第三話(完結)
「俺はこの話の続きをさらに知っているんだぜ……。なんなら、教えてやろうか?」
「いえ、私は他人のプライバシーを掘り返したいとは思いませんので……」
これ以上、彼の話を聞いていると、仮に今後C先輩がEと揉めたときに、自分まで被害を受けかねないので、A君は顔を逸らして苦しそうにそう言い放った。しかし、C先輩は毒蛇のような嫌らしい目つきをしたまま、自分の顔をさらにぐんと近付けてきた。『おまえは俺とつるむしかないんだよ』とでも言っているかのようであった。
「まあ、そうつっけんどんに言うなよ。これは俺しか知らない話なんだ。何せ、実際にその真実を見た人間は俺だけだからな……」
C先輩はそこで一度タバコの火を消して、その親指で自分の胸を指し示した。
「さっき説明したEの暴行事件、その一件から一ヶ月後のある日な。Eが会社のロビーで上司と連れだって何やら深刻そうに話し込んでいるのを見かけたんだ。仕事中だぜ。こんな時間におかしいなと思っていたら、Eと上司はそのまま会社の外へ出て、大通りの方へ歩きだしたんだ。これは面白いものが見れると思った。この期に及んで、Eの性格を矯正させるための手段を講じるとは思えないからな。絶対に他には漏らせない何かがあるんだ。俺は我慢ならなくて、後をつけることにした……」
「本当に二人の後をつけたんですか? それはまずいですよ。完全に他人のプライバシーを暴く行為じゃないですか」
A君はC先輩の間違った行動力に驚いて、彼を強く責めた。しかし、C先輩はまったく請け合わず、その残忍冷酷な表情を崩そうとはしなかった。
「まあ、黙って聞けよ。このことは、もちろん、俺の正義感からの行動だが、さすがに仕事中だからな。多少のリスクはあった。その上司が後ろを振り返るなりして、もし見つかっていたら、俺まで余計な処分を受けるところだぜ。さすがの俺でも心臓が高鳴ったぜ……。そこまで苦労して手に入れた、貴重な情報をおまえだけに教えてやるよ……。いいか? 上司とEは会社を出た後、大通り沿いに北に向かって、そのまま15分ほど歩き、渋谷にある、発達障害を専門にしている精神病院に入ったんだ。いやあ、俺としても予想はしていたが、まさか、本当に精神病だったとはな。いや、あるいは会社としても、暴力事件を起こした当人が、精神を病んでいたんだという結論にもっていくしかなかったのかもしれない……。だが、それこそは精神病患者とは、社会人としてふさわしくない異常者である、との証明にしかならない。俺はずっと、会社全体で、この結論に達することを願っていた。他人の秘密を暴くのは最高だ。興奮して震えがきたぜ……」
そこでC先輩は側にあったテーブルをどんどんと強く拳で殴った。そして両腕を上に挙げて勝利のポーズをとった。
「やっと暴いてやったぜ! やっぱりそうだ! 精神病だったんだ! あの瞬間は嬉しかったな。他人が隠し持っている、恥や苦痛を暴いたときほど興奮することはないからな……。しかし、まあ、当然の結果だろ……。あいつのこれまでの行動は、誰が見ても頭がイカレテルとしか思えない行動ばかりだからな……」
C先輩はそのとき、一度おもむろに腰をあげて、この喫煙室のドアを静かに開き、まるで、他人にこの話を聞かれることを恐れるかのように、外から誰も近づいて来ないかを確認した。A君にはこのときのC先輩の様子は、他愛のないいたずらをして、両親に見つかることを恐れている子供のように見えた。そして、C先輩はまたA君の隣まで戻ってくると、一度彼の頭をぽんぽんと叩いてから、どっかりと椅子に腰をかけた。自分が今、彼の社会生活にとって、重要な話をしているのだということを、A君に強く印象付けてやりたいようだった。そして、またいっそう小声になり、話を続けた。
「でもさ、まあ、わかってやれよ……。俺もさ、Eのことは大嫌いだから、おまえがEを避ける理由はよくわかるんだが、あいつも可哀そうな男なんだよ……。生まれつき肌が色黒だろ? おまけに学生の頃は痩せっぽっちだったろうし、周囲から相当なめられていたんじゃないかな。何も落ち度がなくとも、仲間外れやいじめを受けていたのかもしれない。それに加えて、あの腐った性格だろ? 彼女はおろか、友達だって出来たことないんじゃないかな……。そんな寂しい男が、やっとこさ社会に居場所をみつけて働き出したわけだが、どういうわけか、ここでも友人ができない……。入社してから何年経ってもずっと孤立したままだ……。会社に具体的な貢献をしたこともないし、上司に褒められることもまるでないから、出世の話なんて生まれるわけない。その上、日が経つにつれ、他人が自分を避けているように感じる。