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年下の上司  作者: 石田累
20/202

story4 July 女心と夏の空 課対抗バトミントン大会(5)

「瑛士さん、がんばって」

「馬鹿っ、果歩!」

 爆笑が室内を包み込んだ。

 2人だけ、笑うに笑えない果歩と晃司をのぞいて。

「いやぁ、都市計画局に、ニューカップル誕生ですな」

「はっはっはっ、若いってのは、いいもんですなぁ」

「………………………」

 果歩は、凍りつく顔に無理に笑顔を浮かべた。

「もう、そんなにからかわないでくださいよ」

 とにかく、この誤解をなんとかしないと、今年1年この調子でからかわれ続けるに違いない。

 バトミントン大会の打ち上げは、役所の近くにある居酒屋の2階を借り切って行なわれた。局長も参加とあって、各課の補佐連中ものきなみ参加を決めている。

 宴もたけなわ。

 話題は最初から最後まで――準決勝、藤堂対晃司の試合のことだった。

「説明したじゃないですか、あれは、前園さんの作戦なんですよ」

 ねぇ、と果歩が、斜め前の晃司に同意を求めると、

「ええ、須藤さんが藤堂さんのことを、あんな呼び方をしたものですから、僕も笑わせて動揺を誘おうかと」

 果歩の意図を察したのか、すぐに晃司は真面目な顔で言い添えてくれた。

「しかし、あの試合で力尽きちゃったかね、前園君」

 その晃司の背後に、ビール瓶を片手に持った那賀康弘――この局のトップが千鳥足で歩み寄ってきた。

「あんな熱戦を見せ付けておいて、局の代表が窪塚君とは全く納得がいかないんだがねぇ」

 そう言って晃司の隣に座った那賀が、不思議そうに白髪頭をかしげている。

 激しいデュースの末、晃司は、藤堂との試合に勝った。

 が、その後の決勝では負けた。

「次、まけっぞ」

 決勝戦の試合前、果歩に予告したとおりの結末だった。

「秋までこんなイベントにつきあってられるかよ、忙しいってのに」

 晃司らしい計算高さと割り切りで――予定通り、次の試合はあっさりと敗退した。とすれば、最初から晃司の目的は、藤堂1人だったのだろう。

 その藤堂は、果歩とはかなり離れた席で、流奈や、他課のアルバイト職員の質問攻めにあっている。

 また、例のごとく「はぁ」とか「ええ」とか曖昧な受け答えをしているのだろうが、今夜、それにイラついているのは、幸いなことに果歩ではなく、流奈のようだった。

 そのことが、わずかながら果歩の溜飲を下げている。

 もちろんそれ以上に、何か空っぽになったような、むなしい気持ちの方が大きいのだけど。

「的場君」

 半ば空になったビール瓶を手に、那賀が膝でにじり寄ってきた。

 果歩は少し背後に下がり、その那賀のためのスペースを作ってやる。

「腰の具合はどうですか」

「なぁに、はっはっは、絶好調絶好調」

 と、わけのわからないことを言いつつ、那賀がビールを注いでくれた。

 もともと酒に強い方ではない那賀は、すでに相当出来上がっているようだった。

 それにしても、今夜はかなりの上機嫌で――いつも機嫌のいい老人だが、今夜のテンションの高さは、少し普通でないような気もする。

「僕はねぇ」

「飲みすぎですよ、局長」

 冷の杯に手を伸ばした那賀を、果歩はそっとたしなめた。

 縁故と議員の力で局長になった――と、陰口を叩かれている男である。果歩が知る限りでも実際そうだし、すでに、その那賀をバックアップしてきた市議は落選、支えを失った那賀に、今、役所ではなんの力もない。

