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年下の上司  作者: 石田累
39/202

story7 October もう1人の年下の上司(1)

「ブス!」

 幼稚園、幼馴染に告白した直後に言われたセリフ。

 

「なんかきもくねー? あの女」

 小学校、偶然聞いた男子の会話。

 

「綺麗に生んでやれなくて、ごめんな」

 真顔でそう言ったのは父親だった。

 

 てゆっか、いらないし、そんな謝罪。

 

 高校生、すでに私は悟っていた。

 死んだばぁちゃんが言ってたとおりだ。

 世の中は美醜が全て。

 見た目よければ、全てよし。

 見た目が変われば――人生も変わる。

 

 

 *************************

 

 

「やっちゃったんだ」

「やっちゃったわよ」

「……へぇ……果歩がねぇ」

 綺麗な目を何度か瞬かせたりょうが、再び頬杖をついて空に目を向けた。

 灰谷市役所本庁舎屋上。

 昼休みも、あと数分で終わる。

 10月の晴天。2人の黒い影が、コンクリにくっきりと浮き出していてる。

「まぁ……今度ばかりは、藤堂さんが悪いと思うのよね」

 言い訳がましく果歩は続けた。

「ふぅん」

 さほど興味なさそうな横顔で、りょうは乱れた髪を背後に流す。

「どおりで最近、電話しても覇気がないと思ったら」

 同期入庁で、人事部人事課、男もうらやむ出世頭の宮沢りょう。一応、女――素材としては一級品といっていいほどの美貌の持主だが、仕事では、まさに男で通している。

 30歳にもなってノーメイクの同期を、果歩はりょう以外、他に知らない。

 性格さながら、恋愛に対してもさばけているりょうは、果歩に言わせれば最初から「藤堂寄り」だ。

 今も、女丸出しでぐずぐずしている果歩を、多分じれったいと思っているし、子供だと呆れているに違いない。

「だってよ、よりにもよって、連れて行かれた日に、別の女が部屋にいたのよ」

「女、ねぇ」

 りょうの声は冷めている。

「何か事情があるとは思うけど、どうせそれ、聞いてないんでしょ」

 ぐっと詰まって、果歩は思わず視線を下げる。

 それは……まぁ、理由も聞かずに、飛び出してしまったのは軽率だったけど。

「でも、でもよ? その女が、よりにもよって、職場の後輩ときてるんだから。ここまでバカにされたら、普通、怒ると思わない?」

 だからといって、理由もきかずに、殴ってしまった言い訳にはならないけど――。

 りょうは何も言わず、ただ頬杖をついて空を見ている。

 果歩もなんとはなしに気勢を失い、同じように空を見上げた。

 ――確かに……私も、悪かったのよね。

 というより、部屋にいた相手が悪かった。

 よりにもよって――以前も、果歩から元彼を奪った前科つきの女、須藤流奈。

 果歩にしてみれば、二度と経験したくないトラウマだし、二度と恋愛面では係わり合いになりたくない女である。

 もし出てきたのが別の女だったら(まぁ、それでも怒っていただろうが)、あそこまで冷静さを欠くこともなかったかもしれない。

 やっぱり、理由とか事情とかあったのかな。

 それを私、聞いてあげるべきだったのかな……。

「で?」

 りょうの声がした。

「どうやって殴ったの? ぐー、ぱー? それともちょき?」

「え?」

 ちょき??

