再編成
1939年8月28日、大日本帝国は対策会議や検討会議を受けて大規模な軍事力の再編成を開始していた。皇軍統合作戦司令本部からはまずクレタ県の地中海統合軍に対して、海軍地中海艦隊の引き上げが命令された。地中海統合軍総司令官堀悌吉大将は驚きながらも、第二神聖ローマ帝国海軍とアメリカ合衆国海軍の動きが説明された事から命令の理由に納得した。これにより地中海艦隊は大日本帝国本土に向けて出撃したのである。
海軍はこれで到着を待つだけになったが、陸軍と空軍はそう簡単にはいかなかった。何せ陸軍は『ロシア派遣軍』と『オスマン派遣軍』という中華民国侵攻時よりも、更に大規模な兵力を派遣する事になっていたのだ。
皇軍統合作戦司令本部が調整中のロシア派遣軍とオスマン派遣軍は、各60個師団という大日本帝国陸軍最大規模の派遣軍になる予定だった。大日本帝国陸軍は、全世界の戦域(ロシア・オスマン・太平洋)に対して『90個師団展開』という計画を立案した。それは機械化歩兵・機甲・空挺の3種類の師団による混成編成によるものだった。
その90個師団をロシア・オスマン・太平洋の3戦域に、つまりは合計で270個師団を戦力とする内容だったのである。だが90個師団全てが投入されるのでは無く、前述の通り60個師団を派遣軍として残り30個師団は予備兵力となる。
そして各戦域に投入される60個師団の内訳は次の通りになる。まずは機械化歩兵師団が42個となり戦線の維持と占領の主力を担う。機甲師団は15個であり、戦車を主力とした突破・機動部隊であった。そして空挺師団が3個となり合計60個となるのである。
90個師団というのは皇軍統合作戦司令本部が下した、戦略的判断によるものだった。この90個師団という数は、ロシア帝国や第二神聖ローマ帝国が投入している師団数に比べると、あえて数を少なく絞り込んでいた。これには理由があった。まずは『質』と『兵站』の重視だった。
師団数を増やすよりも、そもそもの1個師団あたりの火力(大砲や車両)と補給を世界最強レベルにすることを選んだのである。更には戦争である為に空軍と海軍への配分も必要であり、莫大な資源を航空機や艦船の製造に割く事になり、地上軍の規模を意図的に抑制したのだ。
数字だけ見ると大日本帝国陸軍の60個師団は少なく感じるかもしれないが、その60個師団全てが完全装備であり、かつ圧倒的な航空支援と補給を受ける事になり、実質的な戦闘力は数字以上のものとなると推定された。
何せ第二神聖ローマ帝国は補給兵站線が伸びきっており、補給そのものが負担になっていたのだ。それに対して大日本帝国陸軍は、大規模な軍事援助をロシア帝国とオスマン帝国に行いながらも更に、自らも大軍を派遣して維持する事が可能だったのだ。
正面戦力だけでなく、後方支援能力の差が大きく表れようとしていた。




