四
一九四三年。十月二十五日午前一時。ムラムラ島根拠地――
白銀の月光が優しく照らす下。第八九三分隊の、おそらく最後になるであろう出陣の儀式が行われていた。
零式水偵に懸架された魚雷に整備長が白いペンキで、
『Prezent for You』
と、殴り書く。
誰が始めたのかは定かで無いが、分隊では出撃時、投下する爆弾にこの一文を添える事が習慣となっていた。ちなみに、綴りが間違っている事には誰も気付いていない。
「これで良し、と。じゃあ竹中隊長、我々の気持ち、ちゃんと届けて下さいよ?」
オイルに汚れた顔をニヤっと崩して、整備長が言った。
「ああ。しっかりとアメちゃんに送り届けてやるから安心してくれ」
竹中も暗中に白い歯を浮び上げ、笑みを返した。
そして、振り返って他の隊員を従え敦賀分隊長の前に整列し、
「第八九三分隊、竹中飛曹長以下九名。只今より敵艦隊攻撃任務に向かいます!」
と、もはや怒号とすら称せる勢いで発した。
対する敦賀は、相変らずの飄々とした態度で、
「よろしく頼みます」
と、一言だけ答え、敬礼した。
「はッ!」
竹中は力強く返礼すると、他の搭乗員達に、
「総員、掛かれッ!」
と号令を発し、自らも駆け足で愛機に乗り込んだ。
四機のエンジンが唸りを上げ、根拠地を揺るがす。
部隊員達が帽子を振って見送る中、一機、また一機と水面を滑り出し、滑水地点に向う。魚雷を装備した零水偵が通常の倍以上の滑水距離を使い離水し、それを追う様に零観と二式水戦が、こちらはいつも通り軽やかに舞い上がる。
離水した四機は、まるで分隊員に最後の挨拶をするかの如く島の周りを一周し、星空へと消えて行った。
その姿を見送った敦賀は地上に視線を戻し、残った隊員に命令を発した。
「良し。では、探照灯を照らせ。島内の明かりを全て点けよ。敵夜間偵察機の目を、この島に引き寄せるのだ」
「はッ!」
搭乗員のみ死地に送り出す事を善しとしない敦賀の男意気に、部隊員達は改めて賞賛の眼差しを贈った。
ムラムラ島を発した攻撃隊は、整備員入魂の調整のお陰で不備も無く順調に、予定通りの時間にニュージョージア島上空へと到達した。
作戦では、ここで雷装した零水偵を着水させて攻撃開始時刻まで待機させる事になっている。
重い魚雷を抱えたまま、夜間の着水。
幸いな事に海原は凪ぎ、月明かりも十分ではあるが、それでも難易度の高い行動である事に変わりは無い。
「最初の難関か。あいつら、無事に降りれると良いが」
「まあ竹中さんも横溝さんも腕だけは良いですからね。大丈夫でしょう」
坂巻達が心配そうに見守る中、しかし二機の霊水偵は危な気の無い機動で着水。そのまま水面を滑る様に進み、島影に隠れて行った。その動きは普段見る事のできない、いっそ凄みすら感じる程に一切の淀みの無いものだった。
彼等もまた、自分達が今作戦における唯一の矛である事を自覚しているのだろう。
「ふう……まったく、他人事ながらヒヤヒヤする」
「まずは第一関門突破ですな。次はあたしたちの番ですよ」
「うむ、そうだな。俺達はここからが肝心だ。相田、気を抜くなよ」
「合点」
彼等の着水を見届けて、酒巻は再び機首を上げる。後方を確認すれば、坂本の駆る二式水戦が隙の無い動きで追躡している。
ここからは、彼等の働きが作戦の全てを決めると言っても過言では無かった。
高度を上げて、索敵行動に移る。
この夜のソロモン上空は雲も無く、月光が煌々と照らす海面は飛び散る波頭が目視できる程であった。
「こりゃあ、見晴らしが利いて良いですなぁ。これなら電探が有ろうが無かろうが関係無いですわ!」
まるで子供の様に無邪気な口調で、相田が叫んだ。
「ああ。良い仕事が出来そうだ」
坂巻もご機嫌な口調で、そう答える。
今回の作戦は、如何に首尾良く敵艦隊を発見し、絶妙のタイミングを計れるかに全てが懸かっていた。
それだけに索敵任務に充てられた坂巻達、ことに偵察員である相田の責任は大きい。
「しかし、はたして本当にこの海域に来ますかね、敵さん」
伝声管を通して、相田の不安げな声が響く。
「来るさ。今やここいら一帯の制海圏も制空圏も完全に掌握しているアメ公共が、わざわざ小細工する筈が無い。最短距離を堂々と来る。そういう連中だ」
坂巻は、むしろ自分を納得させる様な気持ちで言葉を返した。
「そうですねぇ」
それ以来、二人は言葉を交わす事無く、周辺海域の索敵に勤めていた。
闇に隠れて見えないが、左後部上方には、上空援護を兼ねつつ同じ様に哨戒任務を行っている宮本機が陣取っている。当初、二手に分かれて二方向よりの索敵も検討されたのだが、二式水戦に搭載されている無線機はあまりに性能が悪く、攻撃隊を誘導できないかもしれないので、結果この様な態勢になっていた。
ふと、坂巻は海面から目を離し、周囲に広がる星空に視線を泳がせた。
まるで銀粉を撒き散らしたかの如く豪奢なその眺めは、一瞬ここが戦場である事を忘れさせる程の美しさがあった。
(まったく。世界はこんなにも美しいのに、我々は一体何をやっているのだろう?)
