第6章 第1話:一時切断のあと
朝は、驚くほど普通の顔をして来た。
仮殿の板戸の隙間から、白い冬の光が細く差し込んでいる。囲炉裏の火は小さく残り、灰の下で赤く息をしていた。外では雪がまだ固く残っているのだろう。ときどき、屋根の端から小さな氷が落ちる音がする。
そんな何でもない朝の音が、千歳にはひどく不思議だった。
昨夜、たしかに切った。
流し路と核の噛み合いを一時的に崩し、冬真の中の道との結びも少し外した。
完全ではない。
でも、何かは変わった。
それだけは、もう感覚でわかる。
千歳は布団の上でゆっくり身体を起こした。
眠った気はあまりしない。
目を閉じても、白い核の崩れる瞬間や、床下の裂けるような音ばかりが浮かんでいた。
それでも朝は来る。
来てしまう。
だから確かめなければならないことが、まず一つあった。
囲炉裏の向こうへ視線を向ける。
冬真は壁際に座ったまま、浅く目を閉じていた。
完全に横にはなっていない。
仮眠にも届かないような眠りを、たぶん細切れに取っただけなのだろう。
顔色は悪い。
けれど、昨夜までみたいな“どこか別の方を向いている感じ”は、少しだけ薄い気がした。
「……冬真」
小さく呼ぶ。
少し遅れて、まぶたが上がる。
「何だ」
掠れた声。
でも、その二文字だけで、千歳の胸の奥に張っていたものが少しだけゆるむ。
返ってきた。
ちゃんと今、返ってきた。
「今どこ」
冬真はほんの少しだけ眉を寄せた。
「起きてすぐそれか」
「起きてすぐだから」
「……仮殿」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこまで返ってきて、千歳は小さく息を吐く。
「うん」
「何だ、その反応」
「確認できたから」
「面倒だな」
「知ってる」
その返しに、冬真の口元がほんの少しだけ動いた。
わずかだ。
でも、そのわずかが今はやけに大きい。
◆
綾人が仮殿へ戻ってきたのは、その少しあとだった。
戸が開く。
朝の冷たい空気と一緒に、綾人が入ってくる。袖に雪が少しだけついていた。外周の札や、祓殿側の様子を見てきたのだろう。
三人の視線が揃う。
「生きてるな」
綾人が言う。
「挨拶が雑」
千歳が返すと、綾人は平然とした顔で言った。
「事実確認だ」
そしてすぐに冬真を見る。
「どうだ」
冬真は少し間を置いてから答えた。
「……軽い」
「どこが」
「奥」
一拍置いて、
「前みたいに、ずっと繋がってる感じは薄い」
綾人は小さく頷く。
「一時切断は成立しているな」
その言葉に、千歳は胸の奥が少しだけ熱くなる。
一時、でも。
成立、した。
昨日のあの恐ろしい踏み込みは、無駄ではなかったのだ。
「でも」
冬真が低く続ける。
「なくなったわけじゃない」
千歳の胸は、今度は少しだけ沈む。
やっぱりそうだ。
終わったわけじゃない。
まだ、次がある。
「名前は」
綾人が問う。
その一言に、千歳も反射で冬真を見る。
冬真はこめかみを軽く押さえた。
「少し遠い」
「遠い」
千歳が繰り返す。
「前より、一拍いる」
冬真は言った。
「聞こえてないわけじゃない」
「……」
「でも、すぐ自分のものとして落ちてこない」
千歳は唇を噛む。
昨日の選択の代償だ。
表の反応を少し薄くし、その代わり意味の核を残した。
わかっていた。
でも、実際にその状態を言葉で聞くと痛い。
「意味は」
綾人が問う。
冬真は少し黙ってから答える。
「残ってる」
「……」
「お前が、お前だっていう感じは、まだある」
千歳は胸の奥がぎゅっとするのを感じた。
嬉しい、だけじゃない。
苦しい。
でも、残っていてよかったという思いも確かにある。
「……そっか」
やっとそれだけ言う。
冬真は少しだけ目を細める。
「何だよ」
「よかった」
千歳は言った。
「今は、それでいい」
冬真は小さく息を吐く。
「何回目だ」
「知らない」
「だろうな」
◆
囲炉裏の火が少し落ち着いたころ、綾人は仮殿の中央に簡単な灰の線を引いた。
流し路。
核。
冬真の中の道。
そして千歳との線。
昨日まで何度も見てきた図だが、今朝は少し意味が違って見えた。
太く噛み合っていたところが、わずかにずれている。
完全に切れたわけではないが、以前のような直結ではない。
そんな印象だった。
「今の状態を整理する」
綾人が言う。
「まず、流し路と核の直接的な噛み合いは崩れた」
「うん」
千歳が頷く。
「だから昨夜みたいな深い呼びは、すぐには来ない」
「すぐには?」
「来ないとは言っていない」
綾人は淡々と返した。
「崩れただけで、消えたわけではないからな」
その言い方は冷たい。
でも、今はその冷たさが必要だった。
楽観で進める段階ではもうないからだ。
「次に」
綾人は続ける。
