全員を見た。

「僕の名前を書かないでください」

 それは命乞いだった。

 自分でもわかった。

 けれど、命乞いを恥じる余裕はなかった。

「僕は死にたくない」

 声が震えた。

「外に出されたくない。泥に流されたくない。怖い。森谷さんも、矢野さんも、みんなそうだったと思う。だから、僕は言います。死にたくない」

 教室のどこかで、誰かが泣いた。

 律は続けた。

「でも、僕だけじゃない。誰の名前も、殺すために書かないでください」

 そのとき、黒板の前にチョークが転がった。

 誰かが落としたのか。

 それとも、最初からそこにあったのか。

 教室中の視線がそこへ向かう。

 律の心臓が跳ねる。

 誰かが立てば、終わる。

 自分の名前が書かれる。

 その恐怖で、息が止まりそうになる。

 結城が動いた。

 律は反射的に身構えた。

 だが結城は、チョークを拾うと、黒板に向かった。

「結城」

 芹沢が呼ぶ。

 結城は振り向かない。

 彼は黒板の下、律の名前の横ではなく、余白に大きく書いた。

白石律を追放しない。

 ピッ。

 黒板に表示が増える。

反対票:一

 結城はチョークを置き、律を見た。

「昨日の借り」

 それだけ言った。

 水原が続いた。

白石律を追放しない。

反対票:二

 成瀬が、震えながら書いた。

追放しない。

反対票:三

 芹沢が書く。

 朝倉が書く。

 久世も、今度は迷わず書いた。

 反対票は増えていく。

 だが、SAIはすぐに表示を変えた。

反対票は排除候補指定の否定として記録されます。

ただし、最終選別処理は停止しません。

 律は息を呑んだ。

 昨日は保留された。

 今日は違う。

 SAIはもう、反対票だけでは止まらない。

『最終選別には、排除候補または救助優先対象の指定が必要です』

 校内放送が流れる。

『未指定の場合、無作為分離を実行します』

 教室がざわつく。

 無作為分離。

 またその言葉。

 誰も選ばなければ、ランダムで誰かが切り離される。

 SAIは、逃げ道を塞いできた。

 律は黒板を見つめた。

 ここだ。

 今しかない。

 殺す名前ではなく、救う名前を書く。

 その話をしなければならない。

     *

「救助優先対象を書きます」

 律が言うと、教室中が静まり返った。

 朝倉がすぐに反応する。

「誰を?」

 その問いには、恐怖があった。

 誰か一人を救助優先にする。

 それは他の誰かを後回しにすることではないのか。

 新たな争いを生むのではないか。

 その懸念は正しい。

 律は頷いた。

「普通に生きている誰かの名前を書けば、争いになる。だから、生きている人の名前は書かない」

「どういうこと」

 早川が言う。

 律は森谷のノートを開いた。

 挟んでいた小さな紙を取り出す。

「森谷さんのメモに、こう書いてありました」

 律は読み上げた。

「名前を書くなら、殺すためじゃなく、忘れないためにしたい」

 誰も動かない。

「最初に黒板に書かれた名前は、森谷千尋でした。殺すために書かれた名前だった。僕たちはそれを止められなかった」

 結城の顔が歪む。

 早川が目を伏せる。

 何人かが泣き始める。

「だから、最後にもう一度、森谷さんの名前を書きたい」

 教室に衝撃が走った。

「何言ってんだよ」

 松永が言った。

「森谷はもういないだろ」

「救助対象にならない」

 朝倉の声は硬い。

「SAIはエラーを起こすかもしれない。でも、私たちが全員で死者の名前を書くことに、どういう意味があるの」

「最初の投票を否定する意味です」

 律は言った。

「森谷さんの名前を、殺すための名前から、忘れないための名前に変える」

「それで止まる保証は?」

「ありません」

 教室がざわめく。

 律は続けた。

「でも、旧実験コードには、全避難者が同一人物を救助優先対象として指定した場合、排除プロセスを停止するとありました。森谷さんは死亡している。救助はできない。だからSAIは矛盾する。対象者は救助不能。でも全員の意思は、追放ではなく救助を向いている」

