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年下の上司  作者: 石田累
19/202

story4 July 女心と夏の空 課対抗バトミントン大会(4)

晃司はすぐに見つかった。

 体育館の裏で、コンクリの階段に腰掛けて、1人で煙草を吸っている。

「………お昼、もってきたけど」

 果歩が声を掛けると、晃司は物憂げに顔を上げた。

 朝からあまり元気がない。それは感じていたけど、そんな話ができる雰囲気でもなかった。

 煙草、まだ吸ってるんだ。

 やめてって言ったのに……そして、一時は、やめていたのに。

 元々喫煙の嗜好がなかった晃司は、この局に来て煙草をはじめた。多分、ストレス――週の大半は10時すぎまで残業、翌日、容赦なく8時半出勤の日々では、それも仕方ない。

「まずそう」

 晃司は、弁当の箱を開くと、つまらなそうに呟いた。

 果歩は、自身で作った弁当を持参している。あまり食欲がないから晃司にあげてもいいのだが、それはさすがに言い出せなかった。

「ごめん、次は……負けるかも」

 果歩は、晃司の背後に立ったまま、おそるおそるそう言った。

 流奈は、おそらく確実に――しかも、一片の容赦もなく、果歩を狙い撃ちしてくるだろう。

 試合に負けるのは勿論のこと、局全体に「実は的場さん、かなりどんくさい人だったんだ」という真実が広まるのも、多分時間の問題だ。

「ま、そうなったら仕方ねぇよ」

 晃司は振り返りもせずに言った。

「おたくの係長、そもそも本気でやる気ないみたいだし。なんかもう、どうでもよくなってきた」

「……あんなに練習したのに」

 それには答えず、晃司は箸を割り、つまらなそうに弁当を口に運んでいる。

「………色々、ありがと」

 果歩は、思い切って、ずっと言いたくて言えなかったことを口にした。

「なにそれ、あらためて別れの言葉?」

「そんなんじゃないけど」

 少しためらってから、その隣に腰を下ろす。

「……この大会に出ることになって、本当言うと、ずっと怖かったし嫌だったんだけど」

「………」

「……その、別に晃司が怖いとか嫌いとかじゃなくて」

 過去の、ちょっと情けないトラウマのせいで。

「運動、子供の頃からずっと苦手で、……中学、高校になると、体育祭とかクラス対抗の競技ってあるじゃない?」

 大抵、それはバレーだったり、ソフトボールだったりするんだけど。

「クラスの女子で、チームを決めるのね。大抵残るのは私。全員参加のルールだから、私が入ると負けるからって、……いつも、私1人があまっちゃって」

 晃司は無言で、弁当を口に運んでいる。

「チームのリーダー同士がじゃんけんして、負けた方が引き取る、みたいなね。……それが結構、みじめだったりして」

「……………」

「まぁ……色々、その時、上手い子から教えてもらったりしたけど、私、全然進歩なかったから」

 何やってんのよ、果歩。

 ああ、もう、だめ、ひっこんでて、前に出ないで。

 的場さんさえいなけりゃね。

 あんな怒られ方は、二度と嫌だし、多感な時期だけに、忘れたくても忘れられなかった。

「1人じゃない、俺がいるっていう言葉、すごく嬉しかった。あれでかなり楽になったんだ。本当の話」

 あんな風に言われて。

 で、ただ立ってるだけだったけど、3試合も勝てて。

 少しだけ……昔の切ない思い出が、過去に流れていったような気がする。

「途中から分かったよ、なんとなくだけど」

 晃司は、半分以上残した弁当の蓋を閉めて、顔をあげた。

「ジムで、後輩を指導する時……色んな奴がいるから、中にはいじめくらって仕返ししたくて入ってくる奴もいるし」

「……………」

「他人から嫌な目にあって、自信なくしてる奴ってすぐに分かる。妙にびくびくして、イライラするほど従順でさ」

 そこで、晃司は言葉を途切れさせた。

「……お前が、そんなだとは思ってもみなかったけど」

「……………」

 さっと吹き抜けた乾いた風が、2人の額をひと時だけ冷ました。

「晃司には、私のこと、どう見えてたの」

 隣にいるのが、別れた恋人だという実感が、ようやく果歩にも湧いてきていた。

 3年もの間、互いの何もかもを知り尽くすほど、濃密な時間を過ごしてきた恋人だということが。

「何もかも完璧で……弱みなんてなさそうな感じかな。俺、お前に比べて、自分が子供だって知ってたから」

「……………」

「色んな言葉や態度で、傷つけたり汚したりしたのかもしんない」

「……………」

 こめんな。

 そう言って晃司は立ち上がった。

「もっと早く、そういうとこも、見せて欲しかったよ」

 最後に、背中からそんな言葉が聞こえた。

 果歩はしばらく黙ったまま、コンクリに刻まれた自分の影を見つめていた。

 


*************************

 

          

 午後2時。

 果歩にとっては、因縁の試合が始まった。

 試合に敗れたものは、大抵表彰式を待たずに帰るのが常なのに、その日はなぜか、参加者のほとんどが残り、体育館に設けられた特設コート脇に詰め掛けている。

 その数の異様な多さに、果歩はいつも以上に足がすくむ思いだった。

 ――す、すごいギャラリーなんだけど。

「よっ、がんばれ、的場君」

 陽気な掛け声は、午後からやってきた――果歩をこの窮地に陥れた張本人、那賀局長のものである。

 各課の課長補佐は無論、総務の連中も全員集まっている。夜の打ち上げに参加予定の各課の女子職員や臨時職員たちも、なんだか興味津々と言った目で見守ってくれている。

「果歩ちゃーん、がんばれよ」

「須藤さん、ファイト!」

 自分で言うのもおかしな話だが、この局で、果歩と流奈は、中年男性の人気を二部する存在である、しかも、藤堂と流奈は、いまや局で噂のカップル。妙な憶測もあいまっての、このギャラリーの数なのかもしれない。

