June 22 10:27
今にも泣き出しそうな、梅雨の曇り空が広がっていた。那覇行きの飛行機内から冬魔は見上げ、溜息を漏らす。憂鬱なのは自分一人だけではなかったわけだ。隣に座るりょうを盗み見ると、冬魔と変わらぬ表情で窓の外を眺めていた。
シートベルト着用を促すアナウンスが流れる。それが一通り終わると一度大きな揺れがあり、飛行機は滑走路へと進みだした。
自宅のある蒔里から電車で一時間半。それから一時間で搭乗手続きを終えて飛行機に乗り込むと、二時間後には鬱陶しい曇り空などない、南の島に着く。脳裏に思い浮かぶのは映える青と萌える緑に彩られた爽快な光景ばかり。それなのに冬魔はもう一度窓の外を眺めると、静かに息を吐いた。
体一杯に加速度を感じて、空に舞い上がる。それからの約二時間、冬魔は夢を見た。あれはまだまりあが生まれる前のことだから、もう十五年くらい昔になるのかもしれない。そういえば飛行機に乗るのもそのとき以来だったなと、夢の中で何とはなしに思った。
――お前のことだからどうせ、七月の連休だって予定なんてないんだろ?
その一言目から嫌な予感があった。断定して有無を言わせない訊き方も、ニヤついた顔も不愉快で、中学生だった冬魔は顔を顰めた。だいたい、半年以上も先のことなんて訊かれてもわかるわけがない。そう噛み付いても、八つ歳の離れた兄は意に介さぬように、満足そうに頷くだけだった。この男にとってすれば、全ては自分を中心に回っているとでも思っていたのだろう。毎度のように気に食わなかったけど、男兄弟にとって歳の差は絶対だ。生きた年月によって体格も違えば腕力も違う。戦うだけ無意味だ。既に過去の争いの中で諦めた冬魔の頭を、彼は乱暴に撫でた。こっちが嫌がるのをわかっているくせに。夏樹は、そんな男だった。
今でも不思議に思うことがある。あの男の何が良かったのだろう。一体どこに惹かれて、あの人はあの男を選んだのだろう。他に相応しい男なんてきっと、幾らでもいたはずなのに。あんなのを選ぶくらいだったら、俺でも良かったはずだ。思わずそう考えてしまう自分に気づくと、冬魔は奥歯を噛んだ。
夏樹が結婚式の会場に決めたのも、やはり沖縄だった。白いチャペルに青い海。何の捻りもない、詰まらない選択だと思った。親族だけを集めての、ささやかな式。それが結ばれる二人の望みだった。
初めて訪れる南の島に高揚する気持ちすらなかった。招待状も届かない招待で飛行機に乗せられて、じりじりと照りつける太陽の下で、早く帰りたいとばかり考えていた。嬉しそうにカメラを構える両親に対してさえ反吐が出る。冬魔にしてみれば、記録に値するものなんてなかった。緑の映える丘も、祭壇の向うに広がる深く澄んだ海も、光を七色に染め上げるステンドグラスも、高らかに歌い上げる鐘の音も、何一つとして。思えば祝福の言葉さえも、かけてはいなかったかもしれない。赤い絨毯の上を浮かれた顔でを歩く夏樹の姿なんて見たくもなくて、純白のウェディングドレスに身を包んだあの人は、目も離せないくらいただ、綺麗だった。
飛行機から降り立つと、空気が一変しているのを感じた。そこにはつい先程まで身に纏わりついていた憂鬱な湿気も、コンクリートと黴くさい臭いもない。青い空に一人でのんびりと浮かぶ陽の光が眩しくて、どことなく花の甘ったるい香りが満ちていた。
手荷物しかない身軽な旅だったから、空港を出るのもすぐだった。そのままシャトルバスに乗り込んで向かった先のレンタカーで車を借りた。時間はちょうど正午を少し回った辺りだ。
「それで、どこへ行きたいんだ」車のキーを回しながら冬魔が訊ねると、どこへでも、とりょうは答えた。「女性をエスコートするのは、男の仕事でしょ?」
冬魔が顔を顰めるのを見て、りょうは窓の外に広がる南国の風景に目をやった。話はどうやら終わりらしい。仕方なく冬魔はカーナビを起動させると、思いつく観光地の名前を入れた。
