June 21 19:48
「ねぇ、一緒に沖縄に行かない?」
りょうがそう切り出したのは、二人が飛行機に乗り込む前日のことだった。開店前のバーは既に泥臭いブルースに満ち溢れていて、赤いドレスに着替えた彼女が、二杯目のスクリュードライバーを出すなり、そう言った。
唐突に、という印象はなかった。何か言いたげで、逡巡するような気配は店に入ったときから感じていた。
「ちょうどまりあちゃんも修学旅行に行っちゃったわけだし、冬魔くんだって一人でいるの、淋しいでしょ?」
一度口に出したことで、腹が決まったのかもしれない。始めは上ずっていた声も、いつものようにお姉さんぶる頃には、少し低めのハスキーなものになっていた。相変わらずシャンソンでも歌えば嵌りそうな声だ。そう思いながらも、カウンターでグラスを傾ける冬魔は眉を顰めた。
それがただの口実だってことはわかっていた。まりあが修学旅行へ出かけていることも、万が一それで冬魔が淋しさに暮れていたとしても、りょうと一緒に沖縄に行く理由にはならない。強くもない酒に酔った頭でも、それは十分に理解できた。
第一、姪のまりあが転がり込んでくるまでは冬魔は独りだった。それが元に戻っただけだ。淋しいなんて思うはずもない。
「何が目的なんだ?」
突き放すように口を尖らせると、りょうは肩を竦めた。目的なんてないわと、赤いルージュが引かれた唇から紡ぎだされる言葉はぎこちなくて、珍しく嘘が下手だなと思った。
強いて言うのなら、運転手が欲しかったから。免許を持たないりょうに代わってハンドルを握り、どこかへ連れて行ってくれる人が欲しいから。そんなもっともらしい理由もどこか空々しくて、冬魔は話を遮るように一口、グラスの酒を煽った。寄こしてくる視線はどこか縋るように痛々しくて、それを隠すために無理矢理笑っているように感じられた。
元々東京でモデルをやっていたくらいだから、笑顔を作るのは得意なはずだ。それなのに、その下にある感情を隠しきれていない。だとすると、そこにあるのはどうせ面倒くさい厄介事に決まっている。
「ねぇ、お願い」
りょうは体を摺り寄せるように冬魔の隣に座り、手を取った。美貌を武器にした女の、よくある手口だ。そうして上目遣いに瞳を覗き込んでくる。何も知らない男なら思わず首を縦に振ることだろう。ましてや冬魔みたいに、ろくに女と手を繋いだこともないような男ならなおさらだ。浅はかな下心を手玉に取られて、女の心行くまで転がされて捨てられるに違いない。
だけど、冬魔は頭を振った。心拍が早くなっているのも、顔が火照っているのも、ちびちび呷っている酒のせいだ。言い聞かせるように、氷で冷えたグラスを手で囲い、その冷たさを確かめる。頭はあくまで冷静なまま、りょうを見据えた。だけど、そこに残念がる様子はなかった。
長いつき合いになる。冬魔の答えなんて初めからもう、わかっていたのだろう。
「それじゃ、仕方ないわね」
諦めるようでもなく、まるで歌うようにりょうは笑った。店のオーディオが流すブルースに似つかわしくないくらい、晴れやかな声で。
「なら、佐倉探偵に正式に依頼させてもらうわ。それなら、いいでしょ」
どうせ今、仕事がないことはまりあから聞いていたのだろう。もしかして、この話を冬魔に持ちかけるように仕向けたのも、まりあの入れ知恵だったのかもしれない。カウンター裏にしまってある伝票の束をちらつかされると、断れるはずもなかった。それは全てツケになったままの、冬魔の飲み代だ。この一月余りまともな依頼のなかった私立探偵の経済状況では、返済を迫られたところで返せるわけがない。
「信じてるわ。冬魔くんは絶対、困っている人を見捨てたりしないって」
その言葉のどこに信頼があるというのだろう。あらかじめ決められていたレールの上に乗せられたようで、冬魔は舌打ちを漏らした。グラスに残ったオレンジ色のカクテルを一気に流し込むと、コトリと氷が鳴った。