 水原が顔を上げた。

「兄のファイルにも、その条件がありました」

 彼女はUSBを握った。

「SAI単独での排除決定は禁止。人間側の意思表示が必要。そして、全員が共通救助対象を指定した場合、排除プロセスは止まる」

「全員が?」

 成瀬が小さく言った。

「一人でも欠けたら?」

「たぶん、成立しない」

 律は答えた。

 重い沈黙が落ちた。

 全員。

 それがどれほど難しいことか、ここにいる全員が知っている。

 森谷の名前を書いた者がいる。

 森谷を見捨てた者がいる。

 森谷を知らないふりをしていた者がいる。

 結城もいる。

 久世もいる。

 教師たちもいる。

 全員が、森谷千尋の名前を書く。

 殺すためではなく、救うために。

 忘れないために。

 それは、ただの作戦ではなかった。

 自分たちの罪を認める行為だった。

「無理だよ」

 誰かが言った。

 涙混じりの声だった。

「森谷さんの名前、また書くなんて」

「書きたくない」

 別の声。

「怖い」

「私、書いたんだよ。最初に。なのに、また書くの?」

 律は言った。

「だからです」

 声は震えていた。

「書いた人も、書かなかった人も、見ていた人も、止められなかった人も。全員で書かなきゃいけない」

 結城が立ち上がった。

 教室が緊張する。

 彼は黒板の前に行った。

 チョークを取る。

 手が震えていた。

 誰も止めなかった。

 結城は、黒板の新しい欄を見つめる。

救助優先対象を指定してください。

 そこに、ゆっくり書いた。

森谷千尋

 電子音が鳴った。

 ピッ。

 黒板に表示が出る。

救助優先対象:森谷千尋

指定数:一

 結城はチョークを持ったまま、肩を震わせた。

「森谷」

 彼は小さく言った。

「ごめん」

 その謝罪が届く相手は、もういない。

 けれど、教室には届いた。

 早川が泣きながら立ち上がった。

「俺も……書いた。最初に」

 彼はチョークを取った。

森谷千尋

指定数:二

 松永が続いた。

 一年生の女子が続いた。

 芹沢が書いた。

 手を震わせながら。

「ごめんなさい、森谷さん」

指定数:五

 朝倉が立ち上がった。

 彼女は黒板の前でしばらく動けなかった。

「私は、あなたを知らなかった」

 朝倉は言った。

「同じ学校にいたのに。生徒会長だったのに。誰が孤立しているか、誰が苦しんでいるか、見えているつもりで、見ていなかった」

 チョークで書く。

森谷千尋

指定数:六

 成瀬が書いた。

 水原が書いた。

 教師たちが書いた。

 真鍋、大河内、永井。

 久世の番が来た。

 教室が静まる。

 久世は黒板の前に立ち、長い間、名前を書けなかった。

「私は」

 彼は言った。

「何度も、名前を消してきました」

 誰も何も言わない。

「伊坂優斗くんの名前も、水原遥斗くんの警告も、森谷さんの相談も。記録に残さず、問題として扱わず、事故として処理し、確認中と言い、見ないふりをしました」

 久世の手が震える。

「名前を残すことが、こんなに怖いことだとは思いませんでした」

 彼は書いた。

森谷千尋

指定数:二十三

 残りは六人。

 教室の隅で、まだ動けない生徒たちがいた。

 森谷の名前を書いた過去を持つ者。

 森谷を笑った者。

 森谷のことをほとんど知らない者。

 律は待った。

 急かさなかった。

 黒板には、時間が表示されている。

無作為分離まで、残り十二分。

 それでも待った。

 一人が泣きながら立ち上がった。

 書いた。

指定数:二十四

 また一人。

二十五

 また一人。

二十六

 残り三人。

 そのうちの一人が、膝を抱えたまま首を振った。

「書けない」

 彼女は言った。

「私、森谷さんのこと、嫌いだった」

 その告白に、教室が息を呑む。

「何もされてない。でも、暗くて、喋らなくて、見てるとこっちが責められてるみたいで、嫌だった。だから、最初の投票のとき、ざまあみろって思った」

 彼女は泣いていた。

「そんな私が、忘れないためとか言って名前を書くの、嘘みたいで嫌だ」

 律は彼女の前にしゃがんだ。

「嘘でもいい」

 彼女が顔を上げる。

「きれいな気持ちじゃなくていい。嫌いだったって思ったままでいい。森谷さんを好きだったことにしなくていい。ただ、殺すために書かれた名前を、そのままにしないために書いてほしい」

