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158「世界が変わる時」
劇を始めろとの黒猫の言葉に即座に反応できた者はいなかった。
「ん? どうしたの? みんな。さあさあ」
さらに急かす黒猫を戸惑いながら見て、同じく戸惑う周囲を見て、俺に何かないかと問いかけるような視線をよこす面々。困った視線を俺によこすな。これからどうなるかなど、俺も知らん。
「マローさん、ねえマローさん、準備はできてるのよね? どうにも貴方が号令をかけないとみんな動かないみたい。さあ、マローさん、始まりの号令を」
「え」
「劇よ、劇、皆で決めてたやつ。始めちゃってくださいな。今!」
「あ、あの、その」
黒猫に直接話しかけられる、この場を取り仕切るマロー司教。
困惑しながら適した答えを探し始める。プリュエルを傷つけられて怒ったり無茶な振りをされて慌てたり、この老いた司教も大変だ。
「たしかに準備はできとりますが、その、愚かにも、誠に愚かにもですぞ、神のご意思に逆らう者どもが集まって、どうにもこちらに戦争を仕掛けてこようとしているようでして、その、あの、今、ですか?」
のんきに劇なんぞしている場合か、と直接言ってやれば良いものの、差し障りのなさそうな言葉を選んでマロ―司教が問う。
目の前の人の言葉をしゃべる獣の存在、果たしてそれは本当に神の使いか、それともそういうのではない別の何かなのか、自分の判断にあらゆる責任と結果が伴う立場にいる者は、正体不明の相手に対して言いたいことも言えないのだろうな。はは、窮屈なことだ。どれ、助け舟を出してやろう。
「黒猫よ、司教は貴様にこう言いたいのだ。差し迫った戦争の危機に対してのんきに劇なんぞをしている場合か、と」
なので代わりに俺が言ってやった。
「決してそのようなことは!」
あわてて否定するが、続く言葉はない。それは本心からそう思っているからだろうが、ちと余計なお世話だったかもしれない。
「ち、違いますぞ? 劇を侮っているとかそういうのではなく……」
「ただの劇じゃないのよ。これはお別れの儀式。それと、大切な言葉を伝えるためのものでもある。だから、今、なのよ」
「はあ」
戦争に向かう力を戦争から遠ざかる方向への力へ、だったか。
黒猫はその言葉なり秘術なりを劇を通じて皆に伝えようとしているのはわかる、わかるが、それはそれなりに付き合いが長くなった俺だからわかるといったものだろう。
「貴様は何事も急すぎるのだ」
急に俺の前に現れて俺を変えたように。
この世界の流れそのものを変えてしまったように。
暴力的。暴虐。抗うことのできない自然の災害のように、突然に。
「いつも思うが、貴様には言葉が足らん、言葉が」
「どの口が言うの……」
呆れる黒猫。
これもまたやつめの言いたいことが十分に伝わる。
対話よりも剣を選んで黒猫へと向けた俺だからな。
「言葉が足らない、ねえ、それについては黒騎士さんに言われるまでもなく心掛けていることよ。それに、戦争、についても、別に焦る必要はないのよ。大げさにそこの彼が言っているだけで、実態は周辺でまとまった動きは特になさそう」
「なに?」
黒猫の余裕の態度は、世界がどうなろうと戦争に巻き込まれようと、自身の身に降りかかる災難など微塵も存在しないと知っているからこそだと思っていたが、違うのか。
「世界を見てみたのか?」
何でも見れて、何でも聞ける、見ようとすれば、聞こうとすれば。そういう力。
周辺地域の実態を天なりなんなりから直接見てしまえる黒猫ならば、どんな戦争においても先んじて行動し勝利することが叶うだろうな。将軍だろうが王だろうが、軍師として雇えるならば喉から手が出るほど欲しがる人材に違いない。人ではないが。猫だが。
「戦争は起きない?」
「まぁそうね。今すぐにはってところ。時間の問題ではある。けど、まとまって行動を始めるのはこれから、ってところだから、備える時間は十分にあるわよ」
世界を見て知って、わかっているからこその黒猫の余裕。
わからないからこその人の焦り。
超越者の目線は人とあわない。知っていたこと。
黒猫はローマからの使者を見て、周囲を見渡してから言う。
「人類の認知に革命が起きた時のように、狩猟から農業への革命が起きた時のように、支配形態の革命が、産業が、情報が革命を起こすとき、世界は軋みの声を上げ始める、時には、誰かの悲鳴となって」
それは壊す方の悲鳴か、壊される方の悲鳴か。
「ふふ。売り言葉に買い言葉。言葉は響くもの。人は言葉の応酬をしている内にいろいろとね、大げさになる。言葉を扱う者には自戒が必要よ。ふふ」
「な……」
すべてを見透かすような黒猫の言葉を受けて絶句するローマの使者。
喋る猫に説教を受けたことなど人生で一度もなかろう。
しかもそれが人が扱う言葉についてなど。
眉根を寄せて不機嫌を体現する背景の様になっていたリッシュモンがここで言葉を発する。
「黒猫の天使よ。聞きたい」
黒猫へと慎重に近づく眼光鋭い男。自分たちを囲む人々を見回してから問う。
「戦争を望んでいるのは、どうにもこちら側の様子だ。聖女を傷つけられた怒りの向かい先が世界へと向けられている。どうにも抑えきれないぞ」
フランスの大元帥の立場にあった者の顔面は、不機嫌を通り越していた。