「冬真の中の道は、まだ残っている」
「……」
「ただし、以前より細い」
「……」
「問題は、その細くなった道が、何によってまだ人間側へ留まっているかだ」
千歳は息を止める。
そこだ。
昨夜も、最後に残したのは“意味の核”だった。
「千歳との線」
冬真が低く言う。
「たぶんな」
綾人は頷いた。
「名前は少し遠い」
「……」
「だが、意味の核は残った」
「……」
「だから一時切断は成立した」
千歳は灰の線を見る。
細くなった道。
少し遠くなった名前。
それでも残った意味。
この章で本当に向き合わなければいけないのは、たぶんもうそこしかない。
「つまり」
千歳が静かに言う。
「次は、そこに触るんですよね」
綾人はすぐには答えなかった。
だが、否定もしない。
それだけで十分だった。
◆
「……嫌だな」
冬真がぼそりと言う。
千歳と綾人がそちらを見る。
冬真は壁際へ背を預けたまま、目だけを向けていた。
「何が」
千歳が問う。
「そこが残ってるってこと」
「……」
「助かるのはわかる」
「……」
「でも」
一拍置いて、
「最終的にそこへ触られるって話だろ」
その言葉に、仮殿の空気が少しだけ重くなる。
たしかにその通りだった。
今は救いとして残っている意味の核が、最終決着では最大の難所になる。
「綾人さん」
千歳が低く呼ぶ。
「何だ」
「最終的に必要なのは」
一拍置いて、
「流し路や核を完全に終わらせることだけじゃないですよね」
「そうだ」
「……」
「人ひとり分の代替路という構造そのものを終わらせること」
「……」
「そして、冬真の中にできた道が何に結ばれているか」
「……」
「そこまで含めて決着をつける必要がある」
やはりそうだ。
第5章までは、“どう切るか”だった。
第6章は、“何を残して終わらせるか”の話になる。
「じゃあ」
千歳は問う。
「何を守るか、先に決めないといけない」
「そうだ」
綾人は答えた。
「名前か」
「……」
「記憶か」
「……」
「自己認識か」
「……」
「意味の核か」
ひとつひとつ言われるたび、胸が重くなる。
どれも捨てたくない。
でも、全部がそのまま残るとは限らない。
その現実が、もう目の前にある。
「……選びたくない」
千歳が小さく言うと、綾人はわずかに目を細めた。
「知っている」
「でも」
「選ばされる」
淡々とした声。
それが今は、妙に残酷だった。
◆
昼近く、少しだけ空気が緩んだころ、千歳は囲炉裏の前で一人、火を見ていた。
昨日までとは違う。
ほんの少しだけ、仮殿の中の空気が人間の側に寄っている。
でも、それは休息ではない。
最終章へ入る前の、最後の浅い呼吸みたいなものだ。
「……千歳」
背後から冬真の声。
振り向く。
「何」
「考えすぎ」
「またそれ」
「そういう顔してる」
「便利だね」
「お前もな」
そのやり取りのあと、冬真は少しだけ真顔になった。
「昨日」
低い声。
「お前、残すって言っただろ」
「うん」
「全部」
「うん」
「……」
「何」
「今も、そう思ってるか」
その問いに、千歳は少しだけ息を止める。
逃げたい問いだった。
でも、ここで逃げたくはなかった。
「思ってる」
はっきり答える。
「名前も」
「……」
「声も」
「……」
「意味も」
「……」
「できるなら全部」
冬真は少しだけ目を伏せた。
「欲張り」
「知ってる」
「最悪」
「知ってる」
そう返すと、冬真の口元がほんの少しだけ動く。
でもすぐに、その表情は消えた。
「でも」
冬真は続ける。
「全部は無理かもしれない」
千歳は黙って聞く。
「そのとき」
一拍置いて、
「何を残すか、お前も決めろ」
その言葉は、これまでのこの人なら言わなかった種類のものだった。
自分だけで決めるのではなく、千歳にも同じ位置で選べと言っている。
それがどれだけ大きな変化か、千歳にはわかった。
「……うん」
小さく頷く。
「もう一人で決めない」
「……」
「わたしも決める」
冬真はそれを数秒見てから、ひどく小さく息を吐いた。
「知ってる」
その返しが、今は少しだけ優しく聞こえた。
◆
夕方が近づくころ、綾人は最後に静かに言った。
「第6章の次で終わらせる」
二人がそちらを見る。
「もう猶予は作れん」
「……」
「一時切断の反動が落ち着く前に、最終決着へ入る」
「……」
「次は」
一拍置いて、
「残したいものを抱えたまま、切る」
その言葉が、今の状態を何より正確に言い表していた。
怪異を終わらせる。
流し路を終わらせる。
冬真の中の道を閉じる。
でもそのためには、自分たちのあいだに残っている意味の核ごと、向き合わなければならない。
千歳は囲炉裏の火を見る。
冬はまだ終わらない。
でも、もう終わらせる場所は見えている。




