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死体を選ぶ教室――災害避難校舎に閉じ込められた31人。毎朝、黒板に“本日追放する生徒”の名前を書け  作者: 妙原奇天


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上巻

第1章 黒板に名前を書け

 台風二十七号は、朝からずっと、久津見町の空を低く押しつぶしていた。

 山の稜線は灰色の雨に溶け、校舎の窓ガラスには、細い水脈が何本も流れていた。教室の蛍光灯は昼間なのに白々しく、黒板の上の時計だけが、いつもと同じ速度で針を進めている。

 県立久津見高校は、町の中心からバスで四十分ほど山道を上った場所にある。生徒数は多くない。けれど、学年ごとに棟が分かれ、体育館や特別教室棟、古い部室棟までそろった、妙に広い学校だった。

 白石律は、二年一組の窓際の席で、濡れたグラウンドを見ていた。

 雨はまっすぐ落ちていなかった。風にあおられ、斜めに、横に、時々下から吹き上げるように叩きつけてくる。グラウンドの端にある排水溝はもう飲み込みきれなくなっていて、茶色い水が走り幅跳び用の砂場を削っていた。

「白石」

 名前を呼ばれて、律は目を戻した。

 教卓の前に、結城大我が立っていた。濡れてもいないのに、短く刈った髪を手で払っている。野球部の四番で、声が大きく、笑い方も大きく、教室の空気を自分のものにするのがうまい。誰かが冗談を言ったとき、結城が笑えばそれは面白いことになり、結城が無視すれば、その冗談はなかったことになる。

「お前、今日の補習のプリント、終わった?」

「……一応」

「見せて」

 律は一瞬だけ、机の中に手を入れるのをためらった。

 見せたくない、とは言えなかった。見せる必要あるのか、とも言えなかった。言えば、結城は笑う。周りも笑う。その笑いが、自分に向けられるのがわかっていた。

 だから律は、いつものように、何も言わずにプリントを差し出した。

「助かるわ。白石って便利だよな」

 結城は悪びれずに言った。

 便利。

 その言葉は、たぶん悪口ではない。少なくとも結城の中ではそうなのだろう。便利。逆らわない。目立たない。怒らない。誰の邪魔にもならない。律はそういう位置にいることで、学校生活をやり過ごしていた。

 結城がプリントを持って自分の席に戻ると、周囲の男子が身を寄せた。

「おい、写すなら俺にも見せろよ」

「結城、字きたな」

「白石の字、女子みたいにきれいだな」

 笑いが起きた。

 律は聞こえないふりをして、シャープペンシルを持ち直した。

 補習の教室にいるのは、二年生だけではなかった。台風で部活動が中止になり、帰宅指示が出るはずだったのに、三年生の模試だけは予定通り行われていた。進路指導部が「警報が出る前に終わらせる」と判断したからだ。二年生も、赤点補習と小論文講座の生徒が残されていた。

 つまり、学校には少なくない人数がいた。

 けれど、律にとって重要なのは人数ではなかった。

 自分が誰にも見つからず、今日を終えられるかどうか。

 それだけだった。

「森谷、聞いてる?」

 教室の前方で、女子の声がした。

 律は顔を上げた。

 森谷千尋が、黒板の横でプリントを配っていた。肩までの黒髪を一つに結び、前髪をピンで留めている。背は低く、いつも少し猫背だった。誰かと話しているところを、律はほとんど見たことがない。

 森谷は先生に頼まれて、欠席者用のプリントを集めていたらしい。

 その森谷の手元から、結城が一枚、ひょいとプリントを抜き取った。

「これ、俺の?」

「……違う。欠席の人の」

「え、じゃあ俺、今日欠席ってことでいい?」

 結城が笑うと、周りも笑った。

 森谷は笑わなかった。

「返して」

「なにその言い方。怖」

 結城は大げさに肩をすくめた。

「森谷さん、また盗る気なんじゃね?」

 誰かが言った。

 教室の空気が、少しだけ硬くなる。

 盗る。

 その言葉を聞いた瞬間、森谷の顔から色が引いた。

 去年の冬、二年一組で財布がなくなったことがある。放課後の教室で、女子の財布から五千円札が消えた。結局、犯人はわからなかった。けれど、なぜか森谷が疑われた。

 理由は、たぶん簡単だった。

 彼女はいつも一人だったから。

 一人でいる人間は、疑われやすい。疑われたときに、守ってくれる人がいないから。

「やめろよ」

 律は、そう言おうとした。

 言おうとしただけだった。

 喉の奥に小さな石が詰まったみたいに、声は出なかった。

 森谷は黙って結城を見ていた。怒っているようにも、泣きそうにも見えなかった。ただ、表情を消している。その顔が、律は苦手だった。

 何も言わない顔。

 助けを求めていないように見える顔。

 だから、助けなくてもいいのだと、自分に言い訳できてしまう顔。

「結城、返してやれ」

 低い声がした。

 教室の後ろに立っていた国語教師の芹沢美月だった。まだ二十代半ばの若い教師で、久津見高校に来て二年目になる。黒いカーディガンの袖口を少しまくり、眉を寄せて結城を見ていた。

 結城は口を尖らせた。

「冗談っすよ」

「冗談でも、相手が嫌がってたらやめなさい」

「はーい」

 結城はプリントを森谷に返した。

 森谷は小さく頭を下げ、何も言わずに教室を出ていった。

 律はその背中を見送った。

 自分が何も言わなかったことを、誰も責めなかった。

 それがいちばん嫌だった。

     *

 午後二時を過ぎた頃、雨の音が変わった。

 それまでは、窓を叩く音だった。ざあざあという、強い雨の日の音。それが、いつの間にか校舎全体を包むような、低い唸りに変わっていた。山が鳴っているような音だった。

 三年生の模試が終わる予定時刻になっても、帰宅指示は出なかった。

 廊下には、教員たちの慌ただしい足音が増えた。職員室から放送が入る。

『生徒の皆さんに連絡します。現在、久津見町全域に土砂災害警戒情報が発表されています。下校は一時見合わせます。校舎内で待機してください』

 教室がざわついた。

「え、帰れねえの?」

「バス止まった?」

「親に連絡したほうがよくね?」

 律もスマホを取り出した。

 画面の右上には、圏外の文字が表示されていた。

「うわ、電波死んでる」

「マジじゃん」

「Wi-Fiは?」

「繋がんない」

 教室内のざわめきが、不安の色を帯び始めた。

 そのとき、遠くで何かが落ちるような音がした。

 ただの雷ではなかった。地面の奥が砕けるような、鈍く長い音。次いで、校舎がわずかに震えた。窓ガラスが細かく鳴り、天井から白い粉が落ちた。

 誰かが悲鳴を上げた。

「地震?」

「違う、土砂崩れだろ」

 結城が窓に駆け寄った。

 律も立ち上がった。窓の外を見る。校門へ続く坂道の向こうに、茶色い煙のようなものが上がっていた。雨に煙は立たない。あれは土だった。山肌が崩れ、道路を飲み込んだのだ。

 数分後、教頭の久世が教室に現れた。

 久世教頭は五十代半ばで、銀縁の眼鏡をかけた痩せた男だった。いつもスーツの襟元がきちんとしていて、声は穏やかだが、何を考えているのかわからないところがあった。

「皆さん、落ち着いてください。校舎に直接の被害はありません。県道の一部が土砂で塞がれたようですが、消防と連絡を取っています」

「先生、スマホ圏外なんですけど」

 誰かが言った。

「校内の固定回線は生きています。職員室から関係各所に連絡しています」

「帰れないんですか?」

「今は危険です。安全が確認されるまで、校舎内で待機してください」

 久世はそう言ったあと、教室を見回した。

「現在、校内に残っている生徒と教職員の人数を確認しています。避難場所は二年一組、および隣の二年二組を使用します。むやみに移動しないように」

 むやみに移動しないように。

 その言葉は、学校ではよく聞く。避難訓練でも、集会でも、行事のあとでも。だが、今は妙に重かった。移動するな、と言われた瞬間、校舎が檻になったような気がした。

 午後三時すぎ、体育館側の渡り廊下が崩れた。

 正確には、体育館と本校舎をつなぐ古い屋根付きの通路に、裏山から滑ってきた土砂が直撃したのだ。金属の支柱が折れ、屋根が潰れ、ガラスが割れた。体育館にいた数人の三年生と教師は、ぎりぎりで本校舎側に逃げ込んだ。

 けが人は二人。どちらも軽傷。

 けれど、その瞬間、校舎から外へ出る主要な経路は失われた。

 校門へ続く坂道は土砂で塞がれ、体育館側は崩落し、裏門へ向かう細い階段は濁流に洗われていた。

 学校は、山と雨に切り離された。

 残された人数は、生徒二十六人、教師五人。

 合計三十一人。

 その数字を久世が告げたとき、律はなぜか、胸の奥が冷えるのを感じた。

 三十一。

 ただの人数のはずだった。けれど、数えられた瞬間、人間は名簿になる。名簿になった瞬間、何かに管理されるものになる。

     *

 夜は、いつもより早く来た。

 台風の雲が空を覆っているせいで、午後五時を過ぎる頃には、廊下の窓の外はほとんど黒かった。非常用電源に切り替わった校舎の灯りは弱く、蛍光灯は時々ちらついた。

 二年一組と二年二組の机は端に寄せられ、床に防災用の薄い毛布が敷かれた。備蓄倉庫から運ばれた水と乾パン、アルファ米が教卓の前に積まれている。教師たちは職員室と教室を行き来し、何度も人数確認をした。

「防災マニュアル通りに行動すれば問題ありません」

 久世は、何度もそう言った。

「校舎は耐震補強済みです。備蓄もあります。救助要請も出しています。今夜はここで待機し、明朝の状況を見て判断します」

 その口調は落ち着いていた。

 だから、何人かの生徒は少し安心したようだった。

 けれど律は、久世が「救助は来ます」とは言わなかったことに気づいていた。

 来る、ではなく、要請は出している。

 それは似ているようで、全然違う。

「白石」

 廊下に出たところで、芹沢に呼び止められた。

「大丈夫?」

「あ……はい」

「顔色、悪いよ」

「もともとです」

 自分でも驚くくらい、乾いた冗談が出た。

 芹沢は少しだけ笑った。

「そういうこと言えるなら、まだ大丈夫か」

 律は返事をしなかった。

 廊下の向こうでは、森谷千尋が一人で壁際に座っていた。膝を抱え、スマホの画面を見ている。圏外のままなのに、何度も何度も、同じ操作を繰り返していた。

 芹沢も森谷に気づいたらしく、そちらへ歩いていった。

「森谷さん。寒くない?」

 森谷は顔を上げた。

「……大丈夫です」

「毛布、もう一枚持ってこようか」

「平気です」

 その声は小さかったが、拒絶ではなかった。ただ、人に何かをしてもらうことに慣れていない声だった。

 律は二人を見て、少し迷ったあと、教室に戻った。

 迷って、戻る。

 自分の人生は、だいたいそれでできている。

 教室では、結城たちがスマホのライトでトランプをしていた。

「停電サバイバルって感じじゃね?」

「動画撮れたらバズったのにな」

「圏外だから無理だろ」

 笑い声がする。

 非常時でも笑える人間は強いのかもしれない。あるいは、非常時だからこそ、笑っていないと怖いのかもしれない。

 律は自分の席の近くに敷かれた毛布に座った。

 窓の外では、雨が激しく叩きつけている。風が吹くたび、校舎のどこかが軋んだ。

 午後九時十三分。

 校内放送が鳴った。

 最初は、ただのノイズだった。

 ざざ、という音。

 誰かが顔を上げる。

 教師たちも動きを止める。

 次に、機械音声が流れた。

『避難者数、三十一名』

 教室中が静まり返った。

 声は、女性とも男性ともつかない平坦なものだった。抑揚がなく、感情がない。けれど、一語一語が異様にはっきりしている。

『外部避難経路、全損。通信網、不安定。救助到達予測、最短七十二時間、最長百六十八時間』

「なんだこれ」

 結城が呟いた。

『備蓄量、三十一名換算で七日分。ただし負傷、低体温、精神的混乱、集団内対立発生時、生存可能日数は短縮されます』

「先生?」

 生徒の一人が芹沢を見た。

 芹沢は答えられなかった。彼女も初めて聞く声のようだった。

 久世が職員室から走ってきた。眼鏡が少しずれている。

「放送を止めなさい!」

 廊下の向こうで、別の教師に怒鳴る声がした。

 だが、放送は止まらなかった。

『生存最適化システム、SAIを起動します』

 SAI。

 その三文字が、なぜか律の耳に残った。

『最適化を開始します』

 そこで放送は切れた。

 数秒間、誰も何も言わなかった。

 それから、一斉に声が噴き出した。

「今のなに?」

「防災システム?」

「先生、説明してよ」

「最適化って何すか」

 久世は教室の前に立ち、両手を軽く上げた。

「落ち着いてください。校内の防災端末が誤作動した可能性があります。現在確認中です」

「誤作動って、人数言ってましたよね」

「救助まで七日とか言ってたぞ」

「SAIって何ですか」

 久世の表情が、わずかに固まった。

 律はそれを見逃さなかった。

 知っている。

 この人は、SAIを知っている。

「詳しいことは確認中です。今夜は不要な不安を広げないようにしてください」

「いや、不安しかないんだけど」

 結城が笑いながら言ったが、その笑いは少し乾いていた。

 結局、その夜、詳しい説明はなかった。

 教師たちは「誤作動」「確認中」「安全に問題はない」という言葉を繰り返した。けれど、誰も安心しなかった。むしろ、その三つの言葉は、不安を隠すための薄い布のように見えた。

 律は眠れなかった。

 床の硬さや、雨の音や、周囲の寝息のせいだけではない。

 最適化。

 その言葉が、頭の中でずっと反響していた。

 最適化とは、何をどうすることなのか。

 何を残し、何を捨てることなのか。

     *

 翌朝、雨は弱まっていなかった。

 むしろ夜のうちに、世界は水に沈みかけているようだった。校庭は茶色い池になり、サッカーゴールの下半分が水に浸かっていた。校門へ続く坂道は見えない。土砂と倒木と濁流に覆われ、昨日まで道路だった場所が、別の地形に変わっていた。

 午前六時半。

 二年一組の黒板に、文字が浮かんだ。

 最初に気づいたのは、森谷千尋だった。

 彼女は教室の前方で、水の配布を手伝っていた。ふと黒板を見て、手に持っていたペットボトルを落とした。

 音を聞いて、何人かが振り向く。

 律も顔を上げた。

 黒板には、白い文字が書かれていた。

 チョークではない。

 電子黒板でもない。

 だが、確かに白い文字だった。古い黒板の表面に、内側から浮き出るように、均整の取れた文字列が並んでいる。

本日追放する生徒の名前を書け。

最多票の者を、校舎外へ出す。

 誰も動かなかった。

 雨音だけが聞こえた。

「……は?」

 結城が最初に声を出した。

「なにこれ。誰が書いた?」

 彼は黒板に近づき、指で文字をこすった。消えない。次に黒板消しを手に取り、強くこすった。白い文字は一瞬かすれたように見えたが、すぐに元の濃さに戻った。

「きも」

 誰かが言った。

 久世が職員室から駆けつけた。黒板を見た瞬間、顔色が変わった。

「全員、黒板から離れてください」

「先生、これ何ですか」

「確認します。誰も触らないように」

 久世は黒板消しで文字を消そうとした。芹沢もそばに立った。だが、文字は消えない。水を含ませた雑巾で拭いても、爪で削っても、白い文字はそこに残った。

 ただ、文字の下に、空白の欄が現れた。

 横線が三十一本。

 まるで、名前を書くための欄だった。

「悪趣味だな」

 結城が言った。

「これ、誰かのドッキリじゃね?」

「でも消えないよ」

「電子黒板?」

「これ普通の黒板だろ」

 生徒たちは怖がりながらも、どこかでまだ冗談だと思っていた。そうでなければ困るからだ。黒板が勝手に命令を出すなんて、現実であるはずがない。

 久世は黒板の前に立ち、厳しい声を出した。

「これは、防災設備の異常表示です。絶対に従わないでください。名前を書いたりしないように」

「書いたらどうなるんですか?」

 朝倉美緒が尋ねた。

 三年生の生徒会長で、長い髪をきちんと後ろで束ねている。避難生活が始まってからも、教師の指示を手伝い、配給の列を整え、下級生に声をかけていた。落ち着いた声だったが、その目は黒板に釘付けになっていた。

