流れ星
その夜、空に流れ星が走った。
町の南に広がる森の上を、白い光がすっと斜めに横切っていったのだ。
窓際に立っていたカイルは、その光を目で追った。
細い光は一瞬だけ夜空を白く照らし、そのまま深い森の奥へと吸い込まれて消えた。少し遅れて、遠くからドスンと地面を叩くような鈍い地鳴りが届く。
「今の……落ちたよね?」
隣で窓枠に手をかけたフィンが、声をひっくり返した。
「たぶん」
「森の中に?」
「そう見えた」
ルーシアは椅子の上に立ち上がり、窓ガラスにペタリと額を押し付けていた。
寝間着の裾を両手で強く握りしめ、目を丸くして外を見つめている。
「絶対あっちだよ! 見に行こうよ!」
「夜だよ?」
フィンが即座に首を振った。
「だから今は駄目。明日、明るくなってからにしよう」
「でも、明日になったら誰かに見つけられちゃうかもしれないじゃん!」
「それなら、そのときに見せてもらえばいいじゃないか」
「お兄ちゃんはそういうところ、本当につまんないんだから……」
ルーシアは窓から離れると、不満そうに両頬を大きく膨らませた。
カイルは二人のやり取りを聞きながら、静まり返った森の方向へ視線を戻した。
南の森は魔物の巣窟などではない。薪を集めたり、木の実を拾ったりするために町の人々が日常的に使っている場所だ。大人が子供だけで行かせるわけではないが、十歳前後の子供が数人で入る程度なら珍しくもない。
「明日の昼なら、いいんじゃないか?」
カイルが呟くと、ルーシアの顔が一気にパッと華やいだ。
「ほら、お兄ちゃん! カイルも行くって言ってる!」
「カイルはまだ行くって決めてないだろ」
「今のはほとんど『行く』って言ってるの!」
「なんでそうなるんだよ……」
ルーシアはニカッと笑うと、再び窓の外の闇を見つめた。
「絶対、何かあるよ。だってあんなに綺麗だったんだもん」
*
翌日。
三人が森へ向かう頃には、昨夜の落下物は町でも噂になっていた。
「昨日の光、南の森に落ちたらしいぞ」
「見に行った奴もいるみたいだが、まだ何も見つかってないらしい」
大人たちのそんな会話を耳にしたルーシアは、ますます興奮を隠せない様子だった。
「ほらね! まだ誰も見つけてないよ!」
「だからって急がなくてもいいでしょ……」
フィンは外套の首元を整えながら、ハァとため息をついた。
ルーシアも同じように薄手の外套を羽織っていたが、歩くたびに後ろで結んだ髪が跳ね、足取りも軽い。
森の中へ足を踏み入れると、木々の間から昼の柔らかな光が差し込んでいた。下草は手入れされており、薪拾いの人々が使う細い道が幾筋も奥へと伸びている。
「この辺までは、僕も来たことあるよ」
フィンが周囲の木々を見回しながら言った。
「これより奥は、あんまり行かないほうがいいと思うな……」
「なんで?」
「人が少なくなって、道が分かりにくくなるから」
「じゃあ、目印をつければいいじゃない」
ルーシアは足元に落ちていた白い小石を拾うと、大きな木の根元へちょこんと置いた。
「それじゃ雨が降ったら消えちゃうよ」
カイルが呆れて言うと、ルーシアはくるりと振り返った。
「じゃあ、カイルが考えてよ」
「なんで俺が」
「三人で来たんだから、三人で力を合わせるの!」
そう言って、ルーシアはカイルの手首を強い力で掴んだ。
「ほら、行こう!」
「引っ張るなって」
後ろからフィンが慌てて追いかけてくる。
「ルーシア、あんまり一人で先に行かないでよ! 見失ったら困るから!」
「大丈夫だってば!」
「その『大丈夫』が一番信用できないんだよ……!」
文句を言いながらも、ルーシアは少しだけ歩く速度を緩めた。
奥へ進むにつれ、樹木が混み合い、周囲の空間が暗さを増していく。
ふと、カイルは足を止めた。
「……こっちだ」
「え? 何が?」
フィンが振り返る。
カイル自身、うまく言葉で説明することはできなかった。
何かがある。
見えない糸で引っ張られるような、強い引き寄せられる感覚。
「昨日、落ちたところ。たぶん、こっちだ」
「ほら! カイルに任せればいいんだよ!」
「それ、どういう理屈なのさ……」
半信半疑のフィンを引き連れ、さらに奥へと進む。
やがて不自然に木々が途切れ、小さな窪地へと出た。
そこだけ土がすり鉢状に大きくえぐれ、中心には焦げた土の特有の匂いが立ち込めていた。
「ここだ……」
カイルが呟いた。
だが、期待していたような落ちた星の破片は存在しなかった。