自嘲的な笑みで、口元を歪める。
日の光を浴びて紺碧に輝く海。
生命の力強い息吹を感じる鮮やかな緑の木々。
そして夜になると空を彩る満天の星。
東北の寒村で育った坂巻はソロモンに来て以来、この地の美しさに深い感銘を受けていた。
その美しい海や空を血に染め、汚している自分達の愚かしさを胸に抱きつつ。
戦場に似合わぬ感傷的な思いに浸りながら星空を眺めていたその時――
前方に輝く星が一瞬、その姿を消した。
「ッ!」
我に返った坂巻が操縦桿を捻り、フットバーを蹴り付けて機体を横転させる。
刹那、今まで居た空域に曳光弾が走り、敵戦闘機とすれ違った。
「敵機だ! 対空戦闘用意!」
後席に伝声管でそう叫ぶと、坂巻はそのまま機体を捻り込み鋭角なターンを切った。
周囲をざっと見渡す。前方に交差する火線。宮本機も交戦に入ったのだろう。
「見えるか、相田!」
「一時上方! 見逃がしゃしません!」
「よし、行くぞ!」
「合点!」
意志の疎通も鮮やかに、坂巻機は前方に展開する空戦の渦中へと機体を向けた。
「畜生。何なんだ、こいつらは」
コクピットの中で冷たい汗を流しながら、焦燥感に駆られてウェリントン大尉は呟いていた。
彼の操るF6F‐3N型は、アメリカ海軍が開発した最新最精鋭の夜間戦闘機、その増加試作機である。
その新型戦闘機の実戦テストと夜間戦術の確立の為に、彼等はソロモンに派遣されていた。敵夜間爆撃機の跳梁に業を煮やした米軍が出した回答、それが彼等米海軍夜間戦闘飛行隊であった。
高性能なレーダーと通信機、敵味方識別装置等の最新電子機器を装備し、僚機とペアを組んでの戦闘。それは熟練者の技能にのみ頼っていた夜間戦闘を容易なものに変え、あの小憎らしいジャップの夜間作戦機を完膚無きまでに叩きのめす事ができる。そう、信じていた。
ところが――
レーダーに映る無防備なカモを見つけ「余裕を持って撃墜できる」と思った矢先、敵機は信じられない機動でそれを避わし、反撃までしてきた。
「くそ! こいつら、ホンチョ(ベテラン)も良い所だ!」
無線からは、列機のメッツ少尉の泣き言が聞こえる。確かに、敵は信じ難い技量を持っていた。
それでも。
「編隊を崩すな、少尉。いくら手錬れと言っても所詮は水上機だ。速度差とレーダーの利点を活かして追い詰める」
彼等とて、その技量を見込まれて新設された夜戦隊に抜擢され、最新鋭機の実戦テストを任された身である。そのプライドに賭けても、負ける訳にはいかなかった。
「相田! 敵が何だか分かるか!?」
「おそらくグラマン! しかし速度も機動もF4Fとは比べ物になりません。噂の新型でしょう!」
米海軍が新型の戦闘機を配備し始めた、という噂は以前から囁かれていた。
宮本などは、
「早いとこ手合わせしてみたいもんです」
と嘯いていたが、よもや最悪の形でのお目見えである。
その宮本と言えば、前方の空域でその新型グラマンと組んず解れつの格闘戦を演じている。いくら二式水戦が零戦の系譜であるとは言えゲタバキ機で夜間の、しかも敵新型二機との戦闘に、それでも彼は単機善く奮戦していた。
(――どうする?)
