June 23 14:33
「こうしていると私たち、どんなふうに見えているのかしら」
風に吹き飛ばされそうなくらい心許ない声で、りょうが呟いた。目の前ではまだ、新婚のカップルが長いキスを見せ付けている。それを囃し立てるように周りの連中が、携帯電話のシャッターを切っていた。
ちゃんと無関係を装えているのだろうか。りょうはそんなことを気にしている。さっきりょうは自分たちを部外者だと言った。しかし、彼女と同じ顔をした花嫁を見れば、それが嘘だとすぐにわかる。落ち着き払った態度からして、偶然でない。りょうにしてみれば、結婚式場を下見に来たカップルが、たまたま他人の式に出くわして眺めている――そんなことにしておきたいのだろう。そのために、冬魔が呼ばれた。女一人でいるよりは、よっぽど自然に見えるだろうから。
「何も言わないのね」
冬魔が気づいたことも見透かしたように、りょうは呟いた。
「やっぱり、知ってたわけ、か」
自分が用意していたものを相手が気に入ったのか窺うように、りょうが視線を寄越してくる。驚かなかったことが少し不満だったのかもしれない。遠慮がちな笑みを携えた口元は、どこかぎこちなかった。
それに、冬魔は首を振った。
「知ってたらこねえよ。予想はまぁ、していたけどな」
単なる観光でないことなんて、りょうの様子を見ていればすぐにわかった。飛行機に乗る前も、世界遺産の城を目の前にしても、透き通る海を眺めてさえも、彼女は表情を曇らせていた。胸の奥にはずっと迷いがあったのかもしれない。もしかしたら朝ホテルを出てくるときにも、まだ。そのいつまでも燻る感情なら、冬魔にも憶えがあった。それに六月という時期に沖縄という場所を考えれば、答えに辿り着くヒントなら十分すぎるほどあった。
「さしずめ、妹ってところか?」
冬魔が訊くと、良く似てるでしょ? と少し誇らしげにりょうが胸を張った。彼女の状況を考えると、もう数年は会っていないはずだ。それなのに、そんな年月などなかったように、姉の顔になっていた。素直に認めたのは、もう目的の殆どを果たしていたからかもしれない。旅行の目的がこんなだと知っていたら、冬魔は何が何でも断っていたはずだ。例えツケの伝票の束で脅されたとしても。そんな冬魔を伴って、りょうはここまで来ることができた。
だけど瞳には僅かに翳りを残したままで、細めた目は今にも泣き出しそうに思えた。そんな顔を隠すように、海風に煽られる帽子を手で押さえる。
「小さいときは良く双子に間違われたの。三つ歳が違うけど、あの頃の私は背が伸びるのが遅かったから、背も丁度同じくらいで。あまりにも似てるって言われてたから一度、服を交換して入れ替わってみたことがあるの。始めはすぐにバレるだろうなって思ったけど、意外に周りの大人たちは中々気づかなかった。それが面白くて色んな人に声をかけて回ってたら、結局最後は父に見つかっちゃった。そのとき父は激怒したけど、私は内心嬉しかった。あの子になれたことが。誰にも気づかれなかったことが」
あの子もまだ、そんなこと憶えていたりするのかしら。珍しく自分の昔の話をするりょうは、愛おしむように言葉を吐き出した。呟いた問いの答えを訊く機会は、恐らくもうないだろう。それをわかっているからこそりょうはただ、目に焼き付けるように花嫁を見つめていた。
そんな視線にも気づかないで、ウェディングドレスを着た女は満面の笑みを浮かべている。誰かに呼ばれて振り返ると、真面目そうな顔つきをした中年の男がいた。それが父親だとすぐにわかった。凛々しい顔つきが、りょうの雰囲気とそっくりだった。彼がこちらに顔を向けそうになると、りょうは帽子の鍔を下げる。背の高い父親の体が揺れる度に、手元では銀色の光が弾けた。そこに握られたロザリオを見つけたりょうが、目を細める。
敬虔なクリスチャンである父親は、娘が掴んだ幸せも神の導きなのだと信じているのだろうか。いなくなったもう一人の子供のことを、どう思っているのだろう。幸福に満ちた顔からはわからなかった。その隣には、父親とは対照的におっとりとした雰囲気の女性がいた。母親に違いない。上品で優しげな眼差しが、りょうに似ているように思えた。
目の前で繰り広げられる家族の団欒。だけどそこには、りょうだけがいない。