先輩にも後輩にも陰で笑われているような気がする。自分は少し変わった人間だと思われているんだろうか? それとも、実際に自分の脳みそは人と違ってどこかおかしいのだろうか? とまあ、そう思い始めたわけだ。そういう根本的な疑惑を抱いてしまった人間は、いつしか他人の行動の結果すべてに対して被害妄想を持つようになっていくわけだ。特にあいつのは強烈な妄想だ。自分の心をざわめかす案件は瞬時に過ぎ去るが、何の対応も出来なかったことに、不信感を抱くようになる。月日が経つごとに、同じフロアの同僚がすべて鬼の仮面を被った敵に見えてくる……。みんながみんな自分を嫌っていて、しかも、自分を退職へと追い込もうとしているように思えてくる……。ここで馬鹿なやつは開き直ってしまうわけだ。『そっちがそういう態度なら、それでもいいよ! 俺だって孤独に闘ってやろうじゃないか!』 なぜだか、そう思ってしまうわけだ。やめときゃいいのにな。そして、余計にみんなと打ち解けなくなる……。半ばヤケになって、妄想を振り払うべく、ボクシングを始める……。そして、被害妄想がパンパンに膨らんだ状況で起こったのが、あのコーヒー事件だ。奴の脳みその中に、ついに犯罪の芽が生えてきてしまったわけさ……。これは世間一般の軽犯罪者たちが通る道と何ら変わりないぜ。刑務所の内部を一回覗いてみな。きっとEみたいなやつが、そこらじゅうにうじゃうじゃいるぜ。とまあ、そういう経路をを辿って、やつは最終的にこれはおかしいぞと、ちょっとこのままでは、何か手を打たない限り、他の社員と一緒には働けないぞと、そう判断されてしまったわけだ……」
「それはまずいですよ。言い過ぎです。一度間違いを犯したぐらいで、同僚を勝手に犯罪者扱いしてしまうなんて。精神病だって、現代においては治る病気ですからね。病気が良くなってくればEさんの行動も言動も模範的な社会人らしくなってくるはずです」
「おまえ、まさか、Eをかばうのか? 嫌いな人間ってのはあいつのことじゃないのか? ふーん、じゃあ、おまえの言う『嫌なやつ』っていうのは一体誰のことなんだよ?」
反論をするために上目遣いだったA君は、その手厳しい質問を受けて、再び弱々しい表情になり下を向いてしまった。右腕がぶるぶると震えていた。具体的な氏名を表明することを我慢しているらしい。
「ふーん、じゃあ、あいつだろ。制作部のF課長。あいつもかなりいかれてるぞ。仕事中に他人の些細なミスですぐ顔を真っ赤にして大魔神のように怒りだすから、赤鬼って呼ばれてるんだよな。巨人が負けた次の日は特に機嫌が悪い。俺がさ、『昨日は負けてしまいましたね』って気軽に話しかけたら、『うるせい! おまえと話なんかしたくねえ! どっかいけ!』なんて言いやがってよ。本当にガラの悪い身勝手な人間だぜ。噂によると血圧が170以上あるらしい……。常時、顔を赤くしているのはその辺に原因があるんだろう。どうせ長生きはしないからな……。ほっとけ、ほっとけ」
A君はもうすでに、ライオンに追い詰められたシマウマのように、されるがままになっていて、それを聞いても、力なく黙って首を横に振るだけだった。
「F課長でもないのか? じゃあ、誰だよ、おまえの障害になっているってやつは……。誰かがおまえが健全な会社生活を営むことに邪魔をしてるって話だったよな? それじゃ営業のS課長か? いつもニヤニヤうす笑いしながら、社内を徘徊してていらつくよな。たいして仕事もできないくせに……。それも違うのか……。まあ、ここで言いたくないなら無理に聞こうとも思わないけどな……。ところで……」
C先輩はここで大きく深呼吸をして、一度振り返り、誰もドアを開けて侵入してこないことを確認すると、話を新たな方向に展開し始めた。
「ところで、おまえのいるフロアに配属された新入社員のDさん(女性)かわいいよな。一目で気に入っちゃったよ……。先日、彼女の席を通りがかったから、ちょっと話しかけてみたよ。『もう仕事には慣れた?』ってな。そしたら、遠慮深くちょこっと頭を下げて笑顔で挨拶してくれてなあ……。あれは本当にいい子だよ。外見は愛らしいのに、遠慮がちで、他人に不快感をまったく与えないタイプの子だ。よく、うちみたいな先の見えない零細に、あんな器量のいい子が来てくれたよなあ。あんなにかわいい子なら、筆記試験なんてしなくても通してあげたいよ。古いことわざで『その人間の笑顔が美しかったら、その人は性格も美しいと思いなさい』ってのがあるじゃないか。なに? ちょっと違う? まあ、いいさ、話を続けよう。ところで……」
ここで、C先輩は再び声のトーンを下げ、顔は再び黄泉の妖怪のように嫌らしくなり、ソファーの横に座っているA君の顔を覗き込みながら、A君の顔がどんな変化をするか楽しそうに眺めながら、質問を繰り出した。