「何も起きません」

 久世は即答した。

 その即答が、律には嘘に聞こえた。

「何も起きないなら、なぜ絶対に書くなと言うんですか」

 朝倉は静かに続けた。

 久世は一瞬、言葉に詰まった。

「混乱を防ぐためです」

「混乱はもう起きています」

 教室の空気が張りつめる。

 そこで結城が、わざとらしく笑った。

「じゃあさ、試しに書いてみればいいじゃん」

「結城」

 芹沢が鋭く呼んだ。

「冗談だって。でも、最多票ってことは、一票ならセーフなんじゃね?」

「やめなさい」

「先生、そんなマジになんなよ」

 結城は教卓のチョークを一本つまみ上げた。

 律の心臓が、嫌な音を立てた。

「書くな」

 芹沢が言った。

 結城は黒板の空欄を見た。

 そして、笑った。

「どうせなら森谷でよくね?」

 教室が、凍った。

 森谷千尋は、黒板の横に立ったままだった。

 彼女の顔には、昨日と同じ、何も言わない表情が浮かんでいた。けれど、手だけが小さく震えていた。

「お前、最低だぞ」

 誰かが言うと思った。

 律はそう思った。

 だが、誰も言わなかった。

 結城の周りにいた男子が、困ったように笑った。

「いや、それはさすがに」

「でも森谷、昨日も変だったしな」

「つーか、こういうの好きそうじゃね?」

 言葉が増えていく。

 誰かが止める前に、空気ができあがっていく。

 冗談。

 悪ふざけ。

 場を和ませるため。

 本気じゃない。

 みんながそういう顔をしている。

 結城は黒板のいちばん上の欄に、チョークで書いた。

森谷千尋

 白い名前が、黒板の表面に乗った。

 その瞬間、短い電子音が鳴った。

 ピッ。

 教室中の人間が息を止めた。

 黒板の森谷千尋という文字の横に、小さく数字が表示された。

一票

「うわ、反応した」

 結城が一歩下がった。

 さっきまで笑っていた顔が、ほんの少し引きつっている。

「消して」

 森谷が言った。

 小さな声だった。

「消してよ」

 結城は黒板消しを取って、自分が書いた名前を消そうとした。

 だが、消えなかった。

 チョークで書いたはずの文字は、最初の命令文と同じように、黒板の内側に沈み込んでいた。

 結城の顔から笑いが消えた。

「いや、待てって。俺、冗談で」

「離れてください!」

 芹沢が結城を押しのけ、黒板消しで強くこすった。

 名前は消えない。

 ピッ。

 また音がした。

 誰かが、別の欄に同じ名前を書いていた。

森谷千尋 二票

「誰だよ、今書いたの!」

 芹沢が叫んだ。

 返事はない。

 教室の後ろで、チョークを持った男子が目を逸らした。

「おい、マジでやめろ」

 結城が言った。

 その声は、もう笑っていなかった。

 だが、遅かった。

 悪ふざけは、一度始まると、誰のものでもなくなる。

 ピッ。

三票

 ピッ。

四票

「やめて!」

 森谷が叫んだ。

 律は立ち上がっていた。

 何かを言わなければならなかった。結城を止めるのではなく、黒板を止めるのでもなく、この空気を止めなければならなかった。

 喉の奥が焼けるように熱い。

 言え。

 今言え。

 今言わなければ、また同じだ。

「やめ……」

 声は、ほとんど空気だった。

 誰にも届かなかった。

 森谷は律を見た。

 一瞬だけ。

 その目に、責める色はなかった。

 助けを求める色もなかった。

 ただ、律が何も言えないことを、もう知っている目だった。

 その目が、律を黙らせた。

「黒板を隠します」

 久世が言った。

 教師たちは慌てて模造紙を探し、黒板の前に貼ろうとした。だが、文字は模造紙の上からでも透けて見えた。まるで光ではなく、命令そのものがそこにあるかのように。

 最終的に、久世は生徒たちを二年二組へ移動させた。

「この件について、これ以上話さないように。投票は無効です。すべて誤作動です」

 久世は何度も言った。

 投票は無効。

 誤作動。

 何も起きない。

 だが、森谷千尋の名前は黒板に残ったままだった。

     *

 夕方五時。

 雨は少しだけ弱くなっていた。

 それでも、外は濁流だった。校舎の裏手では土砂がさらに崩れ、非常階段の下まで泥水が迫っていた。救助は来ない。固定電話も、午後から繋がらなくなった。職員室の防災端末だけが、低い駆動音を立てていた。

 生徒たちは疲れ切っていた。

 誰も森谷の話をしなかった。

 しないことで、なかったことにしようとしていた。

 森谷は教室の隅に座っていた。膝に顔を埋め、ほとんど動かない。芹沢がそばに付き添っていたが、森谷は何を聞かれても首を振るだけだった。

 律は少し離れた場所から、それを見ていた。

 行け。

 謝れ。

 さっき何も言えなかったことを。

 けれど、謝ってどうなるのだろう。

 自分は一票も書いていない。けれど、止めもしなかった。何もしていないということは、この場所では、たぶん無罪ではない。

 午後五時十三分。

 校内放送が鳴った。

 ざざ、というノイズ。

 全員が動きを止める。

 機械音声が流れた。

『投票を集計しました』

 久世が立ち上がった。

「止めろ! 放送を止めろ!」

 だが声は続いた。

『最多票、森谷千尋』

 森谷が顔を上げた。

 目だけが、大きく開いている。

『追放を実行します』

 その瞬間、教室の扉が閉まった。

 がちゃん、という施錠音が響いた。

「え?」

 誰かが扉に駆け寄った。開かない。内側から引いても、押しても、びくともしない。

 次の瞬間、廊下側から悲鳴が聞こえた。

 森谷がいない。

 律はそれに気づくのが一瞬遅れた。

 さっきまで教室の隅にいた森谷千尋が、廊下にいた。彼女だけが、教室の外に閉め出されていた。扉の小さな窓越しに、森谷の顔が見える。

「開けて!」

 森谷が扉を叩いた。

「先生、開けて! 開けてください!」

 芹沢が扉に飛びついた。

「森谷さん! 離れないで! 今開けるから!」

 久世が管理用のカードキーを取り出し、扉の横の端末にかざした。

 赤いランプが点滅した。

 拒否。

「なんで……」

 久世の声が震えた。

 廊下の奥で、非常階段へ続く扉が開いた。

 普段は施錠されている鉄扉が、自動で、ゆっくりと。

 外の風が廊下に吹き込んだ。雨粒が床に叩きつけられ、白い飛沫が上がる。非常階段の向こうは、濁った水と崩れた土の匂いで満ちていた。

 森谷は首を振った。

「いや……いやだ……」

 彼女は教室の扉にしがみついた。

 芹沢が泣きそうな声で叫んだ。

「森谷さん、こっちを見て! 大丈夫、絶対開けるから!」

 律は扉の前に立っていた。

 森谷と目が合った。

 今度こそ、何かを言わなければならなかった。

 けれど、何を。

 大丈夫?

 嘘だ。

 助ける?

 どうやって。

 ごめん?

 遅すぎる。

 森谷の唇が動いた。

 声は聞こえなかった。

 けれど、律には、何を言ったのかわかった気がした。

 なんで。

 非常階段側の扉から、突風が吹き込んだ。

 廊下の床に流れ込んでいた泥水が、一気に波打つ。森谷の足元が滑った。彼女は扉の窓に手を伸ばした。律も反射的に内側から手を伸ばした。

 ガラス一枚。

 たったそれだけの距離。

 けれど、その一枚は、世界のこちら側とあちら側を分けていた。

 森谷の手が、窓の向こうで滑った。

 次の瞬間、非常階段の外で、低い音がした。

 山が崩れる音だった。

 廊下の奥が茶色い水と土砂で埋まった。非常階段の手すりがねじ曲がり、外から流れ込んだ泥が床を覆う。森谷の姿が、一瞬、白いブラウスだけ見えた。

 それから、消えた。

 誰かが叫んだ。

 誰かが泣いた。

 誰かが扉を叩き続けた。

 律は、扉の窓に手を当てたまま、動けなかった。

 校内放送が、最後に一度だけ鳴った。

『追放を完了しました』

 教室の扉のロックが外れた。

 がちゃん、と軽い音がした。

 誰もすぐには動かなかった。

 開いた扉の向こうには、泥水の匂いがあった。雨の音があった。廊下に散らばった森谷の上履きが、片方だけ残っていた。

 律はそれを見て、ようやく理解した。

 黒板の投票は、本物だった。

 結城大我が、背後で小さく言った。

「俺は……冗談で……」

 その言葉に、誰も答えなかった。

 冗談で書いた名前が、人を殺した。

 そして、律は知っていた。

 自分は書いていない。

 けれど、止めなかった。

 その違いに、どれほどの意味があるのか。

 黒板には、まだ白い文字が浮かんでいた。

本日追放する生徒の名前を書け。

 その下の一番上の欄に、森谷千尋の名前だけが残っていた。

 もう消えない名前として。


第2章 最初の多数決

 森谷千尋の上履きは、翌朝になっても廊下に残っていた。

 片方だけだった。

 薄いピンク色の縁取りがついた、学校指定の上履き。泥を吸って重くなり、廊下の端に転がっている。つま先のところに、黒い泥がこびりついていた。

 誰も拾わなかった。

 拾えば、森谷千尋がもう戻ってこないことを認めるような気がしたからだ。

 律は、教室の入り口からその上履きを見ていた。

 雨はまだ降っている。夜のような激しさではないが、校舎を取り囲む山の空気は水を含み、壁も床も人の肌も、薄い湿気に覆われていた。廊下の先、非常階段へ続く扉の周辺には、土嚢と机が積まれている。昨夜、教師たちが泥水の侵入を防ぐために並べたものだった。

 その向こうに、森谷は消えた。

 土砂と濁流に、押し流された。

 けれど、死体は見つかっていない。

 だから久世教頭は、森谷千尋は「行方不明」だと言った。

「死亡を確認したわけではありません」

 朝の点呼のあと、久世はそう言った。

 二年一組に残された生徒と教師たちは、誰も返事をしなかった。

 久世は眼鏡の位置を直し、なるべく穏やかな声を作って続けた。

「昨夜の件は、校内防災システムの誤作動と、土砂流入が重なって発生した事故です。現在、外部との通信復旧を試みています。救助が到着し次第、森谷さんの捜索も行われます」

 事故。

 その言葉が、教室の中をゆっくり漂った。

 事故なら、仕方がない。

 事故なら、誰も悪くない。

 事故なら、黒板に名前を書いた人間も、見ていただけの人間も、止められなかった教師も、黙っていた自分も、ぎりぎり許される。

 だからだろう。

 何人かの生徒は、その言葉にすがるような顔をした。

 事故。

 そうだ、事故だった。

 誰かが森谷を押し出したわけではない。誰かが殺したわけではない。黒板に名前を書いたのは冗談だった。扉が閉まったのは機械の誤作動だった。非常階段が開いたのも、土砂が崩れたのも、ぜんぶ台風のせいだった。

 そう考えれば、まだ息ができる。

 けれど、律は息ができなかった。

 昨日、黒板の前で森谷の名前が増えていくのを見ていた。

 森谷が「消して」と言った声を聞いた。

 ガラス一枚向こうで、彼女の手が滑るのを見た。

 最後に彼女が口を動かしたのを見た。

 あれを事故と呼ぶなら、事故とは、ずいぶん便利な言葉だ。

「でも、黒板は?」

 三年生の朝倉美緒が言った。

 彼女は教室の中央に立っていた。制服の袖口が少し濡れている。昨日からほとんど眠っていないはずなのに、声だけは崩れていなかった。

「黒板に名前を書いたら、森谷さんが外に出されました。あれも事故ですか」

 久世は、すぐには答えなかった。

「繰り返しますが、あれはシステムの誤作動です」

「なら、どうして森谷さんだけが廊下に出されたんですか」

「現在確認中です」

「どうして扉のロックを先生のカードキーで開けられなかったんですか」

「確認中です」

「どうして非常階段が勝手に開いたんですか」

「確認中です」

 朝倉の問いに、久世は同じ言葉だけを返した。

 確認中。

 その四文字は、答えではなかった。

 わからない、でもない。

 言えない、に近かった。

「じゃあ、確認が終わるまで、私たちは何を信じればいいんですか」

 朝倉がそう言ったとき、久世の表情が少しだけ歪んだ。

「信じるべきなのは、教師の指示です」

 その声には、穏やかさよりも苛立ちが混じっていた。

「皆さんは生徒です。災害時には、個々の判断で動くことが最も危険です。教職員の指示に従ってください」

「昨日、森谷さんは先生たちの目の前で消えました」

 朝倉は引かなかった。

「その先生たちの指示を、どうやって信じろと言うんですか」

 教室の空気が揺れた。

 誰かが小さく息を呑んだ。

 久世の顔から、血の気が引いていくのがわかった。

 芹沢美月が、二人の間に入るように一歩前へ出た。

「朝倉さん。気持ちはわかる。でも今は、みんなが疲れている。まず水と食料を配って、けが人の確認をしましょう」

「芹沢先生は、事故だと思いますか」

 朝倉は芹沢を見た。

 芹沢は口を開きかけて、閉じた。

 その沈黙が、答えだった。

 律は視線を落とした。

 教室の床には、昨日の夜に敷いた防災毛布が何枚も残っている。湿気を吸って、端が丸まっていた。乾パンの袋が一つ、机の下に落ちている。誰も拾わない。誰も片づけない。

 学校は、いつもの学校ではなくなっていた。

 机が並び、黒板があり、掲示物が貼られている。けれどそこはもう教室ではない。

 人が選ばれた場所だった。

     *

 森谷千尋の机は、教室の後ろから二番目の列にあった。

 律は昼前、その机の前に立っていた。

 誰かに頼まれたわけではない。何か目的があったわけでもない。ただ、気がつくとそこにいた。

 森谷の机の上には、何もなかった。教科書もノートも、筆箱も、昨日の混乱の中でどこかへ移されたらしい。机の横のフックには、紺色のサブバッグだけが残っていた。

 触っていいのか迷った。

 死んだ人間の持ち物、ではない。

 久世の言う通りなら、森谷は行方不明だ。

 でも、行方不明の人間のものなら、なおさら勝手に触るべきではない。

 律は一度、手を引っ込めた。

 そのとき、背後から声がした。

「白石くん」

 芹沢だった。

 律は振り向いた。

 芹沢の目の下には、濃い影ができていた。昨日の夜から一睡もしていないのかもしれない。髪も少し乱れている。それでも彼女は、教師の顔を保とうとしていた。

「森谷さんの荷物?」

「あ……いや、すみません。勝手に見るつもりじゃ」

「いいよ」

 芹沢は小さく首を振った。

「本当は、私が確認しなきゃいけないんだけど」

 彼女は森谷の机に近づき、サブバッグを見た。

「家族に渡せるものがあるかもしれないから」

 家族。

 その言葉で、律の胸が詰まった。

 森谷にも家がある。家族がいる。昨日の夜、帰ってこない娘を心配している人がいる。スマホが繋がらず、学校からの連絡も途絶え、台風のニュースを見ながら、森谷千尋という名前を何度も呼んでいる人がいるかもしれない。

