中華民国降伏文書調印式
1939年10月10日。中華民国上海で、中華民国降伏文書調印式が開催された。大日本帝国は松岡洋右外務大臣が政府代表として出席し、中華地域連合軍総司令部総司令官小磯国昭大将が軍代表として出席していた。事実上中華民国全域の占領統治は始まっており占領行政を担当する、『中華地域連合軍総司令部』が現状では中華民国を運営していた。総司令官の小磯国昭大将は旧南中派遣軍司令官であり、中華地域での占領行政は南中派遣軍を投入して行われていた。北中派遣軍と上海派遣軍は大日本帝国本土に帰還しており、ロシア戦線とオスマン戦線への転用の為に部隊再編成を行っていた。
降伏文書調印式には連合国からは更に大英帝国・ロシア帝国・オスマン帝国・オーストラリア・ニュージーランド・オランダ領東インド・タイ王国・フィリピン共和国も駐日大使が、それぞれの国を代表して出席した。そして中華民国からは蒋介石首席が政府代表として出席し、陸軍参謀総長が軍代表として出席した。降伏文書調印式は参加国代表が降伏文書に調印し、特に問題なく終了した。
その直後に中華地域連合軍総司令部総司令官の小磯国昭大将は『連合軍総司令部命令第1号』を発令した。それは『中華民国政府の解散』『中華民国軍の一時的解散』『地方軍閥の解体』『中華民国の全工業生産の停止』であった。これは既に中華地域連合軍総司令部により実行されており現在進行形で遂行途中だったが、降伏文書調印により正式命令として発令されたのである。
これにより中華民国の独立は停止、事実上剥奪した上での長期間の軍政が行われる事になった。統治には中央からの強い命令と、それを物理的に可能とする軍事力による抑止が必要と判断されたからであるが、中華民国の占領統治は長期間に及ぶと皇軍統合作戦司令本部は判断していた。
中華民国での各民族毎に分割し、同時に解散された中央政府は大日本帝国の指導で民主的政府の再構築を目指すこととされた。大日本帝国は中華民国全土の併合は大き過ぎると考え沿岸部の併合のみとし、他は民族毎に分離独立させ中華地域が二度と一つに纏まらないようにする算段だった。
その為に軍隊は一時的に解散し独立させた各民族国家でそれぞれ教育を行い軍隊を再編成、政府も各民族国家でそれぞれ行政運営可能な状態に再編成するという、非常に手間暇がかかる占領統治となるものだった。
しかし大日本帝国にとっては中華地域は満州府や遼東県・山東県・台湾府・海南道が隣接しており、地域の安定は必要不可欠であり占領統治による経費が多少多くなっても、実行しなければならないものだったのである。