「それで、可愛い妹のためにわざわざこんなところまで来たってわけか」
冬魔は咥えた煙草に火を点けると、紫煙の不味さに顔を顰めた。吐き出した煙が、青さばかりが眩しい空に上っていく。このまま雲になって、雨を降らせてしまえばいい。だけどそんな願いも届かずに、やがては薄れて消えていく。その寂寞の溜息を、冬魔は飲み込んだ。
「思ってもみなかった。あの子がこんなふうに誰かのものになるなんて。ずっと私の後ろについていたから、いつまでもそこにいるんだって、勝手に思い込んでいた」
独り言のように呟く声に冬魔は目を向けると、りょうが小さく肩を竦めた。
「まだ何もわからないくらい小さい頃、あの子と賭けをしたの。どっちが先にウェディングドレスを着るかって。今にして思えば、賭けにもならない競争。だけど、まるで笑い話よね。昔の私は、本気であの子に勝てるなんて思っていたんだから」
作り上げられた笑顔は非の打ちようもなくて、冬魔は少しも笑えなかった。楽しいことなんて一つもないのに、無理に明るく振舞おうとするりょうの態度が面白くなかった。どのみち慰めるつもりもなければ、哀れんでやるつもりもない。だから、かけてやる言葉も思いつかずに、ただ不機嫌に煙草で口を塞いだ。
そんな冬魔のことも、りょうはわかっていたのだろう。同情なんて、きっと欲しがっていない。それを冬魔に求めたところで実がないことも、これまでの付き合いで気づいているはずだ。だから、すました顔で妹を見つめるりょうは、ただ吐き出してしまいたいだけなのかもしれない。幾つもの想いを、感情を。取り乱すことなく、取りとめもなく。
「冬魔くんはお兄さんから結婚するって聞いたとき、どう思った?」
風が吹いてもはっきりと聞こえる声で、りょうはそう訊ねた。兄という言葉を聞いた瞬間眉を顰めた冬魔を横目にして、りょうはやはり笑っていた。胸の奥に燻り続ける痛みを思い出す。嫉妬は燃えるものだと、誰かが言った。だとしたら、燃え尽くして残ったカスを何と呼べばいいのだろう。
「結婚というのはつまり、家族が増えるということ。自分であっても、身内の誰かであてっも。それは本来、喜ばしいことのはずなのよ。なのに、あの子からの招待状を受け取ったとき、私はその喜びよりも寧ろ、あの子が誰かに取られるんじゃないかって、そう思った」
馬鹿みたいに自分勝手でしょ? 自嘲気味にりょうは声を上げた。自分の幸せは本気で願うのに、他人の幸せに対しては捻くれる。自分に余裕がないときほど、余計に。そんな己を自ら哀れんでいるみたいで、冬魔はただ紫煙を燻らすしかなかった。
そして潮騒の合間を縫って、歯を食いしばるような呟きが聞こえた。
「自分から先にあの人たちを切り捨てたくせに」
七年前、一人の人気モデルが姿を消した。当時のことを、冬魔は知らない。その頃まだ大学生だった冬魔は学校を辞めるべきかの悩みで手一杯で、芸能ニュースだとか、ワイドショーだとか、そんなものに一切の興味はなかった。だから冬魔が知るのはあとから人に聞いた話や無責任に溢れた記事が伝える事実だけで、その時渦巻いていた世間的な関心といったものは、そこから窺い知るだけしかない。
りょうも多くは語らなかったし、昔のことだからと笑うだけだった。
ある日、グラビア雑誌の仕事が終わった後にモデルと連絡が取れなくなり、自宅に出向いたマネージャーが置手紙を見つけたらしい。そこには謝罪と、捜さないでくださいといった月並みな言葉が並んでいた。
冬魔が知らなかっただけで、そのモデルは当時かなり名の知られた存在だったらしい。有名ファッション誌の表紙を飾ったり、海外ブランドの広告塔にもなっていた。そんな人物の突然の失踪というのはそこそこセンセーショナルで、無関係の人々にとって格好の餌食となった。
失踪から一週間でその事実が漏れて、その次の日にはワイドショーのトップのネタになっている。不幸だったのは、ちょうどある少年が友達の一家四人を殺害した事件の報道に、世間が飽きてきた頃だったということかもしれない。それに取って代わるのは、すぐだった。
本当は誰にも迷惑をかけずに、静かにいなくなりたかったのだと、以前りょうが話したことがある。だから、決行したのもちゃんと仕事を終わらせた後だったし、マンションやインフラの契約解除も事前に行われていた。モデル事務所の方は話が折り合わなかったため、違約金だけを残してきたらしい。それで綺麗さっぱり、決別できる気でいた。
