第1話 一泊いくら
「一泊いくらだ」と、たったいま殺された魔物が言った。
リゼルは箒を止めた。
煤角兎の死骸は、もう灰になっている。さっきまで一本角の生えていた場所に、金色の剣で削られた白い溝が残っていた。上の観客席では、勇者ザイグの名を呼ぶ声がまだ続いている。
「……お食事は、別になりますけど」
答えてから、誰に答えたのだろうと思った。
闘技場には彼女のほかに清掃人が三人いる。全員、次の組が入る前に灰を集めようと、箒の音を競わせていた。声のした方には壁しかない。その壁の、天井に近いところで、金色の目が開いた。
二つ。
リゼルの箒が手から滑った。
夜の塊のような獣が、首を曲げて彼女を見下ろしていた。目から鼻先までで寝台一つ分はある。月の両端を折って差したような二本角が、丸天井を突き抜けていた。身体の向こうに、退場する観客の色とりどりの服が透けて見える。
リゼルは箒を拾おうとした。指が届かず、もう一度しゃがんだ。獣の耳が、そのたび同じだけ下がった。
「何してる、ノット。灰を袋へ入れろ」
班長のクレムが、獣の前脚を踏んで通った。
「班長。そこに」
「欠けてる石なら赤で囲め。修理班へは言ってある」
獣の爪は、班長の靴を傷つけなかった。ただ、灰が爪の形に押しのけられた。
「見えてないのか」
低い声がリゼルの頭の中へ落ちる。
「たぶん」
「おまえは見てる」
「はい。見ないようにしていますけど」
獣は前脚を一つ持ち上げた。リゼルは目を閉じた。いつまでたっても潰されないので片目を開けると、獣は彼女の裾を嗅いでいた。
煤だらけの前掛けには、六つの窓の刺繍がある。祖母が刺した、終わり木亭の印だった。
「こっちから、寝る場所の匂いがする」
リゼルは前掛けをつまんだ。今朝、洗濯桶へ入れるのを惜しんだ自分を、初めて褒めたくなった。
「一晩、銅貨三枚です。長くお泊まりなら」
獣の喉が鳴った。
歓声とは逆に、口へ向かって空気が吸われていく。裂けた胸の端がほつれ、黒い煙になって床を這った。獣はそれを鼻先で押し戻そうとした。散った煙は戻らなかった。
リゼルの手の中で、箒の柄が軋んだ。
「いつから、そこに?」
「金色のやつが、おれになる前に斬った」
壁を通り抜けた角の先が、少しずつ短くなっている。
「次の試合まで十分!」
上から声が響いた。班長が腰の砂時計を裏返す。
十分。今ある灰を集めて、袋を三つ運べば、銅貨二枚がもらえる。明日は暖炉の燃料を買う日だった。宿の扉を開けても一日じゅう誰も来ない日が、もう九日続いている。
リゼルは獣の脚の周りだけ、急いで掃いた。
「そこを動かないで。私、すぐ終わらせます」
煙の足先が消えた。
獣は身を低くした。重そうな頭を持ち上げていられないらしく、顎が床を抜けて半分沈んだ。それでも、彼女の前掛けだけを見ている。
リゼルは灰袋を床へ置いた。
「班長、早退します」
「この時間に? 日当は出ないぞ」
「わかっています」
「ノット!」
作業口をくぐる直前、獣がついてこないことに気づいた。灰になった煤角兎の跡へ鼻を近づけている。
「そこへ戻りたいんですか」
「あいつは、また起きる」
「あなたも?」
獣は答えなかった。
リゼルは作業口の鉄扉へ肩を当て、開けたまま待った。冷たい金属が、汗の染みた服を通して痛かった。獣の鼻先がようやくこちらへ向く。壁も天井も抜けるくせに、入口の中央へ身体を寄せて通ろうとした。
そのせいでリゼルは、笑いそうになった。
地下から地上へ出る階段を、急いで上がった。大きな爪の影が、二段後ろを追ってきた。途中の踊り場で足を止めると、影も止まる。リゼルの息だけが、狭い石の中を行ったり来たりした。
「走れないのか」
「あなたの一歩と、私の一歩は違います」
「小さいな」
「部屋を見てから言わないでくださいよ、それ」
地上では、昼の灯が点っていた。
谷底の街ラグナトへは、冬が近づくと一日に二時間しか日が差さない。頭上に並ぶ七つの灯が、曇り空の下で洗濯物を白く照らしていた。七番目だけが、目を凝らさなければわからないほど薄い。
