第7話 アスガルド Asgrad 回顧録 デスペラードワードと黒き帽子
xマジックxリンxが突然姿を消してから、数日が経過していた。
僕は一人、ディグバンカーの最下層に降り立ち、目標の一つであったハイランダーのソロ討伐を達成していた。レベルは順調に上がり、当時の最前線・トッププレイヤーの証でもある「レベル70」に到達していた。
だが、討伐の余韻に浸る余裕はなかった。「ふう、なんとか倒した」と息を吐き出しはしたものの、師匠が見せたようなスマートな戦いには程遠く、途中で一発殴られて危ない場面もあった。少し満足のいかない出来だった。
とはいえ、一つ目の目標は達成した。
普段のレベリングであれば、遠距離攻撃を持たないサラセンダンジョンの「ダルマシアンバギ」あたりを狩るのが魔術師にとっては一番効率が良いのだが、今の僕にとって効率などどうでもよかった。
ハイランダーすら凌駕する、さらなる絶望の化身。当時のスオミダンジョン最下層に君臨する青いドラゴン、『デスペラードワード』のソロ討伐。それだけが、このアスガルドというゲームに対する僕の最後の目的になっていた。
アップデートでディグバンカーと統合される前の当時のスオミダンジョンは、極めて地味で薄暗い迷宮だった。「ジョカ」や「ジョキ」に似た敵や、手の形をしたモンスターが徘徊するそのダンジョンでは、入り口付近にモンスターを大量に誘導しておく、間接的なPKまがいの悪質なトラップが仕掛けられていることもあった。
そうしたトラブルを警戒しながら潜り抜け、辿り着いた最下層。そこは、レベル70前後の上級プレイヤーたちで常に混み合っていた。
理由は単純だ。デスペラードワードは、ハイランダーが落とす白い帽子よりもさらに上位の、緑や黒などのレアな帽子をドロップするからである。
人が多すぎてすぐにソロ狩りを提案できる雰囲気ではなかったため、僕はまず既存のパーティーに入れてもらい、青いドラゴンの生態を徹底的に分析することから始めた。
パーティー狩りの後方から観察して分かったことは、デスペラードワードがハイランダーとは根本的に次元の違う化け物だということだ。
攻撃を仕掛ければ即座に魔法カウンターを放ち、何もしなくても定期的に極大魔法を撃ってくる。魔法は属性がランダムなため、特定の属性ガードでダメージを軽減することは不可能。レベル70の魔法防御を限界まで高めた魔術師であっても、一発食らえば700から800ものダメージを持っていかれる。かろうじて一発だけなら即死を免れる、というバランス崩壊ギリギリの火力だ。
だが、真の絶望は火力ではない。
魔法に付与された「状態異常」だ。専用の「精神安定剤」でなければ治せない『混乱』や、容赦なくHPを削り続ける持続ダメージの『炎上』。ダメージを負った状態からでも、混乱や炎上が重なれば一瞬で即死する。
ハイランダーのソロ時に必要だったのは「距離の維持」と「詠唱キャンセル」の精度だったが、デスペラードワード戦で要求されるのは、コンマ秒の世界での「状態異常回復」と「HP回復」の異常な反射神経だった。
当時のセトア鯖で、魔術師のソロによるデスペラードワード討伐など聞いたこともない。皆が「現実的ではない」と口を揃えるのも当然だった。
それでも、僕はやるしかなかった。
ある日、やや狩り場が空いているタイミングを見計らい、僕は意を決して順番待ちのパーティーに懇願した。
「次のデスペラードワード、魔術師のソロで狩るんでやらせてくれませんか」
パーティーの面々の反応は、ハイランダーの時以上に凄まじかった。「え、マジで?」「本当?」という困惑と驚愕。それでも「じゃあやってみて。死んだら生き返らせてあげるから」という温かい言葉に従い、僕は「いえ、蘇生はかえって迷惑になるので大丈夫です」と断って、一人くぼみの奥へと歩みを進めた。
