第96話 白銀と漆黒
アドバンス共和国辺境防衛軍本部。
その日、正門前には、
漆黒を基調とした軍礼服に身を包んだ共和国軍の儀仗兵が整然と並んでいた。
胸元には共和国の紋章があしらわれ、
磨き上げられた儀礼用魔導兵装が淡い陽光を受けて静かに輝いている。
その中央に立つのは、共和国軍対黒淵戦総司令官、ルリスティ・トリウリッド。
身にまとっているのは、共和国軍少将としての正式な軍礼装だった。
細身の漆黒の上着には、銀糸で共和国軍の意匠が控えめに縫い取られている。
肩章には新たに授けられた少将章、胸元には対黒淵戦総司令官章と、
これまでの戦いで授与された勲章が必要なものだけ留められていた。
両肩から流れる深い青のマントが、背後へ真っ直ぐに落ちている。
白銀の髪の上には共和国軍将官用の軍帽を戴き、
漆黒を基調としたその正面には、銀色の共和国軍徽章があしらわれていた。
装飾を抑えた端正な意匠が、
華美になりすぎることなく少将としての威厳を際立たせている。
漆黒と深い青、その中に置かれた銀の意匠に、
白銀の髪と紫水晶の瞳が鮮烈に映えていた。
軍帽の下から流れる髪は普段よりもきちんと整えられ、
その耳元には深い青色の小鳥が揺れている。
双子の姉と揃えた、幸運の鳥だった。
ルリスティの右後方にはジェイクが控えていた。
彼もまた、普段の軍服ではなく、大佐としての軍礼装を身にまとっていた。
漆黒の上着には銀の階級章を留め、左肩からは深い青の片肩マントが流れている。
総司令官として両肩を覆うルリスティのものより軽やかな意匠でありながら、
共和国軍大佐としての格式は十分だった。
漆黒の士官用軍帽には銀色の共和国軍徽章があしらわれ、
その端正な意匠が黒髪と鋭い青の瞳をいっそう精悍に見せている。
左後方には、同じく軍礼装と軍帽を着用したクルトワとガレスが並んでいる。
少し離れた場所には、
軍事先遣代表として一足先に共和国へ入っていたアレクシスも立っていた。
今の彼は、妹との再会を待つ兄ではない。
深い臙脂色を基調とした奈落騎士団の軍礼装をまとい、事前協議を担い、
これから始まる共同作戦へ備える帝国側の指揮官として、この場に立っている。
やがて、砦へ続く街道の向こうから、
マーヴェリア帝国の紋章を掲げた馬車と護衛の騎士たちが姿を現した。
共和国兵たちの間へ、僅かな緊張が走る。
百五十年間、互いの存在さえ知らずに生きてきた二つの国。
その一方の未来を担う者が今、
正式な国家代表として共和国の地へ入ろうとしていた。
馬車が正門前で止まる。
扉が開き、最初に降り立ったのは、
帝国近衛騎士団長リカルド・アークファイントだった。
騎士団長の礼装に白銀の儀礼用マントをまとい、鮮やかな赤い髪を整えている。
腰には、初代皇帝から受け継いだ黎明の剣が佩かれていた。
リカルドは周囲へ鋭く視線を巡らせたのち、馬車の中へ手を差し出した。
その手を取り、一人の女性が共和国の地へ降り立つ。
クリスティ・フォン・マーヴェリア。
二十歳を迎え、正式に帝国の未来を継ぐ者となった皇太子。
その姿を見た瞬間、ルリスティの紫水晶の瞳が、ほんの僅かに揺れた。
クリスティが身にまとっているのは、宮中で着用する華やかなドレスではない。
公式の場で皇太子が着用する、白を基調とした礼装だった。
軍装を思わせる端正な仕立てで、
胸元と袖口には帝国の紋章と皇位継承者を示す意匠が銀糸で縫い取られている。
肩から流れるのは皇族を示す深い紫のマントで、
腰には護身用の細身の剣が佩かれていた。
頭上に冠はない。
それでも、彼女が帝国を背負う者であることは、誰の目にも明らかだった。
そして白銀の髪の耳元には、ルリスティと対になる深い青色の小鳥が揺れている。
白を基調とした礼装をまとうクリスティ。
漆黒の軍礼装をまとい、深い青のマントを背負うルリスティ。
同じ白銀の髪。
同じ紫水晶の瞳。
よく似た顔立ちを持ちながら、
二人はまるで、朝の光と星を抱く夜のように向かい合っていた。
けれど、どちらかが光で、どちらかが影なのではない。
二人とも、それぞれの国で異なる未来と責任を背負って立っている。
クリスティはリカルドを伴い、ルリスティの前まで歩み寄った。
数歩の距離まで近づけば、互いの表情がはっきりと見える。