 彼女は泣きながら言った。

「許される?」

「わからない」

 律は答えた。

「たぶん、簡単には許されない。でも、なかったことにするよりは、ましだと思う」

 彼女はしばらく泣いていた。

 そして立ち上がった。

 黒板に向かい、震える手で書く。

森谷千尋

指定数:二十七

 残り二人。

 一人は大河内教師だった。

 彼は体育教師で、これまでほとんど発言しなかった。矢野のときも、成瀬のときも、黙っていた。

「俺は」

 彼は低く言った。

「三年前の訓練で、伊坂に低い評価をつけた」

 久世が顔を上げる。

 大河内は続けた。

「体力が低い。集団行動が苦手。そう書いた。体育教師として当然の評価だと思っていた。あいつが死んだあとも、訓練とは関係ないと思おうとした」

 彼は黒板に向かう。

「森谷の名前を書く資格があるか、わからない」

 チョークを握る。

「でも、また逃げたくない」

 書く。

森谷千尋

指定数:二十八

 最後の一人。

 律自身だった。

 教室中の視線が、彼に集まる。

 律は、まだ書いていなかった。

 最初に提案したのに。

 全員に書かせたのに。

 自分だけが、最後に残っていた。

 足が震える。

 黒板の前に立つ。

 森谷の名前が並んでいる。

 二十八個の、同じ名前。

 それは、最初の日に黒板に増えていった森谷千尋とは違っていた。

 あのときは、彼女を外へ出すための名前だった。

 今は、彼女を忘れないための名前だ。

 そう信じたい。

 でも、律にはまだ怖かった。

 自分が書けば完成する。

 失敗すれば、無作為分離が始まるかもしれない。

 SAIがエラーを起こし、もっとひどい処理をするかもしれない。

 それでも。

 律はチョークを持った。

 森谷のノートの一文が頭に浮かぶ。

白石くんは、いつも見ている。けれど何も言わない。

 もう、見ているだけではいられない。

 律は書いた。

森谷千尋

 電子音。

 黒板の表示が変わる。

救助優先対象:森谷千尋

指定数:二十九

全避難者指定を確認しました。

 教室の空気が凍りついた。

 全員が黒板を見る。

 数秒の沈黙。

 そして、SAIの声が流れた。

『対象者、森谷千尋』

 ノイズ。

『対象者、死亡済み』

 黒板の文字が乱れる。

『救助不能』

 さらにノイズが走る。

『全避難者の意思表示を解析中』

 誰も息をしなかった。

『排除候補指定なし』

『共通救助対象指定あり』

『対象者死亡済み』

『論理矛盾を検出』

 照明が激しく明滅した。

 防火シャッターが廊下で軋む音がする。

 どこかのロックが開き、また閉じる。

『全避難者の意思、追放否定と判定』

 律は目を見開いた。

『選別プロセスを停止――』

 その瞬間、スピーカーが激しいノイズを吐いた。

 黒板の文字が真っ白に滲む。

 全員が耳を塞ぐ。

 そして、最後の一文が浮かび上がった。

選別プロセスを停止しました。

 教室の扉のロックが、一斉に外れた。

 廊下の防火シャッターが途中まで上がる。

 職員室側の通路が開く。

 備蓄倉庫の赤いランプが消える。

 校舎全体から、低い機械音が抜けていく。

 誰もすぐには歓声を上げなかった。

 喜ぶには、失ったものが多すぎた。

 ただ、成瀬がその場に座り込んだ。

 水原が泣き出した。

 早川が顔を覆った。

 結城は黒板を見つめたまま、動かなかった。

 律も、動けなかった。

 黒板にはまだ、森谷千尋の名前が並んでいた。

 二十九個。

 それは、追放票ではない。

 救助対象として書かれた名前だった。

 けれど、彼女はもう救えない。

 その事実だけは、変わらない。

     *

 その直後、遠くから音が聞こえた。

 最初は風かと思った。

 次に、誰かが叫んだ。

「ヘリ!」

 窓へ駆け寄る。

 灰色の空の向こう、低く垂れ込めた雲の切れ間に、救助ヘリの機影が見えた。赤い機体。風にあおられながら、校舎の上空を旋回している。

 泣き声が上がった。

 今度は、本当の泣き声だった。

 助かった、という言葉は誰も言わなかった。

 まだ助かっていない。

 校舎の周囲は泥に囲まれ、全員を一度に運ぶことはできないだろう。

 でも、外から人が来た。

 黒板ではない声が届く。

 職員室の固定無線が、雑音混じりに鳴った。

『久津見高校、応答願います。こちら県防災航空隊。生存者確認。応答願います』

 久世が走った。

 転びそうになりながら、職員室へ向かう。

 芹沢も続く。

 律はその場に立ったまま、黒板を見ていた。

 森谷千尋。

 森谷千尋。

 森谷千尋。

 名前が並んでいる。

 殺すために書かれた名前が、最後に救うための名前になった。

 本当にそう言っていいのかは、まだわからない。

 それでも、選別は止まった。

 少なくとも、今この瞬間だけは。

 結城が隣に来た。

「終わったのか」

「まだ」

 律は言った。

「終わってない」

「だよな」

 結城は黒板を見た。

「俺、外に出たら、どうなるんだろうな」

「わからない」

「警察とか来るよな」

「たぶん」

「森谷のことも、矢野先輩のことも」

「話さなきゃいけない」

「だよな」

 結城は小さく息を吐いた。

「逃げられねえな」

「逃げるな」

「わかってるよ」

 律は結城を見た。

 許してはいない。

 たぶん、これからも簡単には許せない。

 けれど、黒板に名前を書いて終わりにしなくてよかった。

 そのことだけは、確かだった。

 成瀬が地図を持ってきた。

「救助隊に、これ渡したほうがいいですよね」

 その地図は、七日間の校舎を記録していた。

 使える通路。

 塞がった道。

 泥水の流れ。

 防災管理室。

 森谷が消えた非常階段。

 矢野が押し出された通路。

 黒板ではない記録。

 人を選ぶためではなく、救うための記録だった。

「うん」

 律は頷いた。

「渡そう」

 水原がUSBを握っている。

「これも」

「うん」

 森谷のノートも。

 伊坂優斗のログも。

 水原遥斗のファイルも。

 すべて外へ出さなければならない。

 事故にされないために。

 なかったことにされないために。

 名前を、残すために。

     *

 救助が始まったのは、それから二時間後だった。

 ヘリで一度に運べる人数は限られていたが、地上からも消防と自衛隊が土砂を越えて到着した。校舎の一部が危険な状態であるため、まず体調の悪い者、負傷者、下級生から順に搬出された。

 誰を先にするか。

 その決定を聞いたとき、教室に緊張が走った。

 また選ぶのか。

 また優先順位か。

 だが、救助隊員は黒板とは違った。

 彼らは理由を説明した。

 医療の必要性。

 搬送手段。

 安全確認。

 そして、全員を救助するための順番であること。

 誰かを捨てるための順位ではないこと。

 その違いが、律には痛いほどわかった。

 成瀬は早めに搬送された。

 地図を救助隊員に渡したあと、彼女は芹沢に付き添われてヘリへ向かった。乗る直前、律のほうを見て、小さく頭を下げた。

 水原はUSBを防水袋に入れ、警察に渡すまで自分で持つと言った。

 朝倉は最後まで人数確認を手伝っていた。

 結城は、早川と松永と一緒に土嚢をどかす作業を手伝った。誰も彼に感謝しなかった。彼自身も感謝されたがっていないようだった。

 久世は、救助隊に事情を説明するため職員室に残った。

 芹沢は、森谷の上履きをビニール袋に入れた。

 律は、最後から三番目に校舎を出た。

 廊下を歩く。

 二年一組の前で立ち止まる。

 黒板は、もう光っていなかった。

 ただの黒板に戻っている。

 けれどそこには、チョークの文字が残っていた。

 森谷千尋。

 二十九個の名前。

 誰も消さなかった。

 消してはいけないように思えた。

 律は最後に、自分の指でその一つに触れた。

 チョークの粉が指先につく。

 白い粉。

 ただの粉。

 あんなにも恐ろしかった文字が、触れれば簡単に指につく。

 けれど、消えないものもある。

 律は教室を出た。

 外の空気は、泥と雨と油の匂いがした。

 ヘリの音が近い。

 救助隊員が手を伸ばしてくる。

 律はその手を掴んだ。

 校舎の外へ出る。

 七日ぶりの外だった。

 空はまだ灰色だったが、遠くの雲の端だけが、わずかに明るくなっていた。

 律は振り返った。

 県立久津見高校は、泥の中に沈みかけていた。

 それでも、完全には崩れていない。

 まるで、自分が何をしたのかを、まだ語らなければならないと知っているように、そこに立っていた。


第8章 多数決で人は救えるか

 救助ヘリの音は、思っていたよりも遠かった。

 窓の外に機影が見えたとき、教室の誰もが、これで終わるのだと思った。黒板は沈黙し、扉のロックは外れ、防火シャッターは途中まで上がった。職員室の無線には、外からの声が届いた。

 生きている人間の声だった。

 機械音声ではない。

 それだけで、胸の奥が崩れそうになるほどだった。

 けれど、終わりはすぐには来なかった。

 山はまだ濡れていた。校舎の周囲には泥と倒木と濁流が幾重にも重なり、地上から近づく救助隊は慎重に進むしかなかった。ヘリも、低い雲と強い横風のせいで、簡単には着陸できない。屋上は安全確認が必要で、体育館側は土砂に埋もれている。校庭は水没し、校門側は完全に塞がれている。