 果歩は耳を疑って、隣立つ友人をみあげる。りょうは冷めた目のまま、口元だけでへらっと笑った。

「殴っちゃったんだー、そっかぁ」

「…………」

「それはそれは、さぞかし、すっきりしたでしょうねぇ」

 す、すっきりしたって。

 口を半ばあける果歩を遮るように、りょうはうるさげに片手を振った。

「男なんて所詮、産ませる機械にすぎないんだから。ほっとけほっとけ、そんなくだらない浮気男」

「…………」

「孕ませロボット。作動可能領域は、ピストン運動だけだったりしてー」

「はい??」

 りょ、りょうが、おかしい。

「そもそも女舐めてるね。何様だっつーの、たかだか男ってだけでえらそうに」

「……いや、別に」

 藤堂さんはえらそうにしてるわけじゃ。

「果歩は悪くないし、それでいいのよ。もういいじゃない、そんなうすらトンカチの木偶の坊」

「ちょっ、それはちょっとないんじゃない?」

「鈍感だから許されると思うのが大間違いよ。悪意のない罪が、実は一番重いし残酷なんだからね」

「いや、だから」

「年下だからって、あの図体のでかい僕ちんは、果歩に甘えてんじゃないの」

「りょう、やめてよ、そんな言い方」

 と、なんで自分がそこで藤堂さんを擁護するのか。

 果歩は、自己矛盾に首をかしげながら黙り込む。

「男なんていなくても、人生楽しく生きられるんだからさ」

 どこか遠くを見ながら、りょうが独り言のように呟いた。

「あの、りょう?」

「んー?」

 もしかして、長瀬さんと何かあったかな、と思ったが、それは口には出せなかった。

 市内のバーで雇われ店長をしている長瀬高士。年齢不詳、過去の経歴も一切わからない美貌の男だ。その、ちょっとばかり危険な匂いの漂う男に、色気という意味では危険っけなしのりょうが、多分、何年も片思いを続けている。

 が、正直言うと、りょうと長瀬は、それなりに両想いの関係だと果歩は勝手に思っている。

 時々2人きりで飲んでいるようだし、交し合う眼差しに、男と女の……なんというか、他人が入り込めない親密さ、みたいなものを感じてしまうからだ。

「てゆっか、こんなところでぼやぼやしてていいの、果歩」

 横顔のままで、りょうが言った。

「あんたのとこ、明日から本省の派遣が来るでしょ。今、ばたばたしてんじゃなかったっけ」

「あっ、そうだった」

「あと1分で休憩終わりよ」

 そうだった。

 遡ること3日前、驚くべき人事異動が灰谷市人事課から発表された。

 都市計画局政策部政策課に、係長が一人増員されることとなったのである。

 単なる増員ではない。本省、国土交通省からの派遣である。本省職員がパイプ役として地方に派遣されるのはよくあることだが、年度途中というのは珍しい。

 ファックスで、急ぎ取り寄せた履歴を見た果歩は、先月、臨時職員宇佐美祐希の履歴を見た時より驚いていた。

 赴任してくるのは女性――しかも、24歳である。

 それがいきなり係長職に就くのだから、昇進ルールってなんなの? と首を捻りたくもなる。が、もちろん本省のキャリアに末席を与えるわけにもいかず、役をつけるのは妥当な扱いになるのだろう。

「前園君はやりにくいだろうけど、女ってのが救いかなぁ。こういうとき、同性の上司のほうが逆に辛かったりするのよね」

 空を見上げながら、りょうが呟く。

「晃司は大丈夫よ。……上手く立ち回ると思うわ」

 そう言いながら、果歩もまた、少し気鬱な溜息をついた。

 そう――本省から来た新人の係長は、前園晃司、果歩の元彼の直接の上司になってしまうのだ。

 晃司は28歳。新人係長は24歳。言ってみれば、もう1人の「年下の上司」の誕生である。

「でも、ほんと市って、国には立場がないわよね」

 思わず果歩はこぼしていた。

 立場がないというか、頭が上がらないというか。

 こんな無理な人事異動を受け入れた背景に何があるかは知らないが、市にしてみれば、間違いなくお荷物である。

 しかも、腐っても本省職員。いずれ国に戻る人が来るとあって、都市計画局は今、上へ下への大騒ぎだ。わずかでも国の目に触れたらまずい「文章」を洗いだし、徹底的に整理、破棄しているのである。

