【外伝9】スタート
空は、日本と違いがないものだと思った。
ドイツに来ても、特別に何か大きく違うものがあるかというと、日常生活を送る上では、気になるところはなかった。
天野は、自動車用のサーキットをいくつか走っていた。
袖ヶ浦フォレストレースウェイ。九州でも、大分のSPA直入、HSR九州、オートポリスなど、自転車ロードレースが開催されるサーキットは、だいたい走った。
ただ、このニュルブルクリンクは、一周の距離が25km超と規格外だ。
当然、試走などはしていない。1周回るだけで疲れ切ってしまう。
スタートの合図が鳴った。
前方でカチカチと、ビンディングシューズのクリートをはめる音が聞こえてくるが、隊列は一向に動こうとしない。
前方から順次動き出しているのだろうが、天野と裕理がいる地点はそこから離れすぎている。
「間違いないのか、天野」
「はい、ゼッケン番号は青山のものでした」
違和感を感じたのは、チームキングプロサイクリングのジャージを着た二人組だった。唯一のプロチームだけあって、スタートラインの最前列に誘導されて行っていたが、その片方の選手だけ、ゼッケン番号が4桁だったのだ。天野が記憶している限り、キングの選手たちは全員1桁のゼッケンを割り当てられている。
天野たちの位置も、ようやく動き出した。だが、まだ密集して動いている。ある程度は、審判車のペースに従って動くのだろう。渋滞している。
「とにかく、青山に合流しなければなりません」
「よし、行け」
貴方は来ないのか、とは思わない。逐一そういうところを指摘していたのでは、裕理とはやっていけない。
とにかく、冬希と合流して話をしなければ始まらない、と天野は思っていた。ただレースを走りました、という事実だけを持ち帰るということは避けなければならない。
少しずつペースが上がり、隊列もばらけてきた。
多少強引でも、スペースを見つけては前に進む。怒号を浴びせられることもあった。だが気にはしない。どのみち、彼らが何を言っているかはわからないのだ。
6㎞を過ぎたあたり、急な下り坂。日本で走ったサーキットでは、ありえない勾配だ。
下りの心得は十分にあった。脊振山、三瀬峠などでさんざん練習してきた。
1年の頃、坂東から教わった。ブレーキに手をかけ、常にわずかにブレーキが触れた状態を保ち続ける。曲がり切れない時、後輪のブレーキだけを強く握ることで後輪を滑らせ、方向を転換する方法も習った。ただしこれは体重移動が難しい事と、タイヤがボロボロになっていくので、ほとんど使ったことは無い。
幸いなことに、ニュルブルクリンクの下り坂は、天野にとってそこまで急なカーブはなかった。
隊列は完全にばらけている。
低い姿勢を取り、極力空気抵抗を減らす。
時速は100㎞/hを超えている。だが、恐怖心はない。
冬希は下りが得意ではなかったはずなので、差を詰められたのではないかと期待した。だがその後ろ姿はまだ見えない。
下りきって、次に上りが始まった。
獲得標高は1周で500m程度というが、もっとあるのではないかというほどの上りだ。
渋滞に巻き込まれていたことと、下りが多かったため、心拍が上がり切っていない。試走も行っていないため、ウォーミングアップもろくに行っていない。
苦しい。
あまり調子が良くないのかもしれないという気もしてきた。
ギアを極力軽くし、ペダルを多く回すことで、まずは心拍を上げることを心掛ける。
少しずつ楽になってきた。
ケイデンスを上げる。体格のいい選手たちを、体重の軽い天野はどんどん抜いていく。彼らはおもりを背負って走っているようなものだ。
かなりの選手を抜いたところで、キングのジャージが見えてきた。
ゼッケンを確認する。
冬希だ。
「青山、ようやく合流できた」
「来たか、天野」
「キングのレプリカジャージでも手に入れたのか?」
「残念ながら、本物だ」
冬希は苦笑しながら言った。先頭に案内されていた時点で予想はしていたが、経緯が理解はできない。
「どういうことだ。いったい何があった」
