第1報 捻れた死体
ピッ、ピッ、ピッ、と。
無機質な電子音が、意識の深い霧の底まで届いてくる。
次に感じたのは、鼻腔を刺す消毒液の匂い。
そして、瞼の裏に滲む、ぼんやりとしたオレンジ色の光。
(病院、か)
思考が、泥の中から顔を出すようにゆっくりと浮上する。
全身が、まるで分厚い鉛の板に押し潰されているかのように重く、鈍い痛みが絶え間なく続いている。
どこがどう痛むのか、それすら判然としない。
(また、厄介なことになったな……)
確か現場仕事だったはずだ。
何が起きたんだっけ……。
思い出そうとしても、頭には濃い霞がかかったままだ。
まあ、どうせロクでもない事故だったに違いない。
ぼやけていた視界が、少しだけ輪郭を結ぶ。
白い天井。
そして、ベッドの傍らに立つ人影。
白い制服を着た、若い看護師だった。
彼女は手元のカルテに目を落としていたが、ふと、こちらの視線に気づいたのか顔を上げた。
次の瞬間、彼女の動きがピタリと固まる。
「……え?」
小さく、しかしはっきりと、彼女の口から驚きの声が漏れた。
その瞳が、信じられないものを見るかのように、わずかに見開かれる。
まるで、意識を取り戻すことなど、全く予期していなかったとでも言うように。
彼女は、手にしたカルテをバタッと閉じると、慌てたようにベッドサイドの機器を数回確認する。
そして、俺に一瞥もくれることなく、「先生!」と叫びながら、パタパタと足音を立てて病室を飛び出していった。
喉が、焼けつくように渇いていた。
「……みず、を……」
か細い声が、かろうじて喉から絞り出される。
だが、その声に応える者はもういない。
(ああ、また、だ)
遠のいていく意識の中で、諦念だけがはっきりと形を結ぶ。
(俺は、ただ、当たり前の何気ない日常を過ごしたかっただけなのに)
朝、目覚ましに起こされ、適当に朝ご飯をかきこむ。
仕方なく仕事に行っては上の奴らに怒鳴られ、同僚と愚痴をこぼし合う。
夜はコンビニ弁当で済ませ、動画をぼんやり見ながら、いつの間にか眠りにつく。
そんな、絵に描いたような、ささやかな、しかし確かな「普通」の生活。
それだけで、よかったのに。
視界が、ゆっくりと暗闇に塗りつぶされていく。
ピッ、ピッ、と鳴り続けていた電子音が、やがて1つの長い音になり、そして、それも聞こえなくなった。
***
未象000『幾何学模様』
腐肉をまとった巨体が、アレンの斬撃を受けて大きくよろめいた。
グレイヴ・オーガ。
第13階層の祭壇を守る、巨大なアンデッドだ。
腐った腕が振り回される。
だが、その一撃が届くより早く、カイルの矢が右目を射抜いた。
グレイヴ・オーガが咆哮を上げる。
続けて、メリルの炎が巨体を包んだ。
腐肉が焼け、広間に耐え難い悪臭が広がる。
「ディーナ、決めろ!」
アレンの声に、後方から凛とした詠唱が響いた。
「――聖なる光よ、彼の者を浄化したまえ! 〈ホーリー・レイン〉!」
天井近くに無数の光が生まれ、雨のように降り注ぐ。
グレイヴ・オーガの巨体が白い炎に包まれた。
腐肉が崩れ、太い骨が露出し、それすらも光の中で灰へ変わっていく。
最後に残った頭蓋骨が石床へ落ち、乾いた音を立てて砕けた。
「へっ、雑魚だな。けどレアアイテムは手に入った」
アレンは、剣についた汚物を振り払うと、満足げに笑った。
未到達だった第31階層を踏破した帰り、アレンたちはレアアイテムが出やすい第13階層の祭壇へ寄り道していた。
俺は戦闘が終わったことを確認し、広間の隅の暗がりから姿を現す。
アレン。
カイル。
メリル。
ディーナ。
かつては路地裏で泥だらけになって一緒に駆け回った、幼馴染たちだ。
だが、俺たちが神殿でそれぞれのスキルを授かった、あの10歳の夏の日から、道は分かれた。
彼らは『剣聖』や『大魔法使い』といった輝かしいギフトを授かり、いまや街の英雄として名を馳せるA級パーティになった。
そして俺は、【隠密】という、戦闘には何の役にも立たない、影に潜むだけのスキルを授かった。
現在の職業は、そんな英雄たちが残した死体を片付ける『死体清掃員』だ。
名前は物騒だが、ギルド公認のれっきとした職業である。
冒険者が倒したモンスターの死体から素材を回収する。
時には、ダンジョンで力尽きた冒険者の装備や遺体、あるいはその一部を回収するのも俺たちの仕事だ。
特に、A級以上のパーティが未知の階層に潜る際には、死体清掃員を連れていくことが義務付けられている。
彼らが持つ貴重な装備を失う可能性を、わずかでも減らすためだ。
だから、アレンがどれほど俺を嫌っていようと、未知階層へ向かう時だけは俺を連れていく。
もちろん、誰でもいいわけではない。
仲間たちが死ぬような状況で、自分だけがずる賢く生き残る。
そんなことができるやつは、そう多くない。
だいたい一緒に死ぬ。
危険な仕事だ。
実力もいる。
だが、蔑視されこそすれ、誰からも尊敬されない。
それはそうだろう。
仲間が死ぬのを助けもせず、死体をあさって日銭を稼ぐ。
ハイエナそのものだ。
その分、給料はいい。
A級パーティについて行ける実力となれば、なおさらだ。
もっとも、その実力は意地汚く逃げ延びるための、ではあるが。
「おい、何をぼさっとしてやがる」
