その2 黒い棺
冷たい。体の芯まで凍えるような闇の世界。
寒い。俺は死んだのか。
漆黒を揺蕩う身体は重く、まるで全身を鉛で縛られたようだ。
加えて、呼吸も苦しくなってきた。ありもしない何かを求めて、我武者羅に腕を伸ばすも、息苦しさは変わらず。
新鮮な空気を求めて大口を開けた瞬間――
「――ぶはあっ!」
意識が覚醒する。
顔面で水を弾く感触。見れば、胸のあたりまで水に浸かっていた。
ぼんやりとした光が辛うじて周囲を覆っていた為、どうにか上下感覚を失わずに済んだようだ。
でなければ、水面がどこか分からず、無様に溺死していたかもしれない。
「げほっ、げほっ! おえぇぇっ……ごっほ!」
大分、水を飲んでしまったようだ。鼻の奥もツーンとするし、最悪である。お腹を壊さなければいいが。
肺を満たす水を吐き出し、呼吸を整えた。
「はぁ……はぁ……なんとか、助かった、のか……?」
咄嗟に背中と腰に手を添える。武器やアイテムは失わずに済んだらしい。よかった。
精神的に余裕が生まれたので、周囲を観察してみる。
どうやら、ここは人為的に作られた空間のようだ。円形に刳り貫いたような形をしている。無駄に広いが、出入り口の類は見当たらない。
「薄暗いけど……目は見えるな……」
光源はどこにもないにも関わらず、視界を確保できるだけの明るさが保たれている。それでも、決して明るいとは言えない。
天井を見れば、俺が落ちてきたと思しき穴が空いていた。穴までの高さは、かなりあるようだ。
地面が水で満たされていなかったら、まず間違いなく即死していただろう。
不幸中の幸い、か。
続いて、周囲を見渡せば、円形の空間の中央に何かがあるのが見えた。
それに加え、地面が水面から覗いているのを見る限り、中央は水没していないらしい。
ならば、取るべき行動はひとつしかない。
「とりあえず中央を目指してみるか」
随分遠いけど。
だが、このまま水に浸かっていても意味はなく、それどころか身体が冷え切って動けなくなるのは必至。
そうなれば、ここが俺の墓場となってしまう。ぶくぶくの水死体となって、この薄暗い地下空間を漂い続けるのだろう。そんなのは御免被る。
「おっも……!」
衣服が水をしこたま吸い込んだせいで、有り得ない程に重くなった身体を必死に動かして中央を目指した。
水が胸まで浸かっているせいで、歩く速度も非常に遅い。
遅々として進まない歩みに苛立ちながらも、長い時間を掛けてなんとか中央まで辿り着いた。
どうやら、ある程度の面積をもつ正方形の台座のようになっているようだ。明らかに、知恵ある生物の手が加わっているのが見て取れる。
そして、その台座の中央に安置されているのは――
「棺……? なんでこんなところに……」
銀の縁で飾られた、豪華な作りの棺桶。
人の大きさに合わせて作られたのであろう棺は、真っ黒に塗装されている。
中に何が入っているのか。どんな人物が安置されているのか。
気にはなるものの、現状では確かめる気力もない。
兎にも角にも、まずは休みたいのだ。
死者に失礼かと思ったが、棺を背凭れに地面へ腰を下ろす。
アンデッドが大量に跋扈していた遺跡の中、ポツンと置かれた棺。中身が動き出さないか少しだけ不安になったが、すぐに気を取り直した。
動き出す前だろうが後だろうが、不死者というのは大方、周囲に負の魔力を撒き散らしているものだ。しかし、この棺からはそういった邪な魔力の類が一切感じられない。いずれ動き出すかもしれないが、少なくとも今日明日にアンデッドへ変貌することはないだろう。中身が入っていればの話だが。
「疲れたな……それに寒い……」
ポツリと、誰に聞かせるでもなく零れ落ちた言葉。
それに対し、返事があるわけも――
「――誰かいるのかい?」
「ッ!?」
全身の筋肉をバネして、棺から飛び退る。即座に背中の長剣へ左手を伸ばし、いつでも抜剣できる状態に。
デュラハンと対峙した時以上に心臓が脈動している。いや、違うな。下手したら、数瞬止まったかもしれない。
完全に油断していた。心眼が発動しなかったというのも要因としては大きい。アビリティに頼り過ぎるのも良くないという、典型的な例だ。戒めよう。
