第一話
ここは都心にある、とある中堅出版社。とりたてて言うほどはない地味な顧客から、チラシやポスター、パンフレット、自分史やホームページなどの受注生産を生業としている。社員に臨時ボーナスを出すほど儲かっているわけでもないが、毎年赤字を出すほどでもない堅実な経営が売りである。今はちょうど休憩時間。その3階にある喫煙室で、制作部に勤務している一人の若手社員が、背中を丸めて椅子に座り、大きなため息をついていた。
「いっそのこと、もう、辞めてしまおうかなあ……」
彼の名前はA君。田舎から上京してきて、中堅の大学を卒業してこの会社に入社して丸二年。希望を持って企業社会に進出してきた多くの若者が、自分の成果に悩みを持ち、残酷な人間関係に傷つき、苦汁をなめて、人生の意味を己に問いかける時期でもある。人間は必然的に悩みを持つ動物である。だいたい、社会に出て大成功を収めた富豪や偉人で、この時期に悩みを持たなかった人間がいるのだろうか? 自分の進路にまったく迷わずに数十年間も順風満帆に歩めた人間がいたのだろうか? いるわけがない。莫大な資産を築き上げ、現在では神のように崇められた彼らとて、若い頃は多くの悩みを持ち、それを克服して大勝負に勝ち、大衆に認められ成功したのだ。ということを加味して考えてみれば、今の段階での彼のこの悩みは、新たな飛躍や成長への大きな一歩となる可能性も秘めているのである。
A君は灰皿に安タバコの先っちょを押しつけて火を消すと、また、頭を抱えて悩みだした。職場に戻って働こうにも、身体が緊張で硬直して、次の一歩を踏み出せる気がしなかった。最近の仕事の中で、よほど気に障ることがあったのだろう。彼はこれ以上この部所で仕事を続けることに躊躇していた。今さら、どんな手を打ったとしても、すべて無駄なことのように思えた。かといって、今さら他の部署に配置転換されても、うまくなじめるわけもなく、やっていく自信も勇気もなかった。この会社に見切りをつけて、きっぱりと辞めてしまうのなら、今この時期である。ちょうど社会全体は好景気に向かっているし、ネットや雑誌で調べる限り、求人の募集の質も悪くはない。上手く今より上位の会社に食いつけば、給料の面でも、仕事の地位の面でも、優遇される可能性は高い。
だが、もっと深く考えてみれば、企業というものは、求人情報の特徴はそれぞれ違えど、入社してみれば、結局、どこも似たようなものであったりする。どこにでも、ヒステリー気味で自分の機嫌次第でガミガミと吠える上司がいて、面倒なばかりで儲けにならない、嫌な仕事ばかり回してくる、頼りにならない先輩がいて、何度教えてやっても簡単な仕事も覚えず、挙げ句の果てに重大なミスを起こして足を引っ張る部下がいる。仕事も当初の思惑とは違って自分に合わず、給料も地位も思った通りには上がらないかもしれない。入社する前の面接で聞かされた待遇とはまったく違ったりもする。
どの会社も立派な営業利益が出るのは景気が良い時期だけ、景気が右下がりになれば、その業界の中小企業は揃って給料ボーナスとも右下がりとなる。新しい環境になじむ前に、気がついたらリストラ要員にされてしまっているかもしれない。直近に加わった社員であっても、身分を保証することにはならない。経営者はどんな残酷な選択でもする。それに、自分が転職したことが周囲にばれれば、家族や親戚、昔の友達に、辞めた理由、新しい会社の居心地や将来性などを根掘り葉掘り聞かれるだろうし、それにいちいち応じていかねばならない面倒なイベントがある。そう考えると、この段階ではとりあえず辞めないでおいて、今自分が所属している企業が、もっと有利な状況になるのを待つという手もある。辞めるか残るか。もちろん、どちらの道を選ぶにしてもリスクを伴い、難しい選択である。
「あと三年後……、せめて、あと一年後の未来がわかればなあ……」
A君は自分にそういった先見の明がないことを悔やみながら、いたずらに転職の道を選ぶことは諦め、あと少しのあいだは、この会社で我慢して働くことを決心しようとしていた。
そんなとき、喫煙室の扉が乱暴に開き、五年入社の早いC先輩がつかつかと入ってきた。C先輩はここでA君と会えたことを、これ幸いにと舌なめずりをしているように見えた。彼は四階の総務部に勤務していて、以前はA君と同じ制作部にいたため、二人は旧知の仲であった。しかし、C先輩の性格は無粋で粗雑であり、このような重要な案件の相談相手としては適当といえる人物ではなく、彼に打ち明け話をしてしまうと、かえって事態をめちゃくちゃにされかねなかった。しかも常識や社内規則よりも、自分の偏向した考えの方を、何よりも優先して行動し、心が狭く、自意識過剰で他人を見下すようなところがあり、一緒に話をしていて決して愉快な人間ではなかった。A君はここで彼と出会ったことにすっかり失望して目を伏せた。別な話題を探すことも、この場から逃げ出すことも難しく思えた。よりによって、自分が弱っているときに……。