 決裁にはろくに目を通さず、重要な会議や決定は、全て局次長の春日に任せ切り。

 確かに上司としてはあまり尊敬できない男だが、果歩は、この定年前の老人を、実の祖父のように信頼していた。

 仕事とは離れた部分で――人間として。

 なにしろ果歩が新人の時から、ずっと見守ってきてくれた男なのだ。

「僕はねぇ、的場君」

 ふにゃっと崩れるように前かがみになりながら、那賀は続けた。

「君の行く末が、心配で心配でしょうがないんだ。私なんかについてきたばっかりにねぇ」

「………局長」

 那賀のお気に入りで、実際、直々に那賀に引っ張られてここにいる果歩は、那賀の退職と共に都市計画局を出されるだろうと噂されている。

 そして、今の那賀になんの力もない以上、異動先に期待は持てない。それは果歩も覚悟している。

「せめて僕が元気な内に、誰かいい人を見つけてあげられたらねぇ。ずっとそう思ってきたんだよ、僕は」

「大丈夫ですよ、私なら」

「今回は、いいきっかけだと思ったんだがねぇ」

「………………」

 その言葉で、果歩はひらめくように理解した。

 わかった。

 もしかして、局長は最初から――。

「………あの」

 口を開きかけた果歩は、そのまま口をつぐんでいた。

 那賀の意図はわかった。でも、何故その相手が晃司だったのだろう。

 年も2つ下で、それほどつりあいが取れる組み合わせでもないはずなのに――。



*************************

 

 

「おつかれさま」

「また明日」

 明日は月曜とあって、打ち上げの散会も早かった。

 局長をタクシーまで見送った果歩は腕時計を見る。8時少し前。

「悪いね、的場さん、本当に後の整理、頼んでもいい?」

「ええ、どうせ荷物取りに戻るんで、私」

 申し訳なさそうに頭を掻く大河内に、果歩はそう言って一礼した。

 郊外に家を持ち、幼い子供と妻を抱えた大河内は、典型的なマイホームパパである。日曜は家で過ごしたいに違いないし、宴会の間も、早く帰りたいオーラが全身ににじみ出ているようだった。

 バトミントン大会で使った道具は、試合後、大きな荷物の片付けだけは済ませていたものの、総務から持ち出したカップやポット、対戦表などの事務局の用具は、ダンボールにつめたまま、カウンターに投げっぱなしになっている。