共和国で別れた時、クリスティはまだ一人の帝国皇女であり、
ルリスティも辺境防衛軍司令として本部を預かる立場だった。
けれど今は違う。
クリスティは帝国全権代表である皇太子として、
ルリスティは対黒淵戦における共和国軍の指揮権を預かる総司令官として、
この場に立っている。
ずっと会いたかった。
無事な姿を確かめ、抱き締めて、話したいこともいくつもあった。
それでも二人はまず、それぞれの国を背負う者として向かい合う。
ルリスティが共和国式の敬礼を取ると、
深い青の両肩マントがその動きに合わせて僅かに揺れた。
「マーヴェリア帝国皇太子殿下」
凛とした声が、正門前へ響く。
「共和国辺境防衛軍本部へ、ようこそお越しくださいました」
一度言葉を区切り、正面からクリスティを見つめる。
「共和国軍対黒淵戦総司令官、ルリスティ・トリウリッドが、
共和国政府の命を受け、共和国軍を代表して歓迎いたします」
クリスティも帝国皇太子として姿勢を正した。
「丁重な出迎えに感謝いたします、トリウリッド総司令官」
その呼び方に、ルリスティの胸が僅かに揺れる。
クリスティは彼女を「ルリスティ」とも「皇女」とも呼ばず、
共和国で生きてきた一人の軍人、
そしてクラウス・トリウリッドの娘として立つ存在を、
帝国皇太子として正式に認めていた。
「マーヴェリア帝国全権代表として、黒淵を終わらせるための協議に参りました。
両国の民が、二度とこの災厄によって大切な人を失わずに済む未来を、
共に築けることを願います」
ルリスティも真っ直ぐにクリスティを見つめ、静かに答える。
「共和国も、同じ未来を望んでおります」
ほんの一瞬、二人の視線が重なった。
本当なら、今すぐ名前を呼び、抱き締めたかった。
それでも今は公の場だ。
互いの国を背負う者として、その気持ちは胸の内へ収める。
それでも、クリスティの口元はごく僅かに緩み、
ルリスティの瞳にも柔らかな色が差した。
その変化に気づいたのは、すぐ近くにいた者たちだけだった。
アレクシスは何も言わずに笑い、
ジェイクとクルトワ、ガレスは気づかなかったふりをする。
リカルドだけが、クリスティの声に滲んだ柔らかさを察し、
静かに目元を和らげていた。
◇
正式な歓迎を終えた帝国代表団は、本部の中へ案内された。
合同会議の開始まではまだ少し時間があり、クリスティは用意された控室へ、
リカルドや帝国側の随行員たちは隣室へと通され、
それぞれ会議資料の最終確認を行うことになった。
共和国側の案内役として、ルリスティがクリスティを控室まで送り届ける。
ジェイクもその後ろまで付き添っていた。
「司令。会議開始まで、あと四十分です。十五分前にお迎えに上がります」
「承知しました」
ジェイクは続いてクリスティへも礼を取り
「皇太子殿下。何かございましたら、廊下の警備兵へお申しつけください」
と告げた。
「ありがとう、マルセリア大佐」
クリスティが礼を返すと、ジェイクは一礼してその場を離れた。
扉が閉じ、廊下を遠ざかっていく足音が聞こえなくなったところで、
部屋に残されたのは双子の姉妹だけになる。
先ほどまでの二人は、皇太子と総司令官として完璧に振る舞っていた。
互いの国へ敬意を払い、正式な言葉を交わし、
会いたかった気持ちを表へ出すこともなかった。
けれど今は、もう誰も見ていない。
先にその緊張を解いたのは、クリスティだった。
「ルリスティ」
共和国で共に過ごしていた頃と変わらない柔らかな声に、
ルリスティも張り詰めていた肩の力を抜く。
「クリスティ」
その名を聞いた瞬間、クリスティの顔から皇太子の表情が消えた。
「ルリスティ!」
たまらず駆け寄ってきた姉を、
ルリスティは驚きながらも避けることなく受け止める。
白を基調とした皇太子礼装と漆黒の共和国軍礼装が触れ合い、
深い紫と青のマントが二人の背後で重なった。
クリスティはルリスティの背へ腕を回し、強く抱き締める。
「会いたかった。ずっと、会いたかったの」
耳元で、声が震えた。
ルリスティはすぐには答えられなかった。
胸へ込み上げてきたものへ、言葉が追いつかない。
「手紙に元気だと書いてあっても、ヴィオ姉様から報告を聞いても、
本当に無事なのかずっと心配だった。遺構へ行ったと聞いた時も、
総司令官に任命されたと聞いた時も……また一人で全部背負っているんじゃないかって」