 隣のコートでは、同じく準決勝の試合が行なわれている。都市デザイン室窪塚主査と富永美鈴のペア、が、そちらは、悲しいほど誰も注目していない。

 試合開始の笛が鳴った。

 前衛が晃司で、後衛が果歩。

 片や相手は、前衛が流奈で、後衛が藤堂。

「……………」

 果歩の位置から、藤堂の姿が真正面に見える。

 ラケットを正眼に構えてはいるものの、眼鏡にあたる照明のせいで、その視線がどこに向けられているか果歩には分からない。

 試合前、藤堂と果歩は、ごく普通に「がんばってください」「的場さんも」と声をかけあった。

 自分でも拍子抜けするくらいあっさりとそう言えたし、藤堂の表情も穏やかだった。まだ嫉妬めいた冷たさを感じていた方がマシだったくらいで――。

 ――藤堂さんとは。

 果歩は、寂しさを押し殺して視線を下げた。

 ――今回のバトミントン大会で、本当に距離が離れちゃったな。……

 悲しいけど、そう思わずにはいられない。

 こうなった責任は、どっちにあるんだろう。優柔不断なのは藤堂が悪いが、いつまでも過ぎたことを気にしていた果歩も悪い。

 たった一言。

 ごめんなさい、とか、今度食事にいきましょうとか。

 自分から糸口を見せれば、それでよかったはずなのに。

「的場さん!」

 晃司の声ではっとして我に返る。

 目の前にはシャトル。斜め前から晃司がものすごい勢いで駆け寄ってる。

 咄嗟に身体をかわす。そのスペースに滑り込んだ晃司がラケットを振りかぶって打ち返す。

 相手コートに絶好の球がかえった。それを「きゃーっ」とか言いつつ、ラケットを正確に振り上げ、計算されたコースに流奈が打ち返してくる。

 それは、おそらく流奈の狙いどおり果歩の目の前。が、足がすくんだ果歩に代わり、体勢を立て直した晃司が、猛ダッシュで滑り込み、シャトルを再びすくいあげた。

「おいおい、前園君、そこは果歩ちゃんに打たせてやれよ」

「でしゃばりすぎだぞ」

 そんな冷やかしのような声がギャラリーから聞こえてくる。

 しかし、今度は本当に、晃司は前のめりに倒れこんだ。即座に起きられる体勢ではない。

 再びシャトルが――

「きゃー、また来ちゃった」

 流奈が、ラケットを思いっきりふりかぶる。

 が、ほとんどスマッシュの体勢に入っていた流奈の前に、すっと大きな影が滑り込んできた。

 意外にも、それは、今まで頑なに後衛から動こうとしなかった藤堂だった。

「僕が」

 そんな声が確かに聞こえた。

 流奈がけげんそうな目で後衛に下がるのと、藤堂がラケットを振り下ろすのが同時だった。

「あ……!」

 藤堂の打ち返したシャトルは、果歩の立つ位置ではなく、半身を起こした晃司に向かって落下していく。

 が、晃司は、奇跡的な反射神経で体勢を立て直すと、それを再び敵陣に叩き込んだ。

 即座にコースに反応し、身をひるがえした藤堂が、見事なフォームで今度はそれをすくい上げる。