「説明が難しい。言葉ではどう話すことも出来るが、本当の事を伝えられない気がする」
天野はそれ以上の説明を求めなかった。誤った理解をするぐらいなら、聞かない方がまだいいということもある。
「牽くぞ。後ろに入ってくれ」
上りのペースはそれほど早くないが、冬希の表情には余裕があった。
「ここは先頭からどのぐらいの位置になるんだ」
「わからん、だがそこまで離れてもいないと思う」
冬希が視線を前にやった。
前方には、キングのジャージの他、グロッグ、ダナー、ハーネ、ヘルマンといったドイツのコンチネンタルチームのジャージもちらほらと見えていた。
「キングがレースを牽引すると思っていたんだが、想定が外れたな」
「今はアマチュアのチームががんばって集団を牽引している。勝とう、というより無理してでもがんばって目立とうと、最初から思い定めているような動きだった」
「各チームの選手が散らばっているという事は、どこも序盤はまとまった動きをするつもりがないのか」
「少なくとも、プロチームであるキングは序盤から仕事をするつもりはないようだ」
「なぜそんなことがわかる」
「キングのモーターホームを見た。ウォーミングアップ用のローラー台は1台も無かった」
「キングのモーターホームだと。青山」
「ああ、中にも入ったぞ」
「本当になにがあったか、僕は聞きたくなったぞ」
天野は本気で事情が知りたくなった。プロチームのモーターホームに部外者が入るなど、考えられないことだ。
「そのジャージもそうだが、問題にならずに済むとは思えないな」
「日本に逃げてしまえば、まあ大丈夫だろう」
冬希自身が何か問題のある行動をとったとは、天野は思わなかった。
そういう男ではない。
天野は小さくため息をついた。
「青山、だんだん裕理さんに似てきたな」
「腹をくくると、行きつく先は同じなのかもなぁ。これが収斂進化という奴か」
その理屈だと、人間はみんな裕理みたいな性格を目指していくことになる。それはちょっと嫌だなと、天野は思った。
「これからの展開を考える必要がある」
「俺はもう考えているよ。天野」
「まず青山と合流する事。そしていつでも仕掛けられる位置にいること。僕の頭は、そこまでしか働かなかった」
「まず、この一周はコースレイアウトを把握することに注力しよう」
「そんな悠長なことでいいのか、青山。前方に位置しなければ、勝負に絡めないぞ」
「ブランデルが居れば、キングが先頭を牽引している。チームがばらけているということは、ブランデルは先頭集団にはいないということだ」
「キングや4つのコンチネンタルチームが協力して集団を牽き始めたら、アマチュアの逃げなど一瞬で飲み込まれる。そこからは早いぞ」
「だから、彼らが序盤からがんばる必要はないと考えるのではないか。4周中の2周目までは、こちらも脚を温存しよう」
スタートから、焦って冬希に追いついてきた天野は、泰然自若とした冬希の態度を見て、落ち着きを取り戻しつつあることを自覚した。
それぞれ別の高校のエースとして戦ってきたあいだではあったが、エースが落ち着いて見せることで、仲間に安心感を与えるということがあるということを、天野は冬希を見て実際に感じ取っていた。
これもエースとしての資質なのかもしれない。
「わかった。青山の言うとおりにしよう」
「裕理さんはどうする」
「あの人はあの人で、何かしら自分の戦いをやっていると思う」
「本当か」
「何か考えて動いているのではないか。あらためて聞かれると、あまり自信はないが」
「おい、天野。1周25㎞を周回遅れになって、先頭をブロックするとかはさすがにやめてほしいぞ。俺らも含めて袋叩きにあうぞ」
「そうなれば、日本に逃げてしまえばいい」
「自分でも言っておきながらなんだが、酷い考えだな」
トップチームの選手たちは、相変わらず集団の中でバラバラに走っている。
天野は、彼らが動き始めるタイミングにだけ注視しながら、今は脚を溜めつつコースに慣れることに集中することにした。
まだレースは長いのだから。