代わりに窪地の奥、空気中にぽっかりと――淡い光の塊が浮かんでいた。
最初は小さな火のように見えた。
けれど近づくにつれ、それが精霊であることがはっきりと分かった。
今まで見たどの精霊とも違う。
人の形に近い。小さな少女のようにも見えるが、輪郭が揺らめいて定まらない。光が幾重にも重なり合い、その中心で核となる小さな光が、脈動するように弱々しく明滅していた。
そして、精霊としては、巨大だった。
カイルは息を呑んだ。
「……これ、普通の精霊じゃない」
フィンも恐怖で顔を強張らせている。
「僕には……よく分からないけど、すごく大きくて、何かヘンだ……」
しかし、ルーシアだけが一歩前に踏み出した。
「……弱ってる」
「分かるの?」
「うん」
ルーシアは精霊をじっと見つめた。いつもの悪戯っぽい笑顔は完全に消えていた。
「苦しそう……」
光がかすかに揺れた。
精霊がまるでルーシアの存在に気づいたかのように、ふわりと距離を詰めてくる。
フィンが顔色を変えて妹の腕を掴んだ。
「待って! 触っちゃダメだ!」
「でも……!」
「何の精霊かも分からないんだ! お父さんたちを呼んできてからにしよう!」
ルーシアは精霊から目を逸らさないまま、強く首を横に振った。
「この子、待ってるの」
「それは君がそう感じてるだけかもしれないだろ!?」
「違うよ!」
ルーシアは珍しく、兄に向かって強い声を張り上げた。
「助けてほしいって言ってるの!」
その瞬間、精霊の光が一際弱く明滅した。
ルーシアの手が、フィンの拘束を振り払って一歩前へ出た。
「ルーシア!!」
ルーシアの指先が、漂う光の輪郭に触れた。
空気が一瞬で凍りついたように震えた。
キィン、と耳奥を刺す高音が響く。
精霊から伸びた光の帯が、まるで生き物のようにルーシアの腕へと巻き付いた。
そのまま胸元へと一気に流れ込み、彼女の小さな身体全体を眩い光で包み込む。
「っ……ぁ!?」
ルーシアの身体が大きく跳ねた。
「ルーシア!」
フィンが駆け寄ろうとしたが、膨れ上がった光の圧力に弾き返され、近づくことすらできない。周囲の空間が、熱で歪んだように歪曲していた。
そして――精霊が消えた。
消えたのではない。ルーシアの身体の中へ、完全に吸い込まれたのだ。
「……なに……これ……」
ルーシアは両手で自分の胸元を強く押さえた。顔からは血の気が完全に引いている。
「お兄ちゃん……なんか、変……」
「ルーシア!? 何が変なの!?」
「身体が……すごく熱い……。頭も変……耳の奥で、変な音がずっとしてる……!」
フィンの顔が真っ青になった。
「カイル、ここにいて! 僕、大人を呼んでくる!」
「一人で戻るのか!?」
「このままじゃ危ない! 父さんか母さんを連れてくる! 町まで走ればすぐだから!」
ルーシアがかすむ視線でフィンの袖を掴もうとした。
「待って……っ」
「大丈夫、すぐ戻るから!」
フィンはしゃがみ込み、冷や汗を流す妹の目を真っ直ぐに見つめた。声は激しく震えていた。
「絶対すぐ戻る! だから、カイルと一緒にここにいて!」
ルーシアは荒い息を吐きながら、小さく頷いた。
「……うん……」
フィンが脱兎のごとく走っていく。
その足音が遠ざかり、森の中に静寂が戻った。
直後、ルーシアの膝がガクガクと折れ、身体が大きく傾いた。
「おい!」
カイルが咄嗟にその身体を抱き止める。
「……ごめん……」
「何がだよ」
「うまく……立てないの……」
ルーシアの身体は驚くほど熱かった。額にはびっしりと冷や汗が浮かび、呼吸は浅く激しい。
「フィンが……すぐ大人を連れてくるから」
「うん……」
そう答えながらも、ルーシアはカイルの服を硬い力で握りしめて離さなかった。
「ねえ……カイル」
「なんだよ」
「これ……私……どうなっちゃうのかな……」
「分からない」
カイルは正直に答えるしかなかった。
自分にすら、何が起きているのか理解できない。
鑑定を使えばいい。そう思い立ち、意識を集中させようとした。
だが――ルーシアの内部に存在する「それ」との接続があまりにも強力で巨大すぎて、カイルの未熟な鑑定では弾かれてしまう感覚があった。
「カイル……」
ルーシアの声が弱々しくかすれていく。
「ちょっと……怖いよ……」
カイルは彼女の肩を強く支え直した。
大人たちが来るには時間がかかる。
フィンの足で町まで走り、両親を連れて戻ってくる頃には、ルーシアの身体が保たないかもしれない。
(どうする……どうすればいい!?)