西門の坂を下りる間、リゼルは人を避けた。獣を踏んでも誰も転ばないとは知っていたが、自分の前を歩く子どもの頭へ角が重なるたび、つい手を伸ばした。
家二軒分ほどの影が、リゼルを追い越す。もう獣の後ろ脚は見えなくなっていた。
終わり木亭の看板は、まだ裏返ったままだった。
彼女は看板を表へ返そうとして、やめた。いま誰か来てくれたら困る。そう思ったのは、祖母が亡くなってから初めてだった。
玄関へ鍵を差す。歯が途中で止まる。横に振れば開くとわかっているのに、指が震えてうまくいかない。
「待って。いつもは、こんなに」
かちりと回った。
扉を開けて振り返ると、獣は敷居の前で止まっていた。鼻先を入れようとして、煙を散らす。外にいるより、ひどく崩れた。
「入れないの?」
「おまえの穴だ」
「宿です」
リゼルは戸をいっぱいまで開いた。獣がもう一度鼻を差し入れ、今度は耳の先がちぎれた。黒い欠片が通りへ流れる。
背後で、金具が鳴った。
帳場の壁に、六本の古鍵が並んでいる。祖母のころから使っている客室の鍵だ。六号室の一本だけが、小さく揺れていた。
リゼルはそれを外した。温かかった。
誰も寝ていない部屋の鍵が、手のひらの汗を乾かした。
昔、この鍵で物置を開けようとして、階下にいる祖母のくしゃみを二階で聞いたことがある。叱られた理由は忘れた。祖母がそのあと長い間、扉の枠を撫でていたことだけを、覚えている。
「六号室で、いいですか」
獣の金色の目が、彼女の手へ下りた。
角の先が真鍮に触れる。鼻を鳴らすような音がした。
巨大な身体が、ひと息で小さくなった。
リゼルは両手を合わせた。落としたらいけないと思ったのだ。手の中へ入ったものは、拳二つ分の黒い兎だった。二本の角を、彼女の親指へひっかけている。
兎は自分の脚を見た。左右を交互に上げた。それからリゼルを見上げた。
「小さくしたな」
「私ではありません」
「おれの脚がない」
「四本ともあります」
「違う脚だ」
リゼルは兎を帳場へ下ろし、腰を折って笑った。笑ってはいけない顔だった。よけいに止まらなかった。兎は前脚を床へ打ちつけたが、音は、濡れた布を落とした時ほどしか出なかった。
二人とも黙ったころ、表で馬蹄が止まった。
金色の外套が、曇った窓を横切る。
兎の耳が伏せられた。リゼルは笑いかけた口を閉じ、黒い身体を帳場の下へ押し込んだ。小さな爪が手首を掻いた。
「リゼル。いるか」
扉を開けると、ザイグが立っていた。胸の黒い鎧には灰一つついていない。勝利を祝う花が、馬の鞍へ挟まっていた。
「クレムが怒っていたぞ。清掃を放り出したそうだな」
「具合が悪くて」
ザイグが彼女の頬を見た。笑いすぎたせいで、熱い。
「熱があるのか。医者を」
「寝れば治ります」
すぐ後ろで、帳場の引き出しが鳴った。
ザイグは首を傾けた。リゼルは両足を開き、彼から見える隙間を少し狭めた。昔はこの人が来れば、壊れた椅子も、詰まった雨樋も直った。今日は、その手を玄関へ入れたくなかった。
「第一層で、灰のほかに何か拾わなかったか」
「何も」
兎の爪が止まった。
ザイグは少し待った。返事を言い直す時間だったのかもしれない。
「そうか。戸締まりをしろ。今夜は回収屋が通る」
馬が坂を上がっていく。足音が聞こえなくなるまで、リゼルは閂へ手を置いていた。
「おい」
帳場の下から、兎が顔を出した。
「具合、悪いのか」
「少し、お金がありません」
兎は考え、角を帳場の角へこすりつけた。黒い薄片が一枚落ちた。リゼルの爪ほどの大きさで、触ると火のように温かい。
「これをやる」
「ありがとうございます。お名前は?」
「モク」
リゼルは、九日間空白だった宿帳を開いた。
六号室。モク。一泊。
書き終えた途端、二階で布が裂ける音がした。モクがもう階段の上にいた。
「それ、替えが一つしかない枕です!」
黒い兎は、口いっぱいの羽毛を吹いた。




