第1章 部室の先輩
三年が経った。
高校の入学式の日、桜はもう半分ほど散っていた。校門から続く坂道には、風が吹くたびに白い花びらが舞い上がって、新しい制服の肩や、慣れない革靴の先に、静かに降りかかった。
ぼくは式のあいだ、ほとんど前を向いて座っていた。校長先生の話も、来賓の挨拶も、遠くで鳴っている音楽のように聞こえた。覚えているのは、体育館の高い天井と、パイプ椅子の冷たさと、隣の席の男子が何度も小さくあくびをしていたことくらいだ。
式が終わると、教室で簡単な説明があった。教科書の配布、明日からの日程、部活動の見学期間について。担任の先生が配ったプリントの最後のページに、部活の一覧が載っていた。野球部、サッカー部、吹奏楽部、美術部。名前が並んでいる中で、ぼくの目は自然と、ある一行で止まった。
将棋部。
ほかの部と同じ大きさの文字で、そこにあった。部員募集中、活動場所は旧校舎三階。それだけが、小さく書き添えてある。
ぼくは特に迷わなかった。プリントを二つに折って、鞄の底に押し込んだ。
放課後の校舎は、まだ入学したばかりの生徒たちのざわめきで満ちていた。廊下では、部活の勧誘のビラを配る上級生たちが、通りかかる一年生に次々と声をかけていた。ぼくはそれを、人の波の端を歩くようにしてやり過ごした。
旧校舎は、本校舎の裏手にあった。渡り廊下を抜けた先に、少し色の褪せた、四角い建物が静かに立っている。窓ガラスは古く、陽が当たると、ところどころ波打つように光った。ここには、文化系の部室がいくつか集まっているらしい。
階段を上がるたびに、木の床がきしんだ。二階までは、軽音部の練習の音が聞こえていた。三階に着くと、それも遠くなって、廊下はしんとしていた。
端の部屋の扉には、手書きの札が掛けてあった。「将棋部」。文字は、少しかすれていた。
ぼくはノックをして、扉を開けた。
部室は、思っていたより広かった。長机がいくつか並んでいて、壁際の棚には、古い将棋の本と、使い込まれた駒箱が積まれている。窓が大きく、夕方に向かって傾き始めた陽が、床に長い四角を作っていた。
その光の中で、一人の女の人が、盤に向かっていた。
制服のリボンの色は、三年生のものだ。長い髪を耳にかけて、右手に駒を一つ持ったまま、じっと盤面を見つめている。駒を持つ指は細くて、それなのに、盤に向かう背中には、少しも揺らぎがなかった。ぼくが扉を開けた音にも、彼女は顔を上げなかった。
しばらく、ぼくは入り口に立っていた。
やがて、彼女は駒を静かに置いた。ぱちん、という小さな、けれどよく響く音が、部室に広がった。
「……ああ、ごめんね」
顔を上げた彼女は、ぼくを見て、少し驚いたような顔をした。
「一年生? 将棋部に見学の子が来るの、ひさしぶりだな」
「はい。あの、見学したくて」
「どうぞどうぞ。座って。……と言っても、今、部員は私一人なんだけど」
「一人、ですか」
「去年、先輩たちがみんな卒業しちゃって。その前の年は三人いたんだけど」
彼女は盤の上の駒を、一枚ずつ静かに崩しながら言った。
「団体戦は、三人いないと出られないの。だから、このままだと、最後の大会にも出られなくて」
笑いながら言った。困った、というより、あきらめることに慣れた人の笑い方だった。
「私は佐藤麻衣。三年生。君は?」
「朝倉湊です。一年です」
「湊くん。将棋は、指せる?」
「中学から、少しだけ」
「少しだけ?」
「はい」
麻衣先輩は、向かいの椅子を、そっと指さした。
「じゃあ、一局、指してみようか」
駒を並べる手つきを見て、ぼくはすぐにわかった。この人は、本当に将棋が好きなんだ、と。一枚一枚の駒を、置くたびに、小さな音が響く。その音の間隔が、どこか心地よかった。
先手はぼくだった。
最初の十手ほどは、普通の流れだった。ぼくは、中学のときに覚えた定跡をなぞって、飛車先の歩を突いた。麻衣先輩は、ほとんど考えずに、すっと同じ手を返してきた。
おかしいと思ったのは、二十手を過ぎたあたりだった。
何も、おかしい手は指されていない。それなのに、気づくと、ぼくの陣形は、少しずつ、少しずつ窮屈になっていた。逃げ道が、一つずつ、静かに塞がれている。どこで間違えたのか、わからない。ただ、どの手も、あとから見ればひとつの意図でつながっている。
三十手を過ぎたころには、ぼくは、盤面ではなく、麻衣先輩の指先を見ていた。迷いのない指が、駒を持ち上げて、置く。そのたびに、ぼくの持ち駒が、確実に減っていく。
十五分後。
「……負けました」
盤の上には、ぼくの王が、逃げ場のない形で残されていた。何をされたのか、すぐには説明できなかった。ただ、きれいだった。
「強いですね」
「うん。強いよ、私」
麻衣先輩は、さらりと言った。自慢している感じは、まったくなかった。天気の話をするような、当たり前のことを言う声だった。
「でも、湊くんも、悪くなかったよ。序盤の形は、ちゃんとしてた。中学のとき、誰かに教わったの?」
「……いえ。本を読んで、自分で」
「そっか。独学で、あそこまで」
麻衣先輩は、駒を拾いながら、少しだけ考える顔をした。
「私ね、最後の大会で、優勝したいの」
窓の外で、夕日が、校庭の端をゆっくり染めていた。
「そのために、三年間、ずっとやってきたから。去年は、あと一つのところで負けちゃって。だから今年は、絶対に。……でも、三人そろわなきゃ、出られないんだよね」
自分に言い聞かせるような声だった。
麻衣先輩は、駒を一つずつ、箱の中に戻していった。木の駒が箱に触れる音が、静かな部室に、ぽつり、ぽつりと落ちた。
「ねえ、湊くん」
「はい」
「どうして、将棋部に来たの?」
ぼくは、少しだけ考えた。
窓の外の夕日が、ゆっくり低くなっていく。
「……なんとなく、です」
麻衣先輩は、それ以上は聞かなかった。「そっか」と、短く言って、最後の駒を箱に収めた。蓋を閉じる音が、小さく響いた。
「また、来てくれる?」
「……はい」
「ありがとう」
先輩は、笑った。さっきの、あきらめに慣れた笑い方ではなかった。ほんの少しだけ、本当に嬉しそうな顔だった。
帰り道、旧校舎の階段を降りながら、ぼくは、なぜか、足取りが軽くなっていることに気づいた。