頭の中に、前世か古代の知識かが濁流のように流れ込んでくる。
――治癒。
――鎮静。
――冷却。
――適合プロトコルの安定化。
けれど、どれも今のカイルには実行できない。
具体的な魔法式も、精霊への命じ方も知らないのだ。
「……くそっ!!」
カイルは歯を強く食いしばった。
知識があっても、現実の術を知らなければ何一つ救えない。
ただ手をこまねいて見ていることしかできない自分が、酷く情けなかった。
カイルは必死で周囲を見回した。
森には、無数の精霊たちが漂っている。
風の精霊。水の精霊。土の精霊。木々の隙間に揺らめく小さな光たち。
いつもなら、彼らはそれぞれの役割に従って勝手に揺れているだけだ。
なら、頼むしかない。
正統な命令や魔法の構文なんて知らなくてもいい。
「……頼む!」
声を出した。
特定の精霊に宛てた言葉ではない。この森全体に生きるすべての精霊へ向けた祈りだった。
「ルーシアを助けてくれ!!」
何も起きない。
当然だ。何をしてほしいのか、どの術を使うのか、何の命令にもなっていないのだから。
それでも、カイルは諦めずに叫び続けた。
「熱を下げてくれ! 苦しいのを楽にしてくれ! こいつの身体を……壊さないでくれ!!」
ルーシアが苦しげに身体を歪め、意識が途切れかける。
「頼むから……!!」
カイルがなりふり構わず咆哮した、その瞬間だった。
ピキリ、と森の空気が跳ねた。
周囲の葉が一斉に激しくざわめく。
カイルとルーシアを中心にして、澄んだ冷たい風が旋風となって巻き起こった。
湿った冷気が地面から立ち上り、木々の間に散らばっていた無数の光の粒が、導かれるように二人の元へ集まってくる。
カイルは目を見開いた。
魔法陣も、詠唱もない。
それなのに、精霊たちがカイルの感情に引き寄せられるようにして「直接」動き出していた。
集まった精霊の光がルーシアの身体をやさしく包み込む。
酷かった熱がみるみる引き、途切れ途切れだった呼吸が静かなものへと変わっていく。
「……カイル……?」
ルーシアがゆっくりと目を薄開けた。
「何……したの……?」
「……分かんない」
それしか言えなかった。
森の中で、無数の光たちが静かにゆらゆらと揺れている。
まるでカイルの言葉を聴き届け、静かに見守っているかのように。
そして遠くから、必死な叫び声が聞こえてきた。
「カイル! ルーシア!!」
グレンとエレナを連れたフィンが駆けつけてくる。
救援が来た。
カイルは安堵から、深く溜め息を吐いた。
けれど、胸の奥には消えない疑惑が残されていた。
魔法の形すら知らなかった自分が、なぜ精霊たちを動かすことができたのか。
そして、あの巨大な精霊を取り込んでしまったルーシアに、これから何が起きるのか――。
その答えを知るのは、まだ先のことだった。