今思えばあの頃の私はまだ世間知らずで、考えが甘かったのよ。かつての自分を嘲るように、りょうはそう呟いていた。でも、その頃はもう決壊寸前のダムみたいにぎりぎりのところでせめぎ合っていて、冷静に頭を回す余裕もなかったのだろう。
メディアの伝える自分と実際との乖離に耐え切れず自殺してしまったのはカート・コバーンだったか。二七歳という若さでこの世を去った彼は皆の期待する自分であり続けることに苦悩し、追い詰められていった。彼女はそこまで極端ではなかったものの、日々印刷工場から街に溢れ出す自分の姿と、自分の奥に眠る自分との違いに戸惑いを感じていたのかもしれない。だからカートがショットガンで自分の頭を打ち抜いたように、彼女ももっと穏便なやり方で、それまでの自分を吹き飛ばそうとした。誰にも知られぬよう、誰にも知られぬ内に、住む場所も、姿も、名前すらも変えて、そうして生まれ変わりたいと願った。
そうすることでしか多分、彼女は自分らしくいられなかった。それを父親が決して許せないのも、自分のせいで彼らが奇異の目に晒されかねないのもわかっていたから、何も言わずにりょうは、家族という繋がりさえも手放した。
誰も傷つけたくはなかったから。
「私のことは死んだようなものだって、そう思ってくれてるって勝手に信じてた」
りょうの視線の先で、花嫁の父親は笑っていた。一人残った娘が掴んだ幸せに、彼も安堵しているのかもしれない。思い出してみると、冬魔も一度だけ、彼の顔を見たことがあった。りょうの店に保管されていた、週刊誌の中でだ。モデルの失踪を告げる記事に添えられた写真で、鋭い形相の彼は取り巻く報道陣に掴みかかろうとしていた。自殺説、不倫説、横領説、失踪の原因について様々な憶測が飛ぶ中で、記者の一人が子供が失踪した親に向かって心無い言葉を投げつけたらしい。記事には家族に批判的な言葉が並んでいたのに、写真は皺の一つもなく、綺麗に保管されていた。そのときよりも父親は幾分穏やかで、そして当たり前だが歳を取っていた。
妹にしても、同じなのだろう。それは少女が大人の女になるには、十分な時間だったはずだ。
「七年も経ったのよ。法律だってもう死亡したものだって扱ってもらえる。それなのにね、一週間くらい前に招待状が届いたの」
りょうが真っ白な封筒を取り出すと、冬魔は受け取った。宛名には、ただ他人行儀なまでに律儀な筆遣いで、りょうの本名だけが記されていた。どこにいるのかわかりもしないのに宛先を埋めようとしたのか、結局何も書かれなかった空白が寒々しい。
持ってきたのは郵便配達員ではなく、花嫁が雇った冬魔の同業者だという。促されるままに開いた中には式の告知と返信用のハガキだけで、言いたいことはきっと山ほどあったはずなのに、何のメッセージも添えられてはいなかった。
「てっきり、ざまぁみろとか、そんな言葉があるんじゃないかって、心のどこかで期待してた」
口角を持ち上げて笑うりょうが、淋しそうに見えた。どんなに望んでもウェンディングドレスに手が届かないりょうと、それを掴み取った妹。本当なら、そんな勝者の軽口を叩けるくらい仲が良かったのかもしれない。だけど絶ち切った関係は、長い時間は、二人から些細な言葉すら奪ってしまっていた。
幸福を伝えるための封筒に詰められた無言に、りょうはどんな顔をしたのだろう。妹が探偵を使ってまで届けたかった想いなのに、彼女はきっと、笑って受け取ることなんてできなかった。
「私のことは黙っていて欲しいって、探偵さんにお願いしたの。もう、迷惑だからって」
そう頼まれた探偵は、依頼人に対して何と報告したのだろう。自分ならどうするかと冬魔は考えて、やはり話すだろうと思った。別に相手から金を受け取ったわけでもない。それなら依頼人にとっても、ましてや自分にとっても、何の利益もないのだから、黙っておく義理もない。
気づけば目の前の階段脇に並んでいた人の列が崩れていた。そして雛壇みたいに均されていく。集合写真を撮るのだろう。主役の二人が最前列の中央に立つと、式場のスタッフに促されて父親が花嫁の隣に並んだ。その父親に手を引かれて母親が寄り添う。更に隣に親戚らしい誰かが並ぶのを、しかし花嫁が止めた。父親が眉を顰め、一言二言何か言っているようだったが、結局その場は空けられたままになった。