「地方分権って何? よね、しょうがないわよ、結局頭下げて予算もらうシステムになってんだから」

 吐き捨てるようにりょうは呟く。

 ――りょうは……急がなくていいのかな。

 あと数十秒でチャイムが鳴るだろうに、りょうはそのままの姿勢で、まだ空を見上げている。

「ま、国に逆らっていいことなんて何もないんだからさ。せいぜい、機嫌とって、顔でも繋いどきなさいよ」

 何故か投げやりな口調で言って、りょうは、ようやく顔をあげると、果歩の先に立つようにして歩き出した。


 *************************


「おおっ」

 と、声にならないどよめきが聞こえたような気がした。

 パーティションをくぐった女が微笑んだ途端、全員が思わず顔を上げた。

 砂漠のオフィスにぱっと大輪の花が咲いたような――そんな華やかさに包まれた、午前10時の都市計画局総務課。

「お早うございます。今日付けで都市政策部、都市政策課に転属になりました、入江耀子です」

 小気味よいほど、はきはきとしたスタッカート。

 簡潔な挨拶を済ませた女は、案内役の藤堂に先導されるようにして、局長室に消えていった。

 着任1日目、これからが本格的な局内挨拶回りである。

 那賀局長、春日次長に始まって、都市計画局各課を辞令書を持ってまわるのだ。

「綺麗な人だなー」

「へー、なかなか感じがいいですね」

 ひそひそと囁かれる中、ぽかんと口を開けて、女の消えた局長室を見つめている男がいた。

 南原亮輔、31歳。

 ――へぇ、南原さんでも女の人に見惚れることがあるんだ……。

 と、不思議な微笑ましさを覚えた果歩だが、くるっと背後を振り返った南原は、眉を上げたままでこう言った。

「でけーな」

 な、南原さんのポイントってそこか。

「藤堂と一緒にいて、ちっちゃく見えない女って初めてじゃね?」

「……そうですねー、170は超えてそうですね」

 と、ワンテンポ間をおいて言葉を返したのは、南原の腰巾着、水原真琴。

 身長160センチとちょい。

 多分、背の話題に触れてほしくないから即座に相槌が打てなかったのだろう――と、果歩はちょっと意地悪く推測する。

 実際、新任の女性係長を見る水原の微妙な上目づかいは、「間違ってもあの隣に並ぶもんか」と暗に呟いているようにも見える。

「行管の柏原補佐も、モデルばりの人だったけど。あれだね、本省ってのはもしかして顔で新人選んでるんじゃない?」

 珍しく長いセリフを口にしたのは、常に存在が薄い――ついでに言えば頭髪も薄い、事なかれ主義の大河内主査。

「あー、いえますよね」

 相槌を打ったのは南原だった。

「てか、最近は男も顔で選んでんじゃないかって気がしますよ。 ここ2、3年の新人って、みょーに顔がいい奴が多いよな、な」

 と、南原、イケメンには程遠い、ここ2、3年の新人、水原を振り返る。

「………ですよねー」

 さっきより三拍置いて答えるシーズー(注・果歩とりょうがつけた水原のあだ名)の目は、心なしか「空気読めよ」になっているような気がした。

「大丈夫でっせ!」

 と、いきなり男3人の間に陽気な関西弁が割って入った。

 それは、果歩の真後ろで、しかもフロア中に響きそうなほどの大声で――果歩は、ぎょっとしながら振り返っている。

 案の定、宇佐美祐希が、白い歯を見せながらウインクをしていた。

「俺、浮気なんてせえへん性格です。俺の中ではいつでも、果歩さんがナンバー1やから!」

 今月いっぱいの期限で雇用している、臨時職員。都市計画局初の、男性アルバイトである。

「そ、それはどうもありがとう」

 この罪のない迷惑行為に、果歩としては、それだけしか答えられない。

「果歩さんは、都市計画局のアイドルや! お姫様や!」

 ぶっと、背後の南原と水原が同時に吹き出した。

 つられるように、大河内主査も笑い出す。

 まぁ――。

 果歩は軽く息を吐き、窓の外、晴れ渡った秋空を見上げた。

 なんだかんだいって、いい雰囲気の総務課である。

 果歩がここに赴任してきて7年、今ほど人間関係が柔らかく思えたこともない。

 ただし、この雰囲気は課全体ではなりたたない。常に1人いない時に限られるのだ。

 計画係の補佐、中津川が席を開けている時に――。

 南原が視線をパソコンに戻し、水原が気まずげに咳ばらいをした。不自然に談笑が途切れる気配だけで、果歩にも判る。

 当の本人、中津川補佐のご帰還である。

 仏頂面をむうっと押し隠して自席に戻る中津川の手には――缶コーヒー。

「補佐、今、局長室に、例の本省の子が来てますよ」

「そうかね」

 プライベートでは釣仲間である谷本主幹のとりなしにも、表情は変わらない。

 プシッ……。

 静まり返った執務室に、これみよがしに響くプルタブの音。

 ――はぁ……。

 果歩は溜息をつき、手元の仕事に視線を戻した。

 先月、課内全員の話し合いで決めたお茶、コーヒーの当番制。

 課長補佐を除く全員でカップ洗い当番を決め、コーヒーはセルフサービス、来客用カップは使い捨てに変えた。

 変化といえば、たったそれだけのことなのに――今まで「雑用は的場さんの仕事」と思いこんでいた男たちの気持ちの箍が外れたのか、朝は一番早い南原がコーヒーを淹れ、水原が机を拭き、大河内主査や谷本主幹が再生紙を捨てに行ったりするようになった。

