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出逢い

結麗に頼まれて、彼女のバイト先の喫茶店で一緒に宿題をすることになった絵奈。徐々に結麗を友達として意識していく中で、絵奈はその結麗から古書祭に行こうと誘われ、そして一緒に行く約束をする。

「どう? すごいでしょ?」

 そう自慢気にいう結麗つづりの声は、高揚の色をみせていた。

「うん。ちょっとビックリした、かな」

 絵奈えなはそう答えて、ハンカチで額の汗を拭った。蝉時雨の間を縫って、風鈴の音がかすかに耳に届く。

 古書祭は今回で二十一回目なのだそうである。冬にも同じ祭りをやっているらしく、だから今年で十一年目になる。そのためなのだろう、商店街の入口に立てかけられたお手製の看板には『あなたにとってきっと11(いい)本が見つかる古書祭』と書かれていた。

 古書祭はなるほど祭りというだけあって溢れかえっていた。本当に溢れ返っているとしかいいようのない光景だった。

 人ではなく、本が。

 どこを見ても本しかない。

 大量の本なら絵奈も普段図書館で見ているし、見慣れている。それに、どの本もきちんと本棚に納まっていたから、取り出すのも探すのも簡単で、何より不特定多数の人の手に渡っているのに全然汚れていなかった。

 ところがここは――この古書祭は、同じ本でもまるで違っていた。棚にある本は大きさもジャンルもバラバラで、平気で逆様さかさまになっていたり寝かされていたりしている。そのほとんどがヤケたり汚れたり茶色かったり白かったりで、匂いもどこかホコリっぽい。本当にホコリを被っているものまである。

「あれって、つぶれちゃったりしないのかな」

 絵奈が気になったのは、ビニル紐でぞんざいに括られて束になった本だった。地面にそのまま置かれ、うずたかく積まれている。

「大丈夫じゃない? たぶん全集か何かだと思うけど、大抵ああやって山みたいになってるよ。見てみる?」

 絵奈が答えるより早く、結麗はその山へと近寄った。

 作家の小説全集や江戸時代の随筆全集、陶芸や絵画の美術叢書、郷土史全巻や哲学論文集――と、どれも絵奈にとっては初めて見る本ばかりだった。

「うわー、見てよ絵奈。時刻表まであるよ」

「本当だ、すごいね。でも昔の時刻表なんて見てどうするんだろう?」

「いろいろでしょ。そりゃあ実用性はないけどさ、そういうのを集めている人だっているだろうし。いわゆる鉄道マニアってヤツ?」

「ふうん。でもこんなに積んで、その、倒れちゃったりしないのかな?」

 見上げるほど、本は絵奈の身長より高く積み上げられている。

「大丈夫でしょ。奥も見てみよっか」

 店内も店内で、天井にまで本が隙間なくつめ込まれていた。圧迫感はあるものの、それほど不快には感じなかった。それは本棚と本棚の間が広く取られているせいもあるのだろうが、

「あー、涼しい」

 と結麗がいうように、冷房が一番の要因かもしれなかった。

 本の壁をぼんやり見ていると、一冊の本が絵奈の目に止まった。多くが茶色く焼けている中、その本だけは他よりもひと回り大きく、そしまばゆいばかりに蒼かった。

 少し背伸びをして、その蒼い本を手に取る。

「なあに、それ?」

 結麗が興味を示して寄ってきた。

「三百六十五個のお話が載ってる本だって」

 適当な場所を開くと、日づけとともに短いお話が載っていた。どうやら世界中の昔話が、季節や行事に合わせて適当な日づけに割り当てられているらしい。試しに十二月二十四日を引いてみると、当然のようにクリスマスのお話だった。

「面白そうじゃん。ねえ、絵奈。アタシの誕生日を引いてよ。六月五日」

「えっと、狩人のお話みたいだよ」

 ふたりは顔を寄せ合って読み始めた。翌日の六日にまでまたがって語られたそのお話は、最後に小さくグリム兄弟と明記されていた。

「秘密を守るってのは大変なのね」

 結麗はぽつりとそんな感想を洩らした。

「今度はアタシが引いてあげる。絵奈はいつ?」

「九月十一日だよ」

 今度はずるがしこい木こりの話だった。題名とはまるで関係のない話だったが、前日の話と類似するものとして語られていたこともあってか、趣旨としてはその題名も強ち間違いとはいえなかった。

 いえなかったのだが。

「これってハッピーエンドなの、かな?」

「どうだろ。アタシは途中でお菊さんの話になるのかと思っちゃったけどね。一枚二枚ってさ。そういえばあの話って本当はなんていうんだっけ?」

「お菊さんの話? たしか皿屋敷だったと思うけど」

「そうそう、そんな名前。なんとか皿屋敷。あ、皿で思い出した。たしかこの商店街のどこかのお店で皿とかも売ってるんだよね。骨董品っていうの? 掛軸とかもあるみたいでさ、前に来た時にちらっと目にしたんだけど」

