六
午前四時二分。
東の空が紫色に染まり出す中、坂巻は焦燥感に駆られつつ敵機を睨んでいた。
先程の『坂巻反転』で背後を取られた後、敵は巴戦の誘いには一切乗って来なくなり、速度差を生かした一撃離脱戦法に徹していたのだが、やがてそれすらも行わなくなっていた。
坂巻が低空を這うように飛んでいる為敵機も中々狙いを付けられずにいるのか、それとも何か別の理由があるのか解からないが、明らかに敵機の機動には戸惑いが感じられる。
しかし、だからと言って坂巻が有利に闘っているかというと、決してそんな事は無かった。
馬力も火力も桁違いの相手である。むしろ一方的に狩られてもおかしく無い程の性能差。危機的な局面は何度もあった。
坂巻の卓越した操縦により命中弾こそ受けてはいないのだが、このままでは反撃の手立ても無い。
しかも時間が立てば立つ程、状況は悪化していくのだ。
「機長、そろそろ攻撃隊が到着する時刻です!」
相田が後席から怒鳴る。
「敵空母はどうか」
「まだ輪形陣の中……動きました! 陣を解いて風上に向っています!」
一瞬だけ敵機から視線を逸らし、敵艦隊を確認する。相田の報告通り艦隊は散開しつつあり、中央に鎮座していた空母が速度を上げていた。存外に苦戦している味方戦闘機を援護する為に、追加の戦闘機を発艦させる為だろう。
そうなったら、もはや坂巻達に勝機は微塵も無い。
「仕方無い。攻撃隊に打電せよ!」
「合点でさあ!」
『トトトトトトトトト……』
相田が、『突撃セヨ』の符号であるト連送を発した。
「敵の戦闘機は、どうします?」
「攻撃隊に近づける訳にはいかん。ぶち当ててでも墜すぞ!」
「合点! 目にモノ見せてやりましょう!」
二人共、事ここに至り一命を惜しむ思いは微塵も無い。
機銃の威力が足りないのなら、自らを弾丸と化して敵に当てるのみ――
こういった思想は戦争末期に『特攻』という形となって幾多の悲劇を生むのだが、坂巻達海軍軍人にとって、それは至極自然に導き出された答えだった。
国を護り、友を護る為に自らの命を盾とする。
それが軍人の使命であり、彼等の選んだ生き方なのである。
「畜生、一体どうしてこんな目に! 早くみんな来てくれ!」
メッツ少尉は艦隊を離れて発艦態勢に入る母艦を睨みながら、叫んでいた。
ようやく白みかけて来た空に、それでも視界は悪く、敵戦闘機を見失ったメッツはひたすら高速で艦隊上空を飛び回るより他に手立ては無くなっていた。
頼みの綱であったレーダー等の最新鋭電子機器は、先程受けた攻撃で使えなくなっていた。
「大尉、応答して下さい! 大尉!」
壊れた無線に必死に呼びかける。当然、応答は無い。
最も、たとえ無線が通じていたとしても、今やその返答が来る事は無いのだが……
「どうやら気付かれていない様だな」
電子機器の恩恵を失い、頼り無さ気に飛び回るメッツ機の下方、海面すれすれを這う様に飛びながら、竹中がほくそえんだ。
「さて、問題はここからだが」
ここまでは島影に隠れて来れたので敵のレーダーにも掛からずに済んだのだが、敵艦に突撃を敢行するとなると、そういう訳には行かない。この鈍足で、しかも雷撃という行程上、どうしても無防備な状態で直進を続けなければならない。戦闘機の迎撃が無かったとしても、敵艦の放つ対空砲の良い的である。
本職の母艦雷撃隊ですら『雷撃を三回行った奴はいない』と言われる程に、それは危険な行為なのであった。
「敵空母、隊列より離れます!」
後席の電信員である今井飛長が報告する。見れば、敵空母がまるで誘っているかの如く、その無防備な横腹を見せて直進していた。
同時に、坂巻機からのト連送を受信。
「良し。突撃を敢行する!」
竹中は島影から離れ、敵空母に向い直進した。
後方を見れば、横溝一飛曹の零水偵も編隊を維持して追躡している。
(待ってろよ、アメ公共。でっかいプレゼントを見舞ってやるからな)
竹中は飢えた肉食獣の様に凶暴な笑みを浮かべていた。
「来ました! 攻撃隊です。九時方向低空!」
相田の報告に、坂巻はざっと周囲を見渡し状況を確認する。
彼の位置を基点に、三時方向に敵艦隊。九時方向に攻撃隊。そして九時から十二時時の方向に、攻撃隊を見逃した敵機が飛んで行く。
「良し。攻撃隊を援護する。奴らの盾になるぞ」