 感嘆の声が周囲から上がったし、それは果歩も同様だった。

「おいおい、藤堂君はどうしたんだ」

「たまたまですよ、偶然に決まってますって」

 意外な展開に、ギャラリーが微妙に動揺している。

 藤堂の打った球は、しかし、打撃時の体勢の難しさも相まって、晃司にしてみれば絶好の浮き球となった。ふりかぶった晃司が鋭いスマッシュを決める。が、間違いなく決まる、と思われたそれも、藤堂が――長いリーチを生かして拾い上げた。

「…………つか、マジ?」

「と、藤堂君、なんか人が変わったみたいな」

 どよめきと共に、そんな声が聞こえてきた。

 後衛に突っ立ったままの流奈も、今はさすがにぽかん、としている。

 果歩もそれは、同様だった。

 晃司が打つ。

 藤堂が拾う。

 それを晃司が拾い、負けじと藤堂も拾う。

 ペアの存在などまったく無視した男同士の熾烈なラリー。

 すでにダブルスではない、男子シングルスの戦いが、局の職員体育祭という呑気なフレームに似合わない真剣さで繰り広げられている。

「くそっ」

 長い接戦に苛立ったのか、くらえ、とばかりに晃司が放った強烈なスマッシュが、藤堂の左脇をすり抜けた。

 決まった――

 と、全員が拳を握った瞬間。

 後衛に下がった流奈が飛び出してくる。

「え…?」

 そんなのあり? と、一瞬全員が思ったが、そもそもそれが当たり前の行動で、流奈は綺麗なフォームでそれを拾い上げた。

 飛んできた球は、今度こそ過たず、果歩めがけて降ってくる。

「えっ、う、嘘っ」

 晃司もさすがに間に合わなくて――必死で追いかけた果歩は、そのままつんのめってばったりと前に倒れた。

「………………」

 しん、と、場内が静まり返る。

 ――ど、どんくさいし、私。

「きゃー、藤堂さん、1点入りましたぁ」

 ホイッスルと共に、流奈の歓声が聞こえる。

「ご、ごめんなさい」

「いいよ、気にすんな」

 そのままの姿勢で固まっていた果歩は、晃司に腕を引かれて、立ち上がった。

「果歩ちゃん、どんまい」

「猿も木から落ちるだよ」

「そうそう、それにシングルの試合みたいだったしね、不意打ち不意打ち」

 そんな掛け声がギャラリーから聞こえてくる。

 ――ああ、私、実は全然運動できないのに。

 その真実がばれるのも時間の問題である、このままだと。

「須藤さん、多分私を狙ってくるから」

 果歩がそう言うと、晃司は心得たように頷いた。

 すでにその額は、汗で濡れつくしている。

 その汗を前髪ごと拭い、晃司は荒い息を吐いて、わずかに笑った。

「でも、そう簡単にはいかないようだぜ」

「え?」

「須藤はそうでも」

 晃司は苦い目で顎をしゃくる。その先には、微妙に呼吸を乱している藤堂の横顔。

「あいつは、俺一人を、徹底的に狙ってくるみたいだから」



*************************

 