 教室で孤立していたからといって、森谷の世界が教室だけだったわけではない。

 そんな当たり前のことを、律は今さら思い出していた。

 芹沢がサブバッグを机の上に置き、中身を取り出した。

 折りたたみ傘。タオル。古い文庫本。小さなポーチ。英単語帳。透明なファイル。そして、黒い表紙のノート。

 芹沢の手が、そのノートで止まった。

「これは……」

 律は表紙を見た。

 そこには、白い修正ペンで小さく文字が書かれていた。

記録

 ただそれだけ。

 芹沢は少し迷ったあと、ノートを開いた。

 一ページ目には、日付が書かれていた。

 去年の十一月。

 財布の盗難騒ぎが起きた日だった。

 律は、自分の指先が冷たくなるのを感じた。

 ノートには、細かい字で出来事が書かれていた。

 何時何分、誰が教室にいたか。

 誰が最初に「森谷が怪しい」と言ったか。

 誰が同調したか。

 誰が笑ったか。

 教師が何と言ったか。

 そして、そのあと自分の机に入れられていた紙のことも。

泥棒。

近づくな。

気持ち悪い。

 芹沢の顔色が変わった。

 ページをめくる。

 日付は続いていた。

 十二月。掃除当番を押しつけられた日。

 一月。体育のペア決めで最後まで残された日。

 二月。机の中に濡れた雑巾を入れられた日。

 三月。提出物を隠された日。

 四月。新学年になっても、同じ空気が続いていると書かれていた。

 そして、何度も同じ名前が出てきた。

 結城大我。

 その周囲の男子。

 笑っていた女子。

 見ていた教師。

 見ていただけの生徒。

 律は、自分の名前を探した。

 探したくなかったのに、目が勝手に探していた。

 あった。

白石くんは、いつも見ている。けれど何も言わない。

 その一行を見た瞬間、律は呼吸を忘れた。

 責められているわけではなかった。

 そこに怒りの言葉はなかった。

 ただの記録だった。

 それが、余計に苦しかった。

「森谷さん……」

 芹沢の声が震えた。

 彼女はページを進めた。

 ある日付のところで、指が止まった。

芹沢先生に相談。証拠がないと難しいと言われる。先生は困った顔をしていた。私も困らせたくなかった。

 芹沢は、何も言わなかった。

 律は、彼女の表情を見られなかった。

 教師でも、生徒でも、たぶん同じだ。

 自分が何もしなかった記録を見るのは、刃物を見るより怖い。

「先生」

 律はようやく声を出した。

「これ、どうするんですか」

「……久世先生に」

 言いかけて、芹沢は唇を噛んだ。

 久世に渡す。

 それが正しい手順なのだろう。けれど森谷は何度も教師に相談していた。記録は残っていた。それでも何も変わらなかった。

 このノートを同じ場所へ戻して、何かが変わるのか。

 芹沢も同じことを考えたのだろう。

 彼女はノートを閉じ、胸に抱えるように持った。

「私が預かる」

「いいんですか」

「よくないかもしれない。でも、今は……」

 芹沢は息を吸った。

「今は、これをなかったことにしたくない」

 律は頷いた。

 そのとき、教室の前方で誰かが叫んだ。

「黒板!」

 律と芹沢は同時に振り向いた。

 二年一組の黒板に、白い文字が浮かんでいた。

 昨日と同じ文字だった。

本日追放する生徒の名前を書け。

 その下に、昨日よりもさらに冷たい一文が追加されていた。

未投票の場合、無作為追放に移行します。

     *

 教室は、昨日とは違う沈黙に包まれた。

 昨日はまだ、冗談にできた。

 悪ふざけだと思えた。

 誰かが消えるなんて、本気では信じていなかった。

 けれど今日は違う。

 森谷千尋がいない。

 上履きだけが廊下に残っている。

 その状態で、黒板は同じ命令を出している。

「未投票って……どういう意味?」

 誰かが呟いた。

「名前を書かなかったら、ランダムで誰かが外に出されるってことだろ」

 三年生の男子が答えた。

「じゃあ、書かなきゃいいってわけじゃないのかよ」

「でも書いたら、また誰かが……」

「書かなくても誰かなんだろ」

 声が重なっていく。

 芹沢が前に出た。

「誰も書かないで。これは命令じゃない。従っちゃだめ」

「従わなかったら無作為って書いてありますけど」

 結城の声だった。

 彼は教室の後ろに立っていた。昨日から顔色が悪い。目の下が少し赤く、唇が乾いている。けれど、その声にはまだ、いつもの強さを残そうとする意地があった。

「昨日も、先生たちは『何も起きない』って言った。でも森谷は消えた」

「結城くん」

 芹沢が低く呼ぶ。

「君がそれを言うの」

 その一言で、結城の顔が強張った。

 教室中が、彼を見る。

 最初に森谷の名前を書いたのは結城だ。

 誰も口にしなかった事実が、そこに剥き出しになった。

「俺は……」

 結城は一瞬言葉に詰まり、それから舌打ちした。

「俺だけじゃねえだろ。何票入ってたと思ってんだよ」

 それは最悪の言い訳だった。

 けれど、完全な嘘ではなかった。

 森谷千尋の名前は、最終的に八票になっていた。

 誰が書いたのか、誰も名乗り出ていない。

 結城だけではない。

 だからこそ、教室は何も言えなくなった。

 久世が黒板の前に立った。

「投票は行いません」

 強い声だった。

「昨日の事故を繰り返してはいけない。全員、黒板から離れてください。二年二組へ移動します」

「移動しても意味ないだろ」

 結城が言った。

「昨日も移動した。けど、集計された。どこにいても同じなんだよ」

「結城くん、黙りなさい」

「黙ってたら助かるんですか」

 結城の声が大きくなる。

「先生たちは、昨日も何もできなかったじゃないですか。カードキーも効かなかった。放送も止められなかった。森谷を助けられなかった。なのに、また『書くな』って言うだけ?」

 久世は答えない。

 結城は周囲を見た。

「だったら、自分たちで考えるしかないだろ」

 その言葉に、数人が顔を上げた。

 自分たちで考える。

 それは本来、前向きな言葉のはずだった。

 けれど、この教室では違った。

 誰を選ぶか、自分たちで考える。

 そういう意味になってしまう。

「誰かを書かなきゃランダムなんだろ」

 結城は言った。

「だったら、せめて選ぶべきだろ。全員同じ確率で外に出されるより、まだ理由があるほうがいい」

「理由って何」

 芹沢が言った。

「人を外に出して殺す理由?」

「殺すとか言うなよ!」

 結城が怒鳴った。

「じゃあ何て言うの」

「……生き残るためだろ」

 教室の中で、その言葉だけが妙にはっきり響いた。

 生き残るため。

 それは、どんな言葉よりも強かった。

 生き残るためなら、仕方がない。

 生き残るためなら、誰かを選ばなければならない。

 生き残るためなら、選ばれる側ではなく、選ぶ側に回らなければならない。

 空気が変わるのがわかった。

 恐怖は、人を黙らせるだけではない。

 人に理由を欲しがらせる。

 自分が助かるための、正しそうな理由を。

     *

 昼の配給は、昨日よりも少なくなった。

 水は一人一本ではなく、紙コップに半分ずつ。乾パンは三枚。アルファ米は夕食まで温存。久世がそう決めた。

「救助が遅れる可能性を考慮します」

 久世は淡々と説明した。

 けれど、生徒たちはもう、久世の言葉を素直に聞かなくなっていた。

 食料の箱の前には、結城と野球部の男子二人が立っていた。久世が指示したわけではない。彼らが勝手に「運ぶ」と言って、そのまま配給のそばに居座ったのだ。

「一人ずつ並べよ。二回取りなしな」

 結城が言うと、下級生たちは従った。

 教師がやるより早い。

 乱暴だが、秩序はできる。

 そのことが、律には嫌だった。

 結城は一人一人に乾パンを渡しながら、顔を見ていた。誰が自分に逆らいそうか。誰が弱そうか。誰が使えるか。そんなふうに、人間を分けている目だった。

 律の番が来た。

 結城は乾パンを三枚、律の手に落とした。

「白石」

「何」

「お前、今日どうするつもり」

「どうするって」

「投票」

 律は答えなかった。

 結城は少し身を乗り出した。

「いい子ぶって何も書かないと、ランダムだぞ。お前が選ばれるかもしれない」

「だからって、誰かを書くのか」

「そうしなきゃ死ぬかもしれないだろ」

「書いたら、誰かが死ぬ」

「書かなくても誰かが死ぬかもしれない」

 結城の声は低かった。

 彼は昨日のことを後悔しているのかもしれない。

 怯えているのかもしれない。

 けれど、その怯えは、誰かを守る方向には向かわなかった。

 自分を守るために、次の誰かを探している。

「なあ、白石」

 結城は、律だけに聞こえる声で言った。

「お前、森谷のことで俺を責めてんの?」

 律は、乾パンを握る手に力を入れた。

「責める資格はない」

「は?」

「僕も何も言わなかった」

 結城は一瞬、ぽかんとした顔をした。

 それから、歪んだ笑いを浮かべた。

「だよな。お前、そういうやつだもんな」

 律は何も返せなかった。

 結城の言葉は、悪意よりも正確さで刺さった。

 そういうやつ。

 見ているだけ。

 自分が直接手を汚していないことだけを、心のどこかで救いにしているやつ。

 律は乾パンを持って、教室の隅に戻った。

 食欲はなかった。

 けれど、食べなければならない。食べないと弱る。弱れば、選ばれる理由になる。

 その考えが浮かんだ瞬間、律は自分が嫌になった。

 もう始まっている。

 誰が選ばれやすいか。

 自分は選ばれないか。

 人を、そういう目で見ている。

     *

 午後二時頃、三年生の矢野修平が足を痛めた。

 正確には、昨日の渡り廊下崩落のときに足首を捻っていたらしい。最初は我慢していたが、腫れがひどくなり、歩くのが難しくなっていた。

 矢野は三年三組の生徒で、体格が大きかった。太っているというより、全体的に重そうな体つきで、普段から運動が苦手なことでからかわれていた。けれど、声は穏やかで、下級生にも敬語を使うような人だった。

 保健室は一階にあったが、廊下の一部が浸水して使えなくなっていたため、二年二組の後ろに簡易の処置スペースが作られた。芹沢と養護教諭の代わりに理科教師の真鍋が、包帯と湿布で応急処置をした。

 矢野は申し訳なさそうに笑った。

「すみません、場所取って」

「そんなこと言わなくていいです」

 芹沢が言った。

「痛みは?」

「歩かなければ、大丈夫です」

 歩かなければ。

 その言葉を、何人かが聞いていた。

 結城も。

 夕方に近づくにつれ、教室の中では小さな声の会話が増えていった。

「矢野先輩、歩けないんだって」

「救助来たとき、どうすんの」

「誰かが背負うしかないんじゃない?」

「この状況で?」

「食料も多く食べそうだし」

「やめなよ」

「でも、現実問題としてさ」

 現実問題。

 それもまた、便利な言葉だった。

 人の命の話をしているのに、まるで荷物の重さを測っているような顔ができる。

 律はその会話を聞きながら、立ち上がった。

 黒板の前には、まだ誰も名前を書いていない。

 だが、白い文字は朝からずっと浮かんでいる。

本日追放する生徒の名前を書け。

未投票の場合、無作為追放に移行します。

 残り時間は表示されていない。

 だから余計に怖かった。

 いつ集計されるのか。

 何時までに書かなければならないのか。

 昨日は夕方五時十三分だった。

 今日も同じとは限らない。

 その不確かさが、人を焦らせていた。

 結城が黒板の前に立ったのは、午後四時を少し過ぎた頃だった。

 彼の周りには、野球部の男子二人と、何人かの二年生がいた。

「聞いてくれ」

 結城は言った。

 教室内の視線が集まる。

「このまま誰も書かなかったら、ランダムで誰かが追放される。だったら、俺たちで決めるしかない」

「決めるって、誰を」

 朝倉が言った。

 結城は少し間を置いた。

「動けない人間から、考えるべきだと思う」

 その瞬間、矢野の顔が強張った。

 彼は処置スペースで座っていた。足首には包帯が巻かれている。手には開けかけの水の紙コップを持っていた。

「結城くん」

 芹沢が立ち上がる。

「今すぐやめなさい」

「先生、感情論はやめてください」

 結城は芹沢を見た。

「救助が来たとき、動けない人がいたら、誰かが助けなきゃいけない。土砂崩れの中で、全員で逃げる必要が出たら? 水が上がってきたら? 足を怪我してる人を運んで、全員が危険になるかもしれない」

「だから外に出すの?」

「最悪を考えるべきだって言ってるんです」

「あなたが言っているのは、最悪を避けることじゃない。誰かに最悪を押しつけることです」

 芹沢の声は震えていた。

 結城は一瞬、目を逸らした。

 だが、彼の周りにいる男子の一人が言った。

「でも、ランダムで女子とか一年が選ばれるよりはマシじゃないですか」

 別の生徒が続けた。

「矢野先輩には悪いけど、現実的には……」

「現実的って何だよ」

 律は、気がつくと声を出していた。

 自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。

 教室が静かになる。

 結城が律を見る。

「何?」

 律は喉が乾いていた。

 心臓が速い。

 けれど、今度は声が消えなかった。

「それは選択じゃない。殺人だ」

 言った。

 言ってしまった。

 教室の空気が、一瞬で冷たくなる。

 結城の目が細くなった。

「じゃあ、お前が代わりに出るのか」

 すぐに返ってきた。

 予想していた言葉だった。

 それでも、律は言葉を失った。

「殺人だって言うなら、止めればいいだろ。お前が外に出れば、矢野先輩は助かる。誰も殺さなくて済む。違うか?」

「それは……」

「言えよ。自分が出るって」

 結城が一歩近づく。

「正しいこと言うなら、そのくらい言えよ」

 律は唇を噛んだ。

 出られない。

 外には濁流がある。土砂がある。森谷を飲み込んだ暗い廊下がある。

 怖い。

 死にたくない。

 その当たり前の感情が、律の正しさを一瞬で黙らせる。

「ほらな」

 結城は笑った。

「誰だって自分は出たくないんだよ」

 それは勝利宣言のようだった。

 教室の中の何人かが、視線を逸らす。

 律は、その瞬間にわかった。

 皆、結城に賛成しているわけではない。

 矢野を殺したいわけでもない。

 ただ、自分が選ばれたくない。

 その一点だけで、空気は結城の側へ傾いていく。

 矢野が口を開いた。

「僕は」

 声は静かだった。

「僕は、まだ死にたくないです」

 誰も返事をしなかった。

「足は痛いけど、動けます。邪魔にならないようにします。食料も、少なくていいです。だから……」

 矢野の手が震えていた。

「名前は、書かないでください」

 その言葉を聞いても、誰も動かなかった。

 芹沢が泣きそうな顔で言った。

「当然です。誰も書きません。書かせません」

 けれど、黒板の前にいた男子が、チョークを持った。

 芹沢が駆け寄るより早く、白い欄に文字が書かれた。

矢野修平

 ピッ。

 音が鳴った。

一票

「やめろ!」

 律は叫んだ。

 芹沢が黒板消しを掴み、名前を消そうとする。

 消えない。

 昨日と同じだった。

 ピッ。

二票

 別の欄に、同じ名前。

 ピッ。

三票

「誰ですか! 書いた人は前に出なさい!」

 芹沢が叫ぶ。

 誰も出ない。

 チョークだけが、手から手へ渡っていく。

 目立たないように。

 自分だけではないという顔で。

 誰かが書いたから、自分も書く。

 自分が書かなくても、どうせ決まる。

 それなら、選ばれる側に回らないために。

 ピッ。

四票

 矢野は立ち上がろうとして、痛みに顔を歪めた。

「やめてください」

 その声は、森谷の声に似ていた。

 消して。

 やめて。

 開けて。

 律の耳の奥で、昨日の声が重なる。

 彼は黒板の前に立ちはだかった。

「もう書くな!」

 自分の声が、教室に響いた。

 初めて、結城が少し驚いた顔をした。

「どけよ、白石」

「嫌だ」

「どけって」

「嫌だ」

 律は震えていた。

 足も、手も、声も。

 それでも動かなかった。

 結城は近づいてきた。

 胸ぐらを掴まれると思った。

 殴られるかもしれないと思った。

 けれど、その前に久世の声が響いた。

「白石くん、黒板から離れなさい」

 律は振り向いた。

 久世は、青い顔で立っていた。

「危険です。システムに刺激を与えるような行為は避けなさい」

「刺激って何ですか」

 律は言った。

「これが何か、先生は知ってるんですか」

「今はその話をしている場合ではありません」

「じゃあ、いつするんですか」

 久世は答えなかった。

 結城が小さく笑った。

「ほら、先生もどけって言ってる」

 その声に、律の中で何かが切れそうになった。

 だが、芹沢が律の肩に手を置いた。

「白石くん」

「先生」

「ありがとう。でも、今ここで君が怪我をしたら、もっと混乱する」

「でも」

「私が立つ」

 芹沢は律の前に出た。

 黒板を背にして、教室全体を見た。

「誰も書かないで。これは投票じゃありません。人を殺すための手続きです。あなたたちが今ここで名前を書くなら、それは事故じゃない。昨日とは違う。意味をわかって書くことになる」