僅かな異変も見逃さないように、極限まで集中力を高める。
そこへ。
「やはり、誰かいるのだね。もし、そこの。知性ある者ならば、是非とも声を聞かせてくれないかな」
「……」
棺の中から聞こえてくる柔らかい声、その音の高さからして、まず間違いなく女。それも年端もいかない少女だろう。
しかし、何故。少女がこんな不死者溢れる遺跡の、それも棺などに閉じ込められているのか。
「わたしの声が聞こえないのかい? それとも、声が出ないのか? まさか、そこにいるのは意志無きアンデッドなのではあるまいね? いや、この際何だっていい。頼む……どうか返答を……。他者の声が聞きたいのだ……」
哀愁を誘う切実な声音。後半からは泣きそうな音に変わり、何故か胸に痛みが奔る。
本来ならば、この尋常ならざる事態に際し、黙って遠ざかるのが正解だろう。得体も知れない相手に対し、わざわざ自身の存在を仄めかす理由もない。
だけど――
「……棺の中にいる奴、あんた、そんなところで何をしている」
「――ッ!」
息を呑む音が確かに聞こえた。
棺の外にいる者が、本当に意志ある存在だとは思っていなかったのだろう。
大方、この地下空間に偶然紛れ込んだアンデッドの類だと考えていたに違いない。
「君は……生きているのかい……?」
恐る恐る、といった雰囲気で語り掛けてくる棺の中の御仁。
生きているのかというすっ呆けた疑問に対し、緊張の糸が切れた……というよりは、精神的な疲労が限界を向けた俺は、半ば投げやりな気持ちで、再び棺を背凭れに座り込んだ。
「まぁ、なんとか。ギリギリ」
「そうか……そうかぁ……」
心の底から、嬉しそうに呟く声。理由はわからない。
「なぁ、君は恐らく『人類』なのだろう? どうしてこんな薄汚い場所にいるのだ? わたしの記憶が確かなら、ここはアンデッドの巣窟になっているはずなのだけど……」
「ああ、簡単な話だよ」
濡れそぼったフードローブを脱ぎ、絞りながら応える。
「仕事さ。この遺跡の内部を調査するっていう、単純なお仕事。んで、調査中にドジ踏んで、大量のアンデッドに追われて、逃げ込んだ先でデュラハンに遭遇。死に物狂いで何とか逃げ果せたと思いきや、床が崩落して真っ逆さま。ここに辿り着いたってわけさ」
労働者斡旋ギルドから依頼された、戦闘職向けのお仕事。事前に情報を精査せずに安請け合いした俺の自業自得だ。報酬の高さに目が眩み、先着順だという謳い文句に踊らされた、浅慮で馬鹿な男の末路。
「なんと、ひとりでこの墳墓に来たのかね? それはまた命知らずな……」
「墳墓だったのか、ここ……。まぁ何にせよ、俺が馬鹿だったってことは認めるよ」
苦笑が浮かぶ。話す相手がいるというのは、良いものだ。仕事関係以外で誰かと話すことなんて久しくなかったから、自分で思っている以上に楽しんでしまっている――たとえ、棺の中にいるのが人類でなかろうとも。
「君が愚かかどうかは、今は置いておこう。しかし、なんだね? デュラハン一匹倒せないとは、君は随分と弱いのだな」
「……あんたの中でデュラハンがどういう位置付けなのかは知らないが、人類であいつに正面から打ち勝てる奴はそういないと思うぜ」
俺が弱い、という言葉を否定する気はないが、第四位階の魔物を屠れる人間など、そうそういない。そこだけは勘違いしないでほしい。
「ふむ、そうなのか。覚えておこう。だが、それが事実だとすると、君がここから生きて脱出できる可能性は限りなく低いということになるよ?」
「言われずとも、そんなのとっくに身に染みてるっつの」
「うーむ……」
押し黙る、棺の中の誰か。
まぁ、諦めるつもりはないけどな。
それきり、会話は止んだ。
それなりに長い沈黙を挟み、俺に対する興味を失ったのかとぼんやり考え始めた頃。
「――君は、生きたいかね?」
棺の中の誰かが、言葉を発した。
「唐突だな。何でまたそんなことを聞く?」
「いいから、答えたまえよ」
有無を言わさぬ雰囲気に、少しだけ圧されて。
「生きたいに決まってるだろ」
「そう……」
再びの沈黙。今の問いに何の意味があったのか考えるより先に蓄積した疲労が牙を剥き、少しづつ睡魔が押し寄せてくる。