 

「………つか」

 ギャラリーが、半ばあきれ返っている。

「局のスポーツ大会で、ここまで真剣にやる意味、ある……?」

「いや、ないだろ」

 熾烈を通り越した過酷なラリーの攻防。

 観客は棒立ち。半ば唖然と、が、それなりに息を呑んで勝負の行方を見守っている。

 果歩の視界では、ぜえっ、ぜえっと、晃司の背中が大きな上下を繰り返している。

 藤堂が、前髪を腕で払う。表情はさほど変わらないが、すでに額も、首筋も、汗で濡れている。

「すみません」

 審判に一言を声をかけ、ラケットを下げた藤堂は、自らの眼鏡を外した。

「あ、私が」

 置場所を求めて視線をめぐらした藤堂の傍に、住宅計画課の女性職員が歩み寄る。

「ありがとう」

 眼鏡を女に預け、再び藤堂が向き直った。

 軽いざわめきが館内に広がった。

「藤堂さん、別の人みたい」

「本当にあの人が、あの藤堂係長?」

 それまで、半分口を開けたまま、殺気立つ男2人の勝負を見つめるしかなかった果歩と流奈だが、その囁き声には、2人とも敏感に反応してしまっていた。

「ねぇ、藤堂係長って、結構かっこいいね」

「私、ファンになっちゃいそう」

 そんな声さえ、他課の女の子たちから聞こえてくる。

 ――ああ、そんな再評価いらないのに。

 果歩は焦れ焦れと唇を噛んだ。

 眼鏡を取ったら――なんだか昔観た洋画のスーパーマンみたいだけど、本当に彼は、別人になってしまうから。

 それでなくても、今日は普通以上にかっこよく見えるのに。

 執務室での、どこか茫洋とした、やぼったい姿はどこにもない。

 俊敏な身のこなし、鋭い眼差し、見惚れるほど綺麗なフットワーク、敵の果歩でさえ、意外な姿に胸がときめいてしまうほどだ。

「藤堂係長、がんばって」

 試合が再開されると、にわかに女性の声援が増えてきた。

 その声に、むしろ果歩より苛立っているのは、同じペアの流奈のようで、今や、あからさまに敵意のこもった目を、ギャラリーの女性たちに向けている。

 果歩は――よく分からなくなっていた。

 自分の気持ち、というより、今、異常なくらい必死になっている藤堂の気持ちが。

(―――代表になれば、秋までずーっと藤堂さんと一緒ですから)

(―――私も、藤堂さんも、超はりきってるんです)

 試合前の流奈の挑発。

 あれは、本当の話だったんだろうか。

 本当に――藤堂さんは、本気なんだろうか。

 彼の美徳は、自身の実力を、それがどんなに過小評価されようと、決して自ら誇示しない点にあると果歩は思っている。

 が、今の藤堂は、そんな謙遜や用心深さはおくびにも出さず、このコートで、(果歩にすればこの程度のイベントで)自身の全力を出し切るつもりのようだった。

「………………」

 よく、分からなくなってきた。

「………………」

 もしかして藤堂さん、今は、本気で流奈のことを。

 こんなに距離が離れてしまっても、果歩はどこかで信じていた。

 流奈よりも、自分の方が藤堂の近くにいる。色々誤解が重なってしまったけれど、彼にとって、自分はまだ特別なのだと。

「…………」

 それは、勝手な、都合のいい思いこみだったのかもしれない。

 人の気持ちは変わる。

 ――変わる……んだ。

 不意に、過去のある場面が果歩の中に蘇ってきた。

 周囲の歓声と共に高揚も消え、寂寞にも似た冷たいものが胸の中に広がっていく。

(指輪は、パリに買いに行こう。その時にウェディングドレスも注文しよう。式は、ギリシャの教会で挙げて、クルーザーで2人きりで旅行をするんだ)