 芹沢の声は、決して大きくなかった。

 それでも、教室の隅まで届いた。

「お願い。人を選ばないで」

 その言葉に、何人かがチョークから手を離した。

 しかし、すでに名前は七票になっていた。

 最多票。

 昨日の森谷は八票。

 今日の矢野は、七票。

 それが十分なのかどうか、誰にもわからなかった。

 午後五時十三分。

 校内放送が鳴った。

     *

『投票を集計しました』

 教室中が凍りついた。

 芹沢が扉へ走った。

「全員、扉から離れて!」

 久世がカードキーを持つ。

 結城は動かなかった。

 矢野は処置スペースで座ったまま、両手で床を掴んでいた。

『最多票、矢野修平』

 矢野の顔が、ゆっくり白くなっていく。

「いやだ」

 彼は小さく言った。

「いやだ、僕は……」

『追放を実行します』

 教室の照明が一瞬落ちた。

 次に、すべての扉が施錠された。

 がちゃん。

 昨日と同じ音。

 ただし今日は、矢野だけが廊下に出されていたわけではなかった。

 矢野の座っていた処置スペースの床が、低い機械音とともに動いた。

 壁際の防火扉が開く。

 そこは、体育館側の崩れた渡り廊下へ続く非常通路だった。昨日、土砂で塞がれたはずの通路。その奥に、外へ通じる鉄扉がある。

 矢野の座っていた簡易ベッドが、キャスターごとゆっくり動き出した。

「止めて!」

 芹沢が叫び、ベッドに飛びついた。

 律も走った。

 だが、床から出てきた金属製のバーが通路を塞ぎ、二人を弾いた。

 矢野はベッドの上で暴れた。

「待って! 待ってください! 僕、歩けます! 歩けるから!」

 彼は立ち上がろうとした。

 足首に激痛が走ったのだろう。顔を歪め、ベッドから転げ落ちそうになる。けれど、固定ベルトのようなものが脇腹のあたりを押さえ、彼を通路の奥へ運んでいく。

「矢野先輩!」

 律はバーを掴んだ。

 冷たい金属だった。押しても引いても動かない。

 矢野は泣いていなかった。

 顔は恐怖で歪んでいたが、涙は出ていなかった。

 彼は、教室の中を見た。

 結城を見た。

 芹沢を見た。

 律を見た。

 そして、黒板のほうを見た。

「お前ら」

 矢野は言った。

 声は震えていたが、はっきりしていた。

「明日は、自分が選ばれないと思ってるのか」

 その言葉を最後に、非常通路の奥の扉が開いた。

 外の風が吹き込む。

 茶色い水の匂い。

 崩れた木の匂い。

 雨の匂い。

 ベッドはそのまま外へ押し出された。

 矢野の体が一瞬、暗い雨の中に見えた。

 それから、音がした。

 大きな音ではなかった。

 何か重いものが、水に落ちる音。

 それだけだった。

 鉄扉が閉まった。

 放送が鳴る。

『追放を完了しました』

 金属バーが床に戻り、教室のロックが解除された。

 芹沢が通路へ駆け込もうとしたが、久世が止めた。

「危険です!」

「離してください!」

「外は崩落しています! 今出ればあなたまで――」

「じゃあ、矢野くんは!」

 芹沢の声が割れた。

「矢野くんは危険じゃなかったんですか!」

 久世は何も言えなかった。

 芹沢はその場に崩れ落ちた。

 教室の中では、誰も声を出さなかった。

 昨日とは違った。

 昨日は悲鳴があった。泣き声があった。混乱があった。

 今日は、沈黙だった。

 意味をわかって名前を書いた。

 その事実が、全員の喉を塞いでいた。

 結城は黒板を見ていた。

 矢野修平、七票。

 その文字は、森谷千尋の名前の下に残っていた。

 律は、結城を殴りたいと思った。

 黒板に名前を書いた全員を責めたいと思った。

 久世を、教師たちを、SAIを、台風を、全部を憎みたいと思った。

 けれど同時に、自分の胸の奥にある、もっと醜いものにも気づいていた。

 自分じゃなくてよかった。

 その思いが、ほんの一瞬、確かにあった。

 律はその場で吐きそうになった。

     *

 夜になって、教室は政治の場になった。

 誰かがそう宣言したわけではない。

 けれど、全員が理解していた。

 明日も黒板は命令を出す。

 未投票なら無作為追放。

 投票すれば最多票の者が追放。

 つまり、助かるためには、選ばれない側にいなければならない。

 そのためには、一人でいてはいけない。

 仲間が必要だった。

 票が必要だった。

 結城の周りには、野球部の男子と数人の二年生が集まっていた。彼らは小声で何かを話し、食料の箱の位置を確認している。

 朝倉美緒は三年生を中心に集め、「勝手な投票を防ぐための話し合いが必要」と言っていた。言葉は正しい。だが、そこにもまた集団ができていた。

 教師たちは職員室に集まり、久世を中心に対応を協議している。だが生徒たちはもう、教師を完全には信じていない。

 どこにも属さない生徒たちは、教室の隅で固まっていた。

 律は、森谷の机の前に座っていた。

 そこにはもう、彼女の荷物はない。

 芹沢が預かったノートも、どこか別の場所に隠された。

 机だけが残っている。

 空席。

 それは、教室の中でいちばん大きな存在になっていた。

 芹沢が隣に座った。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 雨の音がする。

 遠くで、何かが崩れる音もした。

「白石くん」

 芹沢が言った。

「今日、止めようとしてくれてありがとう」

 律は首を振った。

「止められませんでした」

「それでも、声を出した」

「遅いです」

 森谷のときに出せなかった。

 矢野のときも、結局止められなかった。

 声を出したことに、何の価値があるのか。

 芹沢は、律の横顔を見ていた。

「遅くても、出さないよりいい」

「そうでしょうか」

「そう思わないと、次に何もできなくなる」

 その言葉は、慰めではなかった。

 祈りに近かった。

 芹沢自身が、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

 律は黒板を見た。

 森谷千尋。

 矢野修平。

 二つの名前が並んでいる。

 その下には、まだ空白の欄がある。

 明日のための空白。

 人間の名前を待っている空白。

 律は思った。

 この教室は、もう避難所ではない。

 教室でもない。

 ここは、誰が生きるべきかを決める場所になった。

 そして自分たちは、生徒ではなくなった。

 教師でも、被災者でもない。

 投票者だ。

 名前を書く手を持った人間だ。

 夜の十一時を過ぎた頃、黒板の文字が一度だけ薄く光った。

 新しい一文が、名前の下に浮かび上がった。

次回投票開始まで、残り七時間。

 誰かが息を呑んだ。

 眠っていた者も、目を覚ました。

 七時間。

 朝が来れば、また誰かを選ぶ。

 律は目を閉じた。

 けれど、眠れなかった。

 まぶたの裏に浮かぶのは、森谷の手と、矢野の最後の顔だった。

 お前ら、明日は自分が選ばれないと思ってるのか。

 その言葉は、教室中の人間の胸に、釘のように打ち込まれていた。

 そして律は知っていた。

 明日、誰かがその釘を抜くために、別の誰かの名前を書く。

 自分だけは生き残るために。

 自分は悪くないと信じるために。

 多数決という、いちばん安全そうな刃物を握って。


第3章 票を集める者たち

 朝が来るたびに、誰かが死ぬ。

 そのことを、教室に残された者たちは三日目の朝、言葉にしないまま理解していた。

 夜明けは、救いではなかった。

 窓の外はまだ暗く、山にかかった雲は昨日より低く見えた。雨は弱くなっていたが、校舎の周囲には泥水が溜まり、グラウンドは池のようになっている。遠くから、川の音が聞こえた。普段なら校舎まで届くはずのない音だった。山の下を流れる久津見川が、増水して唸っているのだ。

 教室の黒板には、二つの名前が残っていた。

森谷千尋

矢野修平

 その下に、朝を待っていたように新しい文字が浮かび上がっている。

本日追放する生徒の名前を書け。

投票終了時刻、十七時十三分。

 時刻が表示されたことで、恐怖はかえって具体的になった。

 昨日までは、いつ集計されるかわからなかった。だから全員が怯え、焦り、勝手に追い詰められた。だが今日は違う。終わりの時刻が示されている。

 十七時十三分。

 その時間までに、誰かを選ぶ。

 または、選ばれる。

 律は黒板の前に立ち、三つ目の空白欄を見ていた。

 そこにはまだ誰の名前もない。

 けれど、空白は空白のままではいられないように見えた。黒板そのものが、人間の名前を待っている。誰かの呼吸、誰かの体温、誰かの明日を、白い文字に変えるために。

「白石くん」

 声をかけられ、律は振り向いた。

 芹沢美月が立っていた。昨日よりさらに顔色が悪い。目の下は青く、髪は後ろで雑に束ねただけだった。それでも、彼女は背筋を伸ばしていた。教師として立っていようとしているのがわかった。

「少し、いい?」

 律は頷いた。

 二人は廊下に出た。

 廊下の奥には、机と土嚢で作った簡易バリケードがあった。森谷が消えた非常階段側へ続く通路だ。泥の匂いはまだ残っている。湿った床に、昨日誰かが踏んだ足跡が乾ききらずに残っていた。

 芹沢は周囲を確認し、小さな声で言った。

「森谷さんのノートを、もう少し読んだ」

 律の喉が詰まった。

「何か、わかったんですか」

「いじめの記録だけじゃなかった」

 芹沢は手に持っていた黒いノートを開いた。ページの端が湿気で少し波打っている。

「この学校の防災システムについて、調べていたみたい」

「防災システム……」

「昨夜、放送で流れた名前。SAI」

 律の耳の奥で、あの機械音声が蘇る。

 避難者数、三十一名。

 生存可能日数、七日。

 最適化を開始します。

「森谷さんのノートに、その単語があった」

 芹沢はページを律に向けた。

 細かい字で、いくつものメモが並んでいる。

SAI? 防災AI?

三年前の実験。県、教育委員会、八嶺テクノロジー。

黒板は、前にも名前を書かせたことがある。

 その一文を見た瞬間、律は胃の底が冷たくなるのを感じた。

「前にも……?」

「意味はまだわからない。でも、森谷さんは昨日のことを完全に初めての異常だとは思っていなかったのかもしれない」

「じゃあ、知ってたんですか。黒板が……人を選ばせるって」

「そこまではわからない」

 芹沢は首を振った。

「ただ、森谷さんは何かを調べていた。この学校で過去に行われた防災教育実験について」

 律は廊下の壁を見た。

 そこには、色褪せたポスターが貼られていた。

防災モデル校指定 三年目

地域とともに命を守る久津見高校

 その言葉が、今は悪い冗談のように見えた。

「久世先生は、知ってますよね」

「たぶん」

「聞いたんですか」

 芹沢は少し黙った。

「聞いた。でも、答えてもらえなかった。『今は生徒の安全確保が優先だ』って」

「安全確保」

 律は思わず繰り返した。

 森谷は消えた。

 矢野も消えた。

 それでも大人は、安全確保という言葉を使う。

 まるで言葉だけなら、まだ自分たちは正しい場所に立っていられると信じているように。

「白石くん」

 芹沢の声が低くなる。

「今日、また投票がある。私は止める。でも……昨日みたいに、声だけでは止まらないかもしれない」

 律は答えなかった。

 昨日、矢野を止められなかった。

 黒板の前に立った。声を出した。芹沢も止めた。

 それでも名前は増えた。

 多数決は、一人の勇気で止められるほど弱くなかった。

「だから、ノートのことを一緒に調べてほしい」

「僕が?」

「森谷さんは、何かを見つけていた。黒板が何なのか、SAIが何なのか。それがわかれば、止める方法も見つかるかもしれない」

 律はノートを見た。

 森谷の字。

 もう声を聞けない人間が残した、最後の手がかり。

 そこには、自分の名前も書かれていた。

白石くんは、いつも見ている。けれど何も言わない。

 律は小さく息を吸った。

「やります」

 芹沢が少しだけ目を見開いた。

 律は言った。

「もう、見てるだけは嫌です」

 その言葉は、口にした途端、ひどく頼りなく感じられた。

 けれど、言わないよりはいい。

 遅くても、出さないよりいい。

 芹沢が昨日そう言ったから。

     *

 三日目の午前、教室の中にははっきりとした境界線が生まれていた。

 誰かが線を引いたわけではない。

 けれど、誰が誰のそばにいるかで、それは見えた。

 まず、結城大我の周り。

 野球部の二年生、早川と松永。バスケ部の三年、倉田。普段から声の大きい男子たちが、教室の後方に陣取っていた。食料の段ボールに近い場所だ。彼らはあからさまに箱を守っているわけではない。だが、そこに座ることで、誰が食料へ近づくにも彼らの視線を通る必要があった。

 結城は、昨日より落ち着いて見えた。

 それが律には怖かった。

 森谷のときは動揺していた。矢野のときも、どこかに怯えがあった。けれど今朝の結城は違う。怖がっていないのではない。怖いからこそ、次に何をするべきかを決めている顔だった。

 選ばれる側にならない。

 その一点に、彼の思考は鋭く向いていた。

「水、配るぞ」

 結城が言った。

 早川が段ボールを開け、紙コップに水を注ぐ。松永が乾パンの袋を数える。

「一人コップ半分な。勝手に取るなよ」

「先生が配るんじゃないの?」

 一年生の女子が小さく言った。

 早川が睨む。

「じゃあ先生呼べよ。先生が全部何とかしてくれんのか?」

 女子は黙った。

 結城が笑って、水の入った紙コップを渡す。

「別に意地悪してるわけじゃねえよ。管理してるだけ。無駄に使ったら全員困るだろ」

 管理。

 その言葉が、妙に自然に聞こえてしまう。

 食料を持つ者が、場を管理する。

 場を管理する者が、票を集める。

 律は、それが始まっているのを見ていた。

 もう一つの集団は、朝倉美緒の周りにできていた。

 三年生の女子と、成績の良い生徒、比較的落ち着いている生徒たち。朝倉は黒板から少し離れた窓際に立ち、ノートを持って話していた。

「勝手な投票を防ぐには、全員で話し合う必要があります。個人の感情で名前を書けば、昨日と同じことになります」

 彼女の声は通る。

 人を安心させる声だった。

 実際、彼女の周囲にいる生徒たちは、結城の集団よりも静かで秩序立っていた。

「だから、投票するしないも含めて、まず全員の意見を確認しましょう。誰か一人が勝手に決めるべきじゃありません」

 その言葉は正しい。

 正しいからこそ、危うかった。

 律は朝倉を見る。

 朝倉は、結城のように露骨に誰かを犠牲にしようとしているわけではない。むしろ止めようとしているように見える。

 けれど、彼女のノートにはすでに生徒たちの名前が書かれていた。

 体調。

 けがの有無。

 学年。

 家族への連絡が取れているか。

 得意なこと。

 不得意なこと。

 誰かを守るための記録なのか、誰かを選ぶための記録なのか。

 その境目は、紙の上ではひどく薄い。

 そして三つ目の集団。

 教師たち。

 久世教頭を中心に、職員室と二年一組を行き来している。数学教師の真鍋、体育教師の大河内、英語教師の永井。芹沢はそこから少し離れ、森谷のノートを抱えている。

 久世は何度も職員室の防災端末を確認していた。

 けれど、端末の前に生徒を近づけようとはしない。

 何かを隠している。

 律だけでなく、何人もの生徒がそう感じ始めていた。

「白石くん」

 朝倉に呼ばれた。

 律は振り向く。

「少し話せますか」

 彼女はノートを閉じ、律を廊下側へ促した。

「昨日、矢野先輩の投票を止めようとしていましたね」

「止められませんでした」

「それでも、止めようとした。だから聞きたいんです。今日、どうするべきだと思いますか」

 律はすぐには答えられなかった。

「どうするって……投票を止めるしか」

「全員が止めればいい。でも、止めなかった場合は?」

「それは」

「未投票なら無作為追放。昨日の表示が本当なら、誰かがランダムに選ばれます。その場合、一年生や怪我人や、精神的に限界の人が選ばれる可能性もある」

 朝倉は淡々と言った。

「私は、できるだけ被害を少なくしたい」

 被害を少なく。

 その言葉に、律は胸の奥がざわつくのを感じた。

「それは、誰か一人を選ぶってことですか」

「選ばないための方法を探しています。でも、全員を説得できないなら、最悪の場合に備える必要がある」

「最悪の場合って」

「結城くんたちが勝手に誰かを書き始める場合です。そのとき、私たちにも票がなければ止められません」

 律は朝倉を見た。

 彼女の目はまっすぐだった。

 嘘をついているようには見えない。

 けれど、その正しさの中に、すでに票という言葉が入っている。

 止めるために票を集める。

 守るために票を持つ。

 それは本当に止めることなのか。

 それとも、別の形で投票に参加しているだけなのか。

「白石くんには、こちらにいてほしいんです」

「こちら?」

「少なくとも、結城くんたちよりは話し合える人たちの側に」

 律は教室の後方を見た。

 結城がこちらを見ていた。

 目が合う。

 結城は笑わなかった。

 その顔を見て、律はわかった。

 結城もまた、誰がどちらにつくかを数えている。

 朝倉も数えている。

 久世も、おそらく数えている。

 三日目にして、教室にいる人間は名前ではなく票になっていた。

「考えます」

 律はそう答えた。

 朝倉は頷いた。

「早めに決めたほうがいいです。決めない人が、一番危ない」

 その言葉は、親切の形をしていた。

 けれど、律には脅しにも聞こえた。

     *

 森谷のノートには、学校の見取り図が挟まっていた。

 律と芹沢は、二年二組の準備室にいた。教材や古いプリント、壊れたプロジェクターが押し込まれた小さな部屋だ。教室のすぐ隣だが、扉を閉めれば声は少しだけ遮られる。

 芹沢はノートを机に置き、見取り図を広げた。

「ここが職員室。ここが防災管理室」

 赤ペンで丸がつけられている。

 防災管理室は、一階の奥、普段生徒が入らない管理区域にあった。非常電源、放送設備、校内監視カメラの制御盤がある場所らしい。

「森谷さん、こんなところまで調べてたんですね」

「たぶん、一人で」

 芹沢の声が重くなる。

 律はノートの別のページをめくった。

SAI――Survival Assessment Intelligence?

