検討会議
1939年6月8日、大日本帝国帝都東京市ヶ谷にある国防省大会議室では検討会議が開催されていた。大日本帝国国防省は地上55階・地下5階建ての256メートルに及ぶ高層ビルであり、総床面積は約21万2000平方メートルという巨大な規模を誇るものになっていた。
それは大日本帝国が陸海空軍の3軍を擁し、各軍の規模が世界各国に比して巨大だという事が最大の理由だった。それに国防省の指揮下に大日本帝国軍を一元的に統合管理する、皇軍統合作戦司令本部が設置されている事も理由だった。皇軍統合作戦司令本部は平時戦時問わず、大日本帝国軍の最高司令部であった。その皇軍統合作戦司令本部の指揮下に、陸軍参謀本部と海軍軍令部・空軍統合本部が設置されている。
そして陸軍参謀本部の指揮下には実戦部隊である陸軍総軍、海軍軍令部の指揮下には実戦部隊である海軍連合艦隊、空軍統合本部の指揮下には実戦部隊である空軍航空総隊が設置されている。
更に皇軍統合作戦司令本部の指揮下には、陸海空軍の他に、皇軍戦略情報局が設置されている。予算は軍事予算とは別に編成されるがその規模は約28億円であり、人員も約8万人に達する巨大組織だったのである。更に国防省外局の軍需庁も同じ建物内に設置されており、その結果として国防省の建物は高層ビルという巨大なものになっていたのだ。
その国防省50階の大会議室では検討会議が開催され国防大臣の石原莞爾陸軍元帥以下幹部陣、皇軍統合作戦司令本部総長風間麗子海軍元帥以下幹部陣、皇軍戦略情報局長官の川島芳子陸軍大将以下幹部陣勢揃いしていた。検討会議の開催理由は各軍の新型兵器開発についてであった。
その為に五大財閥も検討会議に参加していた。五大財閥は三菱財閥・三井財閥・住友財閥・安田財閥・鈴木財閥となっていた。大日本帝国の軍需企業を各財閥は傘下に収めており、国防省とは重要な間柄だった。三菱財閥・三井財閥・住友財閥・安田財閥は明治維新以後にその規模を拡大し、大日本帝国経済の屋台骨ともいえるまでに成長した。各財閥は傘下企業は中核企業だけで100社を超え、関連企業を含めると数千社を超えていたのである。
その四大財閥に驚異的な成長で追い付いたのが、鈴木財閥だった。創業は四大財閥が拡大した明治維新以後であるが、発展したのは大正に入ってからの第一次世界大戦であった。その発展により各種企業を傘下に収め、四大財閥に迫る中核企業は100社近くになり財閥と呼ばれるようになったのである。
五大財閥は中枢企業である総合商社と基幹銀行をそれぞれが有し一族経営というよりも、企業集団所謂グループという集まりであった。その為に経営は当然ながら各社独自であったが、財閥として大方針は意思統一されてもいた。ある種大日本帝国独自の企業形態と言えるのが、財閥であったのである。
検討会議は石原国防大臣の挨拶から始まった。第二次世界大戦が勃発してから直ぐに黒崎総理の命令により、陸海空軍に対して更なる軍拡と新型兵器開発を行う事になりそれは尋常では無い規模の予算が投入される事になった。
黒崎総理は『連合国の兵器廠』を標榜し、それはまずは従来兵器の増産による大規模軍事援助として現れていた。シベリア鉄道と海路により大規模軍事援助は開始され、更に海路は戦時標準船(戦標船)の大量生産体制が開始され、各財閥の造船所で一斉に建造され竣工した端から軍需物資を積載し送り出していた。そして開戦による開発速度の加速からようやく一部の兵器については、試作品の製作が始まったのである。当然ながら陸海空軍全てに於いて加速はすれど無制限とも呼べる新型兵器開発が続いており、今回の試作品は一部だけのものであった。
その後夜遅くまで続いた検討会議により、大日本帝国は新型兵器開発に向けて更なる一歩を踏み出したのであった。