人一人分の空白。それはきっと、本来いるはずだった、もう一人の家族のためのものなのだろう。同じことをりょうも思ったのか、彼女は思わずというように自分の足元を見つめた。
「それでも本当のことを言うと多分、嬉しかったんだと思う。私のこと、まだ憶えててくれたんだって。私はまだあの子にとって、こんな招待状を送るに値するだけの存在だったんだって。……だけど、それが余計に辛かった」
――だってそうでしょ? 今更どんな顔したって、会いに行けるわけないじゃない……。
笑ってとカメラマンが言う。整列した誰もが一斉にぎこちない笑みを浮かべる。その光景に、冬魔は見覚えがあった。夏樹の結婚式、自分もあの列の一員になっていて、目の前の家族たちがそうであるように、冬魔も母親の横に並んだ。自分の隣に立たせようとした夏樹の手を振り払って一番端に陣取ったのは、終始浮かれ顔だった兄の傍にいたくなかったからだ。そこから、新婦と親しげに話す夏樹を見ていた。
いいだろと、何でも見せびらかしてくる兄が嫌いだった。誕生日で両親から分けてもらったステーキの切れ端、クリスマスに貰ったロボットのオモチャ、バイトして買ったエレキギター。そんなものを一つひとつ見せ付けては、冬魔が悔しがる顔を見るのが好きだった。そのときもまた、夏樹が口癖のように言っていた言葉が聞こえた気がした。冬魔の視線に気づくと夏樹は笑い、あの人の肩に手を回した。
笑ってと、あのときのカメラマンも決まりきった文句を言った。自分がどんな顔をして写っていたのか、冬魔の記憶にはない。だけどきっと、笑えてなんていなかったのだと思う。今のりょうみたいに、表情をなくしてただ、佇んでいた。
やけに潮騒が煩く感じた。海からの風が絶えず吹いていて、赤い花が揺れている。ハイビスカスの甘い香りが強くなったような気がして、冬魔は紫煙を吐いた。
「笑ってやれよ」
ニコリともせずに、冬魔が言う。「そのためにわざわざこんなところまで来たんだろ?」
だけどりょうは暫く冬魔を見つめたあとで、再び顔を伏せた。
「相変わらず、意地悪なのね」
呆れたような言葉の裏には、知っているくせにという批判が透けて見えていた。そして、足元の小石を軽く蹴る。その苛立ちは、自分自身にも向けられているのだろう。
「自分はもっと、大人になれているんだと思ってた。あの子はあの子で、私は私なんだって、そんなふうにもっと割り切れるものだって、思ってた。人を羨んで生きるのは辛いだけだから、もっと諦めていられるんだって、思ってた」
冬魔くんもだってそうでしょ? ――そう呟くりょうは、淋しそうに笑った。冬魔はここに着いたときから疼く胸の痛みの原因を言い当てられた気がして、不味い煙草の煙を一杯に吸い込んだ。
「誰かの幸せを羨まないなんて、もともと無理だったのよ」グロスの映えた唇が、小さく震えた。「誰よりも私自身がそれを望んでいるのだから」
りょうが求めるものなんて恐らく、他人からしたら些細なものでしかない。だけどその些細なものですら彼女は、手にすることができない。
それはきっと、彼女に与えられた可能性の問題だ。岐路に立ったとき人はいつだって、手もとに配られたカードの中から選択して切っていく。例えそこに望んだカードがなかったとしても。それがいつ、どのように配られるのかはわからない。だけど、同じ環境から始まったはずの妹は全てを手に入れ、りょうはたった一つのものしか守れなかった。その差を分けたものなんて、明白だ。彼女の手の内には、最も渇望したカードが配られなかったから、ただ一つの選択に縋るしかなかった。他のあらゆるものを犠牲にするとわかっていながら。
「後悔、しているのか?」
そう吐き出した冬魔の顔を、りょうは見つめた。
直後、フラッシュが焚かれる。正面で、純白のウェディングドレスを着た花嫁が心底満たされたように笑っている。陽は相変わらず頭上から照り付けていて、眩しさに冬魔は目を細めた。噴水では相変わらず光が弾けていて、水面を叩く。その音がただ、耳鳴りのように響いて、それが冬魔に昨夜の光景を思い出させていた。