結局、冬魔が選んだのは首里城で、そのあとは海岸線をホテルに向かって走ることにした。別に、特別行きたかったわけではない。チェックインの時間を考えると、他に手ごろな場所が思い浮かばなかっただけだ。冬魔にとっては二度目の定番過ぎる観光地は新鮮味がなく、りょうは何かを考えるようにぼんやりと、鮮やかな朱色の城を眺めるばかりだった。お互いに言葉少ないまま足早に通り過ぎると、交わす言葉もないまま車を走らせた。
土産物屋で着替えのシャツを買い、途中に観光ガイドにも載っていないような古びた教会でりょうが車を止めた。怪訝な顔をする冬魔に、りょうは笑った。祭壇の前で手を合わせた彼女は、時々こうしていると落ち着くからと、言い訳をするみたいに呟いた。別に神様を信じているわけじゃないと言うりょうは、小さい頃日曜の朝にカトリックの教会に通うのが決まりで、熱心な信者だった父の勧めで聖歌隊にも入っていたらしい。上手く歌えると父親が褒めてくれるのが嬉しかったのだという。廃墟同然の教会の十字架を前にして彼女は、懐かしむように讃美歌を口ずさんだ。昔は自在に操れていたのだろう高音が、かすれていた。どんな気持ちでその、神を讃える歌を歌っていたのだろう。りょうの姿はステンドグラスに染められた光に照らされ、壊れ物のように儚げに見えた。
教会を出る頃にはもう、陽が傾き始めていた。
自分から言い出した旅行なのに、りょうが楽しんでいる様子はまるでなかった。飛行機に乗る前からそうだったし、沖縄に着いてもまだ、そうだった。海岸線をなぞるように走る車の助手席から、ただ寄せては返す海を海ばかりを見つめていた。ガラスを半分くらいまで下げた窓から吹き込む暖かい風に、彼女の長い髪が遊ばれる。車内が無言で満たされるのを嫌うようにつけたカーラジオからは、少し気が早いレゲエが流れていた。
信号で停車をすると、潮騒に乗って黄色い声が聞こえた。目をやるとそこは海水浴場になっていて、本州よりも一足早く海が開かれていた。夕暮れが近いためか、人影はそれほど多くはない。沖には数人のサーファーが波を待っているくらいで、あとは砂浜で貝殻を拾う家族連れや肩を並べて寄り添うカップルが数組いる程度だ。そんなだから、波打ち際で戯れる大学生くらいのグループが一際目を引いた。恐らく酒が入っているのだろう。若者の特権を振りかざすように騒ぐ男女の声は突き刺すように耳に響いて、だけどただ繰り返し打ち寄せる波はそれすらも優しく包んでいた。
気づくとりょうも、それを目で追っていた。褐色に焼けた肌の男たちに囲まれた女たちはみんな、グラビアアイドルみたいなきわどい水着を着ていた。露出の多い布地が、柔らかく女らしい体のラインを引き立てては、鮮やかな色合いが海の青に映えていた。
「羨ましいのか?」
頷くことはないと知りながらそう訊ねると、りょうは視線も動かさずに、口元だけで呟いた。
「まさか。可愛らしい水着に対する憧れとかそんなものは、とっくの昔になくしているわ」
わかっているくせにという非難を言葉に滲ませると、ささやかな反撃とばかりにりょうが返してくる。
「そう言う冬魔くんの方こそ羨ましいんでしょ?」
冬魔の大学時代に一緒に遊びに出かける友達も、ましてや気安く話ができる異性とも無縁だった。だからこそ目の前の光景がどれほど深く胸を抉るのか、りょうも理解しているのだろう。冬魔は顔を顰めた。
信号が青になるのと同時に、冬魔は乱暴にアクセルを踏んだ。速度を増すたびに強くなっていく風の音に、ビーチの楽しげな声は紛れていく。それが完全に消え去るまで、冬魔は車を加速させた。道は一直線で、妨げるものなど何もなかった。顔に纏わりつく髪を、りょうが邪魔そうに払う。やがてその行為を繰り返すのも諦めたのか、窓ガラスを上げた。相変わらず意地悪なのね。そんなりょうの囁きも風に呑まれて、冬魔は聞こえないふりをした。
結局、そのあとはホテル近くの食堂で沖縄そばとゴーヤチャンプルを食べただけでチェックインした。無計画で面白みもない観光ルート。だけどそれに、りょうが不満を露にすることはなかった。
ホテルはどの部屋もオーシャンビューを売りにしていて、朝日に輝く海のグラデーションが見ものなのだと、ポーターは胸を張った。りょうが鍵を受け取りに行った待ち時間で、訊きもしないのに男はホテルの自慢を喋り続ける。ロビーの奥の壁は一面ガラス張りになっていて、そこから海を望めるようになっていた。ビーチの手前にはプールがあり、日中ならいつでも入れるらしい。プールのあるホテルなんていつ以来だろうと、冬魔は記憶を辿る。少なくとも今頃まりあが修学旅行で泊まっている旅館よりは高級そうで、冬魔は小さな優越感を満足させていた。