機体を翻し、坂巻は敵機と攻撃隊の間に割り込む位置に自機を持って行った。
東の空は茜色に輝き出し、視界も随分と開けて来た。攻撃隊もこれ以上敵機の目をごまかす事も出来まいし、敵艦のレーダーにも補足されている筈だ。もはや一刻の猶予も無い。
「敵機が反転して来ます」
「気付いたか」
反転し、自機目掛けて突進して来る敵機を認めた坂巻は、後席の相田に飄々とした口調で「すまんな、相田」と声を掛け、敵機と交差するコースに機を進めた。
「仕事ですから。気にせんで下さい」
こちらも柔らかい口調で、相田が答える。
「さあ、いい子だ。こっち来い。こっち来い……」
機銃を乱射しながら猛進する敵機に機首を向け、突入のタイミングを図っていたその時。
敵機下方から太い曳光弾が打ち上げられ、その機体を乱打した。
主翼中央部に多数の命中弾を受けた機体はそのまま爆発四散し、巻き上げられた猛煙の中を突き抜ける様に宮本の二式水戦が上昇して来た。
「宮さん!?」
相田が素っ頓狂な声を上げる。
見張り員である相田は、たとえ空戦中でも常に四方八方を警戒し、戦場の全てを把握しなければならない。そして彼はその能力に、踏んだ場数に相当する自信を持っていたのだが、その相田ですらも低空から忍び寄る宮本に気付く事が出来なかった。きっと、敵機の搭乗員は自分に何が起きたか分からない内に爆散した事だろう。
「いつまでも呆けるな! 攻撃隊の援護に行くぞ!」
伝声管から伝わる坂巻の怒鳴り声で、相田はふと我に帰る。
慌てて周囲を見渡すと、夜明け前の清浄な空に、ぽつぽつと黒い染みが幾多も浮き上がっている。
味方機を全て墜とされて同士討ちの危険が無くなった敵艦隊が、盛大に対空砲を打ち上げていた。
「敵の対空砲火を引き付ける。機銃掃射用意!」
攻撃隊と敵艦の間に割り込み、機体を海面ぎりぎりまで降下させて敵空母に向けて突撃を敢行する。接近に気付いた対空機銃が、盛大に銃弾をばら撒き始めた。艦爆乗りや艦攻乗りが『アイスキャンデー』と呼んでいる、赤く太い曳光弾が機体を掠める。
「機長、宮さんの様子が変です」
相田の言葉に、坂巻が訝しげな表情で右舷を並行して飛んでいる宮本機を視認する。
風防越しに、宮本と視線が合った。
彼は、赤黒く血に染まった右手で『サラバ』と手信号を送るとそのまま急上昇し、敵艦に向かい一直線に降下した。
「宮本!?」
「宮さん!」
二人の叫び声は、当然彼には聞こえない。
「へ……へへ……」
真下に見える甲板には、発進直前の敵艦載機がその無防備な姿を並べていた。
赤い曳光弾が機体を叩く。それでもここまで接近した宮本機を止める事は、もはや出来なかった。
「ざまあ……見やがれ。加賀の……仇、だ……」
機体は四散しながらも、宮本の執念が乗り移ったかの如く敵艦に襲い掛かる。ほんの数秒前まで二式水戦だった鉄塊は甲板上に駐機してある敵戦闘機を薙ぎ払い、爆発した。
「敵艦、炎上! 味方機が突入した模様です!」
「おう! 見事だ!」
甲板上に起こった大爆発を視認した竹中は、後席の報告にそう答え、尚も敵艦に接近を続けた。
(こちとら本職じゃ無えんだ。絶対に外さない距離まで詰めて、ぶち込んでやる!)
味方機の突入により敵空母は混乱している。付けこむなら、今だ。
そう考えた竹中はフロートが波を叩かんばかりに低空を這い、必中の間合いに斬り込もうとしていた。
これが雷撃専用に作られた艦上攻撃機だったなら、あるいはその戦法は間違っていなかったのだろう。
しかし。
速度も運動性にも劣る、しかも無理矢理雷装して重量過多の零水偵でそれを行うのは、やはり荷が重すぎた。
混乱から回復しつつある敵艦隊は瞬く間に陣形を整え、濃密な対空砲火を打ち上げて来た。機体の四方に水柱が上がる。
次の瞬間、直撃弾を受けた横溝機が主翼をもぎ取られ、海面に没した。
「おのれ!」
歯噛みしつつ操縦桿を握り、目標である敵空母に視線を戻した矢先――
その敵空母から放たれた対空砲弾が真っ直ぐに自分目掛けて飛んで来るのを、竹中は見た。
(ああ。これは当たるな)
そう感じた瞬間、彼は投下レバーを力一杯に引き上げ、魚雷を放った。
「頼むぞ!」
そう叫んだ刹那直撃した対空砲弾が炸裂し、竹中達の乗った零水偵は一瞬にして消え去った。