「本だけじゃないんだね。掛軸かあ。ちょっと見てみたいかも」

「たしか目録に地図が載ってたはず」

 結麗は鞄から小冊子を取り出した。

「すぐ近くみたい。古美術って書いてあるから、たぶんそこで間違いないと思う。行く?」

「うん」

 ふたりはそうして、出店を廻るかのごとく祭りを謳歌おうかしていった。

 紙芝居をしている店や、本の修復を解説している店の前も通ったし、展示されている絵巻や有名作家の手書き原稿も見て廻った。オークション会場を覗いてみたりもした。

 どの店も見るだけで一冊も買うことはなかったが、祭りといえども単に本を売るだけのものと思っていた絵奈にとっては、それだけで充分に楽しかった。もちろん、売りものである以上立ち読みという行為に少しうしろめたさを感じなくはなかったが、結麗も他の客も気にせず読んでいたし、店主自ら店の本を取り出して読みける姿を見てからは、自然と本を手に取る頻度も増した。


 それは商店街の端にほど近い、とある店に立ち寄った時だった。


 店先に置かれた棚の前で足を止め、絵奈は適当に目についた本を手にした。そして手首を返して表紙を目にした時、絵奈はほうけたように何も考えられなくなってしまった。

 それは時間にして一瞬のことだったのかもしれない。

 そして。

 きれいな絵。題名も作者も知ってるけど、絵を描いた人は知らないな。なんで二冊もあるんだろう。そんな長いお話だったかな。中、見てみたいな。勝手に紐取ったら怒られるかな。でも見たい。すごく読みたい。

 そんな思いがせきを切ったかのように一気に溢れ出した。棚から抜き取ったそれは、二冊セットになった絵本だった。

「見たかったら取っちゃっていいわよ、それ」

 突如頭上から響いた低音に、絵奈は反射的に身を縮めた。声のしたほうにゆっくり顔を向けると、そこには分厚い壁――のような毛深い胸板が眼前に迫っていた。思わず身を引き、視線を上へと持っていく。

 と、今度は毛虫のような眉をつけて、苔のような鬚を生やした岩のような顔が絵奈を見下ろしていた。

「あらやだ、まだ残ってたのそれ」

 とっくの昔に売れたと思ってたわといって絵奈から本を抜き取る。と、その時、店の奥からすいませんという声が聞えた。

「はーい、今行くわ」

 そう答えて、ピンクの短パンに胸もとのぱっくり開いたぴちぴちの白いタンクトップを着たスキンヘッドの店主は、絵本を手にしたままどこかに行ってしまった。

 店主の消えた向こうから、結麗が入れ違いに現われた。

「あ、いたいた。何か面白い本あった?」

 絵奈はぎこちなく頷いた。

「そっか。なんかさ、これだけたくさん本があると、何か買わないともったいない気がしてくるよねー」

 けっこうムダ遣いできるくらいには持ってきてるんだけどね、と鞄を軽く叩く。

「わりと働いたし」

「何か欲しい本あるの?」

「んー、特には。あ、でも、さっきあった漫画の全集はちょっと興味あるかも」

「どんな」

 本なの、という絵奈の言葉に被せるように、

「ごめんなさいね」

 と、店主が巨漢を揺らしながら戻ってきた。

「はい、これ。紐切っておいたわ」

「あ、ありがとう、ございます」

 絵奈は目を合わせず受け取った。

「後で適当に戻しておいてちょうだい」

「へー、これって絵本になってたんだ」

 二冊のうち、結麗が一冊を手に取った。

「けっこう有名な話だよね? うわー、すごいきれいな絵。ちょっと見てよ絵奈」

 そんな興奮気味の結麗とは対照に、

「うん、本当にきれいだよね」

 と絵奈は噛み締めるようにいった。

 そっと本を開く。

 丁寧に描き込まれているわけでも、写実的なわけでもなく、むしろデフォルメされているし、色づかいもシンプルで、別段特筆すべき点は見当たらないその挿絵はしかし、語られるお話の雰囲気をよく表現していて、絵を追うだけで話がわかるほどに完成度が高かった。

 うまいというのは少し違う気がするし、かわいいと評するのはしっくりこない。美しいとも、暖かいとも優しいとも違う、けれどもそれらすべてを内包しているこの絵を形容するには、やはりきれいというより他なかった。