アレンが祭壇へ向かいながら、苛立たしげに言った。
俺は背負っていた荷物を下ろし、腰に提げた皮袋から、どす黒いペースト状の軟膏を取り出す。
それを鼻の下へ塗り込んだ。
「悪い。少し、鼻が詰まっててな」
これで、グレイヴ・オーガが残した腐臭も、いくらかはマシになる。
アレンは忌々しげに舌打ちした。
「相変わらずトロくせえな、荷物持ち」
アレンが祭壇の上に置かれていた品を手に取る。
その途中、広間の隅に転がっていた別の冒険者の古い死体に気づき、顎でしゃくった。
「おい、死体清掃員。仕事だぜ。さっさと片付けろ」
言われるがまま、俺は死体へ近づく。
いつもの仕事だ。
装備が残っているか。
換金できるものはないか。
身元を示すものを持っていないか。
それを確認する。
だが、近づいた瞬間、少しだけ眉が動いた。
古い死体にしては、匂いが薄い。
装備の劣化も、肉の崩れ方も、周囲の腐敗具合と噛み合っていない。
死体そのものは古い。
だが、この場所に転がされたのは、もっと最近だ。
(……妙だな)
俺が屈み込み、首筋の硬直を確かめようとした、その時だった。
背後から近づいてきたアレンが、誰にも見えない角度で、俺の腹に硬い拳をめり込ませた。
「ぐっ……!」
息が詰まる。
胃の内容物が逆流しそうになるのを、必死にこらえた。
「てめえは、そういう汚え仕事がお似合いなんだよ、底辺職」
耳元で囁かれた声は、愉悦に歪んでいた。
パーティの魔術師であるメリルは、それを横目で見ながら見て見ぬふりをしている。
カイルはそんな2人の様子をうかがうように、落ち着きなく目を動かしていた。
(……まあ、たしかに『剣聖』の仕事じゃあないな)
アレンをちらりと見て、殴られた腹のむかつきを整えるために唾を吐き捨てる。
「てめぇ……っ」
アレンは苛立たしげに顔を歪めた。
そのままディーナに聞こえるよう、わざと大きな声で言う。
「この足手まといは残していく。この階層で、まだ回収できてねえ死体があるそうだ。仕事熱心なこった」
「そんな! リカルドを1人で残すなんてできない!」
「うるせえな! こいつの仕事だろ! それに、こいつには【隠密】スキルがある。俺たちより、よっぽど安全だろ?」
アレンは、反論しようとするディーナの腕を掴み、無理やり広間の出口へ連れていこうとする。
「……待って」
ディーナがアレンの手を振り払い、俺のもとへ駆け寄ってきた。
そして、自分のローブの裾から小さな銀細工のチャームを千切り取ると、俺の手に握らせた。
「気休めにしかならないかもしれないけど……これ、持っていって。聖なる祈りが込められてるから、きっと、あなたを守ってくれる」
彼女の真剣な瞳に、俺は何も言えなかった。
ただ、黙ってチャームを受け取る。
アレンの舌打ちが、通路の奥から聞こえてきた。
やがて、彼らの姿は通路の闇へ消えていく。
後に残されたのは、完全な静寂と、グレイヴ・オーガの残骸が放つ耐え難い死臭だけだった。
「……さて、と」
俺は、痛みの治まってきた腹をさすりながら、ゆっくりと立ち上がる。
連中の横暴に呆れる気持ちもないわけではない。
だが、感傷に浸っている暇はない。
生き延びなければ。
ただ、それだけだ。
俺は、ディーナにもらったチャームを装備の内ポケットにしまい込み、腰の別の皮袋を開けた。
中身は、強力なモンスターの糞や腐肉を調合して作った、特製のペーストだ。
これを全身に塗りたくれば、アンデッドや嗅覚の鋭いモンスターは、俺を「すでに死んでいるもの」と誤認する。
これを、俺は死臭迷彩と呼んでいる。
(いつ嗅いでも最高のニオイだ)
嗅覚が増す【隠密】と相性が悪いのがたまにキズだが、この『死臭迷彩』の効果は折り紙付きだ。
実際、これで俺は3度、全滅したパーティの遺品を持ち帰っている。
誰も真似しようとしないが。
準備を終え、俺は壁際を這うようにして、幼馴染たちとは逆方向のルートを進み始める。
しばらく進んだ、その時だった。
(……なんだ、この匂いは)
いつもの腐臭とは明らかに質の違う、甘ったるいような、それでいて金属的な異臭。
それは塞いでいるはずの鼻に、なぜか鮮明に届いていた。
その先に転がっていたものを見て、俺は足を止める。
オークの死体だ。
それ自体は珍しくない。
第13階層でオークが死んでいても、何もおかしくはない。
だが、その死体は、まるで雑巾でも絞ったあとのように、捻れた状態で固定されていた。
斬り傷も、殴られた跡もない。
掴まれた痕も、押し潰された痕もない。
まるで自らその姿勢を取ったかのように、ただ捻れている。
俺は距離を取ったまま、死体の周囲を観察する。
床に引きずられた跡はない。
壁に叩きつけられた跡もない。
血の飛び方も妙だ。
外から力を加えられたなら、もっと派手に裂けていなければおかしい。
筋肉の収縮じゃない。
死後硬直でもない。
外力による圧壊でもない。
死体の形だけが先に決められ、肉体があとからそこへ合わせられたような死に方だった。
こんな死に方は、知らない。
ぞわり、と背筋に悪寒が走る。
ディーナにもらったチャームが、ポケットの中で、かすかに熱を帯びたような気がした。
嫌な予感がする。
俺は息を殺し、さらに深く、通路の闇へ身を潜めた。