「よう、久しぶりだな。なんだって、ちょっと小耳に挟んだんだけどさ、おまえらの部署でまた顧客からのクレームがあったんだって? ちょっとその話を聞かせてくれよ」
「いえ、そのことはもういいんです……。できれば、そっとしておいてください……」
C先輩は社内を所狭しと飛び回る銀蝿のような男で、会社内のどこかにちょっとした異臭を感じると、すぐにその場に急行して、デリカシーなどまったくなく当事者の秘密を探ろうとするタイプの人間で、しかもこの上なく口の軽い男であった。こういう男に自分の繊細な問題を探られると、そのあとはどこまで広範囲にその秘密をばらまかれるか、考えるだけで恐ろしかった。せっかく一箇所に溜まっていた汚れを、わざわざ社内全土に拡散しながら飛び回るのである。A君はタバコをスーツの内ポケットにしまうと、彼とは目を合わさずに立ち上がって出ていこうとした。しかし、C先輩はすぐに後ろからA君の手を乱暴につかみ、元の場所に強引に座らせた。
「いいから、少し話を聞かせろよ……。俺がアドバイスしてやるよ(C先輩はここで一度軽く目配せをした)。あの一件はさ、俺の見るところ、おまえの責任じゃねえよ。あれはBが悪いんだろ? 俺が聞き集めた情報によれば、全部あいつの雑な仕事のせいだ。あいつがきちんとお客の要望をおまえたちの部所に伝えていれば、あの事故は起きなかった。でも、おまえとBは同期で仲が良かった、昔はな。その関係が疎遠になったのは、別の部署に異動になってからだ。だが、おまえにはBに対する愛着が残っている。だから、あいつの不利になることを素直に上司に伝えられずに悩んでいるってわけだ……」
相変わらずC先輩は少ない情報と勝手な憶測だけで事の顛末を考えてきたらしく、偉ぶってそんなことを言い出した。A君は慌てて右手を振ってそれを否定した。
「そういうわけではないんです。あれは僕も悪かったんです……。僕がもっと丁寧に指示書を読んで仕事の内容を理解していれば……。ただ、ちょっと……、お互いのミスだったのに、Bの言い方がかなり強気だったので頭にきてしまって、それで口論になってしまったんです……」
「いいから、素直になれって。今後、この会社で長くやっていくためには、こういう問題は大事なんだよ。後ろに引いてばかりじゃだめなんだ。他人の信頼を得ることはできないんだ。きちんと自分の言い分を通して処理しなければならないんだ……」
「いえ、そのことは本当にもういいんです……。あれからいろんな人と話し合って対策を考え、問題はあらかた片付いたんです……。本当にもう大丈夫で……」
A君は苦しそうにそう返答した。現実には問題は解決しておらず、まだあちこちで危険な火がくすぶっていたが、これ以上、C先輩に厭味ったらしく根掘り葉掘り聞かれるのが嫌だったのだ。しかし、無神経なC先輩はA君のそんな気持ちを慮ってはくれなかった。
「なんでだよ。いいことはないだろ? まだ、管理職のやつらはこの問題でせかせか動き回ってるぞ。上層部だけで緊急の会議もやってる。顧客だって、不良品なんだから、もう少し値引きしろって騒いでいるらしい。おまえ、Bと激しい口論になったらしいな。あいつとはその後ちゃんと話したのか? 仲なおりできたのか?」
「ええ……、もう昔の通りに話すことができてます……。僕の意思も彼に伝えました。上司にも、この一件は個人の犯した問題ではなくて、いろんな部門が少しずつミスを犯した結果起きたものだと、そう伝えましたし、上司にもそれで納得してもらえました」
C先輩はそれを聞いても、微塵も納得せず、その鋭い目を輝かせた。
「じゃあ、なんでこんなところに引き篭ってるんだよ。問題が解決したんだったら、さっさと表に出ていって堂々と働けばいいだろ。もう、何も怖いものはないはずだろ。俺の見るところは違うな。おまえは最近何かに怯えているように見えるよ。この会社に居づらそうに見える。辞めようとさえ考えている。お前が気持ちよく働けない、何か障害のようなものがあるんだろ? そのことを話してみろよ」
「いえ、もう、本当にいいんです……。先輩に聞いてもらわなければいけないような重大な問題はありませんので……」
A君は必死な顔でそう釈明して立ち上がろうとしたが、奈落を見たいC先輩は、彼がここから逃げようとするのを決して許そうとはしなかった。
「俺の見るところ、おまえはでかい問題を内側に抱えて悩んでいるよ。信用のおけない人間にはなかなか相談できない、悩ましい問題があるんだろ? きっと複雑な人間関係が産んだ、込み入った話だよな。俺が聞いてやるよ。少し時間をとってやるから、ここで話てみ?」
C先輩はさらに蛇のような嫌らしい目つきになってA君に迫ってきた。本当は好奇心から他人の不幸話を聞きたいだけで、親身になってそれを解決するつもりなどこれっぽっちもないのだろうが、猟奇的で異常にしつこい性格のため、A君はこれはもう、悩みをさわりだけでも打ち明けない限り、ここから逃がしてはもらえないであろうと、いつしか悟っていた。彼は仕方なく、問題の一端を話すことにした。
ここまで読んでくださってありがとうございます。