 ページを捲るたび、絵奈は表紙を見た時に感じた、何かが止まってしまうような感覚に囚われた。そして動悸や感動はいつもその後からやってきた。

 こんな体験は生まれて初めてだった。

「その本にはね、ちょっと面白い仕かけがあるのよ」

 まだそこにいたらしい店主が得意気にいう。

「ふたりともそのお話は知ってるのかしら?」

 絵奈と結麗はお互い目を合わせて、同時に頷いた。

「それなら、お互い相手の持ってる本を覗いてごらんなさい。どっちも同じ話なんだけど、片方は妻の、もう片方は夫のお話なのよ」

「あ、本当だ。アタシのは旦那のほうになってる」

「すごいね。もしかして最後のページは一緒なのかな?」

 はたして予想通り、二冊は同じ絵で終わっていた。

「その絵を描いた人はもうずいぶん前に亡くなっちゃって、出版社も潰れちゃったみたいで絶版なのよね、その本。ほとんど市場にも出回らないし、ここいらの店でもウチだけじゃないかしら、置いてあるのは」

「この絵を描いている人は、有名な人なんですか?」

 結麗が訊いた。

「そうね、どちらかといえばあまり知られてない人かもしれないわね。もともと画家らしくて、この手の絵は何冊か描いたらしいんだけど、それも含めて詳しいことは何もわかっていないの。どんな人で、どんな絵を描いてきたのかはね」

「へー、謎の画家ってわけ。なんか面白い!」

「でも絵奈は好き。この絵」

「アタシも好き。あの、これいくらですか?」

「そっちの娘が持ってるほうに書いてないかしら? ほら、後ろのページに」

 いわれた箇所にはたしかに値段が記されていた。

 記されていたのだが。

「高っ! 一二〇〇〇円もするのこれ!?」

「あ、網代あしろさん声大きいよ」

 おっとごめん、といって結麗はわざとらしく口もとを押さえた。

「桁間違えてないよね? もう一回見せて。あー、うん。やっぱりゼロが三つ並んでる」

「ごめんなさいねえ」

 店主は頬に手を当て、さとすような口振りでいった。

「そのお話、とっても有名でしょう? それに二冊に分けるなんて発想は……まあ、しても実行に移しやしないわよね。部数も少ないし、第一発行された年もかなり古いし、こうして揃って残ってるのはとても貴重なの」

「そっかー。すごい本なんだ。なんか汗出てきた」

 汚れる前に返しますと、結麗は店主に絵本を渡した。

「絵奈?」

「え? あっ!」

 結麗に呼ばれるまで、絵奈は絵本を抱いていたことに気がつかなかった。

「本当は二冊セットじゃなきゃ売らないんだけど、どうしても欲しいならバラでも売るわよ? その場合一冊八〇〇〇円ね」

「どうする? 買う?」

「い、いいです。ごめんなさい」

 押しつけるようにして、絵奈は店主に絵本を返した。

「他にもたくさん本があるから、遠慮なく見ていってちょうだい。あら、お客さんが待ってるわ。はいはーい」

 店主は絵本を棚に戻し、奥の帳場ちょうばに向かっていった。



 その後も何軒か店を廻ったが、絵奈は棚をぼんやりと眺めるだけで、どれも手に取ろうとは思わなかった。疲れたのかと心配する結麗に絵奈は大丈夫だと答えたが、その声は弱々しかった。