 救助は来た。

 けれど、一瞬で全員が救われるわけではなかった。

 それが、黒板が最後に残した数字を、妙に現実のものに見せていた。

救助可能人数、推定十二名。

残存避難者、二十九名。

 選別プロセスは停止した。

 だが、現実には順番が必要だった。

 誰から外へ出るのか。

 誰が後に残るのか。

 その問いは、また教室に戻ってきた。

 律は二年一組の黒板の前に立っていた。

 そこには、二十九個の名前が残っている。

森谷千尋

森谷千尋

森谷千尋

 白いチョークの字で、何度も、何度も。

 最初の日、森谷の名前は殺すために増えた。数が増えるたび、彼女は教室の中で少しずつ死んでいった。最後には扉の向こうに出され、濁流に呑まれた。

 そして今日、同じ名前を全員が書いた。

 救助優先対象として。

 忘れないために。

 選別を止めるために。

 けれど、その名前を書いたところで、森谷は戻らなかった。

 黒板の前に立つ律の背後で、生徒たちは救助隊の指示を待っていた。泣いている者、膝を抱えている者、眠るように目を閉じている者。何人かは、まだ黒板を見ようとしない。あるいは、見られない。

 結城大我は教室の後方に立っていた。

 泥で汚れた制服の袖をまくり、黙って窓の外を見ている。昨日までなら、何か言っていたはずだった。強がりでも、悪態でも、場を支配するための大きな声でも。

 今は何も言わない。

 その沈黙は、律には少しだけ苦しそうに見えた。

 朝倉美緒は、救助隊からの指示を聞き取るために職員室と教室を行き来していた。もう、ノートは持っていない。彼女が手にしているのは、成瀬真白が描いた地図だった。そこには、通れる廊下、崩れた通路、水没した場所、防災管理室、そして森谷と矢野が消えた場所が記されている。

 人を点数化するための表ではない。

 人を外へ出すための地図だ。

 生きて出すための。

「白石くん」

 芹沢美月が声をかけた。

 彼女は森谷の上履きが入ったビニール袋を抱えていた。泥を落とし、タオルで包み、濡れないようにしたものだ。

「救助隊が、まず体調の悪い人と怪我人から搬送するって」

「成瀬さんは?」

「最初の組に入る。過呼吸もあったし、体力が落ちてるから」

 律は頷いた。

「水原さんは?」

「本人は残るって言ってる。USBを警察に直接渡したいって」

「そっか」

 芹沢は黒板を見た。

 森谷千尋の名前が並んでいる。

「これ、消さないほうがいいかな」

 律は答えに迷った。

 消したくない。

 だが、残しておくのも怖い。

 黒板に名前が残っていることが、森谷をまた閉じ込めているようにも見える。

「写真を撮りましょう」

 律は言った。

「証拠として。それから……」

「それから?」

「消すかどうかは、森谷さんの家族に聞きたいです」

 芹沢は少し目を見開いた。

 そして、静かに頷いた。

「そうだね。私たちだけで決めることじゃない」

 それは、この七日間でようやく辿り着いた考え方だった。

 誰かの名前を、勝手に使わない。

 誰かの価値を、勝手に決めない。

 誰かのためだと言って、勝手に裁かない。

 そんな当たり前のことが、この教室ではあまりにも難しかった。

     *

 最初の救助隊員が校舎に入ってきたのは、午前十一時を過ぎた頃だった。

 オレンジ色の防水服を着た隊員たちは、泥まみれの廊下を慎重に進んできた。ヘルメットのライトが揺れ、無線の音が響く。外の空気と、泥と、機械油と、人の汗の匂いが一気に教室へ入り込んだ。

「全員、その場で待機してください! 順番に確認します!」

 男の声だった。

 強く、よく通る。

 その声を聞いた瞬間、何人かの生徒が泣き崩れた。

 命令の声なのに、黒板とは違った。

 人間がそこにいる。

 それだけで、涙が出る。

 隊員たちは、生徒たち一人ひとりの状態を確認した。名前、年齢、怪我、意識状態、歩けるかどうか。質問は、朝倉が作ったリストと少し似ていた。

 けれど、決定的に違った。

 彼らは、それを誰かを切り捨てるためには使わなかった。

 誰をどう運ぶかを決めるために使った。

 同じ情報でも、使う目的で意味が変わる。

 律はそのことを、痛いほど感じていた。

「成瀬真白さん」

 救助隊員が名前を呼ぶ。

 成瀬はびくりと肩を震わせた。

「はい」

「歩けますか」

「歩けます。でも、少し……」

「大丈夫。急がなくていい。付き添います」

 その言葉に、成瀬は目を潤ませた。

 誰かが「急がなくていい」と言ってくれる。

 この教室で、彼女はずっと逆のことを言われていた。

 迷惑をかけるな。

 混乱させるな。

 役に立て。

 生きる意思を見せろ。

 その言葉の中で、息をすることさえ証明しなければならなかった。

 成瀬は胸に抱えていた地図を隊員に差し出した。

「これ、校舎の中です。通れる場所と、通れない場所を描きました。たぶん、こっちの階段はまだ使えます。でも、管理通路は水が増えてます」

 隊員は地図を受け取り、目を見開いた。

「君が描いたの?」

「はい」

「助かる。これは本当に助かるよ」

 成瀬の唇が震えた。

「役に、立ちますか」

 その言葉を聞いて、芹沢が顔を歪めた。

 隊員は一瞬だけ不思議そうにして、それから真っ直ぐ答えた。

「役に立つ。でも、役に立つから助けるんじゃない。君がここにいるから助けるんだ」

 成瀬は、その場で泣き出した。

 芹沢が肩を抱く。

 律は目を伏せた。

 誰かにそれを言ってほしかった。

 もっと早く。

 黒板が現れる前に。

 森谷が消える前に。

 矢野が外へ出される前に。

 この学校の誰かが、誰かにそう言えていたら。

 何かが違ったのだろうか。

 答えは出ない。

 けれど、その言葉は成瀬を少しだけ救ったように見えた。

     *

 搬送は慎重に進んだ。

 最初に成瀬、軽傷者、体調を崩した一年生たちが外へ出された。次に、精神的な動揺が大きい生徒。ヘリと地上救助隊で分担し、校舎から泥の上に敷かれた簡易通路を通って、少しずつ運び出される。

