昆明総攻撃
1939年6月11日、インドシナ府から侵攻を続ける大日本帝国陸軍第7方面軍が中華民国雲南省の昆明を包囲した。大日本帝国空軍第7航空方面隊の航空群が制空権を確保しており、その優位性に揺るぎ無かった。南中派遣軍を率いる司令官は小磯国昭大将だった。現在中華民国には北部・東部・南部と三方向からの激しい侵攻が加えられていた。それは大日本帝国を裏切った事によるある種自滅的要因もあったが、中華民国が予想を遥かに上回る侵攻規模とペースだった。
それは南中派遣軍司令官小磯大将も感じており、中華民国陸軍が想定以上に弱体な事に驚いた。その為に雲南省侵攻は順調に進み、昆明包囲に至ったのだ。現時点で中華民国陸軍は大日本帝国陸軍の攻勢に、有効な反撃策は無かった。
そもそもの装備からして差が大きかった。第二神聖ローマ帝国からの軍事援助は、既に破壊されており各部隊の装備充足率は著しく低かった。結果として重装備の少ない歩兵部隊が主力となり、人海戦術で何とか対応するばかりだった。だがその状態で大日本帝国陸軍の侵攻を防げる筈が無かった。
大日本帝国陸軍は砲撃戦を重視する為に、その尋常では無い砲撃能力が中華民国陸軍を圧倒した。何せ大日本帝国陸軍は侵攻前の事前砲撃だけで、自走榴弾砲と牽引式榴弾砲の砲身は摩耗し砲身交換をする程だったのだ。攻勢前に榴弾砲の交換用砲身を用意するのは、大日本帝国陸軍だけの特徴でもあった。そしてその大日本帝国陸軍が昆明を包囲したのだ。
南中派遣軍司令官小磯大将は1939年5月20日の、北京総攻撃の前例から全部隊に躊躇無く全面攻撃を開始するように命令した。それは皇軍統合作戦司令本部に加え、黒崎妖華内閣総理大臣からの命令でもあった。黒崎総理は特に中華民国侵攻に際しては以後、歴史的建造物に対しても躊躇無く全面攻撃を加える事を許可した。その為に大日本帝国陸海空軍は一切の躊躇無く、全面攻撃を加える事になった。
その為に昆明には大日本帝国陸軍南中派遣軍と、大日本帝国空軍第7航空方面隊共同による全面攻撃が開始されたのである。