「まあ、ここにいたら衝動買いしちゃいそうだし、新刊買ったらどっかで休憩しよっか?」

「うん。いいよ。新しくできた本屋さんってどこなの?」

「この通りを抜けたところのビルなんだけど」

 と、そこでいったん言葉を置き、

「その前に」

 といって、結麗は絵奈の手を取った。

「ちょっとつき合って」

「あ、網代さん?」

 はたして連れて行かれたのは、先ほどの絵本のあった店『古書一本堂』だった。結麗は片手で器用に先ほどの絵本を抜き取ると、店の奥へとそのまま進んでいった。

「すいません。これ下さい」

「あら、さっきの。ありがと。ちょっと待っててね」

 突然のことで絵奈は何もいえなかった。乾いてカラカラになった口が言葉を発したのは、結麗が財布を取り出した後だった。離れかけた結麗の手を、今度は絵奈が握り返す。

「あ、網代さん、それ、か、買うの?」

「うん。素敵な絵本だし。絵奈だってすごく気に入ってたじゃない。ダメ?」

「ダメじゃないけど、でもその本すごく高いし、その、もうちょっとよく考えたほうがいいっていうか」

 知ってるよ、と結麗はいった。

「いくら数学が苦手なアタシでも、値段は見間違えないって」

「だったらどうして」

「欲しいから。それに絵奈だって欲しいでしょ?」

「そうだけど、別に買って欲しいわけじゃ……それに、そんなことしてもらったら、その、網代さんに悪いよ」

「悪くないよ別に。だってアタシが欲しいんだし。絵奈が気に病むことはないと思うけどなー」

「そうだけど、でも」

「イヤ?」

 首を振って答える。

「もー、じゃあ何さ」

 結麗は困ったような怒ったような顔をした。

「それともアタシが買ったら何かマズいの?」

「違うの。そうじゃなくて、その」

 視線をそらすように、絵奈はゆるゆるとうつむいた。

 わけがわからなかった。結麗の考えを忖度そんたくできなかった。するのが怖かったというのが正しいのかもしれない。

 たしかに、他の店を廻っている時も、絵奈の頭の中はこの絵本のことでいっぱいだった。もしかしたら無意識にこのお店のほうに目を向けていたのかもしれない。けれども、たとえそうだったとしても、結麗になぐさめて欲しいだとか、ましてや買って欲しいなどと思っていたわけではない。

 もう一度、あの表紙が――絵が、見たかっただけだった。

 察しのいい結麗のことだから、そんな絵奈の考えなどすぐにわかってしまうのだろう。だとしたら今のこの気持ちもんで欲しかった。

 気づいて欲しかった。

 いや、違う。そうではない。むしろその逆だ。

 結麗が何を買おうが、そこに絵奈が口を挟む余地はない。値段が気にならなかったというのならウソになるが、問題はそこではなかった。

 それは嫉妬に近かった。

 何をいっても、それは絵奈への気づかいの建前ととらえられることはわかっていながら、それでも買うといい張る結麗を、絵奈は嫉視しっしの目で見ていた。うらやましかったし、ずるいとも思った。

 そんな自分の気持ちを悟られるのが、絵奈は少しだけ怖かった。

 ごめんね、と結麗がいう。

「なんか気をつかわせちゃったみたいで。たしかに値段はビックリするくらい高いけど、この後使う分はちゃんと取ってあるから大丈夫だし、それに、アタシもこのお話好きなの。だから欲しいっていうのは本当」

 だからこうしよう、と結麗は明るくいった。

「これアタシが買うけど、今日絵奈に貸してあげる。読み終わったら返してくれればいいし、読みたくなったらいつでも貸してあげる。もし欲しくなったら、そうだなー、特別五〇〇〇円でどっちか片方売るってのはどう? ローンもおっけぃだよ?」

 畳みかけるように、しかし諭すような口振りで結麗は続ける。

「今日買わないと売り切れちゃってるかもしれないし、後で欲しいな、読みたいなって思っても、どこを探したってもう見つからないかもしれないんだよ? やらなくて後悔するよりやって後悔したほうがいいっていうじゃない。ほら、出逢ったが吉日ってヤツよ」

「それって、思いたったが吉日だよ」

「あらら、そうだっけ? やっぱり国語は苦手だなー」

「本が好きなのに、変なの」

 本当にねといって結麗は笑った。

 絵奈もつられて少し笑う。

 笑ったことで、なんとなく気が楽になったような気がした。


  ――どこをさがしたって、あの人はもういないんだね。


 祖父が亡くなった時、祖母はそんな言葉をぽつりと洩らしたことがある。それは葬儀をすべて済ました直後のことだったのか、それともつい最近のことだったのか、絵奈はもうよく憶えていない。ただ、誰にいうでもなく、本当に口から洩れ出てしまったようなその言葉だけは、鮮明に記憶に残っていた。

 だから。

 どこを探したってもう見つからないかもしれないんだよ、という結麗の言葉は、絵奈の中でとても強く響いた。長く連れ添った最愛の人と、今日初めて出逢った本とではまるで違うが、それでも絵奈には充分に胸を打つ言葉だった。

 嬉しかった。

 結局、絵奈も結麗と同じく、いやそれ以上に、気をつかっていたのだ。そのことに気づいた途端、絵奈の中で、結麗のために何かしてあげたい、お返ししたいという気持ちが素直に湧き上がってきた。でも、自分に何ができるかはわからなかった。財布の中身はとぼしかったし、それをすべて上げてしまうのは何か違うようにも感じた。

 そんな何もできない自分が、絵奈は少しだけ悔しかった。

「どうやら話はまとまったようね」

 肘をつき、両手に顎を乗せていた店主が、安心したようにそういった。

「あ、すいません。今お金払います」

 目を合わせる結麗に、絵奈は笑って頷いた。

「あ、ちょうどいただくわね。はい、じゃあこれ。またいらっしゃい。いつでも待ってるわ」

 手を振る店主に礼をして、ふたりはどちらからともなく手を繋いで一本堂を後にした。

「ありがとう、網代さん」

 結麗は初めきょとんとした顔をしていたが、

「それは貸してもらって、と受け取っておくよ」

 といって、そっとウィンクした。

 最近できたという大型書店は、もうすぐそこだった。

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