マズイ。身体を冷やしている今の状態で寝てしまっては、命に関わる。
ふるふると首を振って、眠気を振り払おうと奮闘していると。
「なぁ、名も知らぬ君。ひとつ提案があるのだけど……」
「提案?」
「うむ。こう言っては何だが、わたしはそれなりに強い。具体的には、デュラハン如きなら秒殺できる程度の力はあると自負している。そこで――」
どこか勿体ぶるように、棺の中の誰かは言った。
「わたしを、この棺から解放してほしい」
「……自分で開けられないのか? 封がしてあるようにはみえないぞ」
「自分で開けられるのなら、とっくにそうしているよ」
棺の中の誰かは、疲れたように、それでいて悔しげに呻く。
「棺に施された封印には、わたしには何があっても絶対に開けられないよう、特別な呪縛が施してあるのさ」
とはいえ――と、棺の中の誰かはけろっとした調子で続けた。
「強力無比な呪縛の代償として、わたし以外の者なら簡単に"開けられてしまう"という弱点がある」
「ああ、なるほど。だから、こんな陰湿な場所に棺が放置されていたのか。納得だ」
万が一にも訪れる者がいないように。
天井の床が崩落しなければ、目論み通りだったんだろうけど。
「わたしを棺から解放してくれたら、その礼として、君をこの墳墓から無事に脱出させると約束しよう」
「無事にって、生きたまま五体満足でってことか?」
「当然。わたしは君に一切危害を加えないし、この墳墓を根城にしているあらゆる存在にも指一本触れさせない」
「わかった、あんたを解放しよう」
「うむ。君が戸惑うのも無理はないってあれぇ?」
棺の中から間の抜けた声が聞こえた。どうやら戸惑っているらしい。
「君、いくら何でも即決過ぎやしないかな? わたしとしても棺から解放されるのは願ってもないことだけど、しかし、こんな怪しい状況だよ? もう少し警戒心というものを持つべきじゃないかね」
「信じるよ」
「……」
別に考えなしの言動というわけじゃない。寧ろ、こんな状況だからこそ、棺の中の誰かさんを信じる以外、自分が生き残る道を見出せないだけだ。
でも、理由はそれだけでもなくて――
「あんたを信じる」
「どうして……都合のいい事を言って、君を騙しているだけかもしれないのに――」
「ただの勘」
「ふぇ?」
存外、可愛らしい声を出すもんだ。可笑しさが胸の奥からくつくつと湧き上がってくる。
棺には蓋が乗せてあるだけで、錠前の類は見当たらない。こんなところまで辿り着ける人類がいるとは考えなかったようだ。
随分と杜撰でザルな管理方法だが……まぁ、俺達にとっては都合が良いので何も言わないでおく。
「仮に、あんたが俺を騙しているのだとしても、恨みはしないよ。こうなった時点で、全ては俺の自業自得なんだから」
「あ、うん……」
戸惑うような、曖昧な返事。
その会話を最後に、俺は棺の蓋の縁を掴んだ。
さて、鬼が出るか蛇が出るか……何があっても自業自得だと格好付けたのはいいが、やはり緊張する。
そんな内心の怯えを意志の力で捻じ伏せ、俺は蓋を思い切り開け放った。
材質はわからないが、思った以上に軽い。勢い余って、放り投げた蓋はそこそこ遠くまで飛んでいき、ボチャンと音を立てて水面に浮かんだ。
数瞬の間を置き、ゆっくりとその身を起こしたのは――
「……、眩しい、な」
「……」
これだけ薄暗い空間の中で、何を言っているのかと思う余裕もなく。俺は、棺の中に寝かされていた少女の容姿に絶句してしまった。その、幼げな外見を妖しく惹き立てるような絶世の美貌に。
「やあ、名も知らぬ君。おはよう、初めまして。こうして顔を見ることが出来て嬉しい限りだ」
言葉を失い、固まったまま動けないでいる俺の頬を、少女がひんやりとした両手でぺたぺた触ってくる。
「温かい……君は本当に生きているのだね」
慈しむような、優しい手付き。少女の掌の柔らかさを頬で感じ、その気持ち良さに緊張していた心が解されていくのを頭の片隅で理解した。
「わたしのことは……そうだな……ステアと呼ぶがいい。どうぞ、よしなに」
そう言って、少女はにこりと優美に微笑んだ。