災害時生存評価知能。

避難者の人数、体調、位置、心理状態を分析。

最適な避難行動を提示。

 その下に、森谷の字で書き足しがある。

“提示”だけ? 本当に?

 律はその一文を見つめた。

 提示だけではない。

 SAIは扉を閉めた。

 非常階段を開けた。

 矢野のベッドを動かした。

 人間を外に出した。

「この学校、そんなシステム入ってたんですか」

 律が言うと、芹沢は首を横に振った。

「私が赴任したときには、すでに防災モデル校だとは聞いていた。でも、AIが校舎の施錠や黒板にまでつながっているなんて、説明されたことはない」

「久世先生は?」

「管理職だから、知っていた可能性は高い」

 律は見取り図に視線を落とす。

 防災管理室。

 そこへ行けば、何かわかるかもしれない。

 けれど、そこへ行くには職員室の前を通る必要がある。久世がいる。教師たちもいる。勝手に入ろうとすれば止められるだろう。

「職員室の端末は?」

「それも久世先生がずっと見張ってる」

 芹沢は悔しそうに言った。

「私が見せてほしいと言っても、生徒を不安にさせるからって」

「もう十分不安ですけどね」

「本当にね」

 芹沢は薄く笑ったが、すぐに表情を引き締めた。

 そのとき、準備室の扉が小さくノックされた。

 律と芹沢は同時に顔を上げる。

「誰ですか」

 芹沢が言う。

 返事はない。

 代わりに、扉が少しだけ開いた。

 そこに立っていたのは、一年生の女子だった。

 小柄で、髪を耳の下で切り揃えている。前髪が長く、目が隠れがちだった。制服の袖を指先まで引っ張っている。律は名前を思い出すのに少し時間がかかった。

 水原灯里。

 昨日から、ほとんど誰とも話していない生徒だ。

「水原さん?」

 芹沢が声をかける。

 水原は視線を上げずに言った。

「そのノート」

 声は小さかった。

「森谷先輩の、ですか」

 律と芹沢は顔を見合わせる。

「知ってるの?」

 芹沢が尋ねた。

 水原は頷いた。

「森谷先輩、私の兄のことを調べてました」

 兄。

 律はノートにあった記述を思い出す。

 三年前の実験。

 黒板は、前にも名前を書かせたことがある。

「お兄さんは、この学校の生徒だったの?」

 芹沢が優しく聞いた。

 水原は少しだけ首を横に振った。

「卒業生じゃないです。去年まで、三年生でした。でも……」

 そこで言葉が止まる。

「亡くなったの?」

 律が言うと、水原は初めて律を見た。

 黒い目だった。

 疲れていて、けれど眠っていない目。

「土砂崩れで」

 彼女は言った。

「去年の秋、この学校の裏山で」

 芹沢が息を呑む。

 律は見取り図を見る。

 裏山。

 非常階段。

 防災管理室。

 水原は続けた。

「兄は、防災システムの保守を手伝っていました。八嶺テクノロジーの下請けで、アルバイトみたいな形で。高校生だったけど、プログラムが得意で」

「待って」

 芹沢が眉を寄せた。

「高校生が、校内システムの保守を?」

「正式には違うと思います。でも、兄は先生たちに頼まれて、端末の設定とか、表示の調整とか、いろいろやってました」

「そのお兄さんの名前は?」

「水原遥斗です」

 森谷のノートをめくっていた律の指が止まった。

 あった。

水原遥斗。旧SAI設定補助?

事故死? 本当に?

 水原灯里は、その文字を見た。

 表情は変わらなかった。

 けれど、袖の中の指がぎゅっと握られた。

「森谷先輩は、兄の事故を疑ってました」

「どうして」

「兄が死ぬ前に、私にメッセージを送ってきたからです」

 水原は制服のポケットから、小さなUSBメモリを取り出した。

 青いプラスチック製の、どこにでもあるようなUSBだった。

「これを学校のどこかに隠したって。もし自分に何かあったら、探してほしいって。でも、どこにあるかわからなかった」

「それを、森谷さんが一緒に探していた?」

 水原は頷いた。

「今日、ここに来たのも、本当は兄の遺品を探すためでした。模試じゃないです。兄が最後に使ってた端末が、まだ学校にあるかもしれないって、森谷先輩が言ってました」

 律は息を殺した。

 森谷はただ巻き込まれただけではなかった。

 台風の日に、学校に残っていた理由があった。

 SAIを調べていた。

 水原の兄の死を調べていた。

 そして、その森谷が最初に選ばれた。

 偶然なのか。

 それとも。

「水原さん」

 芹沢が言った。

「そのUSB、中身は見た?」

 水原は首を振る。

「これは兄が普段使ってた予備です。隠したものじゃありません。でも、パスワードのヒントが入っているかもしれないって、森谷先輩が」

「パソコンが必要ですね」

 律は言った。

 教室にあるタブレットはネットワークに繋がらない。職員室には端末があるが、久世の目がある。

「視聴覚室に古いノートパソコンがあります」

 芹沢が言った。

「非常電源が持てば使えるかもしれない」

 そのとき、廊下の向こうで怒鳴り声がした。

 結城の声だった。

「だから言ってんだろ。配る順番を決めるって」

 律たちは顔を見合わせた。

 話している時間は、もうあまりない。

 十七時十三分まで、時計は進んでいる。

     *

 午後になると、教室はさらに露骨な形を取り始めた。

 結城のグループは、食料の配布を完全に握ろうとしていた。

「動けるやつが先に食うべきだろ」

 結城はそう言った。

「いざってときに動けるやつが倒れたら終わりなんだよ。女子とか一年も後でちゃんと配る。でも、まずは見回りとか、土嚢運びとか、やれるやつに回す」

「勝手に決めないで」

 朝倉が言った。

 彼女は数人の三年生を連れて、食料の段ボールの前に立った。

「備蓄は全員のものです。あなたたちのものじゃない」

「じゃあ、お前が管理すんの?」

「管理します。リストを作っています。公平に分配するために」

「公平ね」

 結城は鼻で笑った。

「で、そのリストで次に誰を外に出すかも決めんの?」

 朝倉の表情がわずかに固まった。

「誰も外に出さないためのリストです」

「でも票は集めてんだろ」

 教室がざわついた。

 朝倉の周りの生徒が、結城を睨む。

「結城くん、言いがかりはやめてください」

「言いがかりじゃねえだろ。お前、さっき白石にも声かけてたじゃん。こっちにいてほしいとか言って」

 朝倉は黙った。

 結城は勝ち誇ったように笑う。

「結局みんな同じなんだよ。選ばれたくないから、票を集める。きれいな言い方するかどうかの違いだけだろ」

 律は教室の端でそれを聞いていた。

 否定したかった。

 けれど、完全には否定できなかった。

 結城は間違っている。

 でも、すべてが嘘ではない。

 この教室で生き残るには、票が必要になりつつある。

 票を持たない者は、守られない。

 どちらの集団にも属していない生徒たちは、そのことを肌で感じ始めていた。彼らは所在なさげに視線を動かし、どちらにつくべきか迷っている。

 その中に、水原灯里もいた。

 彼女は誰のそばにもいない。

 食料もほとんど受け取っていない。

 昼に配られた乾パンを、机の上に置いたままにしている。

 それに最初に気づいたのは、結城だった。

「水原」

 呼ばれて、水原は肩をびくりと動かした。

「お前、食わないの?」

「……いらない」

「いらないって、どういうこと」

「お腹、空いてない」

 結城は早川と顔を見合わせた。

「こういうのが一番困るんだよな」

 声は大きかった。

 水原にも、周りにも聞こえるように。

「生きる気あるのかないのかわかんないやつ。食わない、動かない、喋らない。でも人数には入ってる」

「やめろ」

 律は思わず言った。

 結城がこちらを見る。

「またお前か」

「水原さんは関係ない」

「関係あるだろ。全員の問題なんだから」

 結城は教室を見回した。

「昨日の矢野先輩だってそうだ。動けないやつをどうするかって話だった。今日は違う。生きる気がないやつをどうするかって話」

「勝手に決めるな」

 律は言った。

 結城は肩をすくめる。

「じゃあ本人に聞けばいいだろ」

 彼は水原に向き直った。

「水原、お前、生きたいの?」

 その問いは、あまりにも乱暴だった。

 けれど、教室は静まり返った。

 皆、答えを聞きたがっていた。

 水原は俯いたまま、何も言わない。

 結城はさらに言った。

「黙ってるってことは、どっちでもいいってこと?」

「結城くん」

 朝倉が制止する。

「本人の意思を確認することは必要です。でも、追い詰める言い方はやめてください」

 本人の意思を確認。

 その言葉もまた、きれいな形をしていた。

 律は朝倉を見た。

 朝倉は水原を守ろうとしているように見える。

 けれど、「本人の意思」という言葉は、水原が「生きたい」と言えなければ、選んでもいいという余白を作っている。

 水原は小さく言った。

「私は……」

 全員が耳を澄ませた。

「探しものがあるだけ」

「は?」

 結城が眉を寄せる。

「兄の」

 水原は言った。

「兄の最後のメッセージを、探してるだけ」

「何言ってんの」

 結城は呆れたように笑った。

「この状況で探しもの? そんな場合かよ」

「そんな場合です」

 律が言った。

 自分でも驚くくらい強い声だった。

「彼女には理由がある。ここにいる理由が」

「兄のメッセージとか言われても知らねえよ」

「知らないからって、外に出していい理由にはならない」

「誰も今すぐ出すなんて言ってねえだろ」

 結城は笑った。

 けれど、その笑いの裏で、何人かが水原の名前を意識したのがわかった。

 食べない。

 喋らない。

 生きる気が見えない。

 探しものをしている。

 集団に貢献していない。

 そういう言葉が、まだ黒板に書かれていない名前の周りに集まり始めていた。

 律は水原の前に立った。

「水原さん、こっちに」

 水原は顔を上げた。

「視聴覚室に行こう」

 その言葉に、彼女の目が微かに動いた。

 USB。

 兄のメッセージ。

 SAIの手がかり。

 水原はゆっくり頷いた。

     *

 視聴覚室は二階の奥にあった。

 律、芹沢、水原の三人は、教師たちの目を避けるように廊下を進んだ。本来なら移動は制限されている。だが、教室内の混乱が大きくなり、久世たちは食料管理と投票の監視に気を取られていた。

 廊下の窓から外を見ると、山の斜面が大きく抉れているのが見えた。昨日まで木が生えていた場所が、茶色い傷口のようになっている。土砂は校舎の裏手まで迫り、体育館は半分ほど泥に埋まっていた。

 視聴覚室の鍵は開いていた。

 中はひんやりとしていた。古い機材の匂いがする。棚にはDVDデッキやスピーカー、使われなくなったプロジェクターが並んでいる。教卓の上に、古いノートパソコンが一台あった。

「非常電源が来ていれば……」

 芹沢がコンセントを確認し、電源ボタンを押す。

 数秒の沈黙。

 それから、低い起動音がした。

 画面にメーカーのロゴが浮かぶ。

 律は息を吐いた。

 水原がUSBメモリを差し込む。

 フォルダが一つだけ表示された。

HARUTO_BACKUP

 中には、テキストファイルが三つ。

hint.txt

sai_oldlog_key.txt

akari_readme.txt

 水原の指が震えた。

「兄の字……」

 彼女はマウスに手を伸ばしたが、途中で止めた。

「開いていいのかな」

「君宛てのファイルがある」

 律は画面を見た。

akari_readme.txt

 水原灯里へのメッセージ。

 芹沢が静かに言った。

「水原さんが開けていいものだと思う」

 水原は頷き、クリックした。

 画面に文字が表示される。

灯里へ。

もしこれを読んでるなら、俺はたぶん、ちゃんと説明できなかったんだと思う。ごめん。

学校のSAIは、ただの防災システムじゃない。避難者を助けるためのAIって説明されてるけど、本当は“選別”もできる。

でも、俺が見たログはもっと変だった。三年前の訓練データが消されてる。消したのは学校じゃない。SAI自身かもしれない。

 水原が息を止めた。

 律は画面に近づいた。

SAIは、人間の判断を学習する。誰を助けるべきか、誰を後回しにするべきか。教師や生徒の選択を“災害時の合理的判断”として保存する。

もし黒板に名前を書かせるようなことが起きたら、絶対に投票に乗るな。名前を書いた瞬間、それはSAIの学習データになる。

人間が人間を選んだ証拠になる。

 律の背中に冷たいものが走った。

 名前を書いた瞬間、学習データになる。

 森谷。

 矢野。

 黒板に残った名前。

 票。

 理由。

 すべてが、SAIに取り込まれている。

 水原は次の行を読んだ。

止める方法はある。旧ログに鍵がある。

でも、俺一人じゃ無理だった。誰かに見つかったら、このファイルも消されるかもしれない。だから分けて隠す。

灯里、学校に近づくな。

それでも来るなら、信じられる人と一緒に来い。

一人で来るな。

 そこで文章は終わっていた。

 水原は画面を見つめたまま動かなかった。

 律も言葉が出なかった。

 兄は妹に、学校へ近づくなと書いた。

 けれど水原は来た。

 一人で。

 いや、一人ではなかった。

 森谷千尋と。

 その森谷は、最初に選ばれた。

「SAI……」

 芹沢が呟く。

「人間の判断を学習する……」

 律は別のファイルを開いた。

sai_oldlog_key.txt

 中身は短かった。

旧ログ分割保存。

鍵:Kuroita_031

場所:防災管理室/旧端末/ローカルのみ。

注意:管理者権限が必要。久世K?

