最終話 地元を捨てた二人
大阪・梅田。
朝の街には、まだ少しだけ眠気が残っていた。
けれど。
「パティスリー・シエル」の店内には、甘い香りが広がっている。
「しげる、これどう?」
「ええんちゃう?」
「本当に?」
「うん。めっちゃ綺麗や」
エレーヌがショーケースの中を覗き込む。
日本に来てから、もう何年も経った。
最初は言葉に苦労していた彼女も、今では大阪の街を一人で歩ける。
そして。
俺の隣にいることが、当たり前になった。
「今日、予約いっぱい?」
「うん。ほとんど売れると思う」
「すごいね」
「エレーヌが手伝ってくれたからや」
「私は何もしてないよ」
「してるって」
エレーヌが笑う。
その笑顔を見るたび。
俺は思う。
――俺は、幸せなんやな。
十八歳の頃。
俺は、未来なんて見えなかった。
好きだった女の子に嫌われ。
友達にも嫌われ。
故郷に居場所がなくなった。
だから逃げた。
東京へ。
そしてフランスへ。
気づけば。
俺は大阪で店を持っていた。
人生なんて。
何が起こるか分からない。
「しげる」
「ん?」
エレーヌが俺の手を握った。
「これからも、一緒にいようね」
「当たり前やろ」
俺も握り返した。
「俺はもう、どこにも行かへん」
エレーヌが笑った。
「約束?」
「約束や」
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数か月後。
小さな結婚式を挙げた。
フランスから来たエレーヌの家族。
日本で知り合った仲間たち。
店を応援してくれた人たち。
みんなが祝ってくれた。
俺は白いスーツを着たエレーヌを見ながら思った。
綺麗だ。
初めて会ったときから。
ずっと。
俺の人生を照らしてくれた女性だった。
「しげる」
「ん?」
「泣いてる?」
「泣いてへん」
「泣いてるよ」
「これは汗や」
「結婚式で?」
「……うるさいわ」
エレーヌが笑った。
俺も笑った。
そして。
俺たちは夫婦になった。
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一方。
大阪のある病院。
「ありがとうございました」
みさきは患者に頭を下げた。
新しい職場。
新しい生活。
新しい人間関係。
最初は不安だった。
でも。
思っていたより、悪くなかった。
佐渡を離れてから。
少しずつ。
昔のことを考える時間が減っていった。
しげるのことも。
あの頃の自分のことも。
全部。
過去になっていった。
そんなある日。
仕事帰り。
みさきは病院の入口で、一人の男性とぶつかった。
「あっ、すみません」
「いえ、こちらこそ」
男性は、落とした書類を拾った。
「大丈夫ですか?」
「はい」
「よかった」
男性は笑った。
名前は翔太。
三十一歳。
大阪生まれ。
医療関係の仕事をしているらしい。
特別、目立つ男性ではなかった。
でも。
話していると不思議と落ち着いた。
「大阪、長いんですか?」
「まだ、そんなに」
「そうなんですね」
「佐渡から来たんです」
「佐渡?」
翔太は少し驚いた。
「遠いところから来ましたね」
「はい」
みさきは笑った。
「……いろいろあって」
翔太は、それ以上聞かなかった。
「そうなんですね」
ただ、それだけ。
そのことが。
みさきには嬉しかった。
過去を根掘り葉掘り聞かない。
決めつけない。
自分の知らないことを、勝手に想像しない。
そんな人だった。
「よかったら、今度ご飯でもどうですか?」
翔太が言った。
みさきは少し驚いた。
そして。
「……はい」
小さく笑った。
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数週間後。
梅田。
みさきは翔太と歩いていた。
「ここ、ケーキ屋さん?」
翔太がショーケースを見る。
「人気のお店みたい」
「へえ」
みさきが何気なく店内を見る。
そして。
足が止まった。
「……」
そこに。
しげるがいた。
白いシャツを着て。
エレーヌと並んで。
楽しそうに笑っている。
エレーヌが何かを言う。
しげるが笑う。
二人の間にある空気は。
とても穏やかだった。
みさきは。
しばらく、その姿を見つめた。
胸が。
少しだけ痛んだ。
でも。
もう。
昔のような痛みではなかった。
「あの店、気になる?」
翔太が聞いた。
「ううん」
みさきは首を振った。
そして。
笑った。
「……素敵なお店だね」
「入ってみる?」
「ううん。今日はいい」
「そっか」
みさきはもう一度だけ。
店の中を見た。
しげるは。
こちらを見ていなかった。
それでいい。
そのほうがいい。
みさきは小さく呟いた。
「幸せになってね」
翔太には聞こえないほどの声だった。
そして。
歩き出した。
しげるは振り返らなかった。
みさきも。
振り返らなかった。
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夕方。
店を閉めたあと。
俺はエレーヌと二人で店の外に出た。
梅田の空を見上げる。
高いビルの隙間から。
夕焼けが見えた。
「綺麗だね」
エレーヌが言った。
「うん」
俺は空を見る。
昔。
俺は故郷から逃げた。
あの島にあるすべてが嫌だった。
思い出したくなかった。
みさきのことさえ。
憎もうとした。
でも。
今なら分かる。
あの初恋が。
間違いだったわけじゃない。
俺は本当に。
みさきが好きだった。
みさきも。
あの頃は俺を好きだった。
ただ。
俺たちは傷つきすぎた。
嘘に巻き込まれて。
周りに振り回されて。
時間を失った。
そして。
十二年という時間は。
俺たちを別々の人間に変えた。
だから。
もう戻らない。
戻る必要もない。
「しげる?」
「ん?」
「どうしたの?」
「なんでもない」
俺は笑った。
そして。
エレーヌの手を握った。
「帰ろか」
「うん」
俺たちは歩き出した。
梅田の人混みの中へ。
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故郷を捨てた男と。
故郷を捨てた女。
二人が選んだ未来は。
同じ場所ではなかった。
それでも。
あの日の初恋が。
間違いだったわけじゃない。
ただ。
人生には――
終わった恋の先にも。
幸せが待っている。
俺は。
俺の人生を生きる。
みさきも。
みさきの人生を生きる。
もう。
誰かに決められた人生じゃない。
誰かの嘘に縛られた人生でもない。
自分で選んだ未来を。
自分の足で歩いていく。
それが。
俺たちが十二年かけて。
ようやく見つけた答えだった。