 まだ多少の居心地の悪さはあるものの、なんとなく和気あいあいの総務課なのである。

 が――その輪の中に、中津川だけが入らない。

 意地というにはあまりに依怙地に、1人、缶コーヒーやペットボトルのお茶を飲み続けているのである。

 一度だけ、見るに見かねた果歩がコーヒーを机に置いてあげたことがある。

 が、そのカップは、コーヒーがなみなみと注がれたまま、5時まで手をつけられることはなかった。

 そういえば、そろそろかな。

 果歩と、ふと、腕時計に視線を落とした。

 新人係長騒動ですっかり忘れていたが、そろそろ、果歩だけが抱えている、もう一つの問題がやってくる時間である。

「おっはようございまーす」

 時計から顔をあげるタイミングを見計らってでもいたかのように、からっと明るい甘え声が、高らかにフロアに響きわたった。

 ――来たよ、来たよ……。

 表情を変えず、果歩はそっと肩だけをすくめる。

 その声は、すでに勝利者の抑揚を帯びている。

 相も変わらず市民感情を逆なでしているとしかいいようのないスタイル――膝上15センチのミニスカートで現れたのは、目下、恋の勝利者、須藤流奈だった。

 カウンターに身を乗り出した都市計画局のモーニング娘。は、マスカラでばっちりあげたつぶらな瞳を巡らせて、視線を果歩の上でぴたっと止めた。

「的場さーん、藤堂さんいま」

「藤堂ならいねーよ」

 みなまで言わさず、遮ってくれたのは南原だった。

 いや、腐っても直属の係長を指して、その言い方はないと思うのだが仕方ない。

 実際、須藤流奈の、日に一度の「藤堂詣で」には、総務の誰もが、呆れかえっているのである。

「えー、どこ行っちゃったんですかぁ」

「局長室。つか、須藤さん、今仕事中だって自覚あんの?」

 ひやっとするほどきつい南原の一言だが、恋に浮かれた女には通じない。

「ありますよぉーっ、あったりまえじゃないですか」

 しーん。

「……藤堂さんなら、今、政策課の新しい係長を連れて、局長にご挨拶の最中よ」

 たまりかねて、果歩は言った。

 本当は、顔を見るのさえ嫌だが仕方がない。流奈一人が冷笑されるのは痛くも痒くもないが、この件で嘲笑われているのは、藤堂も同じなのである。

「これから御一緒に各課を回った後、局長クラスも一通り回るようだから、午前いっぱいは席にいないんじゃないかしら」

「へー、ふーん、そうなんですかぁ」

 果歩が口を挟むのを待っていたかのように、流奈の表情はますます勝ち誇った厭味なものになる。

 さすがにむっとしたが、自分にはもう関係ないと思いなおした。

「係長が戻ったら、須藤さんに電話をいれるように伝えましょうか」

 それでもバチバチッと迸った火花は、恋の最後の残り火なのか。

 隣で、宇佐美がごしごしと目をこすった。

「気、気のせいやろか、果歩さんの顔が、今般若に……」

「黙っとけ」

 即座に南原に小突かれている。

「いいですよ。わざわざ的場さんにお願いする必要なんてないですし」

 果歩の強がりなどお見通しのように、流奈は鼻で笑って肩をそびやかした。

「藤堂さんに用がある時は、私からかけますから」

「じゃ、そうしてください」

 強張った微笑のまま、果歩は――怒りをぎりぎりで飲みこみながら、パソコンに視線を戻した。

 腸が煮えくりかえるとは、今の状況を指して言うのかもしれない。

 もう悲しみはとうに超えて、今はむしろ、こんな自分を嘲って笑い飛ばしたい気分である。

 あれから一言も弁明しない藤堂と、一言も問い詰めない果歩。

 態度だけは互いに大人でいつも通り。最初憤っていた果歩が、「もしかして事情があったのかも……」と迷い始めても、藤堂の態度が変わることはない。

 ここに至って、ようやく果歩は、はっきり理解するようになっていた。

 ――藤堂さんは……私と、距離をあけようとしてるんだ。

 一方、藤堂と流奈の距離は、ますます縮んでいるように思えてならない。

 藤堂の本音は相変わらず不明だが、しつこく「藤堂さーん」とやってくる流奈を、さほど疎んでいるようには思えない。

 歓迎している……といえば、言い過ぎだが、なんとなくほっとしているような、そんな表情に見えるのだ。

 まるで――これは、果歩の一人合点かもしれないけれど、まるで、これを機に、完全に果歩と縁を切ろうとでもしているかのように。

 ――もう、本当にいいんだ、藤堂さんのことは。

 未練じみた嫉妬を見せた自分が情けなくなって、果歩はふっと溜息をついた。

 流奈との関係の真偽は知る由もないが、藤堂に、果歩との仲を修復する気持ちがないことだけは確かである。

(僕は、まだ、……結婚とか、そういうことが考えられる立場ではないので)

(責任の持てない立場で、中途半端におつきあいするのはどうかと、……正直言えば、そう思いました)

