第一話:酒呑童子オーバーロード
その夏、俺にとっては一生忘れられない夏となった。
アスファルトが陽炎で歪み、北野の坂道を登るだけで魂が削れるような、神戸の酷暑。
一千年の神話をデリートし、一年前の未解決ログを無理やり上書きした俺たちは、本来なら冷房の効いた『フォックス・テイル』で、オムライスの残飯処理でもしながら、永遠に終わらない自習を貪っているはずだった。
だが、現実はいつだって、俺の「やりたかない」を無視してハッキングしてくる。
「……はぁ。やりたかないねー、ホンマに」
俺は、その夜も北野の路地裏にある、隠れ家のようなバー『朱』の扉を叩いていた。
「……シュン兄、とりあえず一番冷えてるやつ。あと、なんか腹に溜まるもん。……全部、親父のツケでいいわ」
俺がカウンターの端にへたり込みながらそう言うと、奥でグラスを磨いていた男――酒井 瞬が、呆れたように笑った。
平安の昔、初代・晴明と殺し合った伝説の鬼「酒呑童子」。……なんて肩書きは、今のこいつには似合わない。
「よう、ハル。今日も死んだ魚みたいな目してんな。泰臣のツケ? あいつ、昨日も葉子さんにボコボコにされて、泣きながらうちのソファで寝てったぞ。出世払いにしてやるよ」
シュン兄は手際よくキンキンに冷えたグラスを差し出した。
親父の泰臣とは、かつて現場(仕事)で知り合ったらしいが、今じゃどっちが先に酔い潰れるかを競う悪友だ。俺にとっては、親父の説教よりシュン兄の「人生の楽しみ方」の方が、よっぽど身に染みた。
「……親父のことはいいよ。あいつ、昨日もりお先生に色目使って母ちゃんに半殺しにされてたし」
「相変わらずだな、あいつも。……なぁ、ハル。人間ってのは、本当に脆くて、馬鹿で、だからこそ愛しいんだよな」
シュン兄はそう言って、カウンターの隅で微笑んでいる一人の女性を愛おしそうに見つめた。
名を、澪。
この不条理なほど長く生きてきた鬼が、その長い命の中でようやく見つけた、たった一つの光。
その時の俺は、まだ知らなかった。
シュン兄のその優しさが、人間を愛しすぎてしまったがゆえの脆さが、最悪の悲劇を招くことになるなんて。
あんなに人間を愛していた兄貴を、壊してしまった人間たちのためにデリートしなければならない皮肉。震える右手を博雅と道満が支え、最後に放つ騰蛇。
俺の右手の震えが、この夏の酷暑とそして最も残酷な警告を鳴らし始めていた。




