第6章 第12話:春を待つあいだ
雪は、まだ少しだけ残っていた。
社へ続く石畳の端。
日陰に寄った白さは薄く硬く、踏めばしゃり、と小さな音を立てる。けれど日向の方ではもう、雪の輪郭がゆるみ始めていた。
冬は終わりきっていない。
でも、ずっと変わらなかったものが少しずつほどけていく気配だけは、はっきりとあった。
千歳は仮殿の戸口に立ち、白い息をひとつ吐く。
冷たい。
けれど、その冷たさはもう怖くない。
祓殿の床下から這い上がってきた湿った冷えとも、夜の呼びの気配とも違う、ただの季節の寒さだ。
それだけのことが、今はやけに嬉しかった。
「……千歳」
後ろから、低い声。
振り向く。
冬真が戸口の内側に立っていた。
前より少しだけ顔色は戻っている。
疲労が消えたわけではない。名前が一拍遠いことも、細かい順番が時々引っかかることも、もうゼロにはならないのだろう。
それでも、目の前にいるこの人はちゃんとここにいる。
その事実が、何より大きかった。
「何」
「寒いなら入れ」
「平気」
「そういう顔じゃない」
「どんな顔」
「考え込んでる顔」
千歳は少しだけ目を細める。
「便利だね」
「お前もな」
その返しが返ってくる。
それだけで、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
「冬真」
「何だ」
「今どこ」
冬真は小さく息を吐く。
「仮殿の戸口」
「わたしは」
「秋月千歳」
「うん」
「しつこい」
「知ってる」
「面倒」
「知ってる」
そこまで言い合って、千歳はようやく笑った。
ちゃんと笑えたのは、少し久しぶりだった。
◆
村は、静かに変わり始めていた。
祓殿の床下は閉じられた。
流し路は、もうただの古い溝として残されるだけになった。供物も、これまで通りには扱われない。綾人は先代から続いていた記録をまとめ、村の古老たちと何度も話し合っていた。
急に全部が変わるわけではない。
でも、もう“見ないふりをしながら続ける”方へは戻れない。
それだけは確かだった。
「綾人さん、また寝てない」
千歳が囲炉裏の向こうを見ると、綾人は紙束から目を上げもせずに言った。
「必要だからな」
「便利な言い方」
「事実だ」
「最近そればっかり」
「お前たちも人のことは言えん」
その返しに、千歳は少しだけ肩をすくめる。
仮殿の中には、以前とは違う忙しさがあった。
怪異に備えるための緊張ではなく、終わったあとを整えるための現実的な忙しさだ。
「祓殿は」
千歳が問う。
「もう大丈夫そうですか」
綾人はようやく紙束を置いた。
「構造としては死んでいる」
「……」
「ただし、痕跡は残る」
「……」
「だから忘れるな」
千歳は頷く。
「うん」
忘れない。
忘れられるはずもない。
冬真が何を引き受けて、何を削って、最後に何が露見したのか。
その全部が、もう自分の中に残っている。
◆
昼過ぎ、千歳は一人で祓殿の前へ立った。
戸は閉まっている。
開けてもいい。
でも、今日は開けなかった。
ここに何があったのかを、知っているまま立つだけで十分だと思えたからだ。
床下の最深部。
白い核。
こちらを真似ようとした輪郭。
そこへ何度も冬真が先に立ち、気づかれないように守っていたこと。
最後の最後で、それが全部バレた夜。
「……ほんとに」
小さく呟く。
「今さらだよ」
怒りも、苦しさも、まだ全部は消えていない。
たぶんこれから先も、ふとした拍子に思い出しては腹が立つのだろう。
でも、それでいい気もしていた。
綺麗に許して終わるより、引き受けたものの重さを忘れない方が、この物語には合っている。
「千歳」
後ろから声。
振り向くと、冬真が少し離れたところに立っていた。
千歳は少しだけ眉を寄せる。
「何で来たの」
「何でだと思う」
「見張り」
「半分」
「半分」
「もう半分は」
一拍置いて、
「お前がここに一人で立つと、考え込みすぎるから」
その返しに、千歳は少しだけ言葉を失う。
こういうところだ。
こういうところが、この人らしい。
全部終わったあとでも、完全には変わらない。
「それ」
千歳は言う。
「まだ守る側の顔」
冬真は少しだけ目を細めた。
「癖だって言っただろ」
「知ってる」
「じゃあ」
「でも」
千歳は一歩だけ近づく。
「前と同じじゃだめ」