 思えばあれが、偽らざる藤堂の本音だったのである。

「それにしても、余裕ですねー。今度の係長って、須藤さんの課にくるんでしょ」

 まだカウンターで肘をついてブラブラしている流奈に、水原が不思議そうに声を掛けた。

 流奈は、興味なさげに肩をすくめる。

「うん、でも私の係じゃないし。あまり興味ないって感じ?」

「気楽でいいなぁ、須藤さんは。僕だったら2歳も年下の上司なんて、屈辱的すぎて耐えられないけどな」

 今度は果歩の隣で、南原の額にびしっと亀裂が入っていた。

 けらけらっと流奈は笑った。

「屈辱も何も、住んでる世界が違い過ぎるもん。競おうっていう気にもならないし……なんて言うのかな、勝負所が違うって感じ?」

 ガチャリ、と、局長室の扉が開いたのはその時だった。

「いやー、はっはっはっ、なかなか可愛らしくて愛嬌のあるお嬢ちゃんじゃないか。いい子が来てくれて、僕は本当に安心したよ」

 セクハラまがいの言葉を吐きつつ、上機嫌で出てきた那賀局長。

「な、君もそう思うだろう、藤堂君」

「はぁ……」

 相槌を求められた藤堂の顔も引きつっている。

 果歩もまた、半ば腰を上げそうになっていた。

 お嬢ちゃん――灰谷市服務管理マニュアルによれば、正式に認定されたセクハラ用語である。果歩になら許されても、間違っても本省のキャリア――京都大学英文学部卒国家上級試験合格者に言うべき言葉ではない。

 が、新任の女性係長は、あっけらかんとした笑顔になった。

「ありがとうございます。仕事に関しては新米ですけど、愛嬌だけはありますから!」

 うわっ、人間ができてるよ、この人。

「先ほどもご挨拶しましたが、入江耀子です。みなさん、今日からよろしくお願いしますね」

 すっきりした長身、整った清楚な顔である。眉りりしく、頬骨が少し出て、やや男顔といえなくもないが、間違いなく美人の部類。

 眩しいほどの白いシャツに質のよさそうな上品なスーツ。アクセサリーは控え目だが、女の生活レベルの高さと、趣味のよさを存分にアピールしている。

 なんといっても、全身から立ち上る本省オーラは格別だ。

 うーん、やはりただ者ではない、果歩は思わず唸っている。年齢にすれば果歩より6歳も年下なのに、不思議な威厳を感じずにはいられない。

 誰からともなく自然に席を立ち、ぺこりと頭を下げていた。

「的場さん、この職場のこと、後で色々教えて下さいね」

 入江耀子は、最後に果歩を見て、少し砕けた笑顔になった。

「庶務のかたが、的場さんみたいな人で安心しました。いたらないとは思いますが、よろしくお願いします」

「あ、は、はい。こちらこそ」

 果歩はどぎまぎと答えている。

 てゆっか、私の名前……どうして。

 まだ自己紹介もしていないのに。

「いやー、藤堂君がいいだろう」

 が、そこで那賀局長が、出さなくてもいい口を出す。

「職場のことなら藤堂君に聞きたまえ。彼は君と同じで、中途採用の係長だぞ? きっと、いい相談相手になると思うがね」

「ええ、確かに藤堂さんは、とても頼りになりますね」

 弾んだ声で、入江耀子が藤堂を見上げた。

 その横顔が、とても綺麗に見えたから、果歩は違う意味でどきまぎしていた。

 ああ――もしかして、またライバル登場? あ、いやいや、ライバルじゃない。もう違う。もう、私には無関係な人なんだから。

 が、入江耀子の人を引きつけてやまない笑顔は、あっさりと果歩に戻された。

「でも、私、女性のかたに聞きたいんです。ここは男の職場だと聞いていますから、私と的場さんで、女性同盟作っちゃおうと思いまして」

 ねっ、と笑いかけられる。

 果歩は、年も忘れて、ほっと頬を上気させ、思わず頷き返していた。

 なんだろう――なんだかすごく、心強い仲間ができた気分だ。

 女性同盟、いいじゃない!

「じゃ、入江さん。次は春日次長の所に」

 藤堂が、咳払いして促し、2人は局次長室に消えていった。

「おい、須藤、お前いい加減仕事に戻ったら?」

 南原の一言で、流奈がまだカウンターに立っているのに気がついた。つられるように振り返った果歩は、少し驚いて視線を止める。

 先ほどと同じ姿勢で立っている流奈の顔が、まるで、とびきりの悪夢でも見た後のように、険しく強張っていたからである。


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