「お願い」
夕食を終えたカイルは、家族に断ってから裏庭へ出た。
昼間の工房で父の仕事を見て以来、頭の中では魔法道具の修理と、午後の授業で習った火種の魔法が妙に結びついていた。
グレンは部品を調べ、原因を絞り込み、必要な調整を施していた。
知識があるだけでは足りず、実際に動かして反応を確かめなければ、何が正しいのかも分からないのだと教えられた気がする。
ならば、自分も試してみればいい。
庭の隅には、母が薬草を乾燥させるために使っている小さな石台があった。
カイルはその上に火種盤を置き、授業で使った練習用の魔石を横に並べた。
夜の空気は少し冷たく、家の窓から漏れる明かりの向こうでは、母が食器を片付けている音が聞こえていた。
カイルは火種盤に手を置き、教わった通りに詠唱を始めた。
決められた言葉を順番に唱え、魔力を少しずつ流していく。
火種盤の表面が赤くなり、小さな炎が生まれた。風に揺られながらも、炎は数秒ほど燃え続けた。
「よし」
授業では何度も失敗したが、家で落ち着いてやれば成功することもある。
カイルは炎を消し、もう一度同じ手順を繰り返した。今度も問題なく火がついた。
やはり、決まった手順を守れば、一定の結果が得られる。
それ自体は便利だった。火を起こすたびに精霊の機嫌をうかがう必要がないのなら、誰でも使える仕組みとしては優れている。
しかし、授業でルースが話していたことを思い返すと、どうしても気になる点が残っていた。
精霊は、決められた詠唱にしか応じないのだろうか。
カイルは火種盤から手を離し、庭の片隅にある小さな焚き火用の石囲いを見た。
そこには昼間に使った薪が数本残っていたが、火はもちろん消えている。
試しに、詠唱をせずに魔力だけを流してみた。
火種盤はわずかに温かくなったものの、炎は生まれなかった。魔力を増やしてみても、結果は変わらない。
むしろ盤面が熱を持ち始めたので、カイルは慌てて手を離した。
「うーん……」
やり方が違うのか。それとも、詠唱そのものが必要なのか。
カイルは少し考えたあと、今度は火種盤を使わず、焚き火用の石囲いの前にしゃがんだ。
薪の一本を手に取って、乾いていることを確かめる。火をつけるための道具はない。周囲に燃えやすいものがないことも確認してから、両手を薪へ向けた。
「火の精霊。ええと……火をつけてくれない?」
自分で言っておきながら、ひどく間の抜けた頼み方だと思った。
返事はない。
当然だろう。普段の魔法は、正しい詠唱を使って初めて成立する。
相手が精霊なのだからお願いすればいい、というほど単純なものではないのかもしれない。
それでも、カイルはすぐには諦めなかった。
「いや、命令してるわけじゃなくてさ。ちょっと火がほしいんだ。薪に火をつけたい。頼むよ」
何も起きなかった。
庭には虫の声が響き、母が窓を閉める音がした。カイルはしばらく薪を見つめていたが、やがて息を吐いた。
「……まあ、そうだよな」
精霊が人間の言葉を理解しているのかどうかさえ、確かなことは分からない。
人々は精霊を意思のある存在として語るが、実際に魔法を使うときには、決められた詠唱と手順を守ることが求められる。
お願いを聞いてくれるという話も、教会の奇跡や、特別な才能を持つ者の逸話として語られる程度だった。
カイルは薪を元の場所へ戻し、もう一度火種盤を手に取った。
今度は、詠唱を一つずつ確認しながら、言葉の切れ目で魔力を流す量を少し変えてみた。
結果は安定しなかった。炎が生まれないこともあれば、一瞬だけ強く燃えてすぐに消えることもある。
「言葉の順番だけじゃなくて、魔力を流すタイミングも関係してるのかな」
父の工房で見た、暖房器具の部品を思い出す。似た形の部品でも寸法が違えば、道具の動きは変わる。魔法も同じように、目に見えない部分で条件が決まっているのかもしれない。
しかし、もしすべてが決められた条件で動くのなら、精霊にお願いするという話は何なのだろう。
カイルは火種盤を石台に置き、少し離れたところに座った。
「ねえ、火の精霊」
今度は、魔法を使うつもりで魔力を流すこともしなかった。
ただ、火種盤を見ながら声をかけた。
「さっきから何度も試してるんだけど、うまくいかないんだ。僕のやり方が悪いのかな。それとも、こういう頼み方じゃ駄目なの?」
もちろん、返事はなかった。
カイルは頬杖をつき、少しだけ笑った。
自分でも何をしているのか分からなくなってきた。相手が本当に意思を持っているのなら、こんな一方的な話しかけ方では伝わらないのかもしれない。
反対に、意思などなく、ただ決められた仕組みに従っているだけなら、話しかけること自体に意味はない。
そのとき、火種盤の表面がほんの一瞬だけ淡く光った。
カイルは顔を上げた。
光はすぐに消え、盤面は何事もなかったかのように冷たい金属の色へ戻った。
魔力を流していなかったはずだ。
風で揺れるような光でもない。けれど、あまりに短い反応だったため、見間違いだった可能性も捨てきれなかった。
「……今のは、何だ?」
もう一度声をかけてみる。今度は何も起きなかった。
カイルは火種盤を持ち上げ、裏面や接続部を確かめた。目立った傷も、変わったところもない。
故障を疑うには情報が足りず、精霊が返事をしたと考えるには、もっと足りなかった。
家の中から、エレナの声がした。
「カイル、いつまで外にいるの? 冷えるから、そろそろ入りなさい」
「分かった、今行く!」
カイルは道具を片付け、火種盤を抱えて家へ戻った。
決められた手順を繰り返すだけでは分からないことがある。そのことだけは、少しはっきりした気がした。
翌日、ルース先生に聞いてみよう。
ただし、「精霊にお願いしたら返事をした気がする」などと話したら、どんな顔をされるだろう。あの先生なら面白がって、放課後いっぱい質問を浴びせてくるかもしれない。
カイルはそれを想像して、少しだけ笑った。
今はまだ、うまく説明できるほどのことは何も分かっていないのだから。