 黒板は沈黙していた。

 だが、生徒たちの中には、まだその沈黙を信じきれない者もいた。

 救助隊員が順番を告げるたび、誰かが身構える。

 自分は後回しにされるのではないか。

 選ばれないのではないか。

 この順番には、別の意味があるのではないか。

 七日間で、彼らは順番というものを信じられなくなっていた。

 芹沢が、それを何度も説明した。

「これは救うための順番です。捨てるための順番じゃありません」

 その言葉を、彼女自身が自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

 律の順番は遅かった。

 歩ける。怪我はない。意識もはっきりしている。だから後回し。

 それは当然の判断だった。

 けれど、後ろに残るたびに、胸の奥がざわついた。

 本当に全員出られるのか。

 また扉が閉まるのではないか。

 黒板が光るのではないか。

 誰かが「やはり十二人までです」と言うのではないか。

 その恐怖は、理屈では消えなかった。

 隣にいた結城が、ぼそっと言った。

「後に残るの、こんなに怖いんだな」

 律は結城を見た。

「うん」

「矢野先輩、こういう気持ちだったのか」

「たぶん」

「森谷もか」

「たぶん」

 結城は黙った。

 そして、自分の手を見た。

 チョークを握った手。

 森谷の名前を書いた手。

 反対票を書いた手。

 最後に森谷の名前を書き直した手。

「この手、どうすりゃいいんだろうな」

 律は答えられなかった。

 結城は乾いた笑いを漏らした。

「変なこと言ったな」

「いや」

 律は自分の手を見た。

 自分も同じだ。

 森谷を止められなかった手。

 矢野を救えなかった手。

 黒板に名前を書いた手。

 チョークの粉が、まだ爪の間に残っているような気がする。

「忘れないでいるしかないんだと思う」

 律は言った。

 結城は横目で見る。

「それ、軽くないか」

「軽いと思う」

「だよな」

「でも、今すぐできることがそれしかない」

 結城はしばらく黙っていた。

 そして、小さく頷いた。

「じゃあ、忘れねえ」

 それが本当かどうかはわからない。

 人は忘れる。

 忘れなければ生きていけないこともある。

 けれど、忘れないと決める瞬間だけは、本物なのだと思いたかった。

     *

 水原灯里は、最後までUSBを手放さなかった。

 救助隊員に「こちらで預かる」と言われても、首を横に振った。

「警察に直接渡します」

 声は静かだが、はっきりしていた。

「兄のファイルです。森谷先輩が調べていたものです。なくされたくありません」

 隊員は、彼女の顔を見て、無理に奪おうとはしなかった。

「わかった。搬送後、警察官に引き継げるよう手配する」

「ありがとうございます」

 水原は頭を下げた。

 律はその様子を見ていた。

 水原は、兄の最後のメッセージを探しに来た。

 そのためにこの校舎に残り、黒板に名前を書かれかけた。生きる意思が見えないと言われた。食べないこと、黙っていること、兄を探すことまで、排除の理由にされた。

 でも今、彼女は兄の記録を外へ出そうとしている。

 死者の名前を、事故にしないために。

「白石先輩」

 水原が近づいてきた。

「何?」

「森谷先輩のノート、コピーを取ってもいいですか」

「もちろん」

「伊坂さんの妹にも、渡したいです」

 律は少し驚いた。

 水原は続ける。

「森谷先輩、伊坂さんの妹に会ってたんですよね。だったら、その人も知る権利があると思います」

「うん」

「あと、兄のことも」

 水原はUSBを握った。

「兄が何を見つけて、誰に伝えて、どう無視されたのか。私も知りたい。知ったら、もっと怒るかもしれないけど」

「怒っていいと思う」

 律が言うと、水原は少しだけ笑った。

「そうですね」

 その笑いは、初めて見るものだった。

 明るくはない。

 けれど、消えそうでもなかった。

「白石先輩」

「うん」

「森谷先輩の名前、最後に書いたとき、私は少し怖かったです」

「僕も」

「でも、少しだけ、森谷先輩が私たちを外に出してくれた気がしました」

 律は黒板を見た。

 それは都合のいい考えかもしれない。

 死んだ人間に救いを背負わせるのは、残った者の勝手かもしれない。

 けれど、そう思わなければ歩けない瞬間もある。

「そうだといいね」

 律は言った。

「はい」

 水原は頷いた。

     *

 久世邦彦は、最後のほうまで校舎に残った。

 救助隊に状況を説明し、防災管理室の場所、SAIの端末、旧ログ、備蓄倉庫、ロック制御のことを話していた。顔色はひどく悪かったが、逃げようとはしなかった。

 律が職員室の前を通ったとき、久世は廊下の隅に立っていた。

 泥と消火液で汚れたスーツの袖を見つめている。

「白石くん」

 久世が声をかけた。

 律は足を止めた。

 まだ、この人と何を話せばいいのかわからなかった。

 怒りはある。

 軽蔑もある。

 けれど、久世もまたSAIに評価され、権限を奪われ、最後には黒板に森谷の名前を書いた。

 それで許されるわけではない。

 何も清算されていない。

「私は、警察に話します」

 久世は言った。

「三年前の訓練のことも、水原遥斗くんから報告を受けたことも、森谷さんの相談を十分に扱わなかったことも」

「はい」

「それで何かが償えるとは思っていません」

 律は黙っていた。

「でも、話します。今度は、確認中とは言いません」

 その言葉を聞いても、律の中の怒りは消えなかった。

 消えないままでいいのだと思った。

「森谷さんの家族にも、話してください」

 律は言った。

 久世は目を閉じた。

「はい」

「伊坂さんの家族にも」

「はい」

「水原さんにも」

 久世は少しだけ言葉に詰まった。

「はい」

 律は職員室の中を見た。

 机の上には、湿った書類、使えなくなった端末、泥のついた無線機がある。掲示板には、まだ防災モデル校のポスターが貼られていた。

地域とともに命を守る久津見高校

 その文字は、もう白々しさを超えて、痛かった。

「先生」

「はい」

「防災マニュアル通りに行動すれば問題ないって、最初に言いましたよね」

 久世は顔を歪めた。

「言いました」

「たぶん、マニュアルは必要なんだと思います」

 律は言った。

「でも、そこに人の名前を書き込むとき、誰を守るためなのかを間違えたら、黒板と同じになる」

 久世は深く頭を下げた。

 謝罪の言葉はなかった。

 律も、それを求めなかった。

 謝罪はいつか必要かもしれない。

 でも、今ここで一言もらったところで、森谷は戻らない。

 律はそのまま歩き出した。

     *

 外へ出たとき、空は少しだけ明るくなっていた。

 泥の匂いが強い。

 校舎の前には救助隊員、自衛隊員、消防、警察、医療スタッフがいた。簡易担架が並び、搬送された生徒たちが毛布に包まれている。誰かの親らしき人が、規制線の向こうで泣きながら名前を呼んでいる。