 朝、極端に早く来る春日局次長に見つかったら、小言どころの騒ぎではすまない。間違いなく雷ものである。

 南原は、そもそも片付けに戻る意識さえないのか、早々に中津川補佐らと二次会に消えてしまっていた。

「大河内主査、片づけなら、僕が戻ってやりますよ」

 店に最後まで残り、精算を済ませていた藤堂が店内から出てきたのはその時だった。

「ああ、それは的場さんが、戻るついでにやってくれるって」

 大河内がそれに答える。

「じゃあ、僕も一緒に戻りましょうか」

 果歩は――妙に冷えた気持ちのまま、それには答えず、うつむいていた。

 果歩の隣から、ずっと藤堂が出てくるのを待っていた流奈が、当然のように前に出てくる。

「藤堂さん、片付けに戻るんですか」

 流奈は、寄り添うように藤堂の隣に立つと、その顔をのぞきこむようにした。

「じゃあ、流奈も一緒に戻って手伝います」

「……あ、いえ」

「だってこの後、一緒に飲みに行こうって約束したじゃないですか」

「いや、それは」

 周囲を気にしてか、藤堂が、戸惑ったように口ごもる。その目が一瞬、気まずそうに果歩に向けられる。

「あの、たいした量じゃないんで」

 果歩は、できるだけ自然な口調でそう言った。

「私、自分の荷物も職場に置いてきてるんです。ついでだから、本当に気にしないでください」

 そして、藤堂が口を開きかけるのへ、

「私1人で大丈夫です」

 ごく自然に、が、きっぱりとその同行を拒否した。

「……では、申し訳ないですが、お願いします」

「はい」

 果歩は、藤堂の表情を見ないままに頷いた。

 どこか割り切ったような藤堂の声に、これで本当に最後になるのかもしれない、と、静かな気持ちで考えながら。

「じゃ、藤堂さん、どっか行きます?」

 きびすを返した果歩の背中で、そんな流奈の声が聞こえる。

「いえ、明日は仕事なので」

「またまた~、だって、勝ったらご褒美くれるって約束したじゃないですかぁ」

 流奈も一生懸命なんだな。

 夜の歩道を歩きながら、果歩はそんなことを思ってしまっていた。

 嫌な女だけど、藤堂さんのこと、本当に一生懸命に好きなんだ。

 最初は、明らかに相手にされていなかった。なのに、くじけずにアタックを続けた。それが果歩だったらどうだろう、傷つく前に諦めていたはずだ。多分。

 ――泣いたり、笑ったり、怒ったり嫉妬したり。

 傷ついたり、傷つけたり。彼の一言で一喜一憂してみたり。

 そんな――胸がつぶれるような恋愛を、もうこの年でするのは辛い。

 私……流奈にはかなわない。

 若さにも、前向きな実行力にも、精神的な強さにも。

 流奈のように、自分を全部、好きな相手にぶつけられない――。心のどこかが、もう臆病になってしまっている。

 背後から足音が近づいてくる、それに気づいて振り返ろうとした時、声がした。

「――果歩」

 振り返ると、ほの明るい街灯の下、少し所在なげに立っている晃司の姿があった。

 不思議なくらい驚きはなかった。

 流奈が、当然のように藤堂を待っていたように、晃司が、こうして自分を待っていてくれるような気が、どこかでしていたからなのかもしれない。

「……話、したいんだけど」

「………うん」

 またこの人の胸に戻ったら。

 果歩は頷きつつ、そんなずるいことを考えてしまっていた。

 この――抜け殻みたいなむなしさも、忘れることができるのかな。

 


*************************

 

 

 

「飲む?」

「……いい」

 少し考えてから首を振ると、自動販売機の前で足を止めた晃司は、取り出した財布を元に収めた。

「…………」

「…………」

 電飾の明かりが、2人の顔を淡く照らしている。

「局長に、どう言って頼まれたの」

 話がしたいと言ったくせに、歩いている間ずっと無言だった晃司に、果歩は自分から口を開いた。

「うん……」

 と、晃司は曖昧な横顔で、迷うように目をすがめる。

 何を話したくて引き止められたのか、分かるようで、分からない。

 期待しているような、聞きたくないような、曖昧で不思議で、複雑な気持。

 ただ――年下だな、と思っていた。

 ここに立つ人が、頼りないほど年下だと、初めて果歩は思っていた。

 思えば付き合い始めてから、ずっと不安と隣り合わせの関係だった。年上であることに、いつか捨てられることに、いつも怯えてばかりの恋愛だった。

 なのに今、少しはなれた場所に立つ晃司が、ひどく小さく、まるで手を差し伸べたいほど頼りなく見える。

 まるで、3年前、初めて会った日のように。

「………頼まれたっていうか」

 自販機に背を向けた晃司は、やがて疲れたように髪をかきあげた。

「かなりストレートに訊かれたかな。君は独身だったね、総務の的場君をどう思うかね」

「…………」

「結婚相手としてはどうかねってさ」

 は?

 今度は果歩が、言葉をなくす番だった。

「そ、それ局長が?」

「他に誰が言うんだよ」

 信じられない。

 果歩は軽い眩暈を感じて後ずさった。

 一体、那賀は、どういうつもりで、よりにもよって晃司相手にそんなことを。

「………いつだったか、飲みの席で、須藤が余計なこと言ってたじゃん。俺の好みがどうとかこうとか」

 晃司が続ける。ようやく口火が切れたせいなのか、どこか硬さのとれた横顔だった。

「局長、それ聞いて、ずっと気にしてたんだってさ。で、俺を指名したみたいで」

 ようやく果歩にも理解できた。

 あの夜のことだ。5月の庶務担当懇親会。

 流奈が、おそらく果歩と晃司を挑発する意図もあって、「前園さんって、的場さんのこと好きですよね」と飲みの席で公言した時のこと。

「そんなの」

 戸惑いながら果歩はうつむいた。

 そんな、たったそれだけのことで。

 というより、ああ――どうやって局長の誤解をとけばいいのかしら。

「そんなの断ればよかったのに、晃司らしくもない」

「…………」

 今度は、再び晃司が黙る。

 同じように黙りながら、晃司は局長にそう問われて、一体どう答えたのだろうかと果歩は思っていた。

 どんな成り行きから、あの老人の茶目っ気溢れた企みに加担するつもりになったのだろう。

「………やりなおさないか」

 長い沈黙の後だった。

 感情を振り絞るような、掠れた声に、果歩の胸はわずかに痛んだ。

「…………」

「…………」

 車が、2人の背後を通り過ぎていく。

 横顔を見せている晃司が、今、苦しいほど追い詰められた気持ちで、果歩の返事を待っているのがよく分かった。

 果歩はうつむいたまま、唇を開いた。

 咄嗟に思ったのは、今、こんなにも弱さを見せている彼を、傷つけたくないということだった。

「………私」

 私。

 口を開いた途端、頭が、ふいに真っ白になる。

 ――私……何を答えるつもりなんだろう。

 同情を言い訳に、曖昧に誤魔化してしまっていいんだろうか。

 求められているのは、頷くか、拒否するか、どちらかしかないのに。

 拒否してしまえば、多分、永遠に、この人との縁は切れる。

 そして、果歩は1人になる。

 誰かと新しい恋をする気力なんてない。最初から恋愛の過程を築いていく作業が、もうわずらわしくさえある。20代の終焉と共に、自信も若さもなくなった。燃えるような恋愛で泣くよりは、穏やかで静かな気持ちでいたい。