クリスティの腕にさらに力がこもると、
ルリスティもようやく姉の背へゆっくりと腕を回した。
「私は無事です。
遺構からも戻りましたし、一人で背負っているわけでもありません」
「……本当に?」
「マルセリア大佐も、クルトワ中佐も、ガレス中佐も、辺境防衛軍の皆もいます。
それに今は、帝国の皆様も」
クリスティが、ルリスティの肩へ顔を寄せたまま小さく笑った。
「そこは、“わたしたち”と言ってほしい」
「わたしたち?」
「うん」
クリスティは身体を離し、近い距離から妹の顔を見つめた。
「帝国の皆様じゃなくて、わたしたち」
紫水晶の瞳が、真っ直ぐにルリスティを映す。
「お父様も、レオンハルトお兄様も、アレクシスお兄様も、ヴィオ姉様も。
アークファイントも、それからわたしも」
クリスティは、妹の手を取った。
「みんな、ルリスティ一人に背負わせるつもりなんてないの」
ルリスティはしばらく何も答えなかったが、やがて静かに頷いた。
「……分かりました」
「本当に? また何でも一人で決めたりしない?」
「必要な判断は、総司令官として私が行います」
「ルリスティ」
少し咎めるような声に、ルリスティの口元が僅かに緩んだ。
「ですが、一人で抱え込むことはしません」
クリスティは、ようやく安心したように息を吐く。
「約束よ」
「はい」
今度は、ルリスティがクリスティを見つめた。
白い皇太子礼装と皇族の紫をまとった姿は、
共和国にいた頃よりも少し大人びて見える。
それでも、自分を心配して駆け寄ってきた顔は何も変わっていなかった。
「クリスティも、皇太子になったからといって、
すべてを一人で背負わないでください」
クリスティが目を丸くする。
「わたし?」
「はい。立太子と全権代表任命について、
帝国から届いた正式な通知を拝見しました。
合同会議では帝国全権代表として判断を下し、
その後の黒淵消滅作戦にも同行するつもりなのでしょう」
クリスティは否定しなかった。
「うん。帝国の兵を送り出して、自分だけ安全な場所で待つつもりはないもの。
それに、わたしの祝福でできることがあるなら、使いたい」
「ですが――」
「ルリスティ」
クリスティは妹の両手を取った。
白い手袋に覆われた皇太子の手と、
漆黒の礼装用手袋に覆われた総司令官の手が重なる。
「今度は、どちらか一人だけが残される戦いにはしない」
二歳のあの日、二人は突然引き離された。
一人は帝国へ残り、一人は遠い共和国へ飛ばされた。
十七年間、互いが生きていることすら知らないまま、別々の場所で育った。
けれど、今度は違う。
自分たちの意思で、共に戦う。
「一緒に終わらせよう、ルリスティ。そして、一緒に帰ろう」
クリスティの言葉に、ルリスティは重ねられた手を見つめ、
短く、けれどはっきりと答えた。
「はい。必ず」
顔を上げれば、目の前には自分と同じ髪と瞳を持ちながら、
異なる人生を歩んできた、かけがえのないもう一人がいる。
その顔を見つめた瞬間、ルリスティの唇から、ふいに一つの呼び名が零れた。
「……クリス」
クリスティが動きを止めた。
ルリスティ自身も、僅かに目を見開く。
考えて選んだ呼び方ではなかった。
ただ、なぜかそれが一番自然な名前であるかのように、気づけば口から零れていた。
「今……何て呼んだの?」
クリスティの声が震える。
「……クリス、と」
戸惑いながら答えると、クリスティの紫水晶の瞳が大きく揺れた。
「……お父様から、聞いたことがあるの」
「何をですか?」
「わたしたちがまだ小さかった頃、
ルリスティはわたしを『クリス』って呼んでいたんですって」
クリスティの瞳へ、ゆっくりと涙が浮かぶ。
「そして、わたしはあなたを『ルリ』って」
「ルリ……」
ルリスティは、その呼び名を小さく繰り返した。
父から何度も呼ばれてきた、馴染み深い名前。
けれど今、双子の姉もかつて同じように自分を呼んでいたのだと知ると、
胸の奥へ不思議な懐かしさが広がっていく。
クリスティが、もう一度その名を呼ぶ。
「ルリ」
その声を聞いた瞬間、ルリスティの脳裏を、
幼い頃のものらしい曖昧な感触が一瞬だけ過ぎった。
声も顔も景色もはっきりとはせず、確かな記憶とは呼べない。
それでも、遠い昔にも同じ声でそう呼ばれていたような、