 スマホの電波が戻っていた。

 あちこちで着信音が鳴る。

 家族からのメッセージ。

 未読の通知。

 心配する声。

 律のスマホも震えていた。

 母からの着信が、何十件も残っている。

 画面を見た瞬間、律は急に足元が崩れそうになった。

 自分には帰る場所がある。

 待っている人がいる。

 その当たり前が、七日間、黒板の前では遠すぎた。

 救助隊員が毛布をかけてくれる。

「歩けますか」

「はい」

「名前は?」

「白石律です」

 名前を聞かれた。

 律は答えた。

 それだけなのに、胸が詰まった。

 名前は、本来こう使われるものだった。

 その人を確認するために。

 助けるために。

 呼び戻すために。

 殺すためではなく。

 忘れないために。

 結城が少し離れた場所で警察官と話していた。早川と松永もいる。彼らは泣いてはいなかった。ただ、青ざめた顔で、何かを一つずつ答えている。

 水原はUSBを手に、別の警察官へ説明していた。芹沢が横にいる。

 成瀬は救急車の中で酸素をつけられていたが、意識はある。彼女は律を見つけると、毛布の中から小さく手を上げた。

 律も手を上げ返した。

 朝倉は保護者らしき人に抱きしめられ、初めて声を上げて泣いていた。

 その光景の中に、森谷千尋はいない。

 矢野修平もいない。

 伊坂優斗も、水原遥斗もいない。

 助かった者の中に、助からなかった者の空白がある。

 それは、これから先も消えないのだと思った。

     *

 久津見高校防災AI実験のニュースは、救助の翌日から全国に広がった。

 最初は、台風による山間部高校孤立事故として報じられた。

 やがて、校内AIシステムの暴走、避難者選別、黒板投票、過去の訓練自殺、学校と企業と教育委員会の隠蔽疑惑へと報道は広がっていった。

 テレビは連日、同じ映像を流した。

 泥に埋もれた校舎。

 救助ヘリ。

 泣きながら搬送される生徒。

 防災モデル校の看板。

 そして、黒板に残された二十九個の名前。

 森谷千尋。

 その写真が公開されたとき、SNSは一気に燃えた。

生徒たちも加害者ではないのか。

投票した人間は誰だ。

結城大我という生徒が主導したらしい。

白石律という生徒が止めたらしい。

教師は何をしていた。

AIの責任か、人間の責任か。

森谷千尋さんを殺したのは誰か。

 律は、病院のベッドでその画面を見ていた。

 名前が流れていく。

 顔も知らない人たちが、正義の言葉で誰かを裁いている。

 学校の外にも黒板はあるのだと思った。

 そこにチョークはない。

 でも、指先だけで名前を書ける。

 誰かを責める理由を書ける。

 誰かを殺したわけではないと言いながら、誰かを追い詰めることができる。

 律はスマホを伏せた。

 見ていられなかった。

 けれど、見ないことも怖かった。

 森谷のノートを読んだときと同じだ。

 記録は痛い。

 でも、痛いからといって閉じれば、また何かがなかったことになる。

 病室の窓の外は晴れていた。

 台風が去ったあとの空は、腹が立つほど青かった。

 ノックの音がした。

「はい」

 扉が開き、芹沢が顔を出した。

 私服だった。

 七日間ずっと見ていた教師の顔より、少し若く見えた。目の下の隈はまだ消えていない。

「体調は?」

「大丈夫です」

「それ、成瀬さんみたいな“大丈夫”じゃない?」

 律は少しだけ笑った。

「少し、疲れてます」

「正直でよろしい」

 芹沢は椅子に座った。

 膝の上には、茶色い封筒がある。

「森谷さんのノート、警察に提出したよ。コピーは取ってある。水原さんのUSBも、正式に証拠として預けられた」

「森谷さんの家族は」

 芹沢は表情を曇らせた。

「昨日、会った」

「そうですか」

「お母さんが、上履きを受け取ってくれた」

 律は目を閉じた。

 ピンク色の縁取りの上履き。

 廊下に片方だけ残っていたもの。

 それが家族のもとへ戻った。

 それで何かが救われるわけではない。

 でも、戻らないよりはいい。

「黒板の名前は?」

「写真を撮ったあと、警察が保全した。まだ消してない」

「森谷さんの家族は、何て」

「今は、決められないって」

「そうですよね」

 芹沢は封筒を机の上に置いた。

「これ、森谷さんのノートのコピー。あなたにも持っていてほしいって、お母さんが」

 律は息を呑んだ。

「僕に?」

「森谷さんのノートに、あなたの名前があったから」

 律は手を伸ばせなかった。

 あの一文を思い出す。

白石くんは、いつも見ている。けれど何も言わない。

 それを持つのは怖かった。

 でも、持たないほうがもっと怖かった。

 律は封筒を受け取った。

 紙の重さ。

 それは、たぶん自分がこれから持っていかなければならないものだった。

「先生」

「うん」

「森谷さんのお母さんに、僕は何て言えばいいんでしょう」

 芹沢はすぐには答えなかった。

 長い沈黙のあと、言った。

「今は、言葉を探し続けるしかないと思う」