 もし、

「…………」

 もし、頷いてしまえば――

「………私」

 でもそれは、同時に、自分と晃司に対するひどい裏切りのような気もした。

「私、……子供の頃、運動もそうだけど、ほんと冴えなくて」

 晃司は無言のまま、わずかに唇だけで苦笑を返してくれる。

「冗談だと思ってるでしょ」

「少し思ってる」

「本当に、本当なのよ」

 あまり思い出したくないし、説明したくもないけれど。

 眼鏡で、ぽっちゃりしてて。

 運動もできなくて、勉強もできなかった。

 どこをどうとっても、ひとつも取りえがなかった少女時代。

「晃司はさ」

 自分でも、何が言いたいのか、どこに話をもっていきたいのか分からないまま、果歩は続けた。

「クラスの中に、絶対1人はいる超もてもてで、かっこいい男の子なんだ。勉強もスポーツもできて、背も高くてハンサムで」

「そんな奴どこにもいないよ」

 ううん。

 と、果歩は首を振る。

 少なくとも、私の中ではそうだった。少女時代、憧れていて、多分視界にも入れてもらえなかった人気者の男の子。

 晃司は、果歩の中で、いつもそんなイメージだった。

「大学デビューってやつかな」

 果歩は続けた。

「受験で体調崩したせいか、激やせしちゃって、眼鏡もコンタクトに変えて……女の子って、トータルコーディネートで、随分印象が変わるんだよね。友達によく言われた、果歩は大学デビューだねって」

「……なに、それ」

「高校まで地味で冴えなかった子が、大学でいきなり派手になるってこと」

 多分、幾分の皮肉をこめた言われ方。

「それまでの地味人生が嘘みたいにもてるようになって……でも、私の中で、誰にも相手にされなかった過去がずっとコンプレックスになってるのね。だから、晃司みたいなタイプの男の人から好きだって言われたら、もうダメなの」

「……? ……意味、わかんねぇんだけど」

 果歩は微笑して肩をすくめた。

「嬉しくて舞い上がっちゃう。自分みたいな地味な女には、華やかな男の人ってあんまり合わないって分かってるのに」

「俺、華やかでもなんでもないけど」

 晃司は不思議そうな目で呟く。

 そう、多分晃司にはわからないだろう、こんな気持ち。

 分からないからこそ――そんな人だからこそ、果歩は晃司に惹かれたし、彼の恋人でいたかったのかもしれない。

 みっともないくらい、晃司を失うことを恐れていたのかもしれない。

「……藤堂さんは」

 果歩がその名前を出すと、晃司の横顔がわずかに強張った。

「私から見ると、憧れとはまるで程遠くて、野暮ったいし、かっこ悪いし」

 今は――。

 それが、誰よりも素敵に見えるんだけど。

「……優柔不断だし、女の子に弱いし、誘うの下手だし、なんか思い出すと腹立つことばかりなんだけど」

 それでも。

 笑ったつもりが、果歩は、自分の目の奥が熱くなるのを感じた。

 それでも――やっぱ、好きなんだけど。

「あの人と一緒にいると……すごく、気持ちが楽になるんだ」

 晃司が大きく息を吐く。

「もういい」

 うつむいていた果歩は、胸が一時しめつけられるのを感じた。

「……わかったよ、マジで」

「…………」

「もういい、もう忘れて、俺の言ったこと」

「…………」

 終わったんだな。

 果歩は、自分の影を見ながら思った。

 本当に、これで、晃司とは終わった――。

「………ただ、藤堂のことは」

 背を向けかけた晃司は、そこでためらったように足を止めた。

「男としては、俺は絶対に認めないし、理解もできない。お前も須藤も、なんだってあんな男を追っかけまわすのか、正直、わけが分からない」

 果歩は黙っていた。

 どんな反論も、今は晃司を傷つけるだけだろう。

「あいつが、うちの局で何をやるつもりか知らないけど」

 晃司の横顔には、今は、強い憤りがあるだけだった。

「俺は絶対に認めないし、協力するつもりもないね」

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