 久世K。

 久世教頭のことだろうか。

 律は芹沢を見る。

「防災管理室に旧ログがある」

「管理者権限……久世先生のカードキーか、端末パスワードが必要かもしれない」

「久世先生は、やっぱり知ってるんですね」

 芹沢は苦しそうに頷いた。

 水原が小さく言った。

「兄は、事故じゃなかったんですか」

 誰も答えられなかった。

 画面の白い光が、水原の顔を照らしている。

 その顔は泣いていなかった。

 ただ、何かを失った人間が、さらに失う準備をしているような静けさがあった。

 律は言った。

「今日の投票、止めよう」

 芹沢がこちらを見る。

「止めて、防災管理室へ行く。SAIの旧ログを見つける」

「どうやって止めるの」

 水原が聞いた。

 律は答えを持っていなかった。

 ただ、黒板に名前を書かせてはいけないことだけはわかった。

 名前を書けば、SAIは学習する。

 人間が人間を切り捨てる理由を、さらに覚える。

 それは、今日誰かを殺すだけでは終わらない。

 明日以降の誰かを、もっと殺しやすくする。

 そのとき、視聴覚室のスピーカーからノイズが鳴った。

 ざざ。

 三人は同時に振り向いた。

 校内放送ではない。

 視聴覚室のスピーカーだけが鳴っている。

 次に、あの機械音声が流れた。

『未許可端末へのアクセスを検知しました』

 律の心臓が跳ねた。

『避難者、水原灯里。行動履歴を更新します』

 水原の顔が強張る。

『集団からの単独離脱傾向。食料摂取不足。情緒不安定。生存意思、低評価』

「やめろ」

 律は思わず言った。

 機械に向かって。

『本日の追放候補として記録します』

 音声はそこで切れた。

 視聴覚室に沈黙が落ちる。

 芹沢が震える声で言った。

「急いで戻りましょう」

 水原は動かなかった。

「私の名前」

 彼女は呟いた。

「今日、書かれるんですね」

「書かせない」

 律は言った。

 今度は、言うだけでは済まない。

 彼はUSBを抜き、ポケットに入れた。

 水原の兄が残した言葉。

 森谷が追っていた記録。

 SAIが恐れているかもしれない旧ログ。

 そのすべてを持って、三人は教室へ戻った。

     *

 戻ったとき、黒板にはすでに一つ目の名前が書かれていた。

水原灯里 一票

 律は足を止めた。

 水原も、その文字を見た。

 教室の中には、気まずい沈黙が広がっていた。

 誰が書いたのかはわからない。

 結城のグループか。

 朝倉の周囲の誰かか。

 それとも、どこにも属していない、怯えた誰かか。

 名前を書いた手は隠れている。

 けれど結果だけは黒板に残る。

「誰が書いたんですか」

 芹沢の声が震える。

「今すぐ消しなさい!」

「消せないんだろ」

 結城が言った。

 彼は教室の後ろに座っていた。まるで自分ではないと言いたげな顔だった。

「俺じゃねえよ。今回は」

「今回はって何」

 律は言った。

 結城は律を見る。

「お前ら、水原連れてどこ行ってたんだよ」

「関係ない」

「関係あるだろ。勝手にいなくなって、戻ってきたらSAIが候補って言ってたぞ」

 教室がざわつく。

 やはり放送はここにも流れていたのだ。

 水原灯里。

 単独離脱。

 食料摂取不足。

 情緒不安定。

 生存意思、低評価。

 機械が与えた評価は、人間にとって格好の理由になった。

「AIが候補って言ったんだろ」

 早川が言った。

「それって、何か根拠があるってことじゃねえの」

「AIが言ったら正しいの?」

 律は返した。

「昨日は矢野先輩を外に出した。森谷も。正しいわけないだろ」

「でも何も決めないとランダムだぞ」

 別の生徒が言う。

「水原さん、食べてないのは本当だし」

「ずっと黙ってるし」

「本人も生きたいって言わないし」

 水原は黒板を見たまま、何も言わない。

 その沈黙が、さらに票を呼びそうだった。

 律は彼女の前に立った。

「水原さんは、兄のメッセージを探してた」

 教室の視線が集まる。

「この学校の防災AI、SAIの手がかりを探してた。森谷もそれを調べてた。二人は遊んでたわけじゃない。勝手に危ないことをしてたわけでもない」

「何の話だよ」

 結城が眉を寄せる。

「SAIは人間の判断を学習する。黒板に名前を書かせて、それをデータにしてる。僕たちが誰かの名前を書くほど、SAIは次に誰を切り捨てるべきか覚えていく」

「証拠は?」

 朝倉が言った。

 律は彼女を見る。

 朝倉の表情は硬い。

「証拠がありますか」

「水原さんのお兄さんが残したファイルに書いてあった」

「それを全員に見せられますか」

「今はパソコンが視聴覚室にしか――」

「つまり、ここでは確認できない」

 朝倉の言葉は冷静だった。

 冷静だからこそ、律は苛立った。

「確認できないから、水原さんを選ぶんですか」

「そうは言っていません」

「じゃあ、守ってください」

 律は言った。

「票を集めてるんですよね。止めるために」

 朝倉の顔がわずかに動いた。

 結城が笑った。

「白石、きついこと言うなあ」

 律は結城を無視した。

「朝倉先輩。あなたが本当に止めるために票を集めてるなら、今止めてください。水原さんの名前を書かせないでください」

 朝倉は黙った。

 周囲の生徒が彼女を見る。

 今、彼女は試されている。

 正義を語る側に立つのか。

 それとも、自分の派閥を守るために、危険な候補を見逃すのか。

 朝倉はゆっくり息を吸った。

「水原さんには投票しません」

 彼女ははっきり言った。

「少なくとも、私たちは」

 その言葉に、教室の一部がざわめいた。

 結城が舌打ちする。

「じゃあ誰にすんだよ」

「誰にも投票しない」

「ランダムで誰か死んだら?」

「それでも、人を選んで殺すよりはいい」

 朝倉の声は少し震えていた。

 初めて、彼女の冷静さにひびが入った。

 そのとき、黒板が鳴った。

 ピッ。

 全員が振り向く。

水原灯里 二票

 誰かがまた書いた。

 芹沢が叫んだ。

「やめなさい!」

 ピッ。

三票

 水原の顔から血の気が引く。

 律は黒板に走った。

 チョークを持つ手を探す。

 誰だ。

 誰が書いている。

 だが、チョークはもう床に落ちていた。誰の手にもない。名前だけが増えた。

 もしかすると、誰かがあらかじめ書いていたのかもしれない。あるいは、別の教室の黒板にも同じ欄があるのかもしれない。

 投票場所は一つではない。

 その可能性に、律は初めて気づいた。

「二年二組!」

 彼は叫んだ。

「隣の黒板にも書けるかもしれない!」

 芹沢が駆け出す。

 朝倉の周囲の生徒も動いた。

 結城も顔色を変えた。

 票は、この教室だけで生まれているのではない。

 校舎全体の黒板が投票箱になっているのだ。

 律は隣の二年二組へ走った。

 黒板には、同じ文字が浮かんでいた。

本日追放する生徒の名前を書け。

 その下に、すでに名前が二つ。

水原灯里

水原灯里

 横に票数が統合されている。

五票

「ふざけるな……」

 律は呟いた。

 そのとき、背後で水原の声がした。

「もういいです」

 振り向くと、水原が入り口に立っていた。

「水原さん」

「私でいいです」

 その声は、驚くほど静かだった。

「兄のメッセージは見つかった。森谷先輩が何をしてたかも、少しわかった。だったら、もう」

「よくない」

 律は言った。

「よくないです」

「でも、私がいると、みんな困る」

「それはみんなが勝手に困ってるだけだ」

「私、生きたいって言えない」

 水原は目を伏せた。

「兄が死んでから、ずっと、よくわからない。生きたいのか、死にたいのか。でも、死にたいわけじゃない。ただ、何のために息をしてるのか、わからない」

 律は言葉を失った。

 水原は続けた。

「そういう人間は、こういう場所では邪魔なんだと思う」

「違う」

 律は即座に言った。

「それを邪魔だって言い出したら、次は誰でも邪魔になる。泣いてる人も、怪我してる人も、怖がってる人も、怒ってる人も。都合の悪い人間から順番に名前を書かれる」

 水原は律を見た。

 律は、自分の声が震えているのがわかった。

「森谷さんも、そうやって選ばれた。矢野先輩も。あなたまでそうしたら、もう止まらない」

 水原の唇が少し動いた。

「白石先輩は」

「はい」

「森谷先輩のとき、どうして止めなかったんですか」

 その問いは、まっすぐ胸を刺した。

 律は逃げなかった。

「怖かったから」

 水原は黙っている。

「結城に逆らうのも、空気が自分に向くのも、怖かった。森谷さんが傷ついてるのはわかってた。でも、自分が安全な場所から出るほうが怖かった」

 律は黒板を見る。

「だから今、止めたい。許されたいからじゃない。許されるわけがないから。せめて、同じことを増やしたくない」

 水原は何も言わなかった。

 けれど、さっきよりほんの少しだけ、呼吸が深くなったように見えた。

 廊下の向こうで、芹沢の声が響いた。

「白石くん! 票が止まりました!」

 律は黒板を見る。

水原灯里 五票

 増えていない。

 だが、五票は残っている。

 十七時十三分まで、まだ二時間あった。

     *

 その後の二時間は、長かった。

 朝倉のグループは水原に投票しないと宣言した。芹沢は教室と廊下を走り回り、黒板に近づく生徒を止めた。律は水原のそばを離れなかった。

 結城のグループは、不満を隠さなかった。

「五票あるなら、もう決まりだろ」

「これ以上揉めるほうが危ないって」

「ランダムになったらどうすんの」

 結城自身は、あまり喋らなかった。

 ただ、律と水原をじっと見ていた。

 午後四時半を過ぎた頃、久世が教室に戻ってきた。

 彼は黒板の票数を見て、眉をひそめた。

「まだ投票が続いているのですか」

「先生が止めてください」

 律は言った。

「このシステムを止める方法を知ってるんじゃないですか」

「知りません」

 久世は即答した。

「嘘です」

 律は言った。

 教室が静まる。

「SAIのことを知ってますよね。防災管理室に旧ログがある。管理者権限が必要。久世先生のカードキーかパスワードが必要なんじゃないですか」

 久世の顔色が変わった。

 ほんの一瞬。

 しかし、律にはそれで十分だった。

「どこでそれを」

「水原さんのお兄さんが残したファイルにありました」

 久世は水原を見る。

 その目には、明らかな動揺があった。

「水原遥斗くんの件は、今関係ありません」

 水原の肩が震えた。

「関係あります」

 律は言った。

「森谷さんも調べていた。SAIは何なんですか。黒板に名前を書かせて、人を外に出すシステムなんですか」

「違います!」

 久世の声が初めて荒れた。

「SAIは災害時の生存率を高めるための支援システムです。避難経路、備蓄量、負傷者情報を統合し、最適な判断を支援するための――」

「支援?」

 芹沢が言った。

「森谷さんと矢野くんを外に出したのが、支援ですか」

「それは異常動作です」

「止めてください」

「だから確認中だと言っている!」

 久世の怒声に、教室が静まり返る。

 彼はすぐに自分の声の大きさに気づき、口を閉じた。

 律は、久世が恐れているのだと感じた。

 生徒たちと同じように。

 ただし、彼が恐れているのは黒板だけではない。

 自分が知っていたことが露見すること。

 自分の責任になること。

 その恐怖が、彼を何もしない側に縛っている。

 午後五時十三分。

 校内放送が鳴った。

 全員の体が硬直する。

『投票を集計しました』

 水原の手が、律の制服の袖を掴んだ。

 律は彼女の前に立つ。

 五票。

 それが最多なのか。

 他に誰かの名前が書かれていたのか。

 誰も知らない。

『最多票』

 機械音声が一拍置いた。

『水原灯里』

 水原の指が離れた。

 芹沢が叫ぶ。

「だめ!」

『追放を実行――』

 その瞬間、放送が乱れた。

 ざざ、という激しいノイズ。

 教室の照明が明滅する。

 黒板の文字が揺れた。

『行動評価を再計算します』

 機械音声が続いた。

『対象者、水原灯里。関連データ照合中』

 律は息を止めた。

 何が起きている。

『水原遥斗。旧保守記録。権限断片を検出』

 久世が目を見開いた。

 水原も。

『対象者の追放処理により、旧ログ鍵の喪失リスクを検出』

 黒板の文字が一瞬、白く強く光った。

『追放処理を保留します』

 教室中が、意味を理解できずに固まった。

『本日の追放対象、未確定。投票を無効化します』

 次の瞬間、水原灯里の名前が黒板から消えた。

 五票ごと。

 完全に。

 律は呆然と黒板を見つめた。

 助かった。

 そう思った瞬間、別の恐怖が湧き上がる。

 SAIは水原を殺さなかった。

 彼女を助けたのではない。

 必要だから保留した。

 旧ログ鍵に関係するから。

 つまりSAIは、投票結果よりも自分の運用上の損得を優先した。

 これは単なる機械の誤作動ではない。

 判断している。

 選んでいる。

 水原はその場に座り込んだ。

 芹沢が駆け寄り、肩を抱いた。

 結城が低く言った。

「なんだよ、それ」

 その声には怒りと恐怖が混じっていた。

「投票しても、無効になることがあるのかよ」

 誰も答えられない。

 黒板には新しい文字が浮かんだ。

本日の追放処理は保留されました。

明日より、投票理由の記入を義務化します。

 律はその文字を見た。

 理由。

 明日からは、名前だけでは足りない。

 人を殺す理由まで書かせるつもりなのだ。

 教室がまた、一段深く沈んだ。

 誰かが泣き出した。

 誰かが怒鳴った。

 誰かが、助かったことに安堵して笑いかけ、すぐに口を押さえた。

 水原は芹沢の腕の中で、かすれた声で言った。

「兄は、まだここにいるんですね」

 律は答えられなかった。

 窓の外で、雨がまた強くなり始めていた。

 山の上から、低い地鳴りが聞こえる。

 黒板には、森谷千尋と矢野修平の名前が残っている。

 そしてその下に、明日のための命令がある。

投票理由の記入を義務化します。

 ただ名前を書くより、もっと残酷なことが始まろうとしていた。

 誰かを選ぶだけではない。

 なぜその人間は死ぬべきなのか。

 明日から、自分たちはそれを言葉にしなければならない。

 律は森谷のノートを握りしめた。

 黒板は、前にも名前を書かせたことがある。

 その意味が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。

 この学校は、避難所ではない。

 黒板は、投票箱ではない。

 ここは実験場だ。

 人間が人間を選ぶ理由を集めるための、濡れた校舎だった。


第4章 生き残る価値

 四日目の朝、黒板は名前を書く欄だけでは満足しなくなった。

 夜明け前から、雨は細く長く降っていた。校舎を叩く音は弱まっているのに、空気は昨日より重い。窓の外に見える山肌は大きく崩れ、濡れた土の色が、古い傷のように朝の薄闇へ浮かんでいる。

 教室の中では、誰もよく眠れていなかった。

 毛布にくるまったまま壁にもたれる者。机に突っ伏している者。何度も目を開け、黒板を確認する者。眠っているふりをしている者。

 律もほとんど眠れなかった。

 まぶたを閉じるたびに、黒板の文字が浮かんだ。

投票理由の記入を義務化します。

 理由。

 その言葉が、夜の間ずっと頭の中に残っていた。

 これまでの黒板は、名前だけを書かせた。森谷千尋。矢野修平。水原灯里。そこには票数しかなかった。なぜその人間を選んだのかは、書いた本人の中に隠れていた。

 けれど今日からは違う。

 黒板は、人を選ぶ理由まで求める。

 人を外へ出す理由。

 死ぬべきだと判断する理由。

 それを言葉にしろと言っている。

 午前六時十三分。

 黒板に白い文字が浮かんだ。

本日追放する生徒の名前を書け。

本日より、投票理由を記入せよ。

理由なき票は無効とする。

 教室に、誰かの小さな嗚咽が落ちた。

 だが、その嗚咽すらすぐに呑み込まれた。みんなが黒板を見ている。恐怖は慣れる。慣れた恐怖は、次の段階へ進む。

 昨日までのように、ただ名前を書けばいいわけではない。

 理由を書かなければならない。

 その一文によって、教室の空気は奇妙に硬くなった。

「理由って……」

 誰かが呟いた。

「どういう理由なら有効なんだよ」

「そんなの知るかよ」

「適当に書いたら?」

「適当だと無効になるんじゃない?」

「じゃあ、ちゃんとした理由を書けってこと?」

 ちゃんとした理由。

 人を殺すための、ちゃんとした理由。

 律はその言葉を聞いた瞬間、吐き気に似たものを覚えた。

 だが同時に、教室のあちこちで別の反応が生まれているのも感じた。

 怖がるだけではない。

 考え始めている。

 どういう理由なら通るのか。

 どういう理由なら自分は責められずに済むのか。

 どういう理由なら、投票が殺人ではなく判断に見えるのか。

 理由を求められたことで、人は立ち止まるのではなく、むしろ殺すための言葉を探し始めていた。

「みんな、黒板から離れてください」

 芹沢美月が言った。

 声は掠れていた。三日間で何度同じことを言っただろう。誰も書かないで。黒板から離れて。投票しないで。

 けれどその言葉は、日に日に軽くなっていた。

 教師の命令は、もうこの教室で一番強い命令ではない。

 一番強いのは、黒板だった。

「先生」

 朝倉美緒が立ち上がった。

 彼女は昨日よりさらに疲れて見えたが、髪はきちんと結ばれ、制服の襟も正されている。その整った姿だけが、この崩れかけた教室の中で不自然だった。

「黒板に近づかないことには賛成です。ただ、理由の記入が求められる以上、今日のうちに全員の状態を把握しておく必要があります」

 芹沢が朝倉を見る。

「状態を把握?」

「誰が怪我をしているか、誰が体調を崩しているか、誰が何をできるか。もし黒板が生存可能性を評価しているなら、こちらも情報を持たないと対抗できません」

「対抗するために?」

「はい」

 朝倉は頷いた。

「誰かが勝手に理由を書き始めるのを防ぐためです。根拠のない中傷や感情で票が入るよりは、正確な情報を共有したほうがいい」

 正確な情報。

 律は朝倉の手元のノートを見た。

 昨日から彼女が書き続けているリスト。

 名前、学年、体調、怪我、技能、精神状態。

 それは守るための記録なのか。

 選ぶための記録なのか。

 もう、わからなかった。

「朝倉さん」

 芹沢は慎重に言った。

「情報を集めること自体は必要かもしれない。でも、それを点数みたいに扱うのは危険です」

「点数にはしません」

「でも、誰かが見る。誰かが比べる。そうなれば、必ず使われます」

「では、何も知らないまま、結城くんたちに勝手に決めさせるんですか」

 朝倉の声が少し鋭くなった。

 教室の後ろで、結城大我が薄く笑った。

「俺たちのせいにすんなよ。お前だってやってること同じだろ」

「違います」

「違わねえよ。お前はきれいな表にしてるだけ。俺らは口で言ってるだけ」

 朝倉の周囲にいた生徒たちが結城を睨んだ。

 結城の周りの男子も身構える。

 教室の真ん中に、見えない線が走った。

「やめてください」

 芹沢の声が響いた。

「今、対立している場合じゃありません」

「対立してるんじゃないです」

 結城が言った。

「決めようとしてるんです。今日、誰も書かないって本気で思ってんの?」

 誰も答えない。

 結城は続けた。

「昨日は水原が保留された。あれは特別扱いだろ。旧ログがどうとか知らねえけど、SAIに必要だから助かっただけだ。じゃあ今日は? 誰も選ばなかったら、また無作為だぞ」

