第一話
空は薄墨を溶かしたような柔らかな灰色に包まれていた。
頬を切り裂くような、凍てついた風が吹きつける。
大陸北方、天を突く絶壁に位置する「断崖の里」。その外れにある雪混じりの岩陰で、十歳の少年、ユー・ヴェルライトは自分よりも背の高い弓を引き絞っていた。
狙う先には、十歩ほど先で足を止めた雪兎がいる。里の子供でも小石を投げれば当たるような距離にいる、無防備な獲物だ。
(……今だ。離せ、離すんだ)
自分に言い聞かせるが、指先が強張ってタイミングが掴めない。
無理に引き絞った弓先が、ぷるぷると情けなく震える。銀砂色の髪が、風に煽られて澄んだコバルトブルーの瞳を隠した。
前髪を払う余裕すら、今のユーにはない。
本来、修行を積んだ者ならば『耀気』を流し込み、弓と己を一体とし、強化させて放つのだが、今のユーにはそれ以前の問題だった。矢を番える右肘は下がり、狙いは定まらず、ただ肩が悲鳴を上げる。
ようやく放たれた矢は、ひどく不格好な放物線を描いた。
ペちん、と力ない音がして、矢は雪兎の三歩も手前の地面に突き刺さる。雪を跳ね飛ばすことすらできず、力なく倒れ伏した。
雪兎は、何が起きたのかと首を傾げるようにその矢を眺めた後、ゆっくりと岩の隙間へ消えていった。
「……くそっ、またか」
ユーは地面に膝をついた。魔獣どころか、目の前で止まっている小動物にさえ、まともに矢を届かせることすらできない。
彼の父親が放てば岩をも貫く弓だが、狙いもつけられず腕力も足りないユーの手の中では、ただの重い木の棒に過ぎなかった。肩を落とし、空っぽの獲物袋を握りしめて里へと続く細道を歩く。
家に戻れば、病床の母親と妹が待っている。そしてその傍らには、流行り病の治療のために王都ディエーリスから招かれた医者——フェルゼンがいるはずだ。
ユーは乱れた髪を乱暴に手で払い、家路を急いだ。
雪に埋もれるようにして建つ、石造りの家。
ユーが重い木扉を押し開けると、家の中には意外にも穏やかな空気が流れていた。
「……ただいま」
「おかえり、ユー。そんなに急いで帰ってこなくても大丈夫よ」
寝床で体を起こした母が、穏やかに微笑む。
数日前までは顔を上げることもできなかったはずの彼女が、今は見違えるほど血色が良い。
その傍らで、灰色のローブを纏った男――フェルゼンが、薬を調合する手を止めて振り返った。
「お疲れ様、ユー君。お母様もミーナちゃんもう安心だよ」
彼は慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
その献身的な振る舞いは、里の誰からも「慈悲深い聖者」と慕われていた。父親でさえも「彼がいなければ、この家は終わっていた」と深く感謝している。
(……いい人ではあるんだけど。なんか苦手なんだよなぁ)
彼が近づき、その細く白い手がユーの肩に置かれた瞬間、全身の産毛が逆立つような感覚に襲われた。
整った顔立ち、穏やかな物腰。
けれど、そのグレーの瞳に映っている自分は、まるで意志を持つ人間ではなく、ただの「動く標本」であるかのように冷たく無機質に見えた。
「ありがとうございます。フェルゼンさん」
強張った表情に気づいてか、フェルゼンは優しくユーの髪を撫でる。
「ユー君。君は自分を才能がないと卑下しているようだが……私には見えるよ。君の奥底に眠る、素晴らしい輝きが」
覗き込んできた彼のさらりと流れるような、透き通るような白金色の髪がユーの視界をよぎる。
フェルゼンの言葉に、彼の母親が嬉しそうに目を細める。
「先生、この子を励ましてくださってありがとうございます」
里の人々が口を揃えて「聖者のようだ」と称える男。
実際に母の命を救ってくれた恩人であり、その言葉には一点の曇りもないように聞こえる。
(……なのに、どうしてだろう)
フェルゼンが優しく微笑むたびに、なぜか胸の奥がざわついて、逃げ出したい衝動に駆られる。
彼の瞳に映る自分は、本当に人間として見られているのだろうか。まるで、顕微鏡で覗き込まれる小さな虫のような、言いようのない居心地の悪さを感じてしまう。
母親も、妹も、父親さえも、彼を救世主だと信じている。
それなのに自分だけが、彼の向ける「優しさ」に、冷たい氷のような違和感を抱いていた。
自分の心が狭く、臆病ゆえの錯覚なのか。
ユーはただ、強張った顔でうつむくことしかできなかった。