冬真は何も言わなかった。
その沈黙を、千歳は前より怖いとは思わない。
「わたしもいる」
一拍置いて、
「今は」
冬真の目が少しだけ揺れる。
やがて、小さく息を吐いた。
「……知ってる」
その返しは、前よりちゃんと受け取っている声だった。
◆
仮殿へ戻る道の途中、雪解け水が石畳の隙間を細く流れていた。
千歳はそれを見ながら、ふと立ち止まる。
「冬真」
「何だ」
「名前」
「……」
「今、呼ばれてどんな感じ」
冬真は少しだけ眉を寄せた。
「またそれか」
「大事だから」
「知ってる」
しばらく黙ってから、冬真は低く答えた。
「前より一拍いる」
「うん」
「でも」
一拍置いて、
「お前が呼んでるってことは、すぐわかる」
千歳の胸の奥が、じわりと熱くなる。
名前の表は少し遠い。
でも、意味の方は先に届く。
その残り方は、たぶん二人にとってこれから先も完全には消えないのだろう。
「そっか」
千歳は小さく頷く。
「悪くない?」
少しだけ冗談っぽく問うと、冬真は目を細めた。
「面倒なのは増した」
「何で」
「前より、お前の意味が先に来る」
一拍置いて、
「逃げにくい」
その返答に、千歳は思わず笑ってしまう。
「何それ」
「事実」
「雑」
「知ってる」
そう返し合うあいだに、石畳の先に仮殿の屋根が見えてくる。
◆
夕方、囲炉裏の火が少し落ち着いたころ、綾人がぽつりと言った。
「私は少し外す」
千歳が顔を上げる。
「どこに」
「村の方だ」
「また話し合い?」
「そうだ」
綾人は立ち上がり、外套を羽織る。
「お前たちも、今日くらいは少し休め」
「珍しい」
千歳が言うと、綾人は戸口で振り返りもせずに答えた。
「終わったあとの整え方も必要だからな」
戸が閉まる。
仮殿に残るのは、囲炉裏の火と二人分の気配だけになる。
少しの沈黙。
外では水の落ちる音がしていた。
「……千歳」
冬真が低く呼ぶ。
「何」
「今、何考えてる」
千歳は火を見たまま答える。
「春、来るなって」
「……」
「あと」
「何」
「前みたいには戻らないなって」
冬真は少しだけ黙ってから、小さく息を吐く。
「だろうな」
「否定しないんだ」
「できるか」
その返答が、この人らしくて、千歳は少しだけ笑う。
戻らない。
でも、戻らないから悪いわけでもない。
それはもう、ここまで来てやっとわかり始めていた。
「ねえ」
千歳が静かに言う。
「お前って呼ぶじゃん」
冬真が少しだけ目を細める。
「急だな」
「いいから」
「……呼ぶな」
「わたしも?」
「お前は呼ぶだろ」
「うん」
「なら」
「それ」
一拍置いて、
「もう前と同じ意味じゃないよね」
火が小さく鳴る。
冬真はしばらく黙っていた。
その沈黙は長かったが、逃げではなかった。
「……そうだな」
やがて、低い声。
その一言で十分だった。
好きだとか、そういう綺麗な言葉ではない。
でももう幼馴染だけの距離じゃないことは、はっきりとそこにあった。
「わたし」
千歳は火を見たまま言う。
「守られてたの、最後まで気づかなかったの、まだ腹立つ」
「知ってる」
「でも」
一拍置いて、
「助かったのも、本当」
冬真は何も言わない。
だから千歳は続ける。
「今度から」
「……」
「そういうの、一人でやったら」
「……」
「ほんとに怒る」
冬真の口元がほんの少しだけ動く。
「今でも十分怒ってるだろ」
「もっと」
「面倒」
「知ってる」
そこで、ようやく二人とも少しだけ笑った。
◆
夜が深くなる前、千歳はもう一度だけ戸口を開けて外を見た。
白い雪。
薄い夜。
遠くで水の落ちる音。
春はまだ来ていない。
でも、待つことはできる。
冬の底で立ち尽くすしかなかった時間は、もう終わったのだ。
「千歳」
背後から呼ばれる。
振り向く。
「何」
「今どこ」
千歳は一瞬、目を見開いて、それから笑った。
「仮殿の戸口」
「わたしは」
「秋月千歳」
「うん」
「しつこい」
「知ってる」
「面倒」
「知ってる」
そこまで返し合って、千歳は戸を閉める。
囲炉裏の火が、仮殿の中で静かに揺れている。
冬は終わったわけじゃない。
でも、もう怖いだけの季節じゃない。
春を待つあいだ、
隣にいる人の名前は少し遠い。
それでも、その奥にある意味はちゃんと届く。
それで十分だと、今は思えた。