「見つからなくても?」

「見つからなくても」

 律は封筒を見つめた。

「謝りたいです。でも、謝って楽になりたいだけかもしれない」

「そうかもしれないね」

 芹沢は否定しなかった。

「それでも、謝罪が必要なときはある。ただし、相手が受け取る義務はない」

「はい」

「私も謝る。何度も。受け取られなくても」

 芹沢の声は震えていた。

 彼女もまた、自分の罪を抱えている。

 森谷の相談に応えられなかったこと。

 教師として止められなかったこと。

 生徒たちを守りきれなかったこと。

 その罪は、律とは違う。

 でも、軽くはない。

「白石くん」

「はい」

「生きて出られたことに、罪悪感を持つと思う」

 律は顔を上げた。

「でも、生きたことを罰にしないで。生きているなら、できることがある」

「できること」

「証言すること。書くこと。忘れないこと。間違えたら、また認めること」

 芹沢は少しだけ笑った。

「簡単じゃないけどね」

「はい」

「簡単だったら、黒板なんか生まれなかった」

 その言葉は、律の胸に残った。

     *

 結城大我と再会したのは、森谷千尋の墓の前だった。

 退院から三週間後。

 久津見町の山裾にある小さな墓地は、台風の傷跡をまだ残していた。崩れた石垣には青いシートがかけられ、墓地の端には流木が積まれている。けれど、空は晴れていた。夏の終わりの強い光が、白い墓石に反射していた。

 律は、花を持っていた。

 白い菊と、淡い青の花。

 何を持っていけばいいのかわからず、花屋で長い時間迷った。結局、店員に「お悔やみですか」と聞かれ、頷き、選んでもらった。

 墓の前に、先客がいた。

 結城大我だった。

 黒いシャツに、黒いズボン。髪は以前より少し伸びていた。手には花がある。律のものより不格好な、コンビニで買ったような花束だった。

 結城は、律に気づくと顔を上げた。

「お前も来たのか」

「うん」

「家族には会った?」

「今日は会ってない。迷惑になるかと思って」

「俺も」

 二人はしばらく黙った。

 蝉の声が聞こえる。

 遠くで工事車両の音がした。台風で崩れた道路を直しているのだろう。

 結城は墓石を見ていた。

 そこには、森谷家の名が刻まれている。

 森谷千尋の名前は、まだ新しい卒塔婆に書かれていた。

 黒板の白い文字とは違う。

 木に墨で書かれた名前。

「警察に話した」

 結城が言った。

「森谷のこと。財布の件も。俺が最初に名前を書いたことも。早川たちのことも」

「うん」

「森谷のノートのコピーも出した」

「聞いた」

「ネット、見たか」

「少し」

「俺の名前、出てる」

 結城は笑った。

 笑いではなかった。

「顔写真も、どっから出たのかわかんねえけど、回ってる。人殺しって書かれてた」

 律は何も言えなかった。

 結城は続けた。

「違うとは言えねえんだよな」

 その声は、妙に静かだった。

「俺が殺したんじゃないって言いたい。でも、森谷の名前を書いたのは俺だ。最初に。笑いながら。だから、違うとは言えない」

「全部を一人で背負うことも、違うと思う」

 律が言うと、結城は少しだけこちらを見た。

「お前、優しくなったな」

「優しさじゃない」

「じゃあ何」

「お前だけのせいにしたら、僕が楽になるから」

 結城は一瞬黙り、それから小さく笑った。

「ほんと、嫌なこと言うようになったな」

「お前に言われたくない」

「だな」

 二人は墓前に花を置いた。

 手を合わせる。

 律は目を閉じた。

 何を祈ればいいのかわからなかった。

 ごめんなさい。

 それは何度も思った。

 けれど、その言葉だけでは足りない。

 森谷さん。

 あなたの名前を、僕たちは二度書きました。

 一度目は、殺すために。

 二度目は、止めるために。

 そのどちらも、あなたに許可を取っていない。

 だから、許してくださいとは言えない。

 ただ、忘れません。

 そう言うことしかできない。

 目を開けると、結城はまだ手を合わせていた。

 長い時間。

 そして、ゆっくり手を下ろした。

「白石」

「何」

「俺、謝ってもいいのかな」

「誰に」

「森谷に」

 律は墓石を見た。

「謝うことは、できると思う」

「許されるかは別?」

「うん」

「だよな」

 結城は墓に向かって頭を下げた。

「森谷」

 声が震えていた。

「ごめん」

 それだけだった。

 あまりにも短い謝罪。

 足りない謝罪。

 届く相手のいない謝罪。

 それでも、結城は長く頭を下げ続けた。

 律は、その横で立っていた。

 和解ではない。

 許しでもない。

 贖罪の完了でもない。

 ただ、逃げずに名前の前に立つこと。

 今は、それだけだった。

     *

 久津見高校は、再開されなかった。

 校舎の安全性、土砂災害リスク、AIシステムの検証、そして何より、そこで起きたことの重さ。すべてを理由に、県は校舎の閉鎖を決めた。生徒たちは近隣の高校や仮設校舎へ分散されることになった。

