8・罪深きもの
由木有紗という女の話をしようと思う。
有紗は東京に面したベッドタウンの一軒家で育った。
生まれたのは四国だと聞いている。母の出身地だ。
特別賢くはなく、何処にでもいる子供であったと記憶している。
私立に通いたいと思うほどの意欲もお金もなく、順当に近所の公立校に通っていた。
月並みではあるが、幸せだったと思う。
高校も公立を選んだ。近くの学校ならアルバイトしてもいいわよ、という母の言葉に釣られた形だ。
バイト先に決めたのは、近所のファミレス。何故なら、そこにある同級生とその友人が通っていることを知っていたから。
声をかけるには有紗は奥手で、遠くから眺めるばかりだったけれど、初恋なんてそんなものなのだと思う。
学校で友達とコイバナをして、バイト先で好きな人を観賞して、家に帰れば家族と他愛もないことで笑う。
それだけのことが、どれ程幸せだったか。
終わりは、突然。
バイト帰りに、有紗は忘れ物に気がついた。
翌日提出の宿題をやるには、英和辞書が必要だ。
兄弟に借りれば済む話だが、その時は取りに帰ろうと思った。……思ってしまった。
学校が、バイト先から近かったのもいけない。自転車で10分の距離は、ちょっとその気になればすぐに戻れる。
だから、もう下校時刻を過ぎた学校に戻ったのだ。
そして、先生に話をしてひとり教室に入った。
それが、間違いだったと気がつかないまま。
その時何が起こったのか、今でも有紗にはわからない。
足下が青く輝き、逃げる間もなく吸い込まれた。
気がつけば広間のような場所で、大勢の人間に跪かれていた。
召喚された“巫女”として。
突然のことに混乱する有紗に、この世界の人々は親切だった。
言葉を教え、食事を与え、必要な知識を与えられる。
彼女は魔王を倒すものとして異世界から召喚されたのだ。
「あなたにしかできない」と泣いてすがられた。
終われば元の世界に帰れると約束された。
ただの女子高生に過ぎない彼女に、拒否することなどできなかった。
そして連れていかれるまま、各地を巡った。
魔獣と呼ばれる生き物を倒すよう求められた。
この世界にやって来て、彼女は不思議な力が使えるようになった。
歌で生き物を操れる。その力は魔獣退治に大きく貢献した。
さすが巫女様と崇められ、称賛される度、彼女の心は冷えていく。
いつか帰る日のためと言い聞かせ、歌いたくもない歌を歌った。
そんな日々も、国都で高官達の会話を盗み聞くまでだった。
魔王への犠。それが巫女の本来の役目だった。
その命を捧げ、平穏を願うのが召喚された理由。
目の前が真っ暗になった。
帰れる日など、一生来やしないのだ。
彼女は籠の鳥で、外に出ることなど叶わない。
誰もかれも、優しかったのは彼女に未来がないと知っていたから。
魔王を倒せと囁いておきながら、その実は魔王への捧げ物として飼い殺されていたなんて。
知ってしまったら、堪えられなかった。
もう全部どうでもいい。
この世界がどうなろうと知ったことか。
お願いだから、……もう放っておいて。
誰もいないところへ行こうと有紗は思った。
彼女が巫女だと誰も知らないところ。
そこなら、きっと心行くまで泣ける。