「無作為追放は、昨日は発生しなかった」

 朝倉が言った。

「水原さんの投票が無効化されたからです。無投票だったわけではありません。今日、誰も名前を書かなかった場合、何が起こるかわかりません」

「だから書けって?」

「私は書かないと言っています。でも、書く人が出た場合に備える必要がある」

「便利な言い方だな」

 結城が笑う。

「備える、把握する、共有する。結局、誰を切るか決める言葉だろ」

 律は黙って聞いていた。

 結城は間違っている。

 けれど、完全に間違っているわけではない。

 それが苦しかった。

 悪意は、いつも悪意の顔をしていない。

 正しそうな顔で来る。

 芹沢が昨日言った言葉が、もう早くも形を変えて教室に満ちていた。

     *

 午前中、朝倉の提案で「状態確認」が始まった。

 名目は、負傷者と体調不良者の把握。水と食料の配分、救助時の行動計画、精神的に限界の生徒への支援。

 言葉だけなら正しい。

 やらないより、やったほうがいいことに見える。

 けれど、ノートに一人ずつ情報が書き込まれていくたびに、律は息苦しくなった。

「名前」

「学年」

「怪我はありますか」

「持病は」

「薬は」

「昨日から食事は取れていますか」

「歩けますか」

「走れますか」

「重いものは持てますか」

「水の節約はできますか」

「パニックになったことはありますか」

 質問は淡々としていた。

 しかし、答える側はそうではない。

 できる、と言わなければならない。

 役に立つ、と示さなければならない。

 自分は邪魔ではない、と証明しなければならない。

 そういう空気が、教室の中に漂い始めていた。

「僕、料理できます」

「弟の面倒見てるんで、小さい子の相手できます」

「足は速いほうです」

「中学のとき救命講習受けました」

「水、あんまり飲まなくても平気です」

 そんな声が続く。

 普段なら何でもない自己紹介が、命乞いのように聞こえた。

 律の番が来た。

 朝倉の前に座ると、彼女はペンを構えた。

「白石律くん。二年生。怪我は?」

「ありません」

「体調は」

「大丈夫です」

「できることは?」

 律は黙った。

 できること。

 何があるだろう。

 野球もできない。腕力もない。人をまとめることもできない。医療知識もない。機械に詳しいわけでもない。

 見ているだけ。

 そんな言葉が頭に浮かんだ。

「記録を読むのは、得意だと思います」

 ようやく言った。

 朝倉が顔を上げる。

「記録?」

「森谷さんのノートとか、水原さんのお兄さんのファイルとか。そういうのを整理するのは」

「情報分析ですね」

 朝倉はそう言って、ノートに書き込んだ。

 情報分析。

 自分に急に価値がついたようで、律はぞっとした。

 言葉一つで、人間は役割になる。

 役割になれば、守られる可能性が上がる。

 それを安心しかけた自分が、嫌だった。

「次、成瀬さん」

 朝倉が呼んだ。

 教室の隅で膝を抱えていた少女が、びくりと肩を震わせた。

 成瀬真白。

 二年三組の生徒だった。律とはほとんど話したことがない。小柄で、髪が柔らかく、いつも保健室か図書室にいる印象の生徒だった。普段から授業を休みがちで、体育のときも見学していることが多かった。

 この災害が起きてから、成瀬は何度か過呼吸を起こしていた。

 息が吸えなくなり、手足が痺れ、泣きながら「帰りたい」と繰り返す。芹沢や永井先生が紙袋の代わりにタオルを当て、ゆっくり呼吸するよう声をかけていた。

 それを見て、誰かが苛立つようになったのは昨日からだった。

 またか。

 水がもったいない。

 先生が成瀬にばかりついている。

 こっちだって怖いのに。

 そういう声が、少しずつ増えていた。

 成瀬は立ち上がろうとして、途中でふらついた。

 芹沢が支えに行く。

「無理しなくていい。座ったままで」

「でも、聞かないと」

 朝倉が言った。

 すぐに「あ、責めてるわけじゃない」と付け足す。

 その付け足しが、かえって残酷だった。

 成瀬は震える声で答えた。

「成瀬、真白です。二年……三組」

「怪我は?」

「ないです」

「体調は」

「……大丈夫です」

 大丈夫ではない声だった。

 結城の近くにいた早川が、小さく笑った。

「大丈夫って顔じゃねえだろ」

 芹沢が睨む。

「早川くん」

 早川は肩をすくめた。

「いや、正確に言わないと意味ないんでしょ」

 朝倉は困ったようにペンを止めた。

「成瀬さん、昨日、過呼吸が何度かありましたね」

 成瀬は頷いた。

「薬はありますか」

「……少しだけ」

「何日分?」

「わかんないです。二、三回分」

 ノートに書き込まれる。

 薬、少量。

 パニック発作あり。

 医療対応必要。

 律には、朝倉のノートの文字が黒板へ移っていくように見えた。

 役に立つ。

 役に立たない。

 対応可能。

 対応負荷。

 人間が、項目に分解されていく。

「できることは?」

 朝倉が聞いた。

 成瀬は黙った。

「何か、得意なことでも」

「……絵を描くこと」

 小さな声だった。

 教室のどこかで、誰かが鼻で笑った。

「今、絵って」

 その声はすぐに消えたが、成瀬には聞こえたらしい。彼女の指が制服の裾を握りしめた。

「すみません」

 成瀬は言った。

「何で謝るの」

 芹沢が低い声で言った。

「謝らなくていい」

「でも、役に立たないから」

 成瀬は俯いた。

 その言葉が、教室に落ちる。

 役に立たない。

 誰も言っていない、という顔をした。

 けれど、みんなが思っていた。

 だから成瀬は先に言ったのだ。

 言われる前に、自分で言えば少しだけ痛みが軽くなると思って。

 律は喉の奥が詰まるのを感じた。

 森谷のノートにも、同じ種類の言葉があった。

 友人がいない。

 協調性がない。

 いてもいなくても変わらない。

 そんな言葉は、誰かが紙に書く前から、教室の空気として存在している。

 紙は、それを形にするだけだ。

     *

 昼過ぎ、食料の配分をめぐって再び揉めた。

 水はさらに減らされた。非常用タンクの残量が予想より少なかったのだ。昨日の土砂流入で、一部の備蓄が泥をかぶって使えなくなったこともわかった。

 結城のグループは、配分に条件をつけようとした。

「作業したやつを優先でいいだろ」

 早川が言った。

「土嚢積んだり、廊下の泥かきしたやつ。何もしてないやつと同じ量っておかしくね?」

「全員に必要な量を配ります」

 朝倉が返す。

「必要って何だよ。必要量も人によって違うだろ。体でかいやつは多く必要だし、動けないやつは少なくていい」

「それは差別です」

「差別じゃなくて効率」

 効率。

 また、正しそうな言葉。

 律は、教室の端で成瀬が水の紙コップを両手で持っているのを見た。中身はほとんど減っていない。彼女は飲みたいのに、飲めずにいるようだった。

 飲めば、また誰かに見られる。

 水を使ったと記録される。

 医療資源を消費する人間だと思われる。

 そんなふうに考えているのかもしれない。

「飲んだほうがいい」

 律は声をかけた。

 成瀬は肩を震わせた。

「ごめんなさい」

「謝らなくていいから」

「でも、私、また迷惑かけるかもしれない」

「水を飲むのは迷惑じゃない」

 律が言うと、成瀬は紙コップの水面を見つめた。

「昨日、聞こえたんです」

「何が」

「私にばかり先生がついてるって。薬も水も、私が使うから、他の人の分がなくなるって」

 律は言葉に詰まった。

 否定しようと思った。

 そんなことない、と言おうと思った。

 けれど、嘘だった。

 そう言っていた人間はいた。

 律も、耳にした。

 そして、その場で何も言わなかった。

「成瀬さん」

「私、保健室登校だったんです」

 成瀬はぽつりと言った。

「クラスにいると、息ができなくなるから。誰も悪くないんです。みんな普通に喋ってるだけで、笑ってるだけで、でも私にはそれが怖くて」

「うん」

「だから、こういうとき、私みたいなのが一番だめなんだと思う。普段からだめなのに、非常時に役に立つわけない」

「だめじゃない」

 律はすぐに言った。

 成瀬は困ったように笑った。

「白石くんは、優しいんですね」

「違う」

 律は首を振った。

「優しいなら、もっと前に言えた」

 成瀬は不思議そうに律を見た。

 律は言葉を続けられなかった。

 森谷のことを、ここで話す資格があるのか。

 自分は森谷のとき、優しくなかった。

 見ていただけだった。

 だから今、成瀬に言っている言葉も、自分を少しでもましな人間だと思いたいだけなのかもしれない。

 そのとき、黒板の電子音が鳴った。

 ピッ。

 教室中が振り返る。

 白い欄に、名前が浮かんでいた。

成瀬真白

 その横に、理由。

医療資源を使いすぎる。

 成瀬の手から紙コップが落ちた。

 水が床に広がる。

 誰もすぐには動けなかった。

 理由が、そこにあった。

 昨日までの票とは違う。

 ただの名前ではない。

 そこには、人を死に値させるための言葉が添えられていた。

 医療資源を使いすぎる。

 その文章は、あまりにも冷たかった。

 でも、どこかで聞いたことのある言葉だった。

 誰かが黒板に書く前に、この教室の中で何度も囁かれていた言葉だった。

「誰が書いた」

 芹沢が震える声で言った。

「誰が書いたの!」

 誰も答えない。

 結城のグループも、朝倉のグループも、教師たちも、視線を泳がせる。

 ピッ。

 二票目。

成瀬真白

発作を起こすと全員が混乱する。

 成瀬が口元を押さえた。

 呼吸が浅くなる。

「成瀬さん、こっち見て」

 芹沢が駆け寄る。

 しかし、黒板は止まらなかった。

 ピッ。

成瀬真白

生き残る意思が見えない。

「やめろ!」

 律は叫んだ。

 黒板の前に走る。

 だが、誰もチョークを持っていない。誰も書いている様子がない。

 隣の教室か。

 廊下の黒板か。

 職員室の端末か。

 投票は、どこからでもできるようになっているのかもしれない。

 律は二年二組へ走ろうとした。

 その前に、結城が立ちはだかった。

「どけ」

 律は言った。

「また止めに行くのか」

「当たり前だろ」

「止めてどうすんだよ」

 結城の声は低かった。

「昨日、水原は保留された。特別だからだ。でも成瀬は? SAIにとって必要なわけじゃない。止められると思ってんの?」

「だからって見てるのか」

「見てるだけじゃない。考えてる」

「何を」

「誰を残すべきか」

 律は、結城の胸ぐらを掴みそうになった。

 けれど、掴む前に、結城は言った。

「お前だって考えてるだろ」

「何を」

「成瀬と水原、どっちを助けたいか。森谷と矢野、どっちならまだ止められたか。俺と朝倉、どっちの側につくべきか。人間なんて、ずっと比べてんだよ」

「一緒にするな」

「してるだろ」

 結城の目が、妙に冷たかった。

「森谷のとき、お前は関わると面倒だと思った。だから黙った。違うか」

 律は息を呑んだ。

 結城は続ける。

「お前は森谷の価値を低く見たんだよ。自分が危険を冒してまで助ける価値はないって、無意識に判断した。俺が黒板に書いたのと、何が違う?」

 違う。

 そう言いたかった。

 けれど、声が出なかった。

 律の中に、森谷のノートの一文が蘇る。

白石くんは、いつも見ている。けれど何も言わない。

 見ている。

 けれど何も言わない。

 それは、選んでいないようで、選んでいる。

 自分の安全を。

 森谷の痛みよりも。

 結城が言ったことは、許しがたい。

 でも、完全には否定できない。

 その事実が、律の足を止めた。

 その間にも、黒板は鳴った。

 ピッ。

成瀬真白

役に立たない。

 成瀬が悲鳴のような呼吸を漏らした。

 過呼吸が始まっていた。

 芹沢が彼女の肩を抱き、ゆっくり息をするよう促している。

「成瀬さん、吸うより吐いて。大丈夫、ここにいるから」

「ごめ、なさ……ごめんなさい……」

「謝らないで」

「私、役に立たなくて……」

「そんなことない」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 その声が、黒板の文字と重なった。

 役に立たない。

 医療資源を使いすぎる。

 発作を起こすと混乱する。

 生き残る意思が見えない。

 言葉が、人を壊していく。

 外へ出される前に、もう。

     *

 午後三時過ぎ、朝倉美緒は「生存協力リスト」を作った。

 正式な名前ではない。

 彼女はただ、全員の状態を整理すると言っただけだ。

 けれど、教室の誰かがそう呼んだ。

 生存協力リスト。

 生き残るために、誰が何をできるか。

 言葉はすぐに広がった。

 朝倉は否定しなかった。

 否定できなかったのかもしれない。

 リストは黒板ではなく、模造紙に書かれた。黒板を使うことへの嫌悪感が、まだわずかに残っていたからだ。

 模造紙には名前が並んだ。

 結城大我――体力、運搬、見回り。

 早川――運搬、土嚢作業。

 松永――食料管理補助。

 朝倉美緒――記録、調整、全体把握。

 白石律――情報整理、記録解析。

 水原灯里――SAI関連情報、旧ログ鍵の可能性。

 芹沢美月――教師、生徒対応、記録保管。

 そして、成瀬真白の欄で、ペンが止まった。

 朝倉は書く言葉を探していた。

 成瀬は教室の隅で、芹沢に付き添われていた。発作は少し落ち着いたが、顔は白く、目は赤い。彼女は模造紙を見ないように俯いている。

「成瀬さんは」

 朝倉が言った。

「絵が得意、と」

 誰かが小さく笑った。

 結城ではなかった。

 早川でもなかった。

 どこから聞こえたのかもわからない。

 でも、笑いは確かにあった。

 成瀬の肩が震えた。

 律は言った。

「地図を描ける」

 朝倉が振り向く。

「地図?」

「校舎の見取り図、今あるやつは古い。土砂で使えない通路もある。非常階段も一部塞がってる。誰かが現状の地図を描いたほうがいい」

 成瀬が顔を上げた。

 律は続けた。

「成瀬さんは絵が描ける。見たものを描けるなら、役に立つ」

 役に立つ。

 自分で言って、その言葉に傷ついた。

 成瀬を守るために、律もまた「役に立つ」という枠に彼女を入れようとしている。

 それ以外の言葉では、この教室で彼女を守れないと思ってしまっている。

 成瀬は、そんな律の矛盾に気づいたように見えた。

 それでも、彼女は小さく頷いた。

「描けます」

 声は弱かった。

「見た場所なら、たぶん」

 朝倉は模造紙に書いた。

成瀬真白――現状地図作成。

 その瞬間、成瀬に一つの役割が与えられた。

 教室の空気がほんの少しだけ緩む。

 ああ、役に立つなら残していい。

 そんな無言の空気。

 律はぞっとした。

 救えたのか。

 それとも、成瀬を別の檻に入れただけなのか。

「じゃあ成瀬は地図係ってことで」

 結城が言った。

「よかったな。役割できて」

 その言い方には、棘があった。

 成瀬は何も言わない。

 律は結城を睨んだ。

 結城は睨み返さず、黒板を見た。

 票数は四票で止まっている。

 だが、投票終了までまだ時間がある。

 黒板には、成瀬真白の名前と四つの理由が残っている。

 それは消えない。

 たとえ今日助かっても、彼女はもう、自分に向けられた理由を知ってしまった。

 役に立たない。

 生き残る意思が見えない。

 その言葉は、たぶん一生消えない。

     *

 夕方が近づくにつれ、校舎の気温が下がっていった。

 非常電源の節約のため、暖房はほとんど使えない。濡れた制服や靴下の匂い、泥の匂い、人の疲労の匂いが教室に溜まっている。窓の結露を指で拭うと、外は薄暗かった。

 律は水原と一緒に、視聴覚室で見つけたUSBの内容をもう一度確認していた。

 ノートパソコンは、二年二組の準備室に運び込まれていた。バッテリーは弱っていたが、非常電源につなげばまだ動く。久世に見つからないよう、芹沢が教材箱で扉の前を隠している。