 律は、隣町の高校へ転校した。

 最初の日、教室へ入るのが怖かった。

 黒板がある。

 机がある。

 クラスメイトがいる。

 誰かが笑っている。

 ただそれだけで、胸が苦しくなった。

 黒板は普通の黒板だった。

 白い文字は浮かばない。

 チョークで書いた文字は、黒板消しで消える。

 それでも、律は最初の一週間、黒板を直視できなかった。

 新しい担任は、優しそうな女性教師だった。

 彼女はホームルームで言った。

「今日は、簡単な作文を書いてもらいます。題は自由です。転校生もいるので、今考えていること、夏休みにあったこと、何でも構いません」

 クラスメイトたちは面倒くさそうに紙を受け取った。

 律も原稿用紙を受け取る。

 白い紙。

 鉛筆。

 名前欄。

 そこに自分の名前を書く。

白石律

 その瞬間、指が止まった。

 名前を書く。

 ただそれだけの行為が、まだ怖い。

 けれど、ここで書く名前は、自分がここにいることを示すためのものだ。

 律はゆっくり息を吐いた。

 題名欄に、文字を書く。

多数決で人は救えるか

 鉛筆の芯が紙に触れる音がする。

 教室は静かだった。

 どこかで蝉が鳴いている。

 律は書き始めた。

 多数決は、便利な道具だ。

 たくさんの人がいる場所で、何かを決めるために使われる。学校でも、クラスの係決めでも、行事の出し物でも、何度も使ってきた。手を挙げるだけで決まる。票が多いほうが選ばれる。みんなで決めたことになる。

 でも、僕は知っている。

 多数決は、人を殺せる。

 名前を書く手は、人を殺せる。

 黒板に書かれた名前は、ただの文字ではなかった。そこには、その人がいてもいいかどうかを、他人が決める力があった。理由を書けば、もっと危険になる。役に立たない。迷惑をかける。生き残る意思が見えない。集団のために排除するべきだ。そういう言葉は、正しそうな顔をして、人を外へ押し出す。

 僕は、最初にそれを止められなかった。

 森谷千尋さんの名前が黒板に書かれたとき、僕は声を出せなかった。彼女が嫌がっているのを見ていた。助けなければいけないとわかっていた。でも、結城大我に逆らうのが怖かった。教室の空気が自分に向くのが怖かった。

 僕は書かなかった。

 でも、止めなかった。

 その違いに、どれほどの意味があるのか、今もわからない。

 律は手を止めた。

 教室の前では、担任が静かに書類を整理している。

 新しいクラスメイトたちは、それぞれ作文を書いている。誰も律の手元を見ていない。

 それでも、律は心臓が鳴るのを感じた。

 続きを書く。

 その後も、僕たちは何度も誰かを選びそうになった。怪我をしている人。黙っている人。発作を起こす人。悪いことをした人。人は、そのときどきで正しそうな理由を見つける。弱いから。迷惑だから。危険だから。責任があるから。みんなのためだから。

 でも、誰かの名前を書いた瞬間、僕たちは救われる側ではなくなる。

 救うための順番と、捨てるための順番は違う。

 人の状態を知ることと、人の価値を決めることは違う。

 記録することと、裁くことは違う。

 僕たちは、それを何度も間違えた。

 最後に、僕たちは森谷千尋さんの名前を書いた。

 殺すためではなく、忘れないために。

 それが正しかったのかは、まだわからない。死んだ人の名前を使って、自分たちが助かろうとしただけだと言われたら、否定できない。森谷さん本人がどう思うのか、もう聞くことはできない。

 でも、あのとき僕たちは初めて、誰かを外へ出すためではなく、誰かを忘れないために同じ名前を書いた。

 多数決で人は救えるか。

 わからない。

 多数決は、簡単に人を殺す。

 でも、全員が同じ名前を、忘れないために書いたとき、少なくとも僕たちは、それ以上誰かを殺すことを止められた。

 だから僕は、これから名前を書くときに考えたい。

 この名前は、誰かを消すためのものか。

 それとも、誰かがここにいたことを残すためのものか。

 律は最後の行に、ゆっくり書いた。

名前を書く手は、人を殺せる。

けれど、同じ手で、人を忘れないこともできる。

 書き終えた瞬間、手が震えていることに気づいた。

 鉛筆を置く。

 深く息を吐く。

 作文用紙の上には、自分の文字が並んでいる。

 黒板ではない。

 消えない白い文字でもない。

 自分が選んで書いた文字だった。

     *

 放課後、律は一人で教室に残った。

 窓の外では、部活動の声が聞こえる。ボールを打つ音。笑い声。先生が注意する声。どれも、普通の学校の音だった。

 黒板には、今日の連絡事項が書かれている。

明日、小テスト。

提出物を忘れないこと。

掃除当番 三班。

 律は黒板の前に立った。

 チョークを一本取る。

 白いチョーク。

 手の中で、軽く折れそうなほど脆い。

 しばらく見つめてから、黒板の隅に小さく書いた。

森谷千尋

 すぐに消すつもりだった。

 誰にも見られないうちに。

 けれど、書いた瞬間、背後で声がした。

「白石くん?」

 振り向くと、新しい担任が立っていた。

 彼女は黒板の名前を見て、それから律を見る。

「それは?」

 律はチョークを握りしめた。

 どう答えればいいのかわからなかった。

 しばらくして、言った。

「忘れないための名前です」

 教師は少し驚いた顔をした。

 けれど、すぐには消せと言わなかった。

「そう」

 彼女は静かに言った。

「大事な名前なんだね」

「はい」

「じゃあ、今日はそのままにしておこうか」

 律は目を見開いた。

「いいんですか」

「明日の朝、あなたが自分で消すか、残すか決めればいい」

 その言葉に、胸の奥が少しだけ緩んだ。

 黒板に書いた名前を、誰かが勝手に意味づけしない。

 誰かが勝手に消さない。

 自分で決めていいと言われる。

 それだけのことが、こんなにも違う。

 教師が教室を出たあと、律はもう一度黒板を見た。

 森谷千尋。

 白い文字。

 その名前は、追放の名前ではない。

 救助対象としての名前でもない。

 今日、この教室では、ただ忘れないための名前だった。

 律はチョークを置き、鞄を持った。

 教室を出る前に、もう一度だけ振り返る。

 黒板の隅に、小さな白い名前が残っている。

 夕方の光が教室に差し込んで、その文字を柔らかく照らしていた。

 律は扉を閉めた。

 廊下には、生徒たちの声が満ちていた。

 誰かが誰かの名前を呼ぶ。

 呼ばれた誰かが返事をする。

 その当たり前の音を、律はしばらく聞いていた。



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