結果から言えば、最初の挑戦は惨憺たるものだった。
上級魔法の詠唱キャンセル合戦はともかく、状態異常の回復速度が追いつかなかった。混乱状態にもたついている間に次の極大魔法が飛んできて、あっという間にHPが溶ける。僕は命からがら撤退を余儀なくされ、見守っていたパーティーにすごすごと順番を譲る羽目になった。
再挑戦の舞台は、その翌日。
メインで遊んでいる対戦ゲームで「まったく弾を外さない日」があるように、その日の僕は最高に指の調子が良く、反射神経が研ぎ澄まされていた。今日ならいける。僕は再びパーティーに「蘇生はいらないからやらせてほしい」と交渉し、青いドラゴンへと挑みかかった。
戦闘開始。上級魔法を放ち、カウンターの極大魔法が直撃する。
HPバーが大きく吹き飛ぶが、パニックにはならない。
デスペラードワードが魔法を撃ってくるたびに付与される『混乱』に対し、僕はコンマ0.5秒の反射神経で「精神安定剤」のショートカットキーを叩いた。直後に来るダメージには、1秒以内に「ハイポーション」を叩いて回復。そして即座に一瞬の隙を突き、こちらから上級魔法をお見舞いする。
歩き回る必要すらない。キーボードとマウスに添えられた指先だけが猛烈なスピードで舞う、純度100%の反応速度の闘い。
およそ10分にも及ぶ極限の疲労戦。
双方のHPがギリギリまで削り合い、いよいよ最後の上級魔法を撃てば終わる——そう思った絶好のタイミングで、最悪の事態が起きた。デスペラードワードの魔法によって、『混乱』と『持続ダメージ(炎上)』が同時に付与されてしまったのだ。
極大魔法の直撃ダメージと重なり、僕のHP枠の数字が、あっという間に「2桁」へと落ち込む。
「危ないっ……!」
僕は1秒の間に、混乱を解く精神安定剤のスロットと、HPを回復するハイポーションのスロットを同時押しで全力で叩き抜いた。ギリギリで持ちこたえながら、最後の上級魔法を詠唱キャンセルで相手の巨体へと叩き込む。
鈍い断末魔を上げ、巨大な青い絶望が崩れ落ちた。
「やった……!」
僕はモニターの前で、震える手で小さくガッツポーズを作った。誰にも不可能と言われた、魔術師でのレベル70ソロドラゴン討伐。
「おめでとう!」
遠巻きに見ていたパーティーの面々から、盛大なチャットの歓声が上がる。
見れば、デスペラードワードが崩れ落ちた足元に、見たこともない最高権威のレアアイテムである黒い帽子——『ブラッディカウル』が転がっていた。かつて第四話の頃から渇望し、彼岸の境地だと思っていた夢のアイテムだ。
しかし、僕はそれを拾わなかった。
僕は、かつて自身に「ナンバー2」という称号を授け、同じようにドロップ品を置いてこの世界からいなくなった最強の魔法使いの背中を真似て、チャットを打った。
『この待ち時間に協力してくれたので、これは差し上げます。見ていてくれてありがとう』
そして、落ちているブラッディカウルには一切触れることなく、すぐさまインベントリから帰還のスクロールを使用し、その場から退出した。
それが、僕のセトア鯖での最後の戦いとなった。
これ以上、この世界で成し遂げるべき目標は何も残っていなかった。僕は、魔術師ソロでのデスペラードワード狩りという前人未到の偉業を達成した満足感とともに、ログアウトのボタンを押し、自身のメインである対戦ゲームの世界へと静かに戻っていった。
『ごりらまん』——そんな、完全に適当な名前で始めたこのオンラインゲーム。
これは、セトア鯖がまだ開始して間もない黎明期に、ほんの数人のプレイヤーだけが目撃している、僕のセトア鯖の最後の物語だ。
(了)