不思議な懐かしさが胸の奥へ広がっていく。
ルリスティの紫水晶の瞳にも、僅かに涙が滲んだ。
「クリス」
その返事を聞いた瞬間、クリスティは再び妹を抱き締めた。
先ほどよりも少しだけ強く。
ルリスティも今度は迷わず姉の背へ腕を回し、
白と漆黒、異なる国の礼装と紫と青のマントが一つに重なる。
失われた時間を取り戻すことはできない。
けれど、二歳で途切れた二人だけの呼び名は、長い時を越えてようやく戻ってきた。
「もう一度呼んで」
涙の混じった声に、ルリスティが僅かに笑う。
「クリス」
「うん」
クリスティも泣きながら笑い、今度は妹の名を返した。
「ルリ」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
その瞬間だけは、皇太子でも対黒淵戦総司令官でもない。
世界が二つに隔てられていることすら知らなかった頃の、
幼い双子へ戻ったような笑顔だった。
◇
それからしばらくして。
控室の外では、迎えのため戻ってきたジェイクと、
隣室での資料確認を終えたリカルドが、それぞれ壁際に立っていた。
中から話し声までは聞こえない。
それでも、正門前で完璧に皇太子と総司令官として振る舞っていた二人が、
今頃どんな顔で向き合っているのかは、おおよそ想像がつく。
ジェイクが懐中時計を取り出し、時刻を確認した。
「……そろそろ迎えに行く時間なんですが」
隣に立つリカルドが、閉じた扉へ一度だけ視線を向ける。
「会議開始までは、まだ余裕があります」
「ええ。そうなんですよね」
ジェイクは時計をしまったものの、扉を叩こうとはしなかった。
しばらく、二人の間に静かな沈黙が落ちる。
やがてリカルドが、閉じた扉へ視線を向けたまま口を開いた。
「以前、クリスティ様から伺ったことがあります」
ジェイクが隣を見る。
「トリウリッド少将は、ご自身のことを後回しにしてでも、
周囲を守ろうとなさる方だと」
「……よくご存じで」
「共和国で共に過ごしていた頃のことを、何度か聞かせていただきました」
ジェイクは小さく息を吐いた。
「その認識で間違ってません。司令は放っておくと、
自分だけ勘定に入れないことがあります。
全員帰すと言いながら、ご自分が帰ることは最後に考える」
リカルドの表情が、ほんの僅かに険しくなる。
「……クリスティ様もです」
「でしょうね」
今度は二人揃って、閉ざされた扉を見た。
共和国軍大佐と、帝国近衛騎士団長。
所属する国も、支える相手も違う。
けれど、その瞬間だけは妙に近いものを感じていた。
「似ていますね」
ジェイクが言うと、リカルドは真顔のまま頷いた。
「双子ですから」
「そこまで似なくてもいいんですが」
「同感です」
再び沈黙が落ちた。
ジェイクはもう一度時計を確認する。
まだ、数分ある。
「……もう少しだけ待ちますか」
「異論ありません」
二人は何事もなかったように姿勢を正し、そのまま控室の前で静かに待ち続けた。
◇
やがて、控室の扉が叩かれた。
「司令。会議開始十分前です」
扉の向こうから届いたジェイクの声に、ルリスティはクリスティから静かに離れた。
「承知しました」
返事をすると、二人は抱き合ったことで僅かに乱れた互いの礼装を整える。
ルリスティはクリスティの深い紫のマントをそっと直し、
クリスティもまた、
妹の両肩を覆う深い青のマントへ手を伸ばして銀の留め具を整えた。
「ありがとう、ルリスティ」
「どういたしまして、クリスティ」
呼び方も、いつものものへ戻る。
「クリス」と「ルリ」は、二人だけの場所へ大切にしまっておけばいい。
もう一度見つけたその呼び名が、失われることはない。
身支度を終えたクリスティが扉へ手をかける前に、
もう一度ルリスティを振り返った。
「行こう」
「はい」
扉を開けば、廊下ではリカルドとジェイクがそれぞれを待っていた。
騎士団長の礼装に白銀の儀礼用マントをまとったリカルドと、
漆黒の軍礼装に深い青の片肩マントを流すジェイク。
クリスティが歩き出すと、ルリスティもその隣へ並んだ。
白と漆黒。深い紫と青。
一人は、帝国の未来を託された皇太子。
もう一人は、共和国の対黒淵戦を預かる総司令官。
それぞれの国で責任を背負う双子は、肩を並べて合同会議の扉へ向かった。