「おまえ……、Dさんのこと好きなんだろ?」
「とんでもない。まだ、知り合ったばかりですし、彼女は新入社員ですよ。それに、僕みたいな地味な人間に傾いてくれるわけないじゃないですか」
A君はすぐさまそう反撃した。しかし、C先輩は顔を赤くして反論したA君の態度を見て、自分の推論に確信を得たようだった。
「まあ、そう言うなよ……。俺にはわかるんだ。なんでわかるかって? おまえ、朝の出勤時間帯にほとんどの社員とは目も合わせないけど、Dさんにだけは、きちんと挨拶を返しているじゃないか。それで何がわかるかだって? 俺ならわかるのさ、あの子は間違いなくおまえの好みだよ。大人しいし、人間的魅力もあるし、愛嬌があるし……。だがなあ、ああいうタイプの子は相当遊んでるぜ……。大学の頃はバンドを組んでボーカルをやってたんだってな……。そういう目立ちたがる子には、男はとことんすり寄ってくるんだよ……。同じ学年のイケメンたちが見逃してくれるわけない……。それに、一般のもてない男ってのはちょっと派手な子を見つけると、自分の器量のことなんて、いっさい考えもせずに愛想を振りまくんだよな。まず、鏡を見ろっての! おまえらとあの子が釣り合うかっての! でもまあ、あの子に手を出すのはやめておいたほうがいいぞ。ああいうタイプの子は本当に遊んでるよ。自分に言い寄ってくる、金持ちの男を何人も掛け持ちしてな……。バンド時代の仲間とだって肉体関係持ってるに決まってるだろ。今だって、平日のアフターファイブは景気よく繁華街に繰り出して、数人の男といい関係を築いてるに決まってる。あれだけの器量を持っていれば、月給二十万程度の安っぽい会社で彼氏を見つけようなんて気はさらさらないのさ……」
「彼女の悪口を言うのはやめてください! すべて、憶測じゃないですか!」
A君はついに大声になり、C先輩を睨みつけながらそう叫んだ。
「まあまあ、おまえが現状を正しく認識してくれればそれでいいんだ。彼女を貶めようとする気はさらさらないさ。仕事が終わればどんな堕落した生活を送ったって、それは個人の自由だからな。ただ、もう一度聞くが、おまえ、彼女のこと好きなんだろ? それで、仕事上の嫌なことがいくら積み重なっても、なんとか我慢できるわけだ。布団から出たくないような寒い朝でも、彼女の笑顔を見るためなら我慢して出社しよう、とそう意気込んでいるわけだ」
C先輩はそこで手を叩いて大笑いし始めた。彼はどうやら最初からこの話がしたかったらしい。A君が顔を真っ赤にしてうつむくと、さらに顔面を近付けてきた。もはや、A君を人間関係における悩みから救ってやろう、などという態度では無くなっていた。
「お、ま、え、彼女が、好き、な、ん、だ、ろ? 早く、こ、た、え、ろ」
C先輩は死刑囚への判決文を冷酷に読み上げる裁判官のように、ゆっくりとそう尋ねた。A君は恐ろしくなって、何の反応もできずに震えていた。
「おい、俺の目を見ろ。ちゃんと、俺の、目、を、見ろお!」
A君はこの剣幕に耐え切れず、ついに首を縦に振った。
「はい……、一応……、彼女に……、好意を持ってます……」
C先輩はそれを聞いて我が意を得たりというふうに満面の笑みを浮かべて立ち上がった。そして、吸っていたタバコを灰皿に投げ捨てると、憑きものが落ちたように、与えられた仕事に真剣に取り組むサラリーマンの表情に戻り、ドアに向かって軽快に歩き出した。
「そうか、やっぱり、おまえも若い子が好きなんだな。でも、あの子はおまえには向かないよ。おまえじゃ、男としての魅力に欠けるし、美人の恋愛相手としては外見が地味すぎる。そこでな、彼女の新しい恋人としてだが、この俺なんてどうだ? 背は高いし、顔もまあまあいけてるだろ? 貯金もあるし、車も持ってる。俺なら彼女の相手として適当だ。いい関係を築けると思うんだ……。おまえが、それさえ理解してくれればもういい。もう用はない。じゃあな……」
A君は背中を向けて去っていくC先輩の姿を恨めしそうに見ていた。彼は疲れ切っていた。やがて、ゆっくりと立ち上がり、両手の拳を握りしめた。両脚ともぶるぶると震えていた。せっかく脳から消えかけようとしていた、会社を去るという間違った決意が、あの男のおかげで再び頭をもたげてきた。この怒りを何かにぶつけたくて仕方がなかった。そして心の底から強く思った。
「なんて、嫌なやつなんだろう……」
最後まで読んでくださり、まことにありがとうございます。この作品の他にも、いくつか短編小説を掲載してありますので、興味のある方はそちらもご覧下さい。