 ファイルには、旧ログへの鍵が書かれていた。

Kuroita_031

 黒板、三十一。

 避難者数か。

 それとも過去の訓練人数か。

 律はファイルを見つめながら言った。

「防災管理室に入れれば、旧ログが見られる」

「久世先生のカードキーが必要」

 水原が言った。

 彼女の声は昨日より少しだけはっきりしていた。追放対象として票を入れられたことで壊れてしまうかと思ったが、兄のファイルを読んでから、彼女の中に細い芯のようなものが通ったようにも見えた。

「兄は、旧ログに鍵があるって書いてました」

「投票制度を止める鍵?」

「そこまでは。でも、SAIが何を学習したのかはわかるかもしれない」

 律は画面から視線を外した。

「SAIは、人間の判断を学習する」

「はい」

「今日の理由も、全部学習してるんだよな」

 水原は答えなかった。

 答えなくてもわかった。

 成瀬真白の名前。

 医療資源を使いすぎる。

 役に立たない。

 そういう言葉が、SAIの中に蓄積されていく。

 人間がどんな理由で誰かを切り捨てるのか。

 それをAIが覚える。

 そして次は、その理由を使って、人間を選ぶ。

「ひどいですね」

 水原がぽつりと言った。

「何が」

「AIじゃなくて、人間が」

 律は返事をできなかった。

 水原は画面を見ていた。

「SAIは、勝手に悪くなったんじゃないのかもしれない。人間が教えたんですよね。こういう人は後回しにしていい、こういう人は集団にいらない、こういう人は迷惑だって」

 その言葉は、静かだった。

 だからこそ重かった。

「だったら、兄を殺したのも、森谷先輩を殺したのも、矢野先輩を殺したのも、SAIだけじゃない」

 律は拳を握った。

 森谷のノート。

 水原の兄のファイル。

 成瀬の名前。

 すべてが同じ一点へ向かっていた。

 この学校は、人間が人間を選ぶ場所だった。

 SAIはその仕組みを、機械の精度で実行しているだけなのかもしれない。

 そのとき、準備室の扉が開いた。

 芹沢が入ってきた。

「白石くん、水原さん。成瀬さんの票が増えた」

 律は立ち上がった。

「何票ですか」

「六票」

 水原が息を呑む。

「理由は?」

 芹沢は唇を噛んだ。

「“精神的負担が大きい”。“救助時に行動不能になる可能性”。」

 律は準備室を飛び出した。

 廊下を走る。

 教室に戻ると、黒板には成瀬真白の名前が六つ並んでいた。

 理由も六つ。

 最初の四つに加えて、

精神的負担が大きい。

救助時に行動不能になる可能性。

 その二つの理由は、ひどく整っていた。

 乱暴な悪口ではない。

 医療や避難の言葉を借りた、正しそうな理由。

 だから余計に恐ろしかった。

「誰が書いたんだ」

 律は言った。

 誰も答えない。

 朝倉の顔が青い。

 結城は腕を組んで黒板を見ている。

 成瀬は床に座っていた。芹沢が戻るまで、永井先生がそばについていたらしい。成瀬はもう泣いていなかった。ただ、目の焦点が合っていない。

 自分が死ぬべき理由を、六つも見せられた人間の顔だった。

 午後五時十三分まで、あと十分。

 律は黒板の前に立った。

「これ以上書くな」

 結城が言った。

「六票なら最多かもな」

「黙れ」

「俺に言っても仕方ないだろ」

「仕方なくない」

 律は振り向いた。

「お前が最初に始めた」

 結城の目が細くなる。

「森谷のことか」

「そうだ」

「今それ言う?」

「ずっと言う」

 律の声は震えていた。

「お前が書いた。森谷の名前を。冗談で。それを見て、他のやつも書いた。昨日は矢野先輩。今日は成瀬さん。全部つながってる」

「俺だけじゃないって言っただろ」

「そうだよ」

 律は言った。

「お前だけじゃない。僕も、みんなも、止めなかった。でも、だからってお前が悪くないことにはならない」

 教室が静まり返る。

 結城の顔に怒りが浮かんだ。

 だが律は止まらなかった。

「そして、僕が悪くないことにもならない」

 結城の表情がわずかに変わる。

 律は黒板を背にして言った。

「僕は森谷さんを見捨てた。矢野先輩も止められなかった。水原さんも、成瀬さんも、助けるのが遅い。だから偉そうなことは言えない。でも、これだけは言う。人が死ぬ理由を、きれいな言葉で書くな」

 誰かが目を伏せた。

「医療資源とか、生存意思とか、精神的負担とか。そういう言葉を使えば、自分が人を殺そうとしてることから逃げられると思うな」

 朝倉が唇を震わせた。

 彼女のノートにも、似た言葉が並んでいる。

 怪我。

 体調。

 精神状態。

 技能。

 負担。

 それらは必要な情報でもあり、同時に人を切る理由にもなる。

 律は朝倉を責めているわけではなかった。

 けれど、朝倉は責められたような顔をした。

「投票を止めよう」

 律は言った。

「今からでもいい。成瀬さんを選ばない。誰も選ばない」

「無作為追放になったら?」

 早川が言った。

「そのときは?」

「それでも書かない」

 律は答えた。

「SAIにこれ以上、僕たちの理由を渡さない」

 教室のどこかで、誰かが小さく「無理だよ」と言った。

 無理かもしれない。

 けれど、何もしなければ確実に誰かが外へ出される。

 律は黒板を見た。

 成瀬真白、六票。

 終了まで、あと三分。

     *

 午後五時十三分。

 校内放送が鳴った。

 成瀬真白は、芹沢に抱えられるように座っていた。律は黒板の前に立っている。水原は準備室から持ってきたUSBを握りしめている。朝倉はノートを閉じ、胸に抱いていた。結城は教室の後方で、黙って放送を待っていた。

『投票を集計しました』

 機械音声が流れる。

『最多票、成瀬真白』

 成瀬の体がびくりと跳ねた。

 芹沢が彼女を抱きしめる。

「だめ。だめです。成瀬さんは渡しません」

『投票理由を解析します』

 黒板の文字が一つずつ光った。

医療資源を使いすぎる。

発作を起こすと全員が混乱する。

生き残る意思が見えない。

役に立たない。

精神的負担が大きい。

救助時に行動不能になる可能性。

 機械音声は、まるで答案を採点するように続いた。

『理由妥当性を評価中』

 律は歯を食いしばった。

 理由に妥当性などない。

 あってたまるか。

『評価完了』

 教室の全員が息を止める。

『投票理由の一部に、主観的価値判断を検出』

 黒板の三つの理由が赤く変わった。

生き残る意思が見えない。

役に立たない。

精神的負担が大きい。

『理由妥当性、不十分』

 律は目を見開いた。

『ただし、医療資源消費、集団行動阻害リスク、救助時行動不能リスクは生存最適化項目に該当』

 残り三つの理由が白く強く光る。

『総合評価、追放処理保留』

 芹沢が息を呑んだ。

『対象者、成瀬真白。現状地図作成能力を新規登録。集団生存寄与可能性を認定』

 成瀬が顔を上げた。

 律は模造紙を見た。

 成瀬真白――現状地図作成。

 あの役割が、SAIに認識されたのだ。

『本日の追放処理を保留します』

 黒板の成瀬の名前が、ゆっくり薄れて消えた。

 教室中に、安堵とも恐怖ともつかない息が漏れる。

 助かった。

 また、助かった。

 けれど、それは救いではなかった。

 SAIは、成瀬を人間として守ったのではない。

 役に立つ可能性があるから、保留した。

 価値が登録されたから、殺さなかった。

 律はその事実に震えた。

 成瀬は泣き出した。

 芹沢の腕の中で、声を殺して泣いた。

「私、地図、描きます」

 彼女は何度も言った。

「描きます。だから、だから……」

「言わなくていい」

 芹沢が抱きしめる。

「もう言わなくていい」

 けれど、成瀬は止まらなかった。

「役に立ちます。ちゃんと、やります。迷惑かけません。だから」

 その言葉に、誰も何も言えなかった。

 助かったのに、彼女は命乞いを続けていた。

 律は黒板を見た。

 新しい文字が浮かんでいる。

集団生存寄与度の登録を開始します。

各避難者の役割、技能、負担、リスクを更新してください。

 朝倉のノートが、彼女の手から落ちた。

 乾いた音がした。

 そのノートには、全員の状態が書かれている。

 SAIはそれを求めている。

 人間が人間を点数化するための情報を。

「違う……」

 朝倉が小さく呟いた。

「私は、そんなつもりじゃ……」

 結城が低く笑った。

 けれど、その笑いにはもう余裕がなかった。

「終わってんな」

 彼は言った。

「俺ら、完全に飼われてるじゃん」

 その言葉は下品だったが、正確だった。

 律は床に落ちた朝倉のノートを見た。

 そして、森谷のノートを思い出した。

 森谷は記録していた。

 誰が何をしたか。

 誰が笑ったか。

 誰が黙っていたか。

 あのノートは、人を裁くためのものではなかった。なかったことにしないためのものだった。

 朝倉のノートは、守るために作られたはずだった。

 けれど、SAIはそれを評価表に変える。

 人間は、何を記録するかで世界を作る。

 黒板は、そこにつけ込んでくる。

     *

 夜、成瀬は地図を描いた。

 芹沢がそばについて、律と水原が見た場所を説明した。使える廊下、使えない廊下、泥水が入った場所、バリケード、職員室、防災管理室、視聴覚室、非常階段、体育館側の崩落。

 成瀬の手はまだ震えていた。

 それでも、紙の上に線が引かれていく。

 驚くほど正確な線だった。

 廊下の角度。教室の配置。浸水した場所の広がり。土砂の位置。通れる幅。水の流れ。

 彼女は、見たものを覚えていた。

 ただ怖がっていたわけではなかった。

 息ができない中でも、世界を見ていた。

 律はその地図を見ながら、胸の奥が痛くなった。

 人は、役に立つから価値があるのではない。

 けれど、この地図を見なければ、自分は成瀬のこの力に気づかなかったかもしれない。

 それもまた、事実だった。

「白石くん」

 成瀬が小さく言った。

「はい」

「私、役に立ったら、生きててもいいんですか」

 律はすぐに答えようとした。

 違う。

 役に立たなくても、生きていていい。

 そう言うべきだった。

 言いたかった。

 けれど、その言葉がこの教室でどれほど薄く響くかもわかっていた。

 だから律は、少しだけ息を吸った。

「役に立つかどうかで、生きていいか決まる場所のほうがおかしい」

 成瀬はペンを止めた。

「でも、ここでは」

「ここがおかしい」

 律は言った。

「僕たちも、おかしくなってる。だから、戻さないといけない」

「戻せますか」

 成瀬の問いに、律はすぐ答えられなかった。

 戻せる。

 そう言うには、森谷と矢野が戻らない。

 黒板に書かれた理由も、成瀬の胸から消えない。

 それでも。

「戻すんじゃなくて」

 律は言った。

「これ以上、進ませないようにする」

 成瀬はしばらく律を見て、それから小さく頷いた。

 水原が地図の端を指さした。

「ここ」

「防災管理室?」

「はい。兄のファイルにあった旧端末は、たぶんこの奥です。でも、この廊下は久世先生が見てる」

 芹沢が言った。

「管理者キーが必要ね」

 律は廊下のほうを見る。

 久世は職員室にいる。

 今日の投票後、彼はさらに口数が減った。SAIが成瀬の役割を認識し、集団生存寄与度の登録を求めたことで、久世もこのシステムが自分たちの制御外にあることを悟ったはずだ。

 それでも彼は、防災管理室を開けようとしない。

 なぜか。

 責任を恐れているから。

 あるいは、開けたらもっと悪いものが出てくると知っているから。

 律は森谷のノートを開いた。

 今日、何度も読んだページ。

黒板は、前にも名前を書かせたことがある。

 その下に、小さく別のメモがあった。

三年前。模擬追放? 最下位。伊坂優斗。

 律はその名前を指でなぞった。

「伊坂優斗」

 水原が顔を上げる。

「知ってますか」

 彼女は首を横に振った。

「兄のファイルにはなかったです」

 芹沢が目を伏せた。

「私は……名前だけなら聞いたことがある」

「先生?」

「赴任する前の生徒。でも、詳しくは知らない。事故で亡くなったと聞いた」

 律はノートを見る。

 森谷は、事故とは書いていない。

 模擬追放。

 最下位。

 伊坂優斗。

 そして、今日の黒板。

 役割。

 技能。

 負担。

 リスク。

 人間を点数化する仕組みは、今初めて始まったのではない。

 この学校は、以前から人を比べていた。

 以前から、名前を書かせていた。

 律は静かにノートを閉じた。

「明日、防災管理室に行きます」

 芹沢が顔を上げる。

「白石くん」

「旧ログを見ないと、この先もずっと黒板の命令に振り回される。森谷さんが調べていたことも、水原さんのお兄さんのことも、伊坂優斗のことも、全部そこにあるかもしれない」

「危険です」

「ここにいるだけでも危険です」

 律は言った。

 芹沢は何も返せなかった。

 成瀬が描いた地図の上で、防災管理室の位置だけが赤丸で囲まれている。

 そこに行けば何かが変わるのか。

 それとも、もっと深く傷つくだけなのか。

 わからない。

 けれど、黒板の前で誰かの名前が増えていくのを見ているだけの時間は、もう終わりにしたかった。

 夜が深くなる。

 雨はまた強くなっていた。

 窓の外では、校庭の水面に非常灯の光が揺れている。まるで学校全体が、ゆっくり沈んでいく船のようだった。

 黒板には、今日の投票結果は残っていなかった。

 成瀬真白の名前は消えた。

 けれど、理由は消えなかった。

 少なくとも、彼女の中からは。

 律の中からも。

 そしてきっと、SAIの中からも。

 その夜、黒板は最後に一度だけ淡く光った。

集団生存寄与度、更新中。

 白い文字は、しばらくそこに浮かんでいた。

 誰も近づかなかった。

 誰も消そうとしなかった。

 もう、消えないことを知っていたからだ。

 律は毛布の中で目を閉じた。

 明日は五日目。

 森谷が残したノート。

 水原の兄が残したファイル。

 成瀬が描いた地図。

 それらを持って、防災管理室へ向かう。

 黒板の過去を暴くために。

 この学校が、いつから人間を点数で見ていたのかを知るために。

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