坂巻は眼前にて展開されている空戦に、自分がどう対処すべきかを考えていた。
敵機の連携は完璧で、射撃も正確である。明らかに夜間戦闘に特化した機体であろう。それに対し宮本は、単機である利点を最大限に活かし、曲芸まがいの機動で敵をはぐらかし、追尾出来ず前にのめり出た敵機に反撃すらしていた。
ここに坂巻機が乱入する事は、かえって彼の機動を邪魔する事になるかもしれない。
そう瞬時に判断した坂巻は後席の相田に向かい、伝声管に叫んだ。
「敵機は宮本に任せて我々は敵艦隊捜索に戻る。こんな所をグラマンが飛んでいるんだ、きっと近くに居るに違いない!」
そう指示を飛ばすと相田からの返事も待たずに、敵艦隊が潜んでいるであろう水道の奥部に向けてスロットルを開けた。
「へへっ。坂巻さん、分かってんじゃねぇか」
宮本は追尾して来る敵機を確認しつつ、空域を離脱し始めた零観を視界に納め、そう一人ごちた。
坂巻の推測通り、彼は単機で戦っているからこそ敵機を翻弄できているのだ。余計な助太刀をされて機動の邪魔をされでもしたら、目下彼が唯一持っている『制限の無い空戦機動』という利点を殺され、瞬時に撃墜されてしまうだろう。敵はそれ程の相手だった。
それに。
(あんたは敵艦隊を見つけるのが仕事。その露払いをするのが俺の仕事だ)
艦載機であるグラマンが飛んでいるという事は、近くに敵空母が存在するという、何よりの証拠である。
早い所敵艦隊を見つけ、攻撃隊を呼び寄せなければ唯一の勝機である黎明攻撃が出来なくなる。それだけは、何としても避けなければならなかった。
「……とは言え、こいつらをどうにかしねえと、攻撃隊を呼ぶ訳にもいかねえな」
山積みされた難題に、むしろ舌なめずりする獣の様な笑顔を張り付かせ、宮本は操縦桿を捻って機体を横転させた。
レーダーで敵機の追尾をしていたウェリントン大尉は、一機が戦域を離れて行く事に気付いた。
南南東に進路を取り、脇目も降らず直進している。
その先には……
「畜生! 奴等の狙いは艦隊か!」
事象のピースを頭の中で瞬時に組み立てた大尉は、眼前でとんでもない機動を見せる敵機を睨み付けながら僚機のメッツ少尉に指示を飛ばした。
「少尉、片割れを追いかけろ。艦隊に近づけてはいけない」
「しかし、大尉……」
「我々の任務は艦隊を護る事だ! ジャップのファイターと優劣を競う事では無い。早く行け!」
「……了解しました」
歯切れの悪い返答をしつつも、メッツ少尉は翼を翻して敵機の追尾に回った。
「良し。後は……」
レーダーの輝点を頼りに機体を動かし、敵機に向って射撃を敢行した。
しかし、目視の攻撃と違ってどうしてもタイムラグが発生し、多少の手応えはあったものの未だに決定打を与えられずにいる。
――後は、この悪魔の様に手錬れなジャップに、俺が勝てるか、だ――
航空時計の針は、午前三時五十四分を指していた。
あと二十分もすれば空は白み出し、敵艦載機の発艦が可能になる。何としてもそれまでに発見したかった。
坂巻は水道を南南東に向け一直線に機を進め、敵艦隊の発見に努めていた。
両側をニュージョージア島とイサベル島に挟まれたこの水道のどこかに、敵艦隊は確実に潜んでいる。
敵機との邂逅でそれを確信した坂巻は、最大限に機速を上げながら水道を邁進し、捜索を続ける。
そして、遥か前方の海域に不自然な黒い影を見たかと思った刹那、
「後方より敵機!」
相田からの報告に、彼は脊髄反射とすら言える反応で機体を横滑りさせた。敵の火線が機体を掠める。
「宮さん、やられたのか!?」
「いや、敵はどうやら単機らしい! もう一機は宮本が引き受けている筈だ。奴は俺がなんとかするから、お前は打電しろ!」
「合点! たのんますよ!」
「頼まれた!」
機を翻し、横転して敵機の攻撃を避けつつ、坂巻は逆転した視界の上方に敵艦隊を認めた。
月光が海面を明るく照らすその中に、輪形陣を組んで北北西に進路を取っている敵艦隊が影絵の様に黒々と浮かび上がっていた。
中心に一際大きい平坦な影。まさしく敵空母である。