24話「二人で歩き出しました」
「少々お待ちください」
その言葉が、大臣室に残っていた。
ミカエルの手が、書類の上で止まったまま動かなかった。金の承認印が、宙に浮いている。
「田中さん」
颯が、静かに言った。
「何を言ってるか、わかってますか」
「はい」
「農村に行けるんですよ。角がなくなるんですよ。もう怖がられないし、天井にぶつからないし、椅子も壊れない」
「はい」
「それを、保留にするんですか」
「はい」
颯は、田中を見た。
赤い目は、揺れていなかった。
「……なんでですか」
「俺だけ助かっても―」
「助かっていいんです。田中さんは被害者なんです」
「はい。俺は被害者です。だから、わかるんです。他の人たちも、同じように困ってる」
颯は口を閉じた。
田中が、ミカエルを見た。
「ミカエルさん。エリエルさんのクレーム処理記録に、少なくとも11件の類似案件があると聞きました」
エリエルが、小さく頷いた。
「他にも、書類のミスで間違った場所にいる人たちがいる。俺と同じように、怖がられて、一人で抱えて、苦情を出しても返事が来なくて―」
田中の声は、穏やかだった。
「俺だけ先に助かって、他の人たちが残ったまま―それは、できないです」
颯は天井を見た。
この人は、自分の人生がかかった場面で、他の人のことを考えている。
「ミカエルさん。俺の転生先変更は、保留にできますか」
ミカエルが、承認印を下ろした。机に置いた。
「保留、ですか」
「はい。全員の案件を調べて、全部まとめて解決してほしいんです」
ミカエルが黙った。
長い沈黙だった。
「……前例がありません」
颯が、身構えた。ここで「前例がないからできない」と言われたら―
「しかし前例がないことは、禁止されているという意味ではありません」
颯は、ミカエルを見た。
ミカエルの目が、変わっていた。さっきまでのおどおどした目ではなかった。12年間、承認印を押すだけだったペッタン製造機が、初めて自分の言葉を使っていた。
「田中さん。あなたの案件を、『承認済・実行保留』とします。保留の理由は、本人希望。―これでよろしいですか」
「はい」
「ただ、保留の申請には―」
ミカエルが言いかけた。
田中は、もうペンを持っていた。
「書式はありますか」
ミカエルが、少し笑った。
「……用意します」
エリエルが、書類の束から一枚引き抜いた。
「保留申請書です」
全員が、エリエルを見た。
「……なんで持ってるんですか。それも」
「各課の書式は一通り―」
「集めてあるんですよね。知ってます」
田中が書き始めた。自分の転生を保留にする書類を、自分で書いている。
颯は椅子に座ったまま、その手元を見ていた。
「……自分で書くんですね。自分の保留を」
「他に誰が書くんですか」
「それはそうですけど」
さっきまで、自分の転生が修正される瞬間だった。もう魔王ではなくなる瞬間だった。それを自分で止めて、自分で保留の書類を書いている。
「できました」
田中がペンを置いた。
ミカエルが確認した。
「さすがです。不備―ありません」
ミカエルが、金の承認印を持ち上げた。今度は迷わなかった。保留申請書に、まっすぐ押した。
「『承認済・実行保留(本人希望)』。―これで、田中さんのステータスは確定です」
颯が言った。
「田中さん。確認しますけど、魔王のまま、ってことですよね」
「はい」
「農村に行ける権利を持ったまま、魔王として、他の被害者を探しに行く」
「はい」
「角も、赤い目も、黒い鎧も、そのまま」
「はい」
「行く先々で怖がられて、防犯ベル押されかけて、食堂で裏メニュー作られて」
「……はい」
「変な人ですね」
田中が、少し困ったように笑った。
「すみません」
颯は立ち上がった。
「行くんですよね。被害者を探しに」
「はい」
「まさか一人で行こうとしてませんよね」
田中が、颯を見た。
「……いいんですか」
「何がですか」
「颯さんは勇者で―本来なら、魔王を倒すのが―」
「田中さん。俺が田中さんを倒す未来は、出会って5分でなくなりました」
颯は剣の柄に手を置いた。
「勇者として、魔王と一緒に被害者を探しに行きます。変な話ですけど」
田中の赤い目が、少しだけ揺れた。
ルカが、一歩前に出た。
「田中さん。私は、ここに残ります」
田中が振り返った。
「第3課の補充が来るまで、誰かが書類を処理しないと。―それと、田中さんが被害者を見つけたとき、天界側の受け入れ窓口が必要ですよね」
エリエルが頷いた。
「私も残ります。11件の記録を、ミカエルさんと一緒に精査します。田中さんたちが被害者を連れてきたとき、手続きが止まらないように」
ゼファも黙って頷いた。
颯は、三人を見た。同じ方向を向いている。歩く場所が違うだけだった。ここで戦うのだ。制度の内側から。
田中は、三人を見ていた。
ルカ。エリエル。ゼファ。
「……ありがとうございます」
ルカが、小さく笑った。
「被害者を見つけたら、連絡してください。書類は、こちらで用意しておきます」
「……はい、すみま―」
「禁止です」
颯が言った。
田中が口を閉じた。
少しだけ、笑った。
赤い目で。角のある頭で。魔王のまま。
ミカエルが、机の引き出しを開けた。
「田中さん。11件の案件リストを、お渡しします」
エリエルの記録を元に、ミカエルが自分でまとめたものだった。名前。転生先。ミスの概要。現在地。
田中が受け取った。リストに目を通した。
一番上に、名前があった。
「大河内義治」。転生先:聖女リーリエ。ミスの概要:書類の取り違え+引き継ぎミス。
田中が、その名前を見ていた。
「……聖女、ですか」
「はい。男性が、聖女に転生しています」
田中は、リストを鎧の内側にしまった。
書類が、一枚増えた。
田中が立ち上がった。
颯も立った。
「行きましょう」
田中が扉に手をかけた。
ミカエルが、後ろから声をかけた。
「田中さん」
「はい」
「私からも、一つだけ。―ありがとうございます」
田中が振り返った。少し驚いた顔をしていた。
「こちらこそ。―お茶、美味しかったです」
扉を開けた。廊下に出た。
「田中さん」
「はい」
「次の被害者を見つけたら、何て声をかけるんですか」
田中が、少し考えた。
「今、助けに行きますから、少々お待ちください、ですかね」
「自分の見た目わかってます?」
「すみません」
二人は次の被害者を救うべく並んで歩きだした。