(日本でも式を挙げなきゃね。君のご両親に失礼だ。やっぱり、その時は神前だろうか)

 どんなに情熱的に恋しあっていても、人は簡単に、その感情を捨てられる。

 かつて、果歩が、結婚すると信じていた男性もそうだった。

 あれだけ大切にしてくれたのに――まるで嘘のようなあっけなさで、彼は果歩を捨てた。本当に小説かドラマのような変わり身の早さで。

 果歩にしてもそうだ。

 今年の春まで、ずっと晃司1人を大切に想ってきたのに、今は――心が離れてしまっている。

 藤堂にだけ、その真実があてはまらないとどうして言えるだろう。この短い間に、彼が流奈に気持ちを寄せていったとしても、なんら不思議はないことなのに。

 歓声が、はっと果歩を現実に引き戻す。

 気がつくと、勝負はあと1ポイントで決着がつく所だった。

 デュースの末、今は晃司がリードしている。ラリーが続いているこの1点を決めれば、勝利もそのまま晃司のものになる。

「藤堂さーん!」

「がんばってください、藤堂係長!」

 そんな黄色い掛け声が、ひっきりなしに飛んでいる。

 無論、晃司への応援もけたたましい。

「前園ーっっっ」

「何をやっておるんだ、そこだ、そこ、前園君!!」

 その殆どは、南原とか中津川とか――普段から藤堂に反感を持っている連中なのだが。

 藤堂の背後では、所在なく立つ流奈が、いつになく苛々している。周囲の黄色い声に対して、相当むかついているのが、その表情からうかがい知れる。

「あっ」

 前に立つ晃司に視線を戻した果歩は、思わず声をあげていた。

 足に相当きているせいか、汗で手が滑ったのか――打ち返す晃司の球に、勢いがない。勢いがないというか、明らかに打ち損ねだ。

 それはふわりと藤堂の頭上に、まさに、決めてくれと言わんばかりのコースで飛んでいった。 

 実際、藤堂は、即座にスマッシュポジションにラケットを構えた。

 その場の全員が息を呑む。

 十中八九、決まる場面。

 が、

「瑛士さぁん、がんばって!」

 場違いに甘い声が、静まり返った館内に響き渡った。

「……………」

「……………」

「……………」

 果歩は凍り付いてた。

 いや、果歩だけでなく、その声を耳にした全員が。

 瑛士さん。

 今、流奈は確かにそう呼んだ。両手を口に当て、藤堂の背中に向けて。

 瑛士さん……。

 瑛士さん。

 果歩にとっては、どんなスマッシュより、致命的な決定打。

 打ち抜かれて、視野がひととき暗く翳る。

 が、その声に動揺したのは、果歩だけではないようだった。

 ぎょっと目を剥いた藤堂が、明らかにその刹那動きを止めた。

 そして、がくっと膝が砕けたように、ラケットが力なく振り下ろされ―――絶好の決め球は、一転、甘い浮き球となってふわふわと舞い上がる。

 コースをそれた球は、晃司の頭上を超え、突っ立っている果歩めがけて落ちてきた。

 ふんわりと。

 子供でも打ち返せるほどゆるい速度で。

 が、

 果歩は動けなかった。

 瑛士さん。

 その言葉が、まだ耳の奥でぐるぐる渦を巻いている。

 晃司が駆けてくるのが見える。

「馬鹿っ、果歩!」

 が、さしもの晃司も、疲労もあってか、追いつきようがない。

 固まったままの果歩の足元に、てんてんとシャトルが落ちてきた。

 館内は静まり返っている。

 その静けさの理由が――実は、今、晃司が咄嗟に口にした言葉にあることを、さすがに果歩も晃司も気づくことはできなかった。


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