部屋の鍵を受け取ったりょうが戻ってきた。熱心に話しかけてきていたポーターが思わず息をのむのがわかる。健全な男なら、大概そうだ。とんでもない美人を目にするとまず、言葉を失う。冬魔も昔経験したことがあるから、男の気持ちがわかった。それと比較するように送られてくる視線を無視して、冬魔は歩き出した。どうせつり合いが取れていないとでも思われているのだろう。さすがにそんな反応はもう、慣れていた。
りょうに言われるままにエレベータに乗り、廊下を進んだ。部屋の数はフロアごとに二十程度あるようで、すれ違う人の多さや、ドアに下げられた指示カードの数を見ると、それなりに盛況らしい。
その中から514号室を見つけて足を止める。りょうに向かって手を差し出すと、彼女もそこで立ち止まった。ふと目をやる。その手には一つしか鍵が握られていなかった。
「どういうことだ?」
低い声を上げると、まるで悪びれる様子もなくりょうはごめんなさいと肩を竦めた。「急に決めたことだから、一つしか部屋が用意できなかったのよ」
そして、悪戯っぽく笑う。
「私は構わないわよ。冬魔くんのこと、信じてるから」
「信用も何も、俺とあんたが一緒にいたところで、何も起きるはずなんてないだろ」
動揺を見透かされないように、冬魔はわざと呆れた声を上げる。りょうの手から鍵を受け取りドアに通すと、緑のランプが点滅してドアが開いた。
「二人きりなのに欲情してもらえないというのも、女としては自信なくすな」
そんなりょうの呟きを背中で聞きながら、冬魔は部屋の中へ入った。入り口脇に鍵を挿すと天井灯が点る。複製画がかけられた壁に、適度に配置された間接照明が作り出す雰囲気は悪くない。もともとシングルの部屋にベッドをもう一つ追加した分広くはないが、窮屈というほどでもない。何より、ダブルベッドが一つという状況でないことに安心した。
荷物をベッドの上に放ると窓際に立つ。ポーターが言っていた通り海が望めるようだったが、日の落ちた景色は暗く、その色合いまでは見えなかった。ただ海面には、独り取り残された月だけが揺れている。遮る雲もなければ、寄り添う星もない。孤独を絵に描いたような景色に、冬魔はカーテンを閉じた。
後ろからついてきたりょうも荷物を下ろすと、ベッドに腰掛ける。ぐるりと室内を見渡すと、思ったよりもいいところねと感想を漏らした。まりあちゃんも一緒なら良かったのに。そんな楽しくもない願望を口にする。まだ中学生の少女を連れてくることで、彼女は家族旅行の気分を味わいたいのかもしれない。冬魔が苦い顔を返すと、りょうはそのままベッドに仰向けに転がった。
普段は彼女の店で一対一で話しているのに、いざ二人きりになると手持ち無沙汰な気がした。りょうは移動で少し疲れたのか、ぼんやりと天井ばかりを見つめている。冬魔にしてみれば急に盛り上がる話題を見つけられるわけもなく、コンビニで買ってきた缶酎ハイを開けるとテレビをつけた。探偵事務所に置いているものよりも二回りくらい大きい画面の中で、太陽に顔がついた晴れマークが笑う。明日も一日青空が続くでしょう。淡々と予報を読み上げるキャスターの声を聞きながら、冬魔はアルコールと一緒に買ってきた観光ガイドを開く。
「それで、明日はどうしたいんだ?」
ガイド本は『食べる・見る・遊ぶ』といったジャンルごとに分類されていて、冬魔は自分が興味惹かれたページに折り目をつけていく。それでも少しは依頼人に対する配慮を見せようと、顔を上げる。そんな冬魔の期待を裏切るように、りょうはごめんなさいと呟いた。
「明日は行きたいところがあるのよ」
やはり天井を見上げたまま、声には抑揚さえなかった。瞳はただ、中空を彷徨っているように見える。然したる光もなければ、喜色もない。それ以上は口を閉ざしたりょうに冬魔は頷くと、観光ガイドをテーブルに放った。




