おまけ 英姫から見た橘華
おまけ 英姫から見た橘華
――私は、あの人を最初から患者だと思っていた
平英姫が初めて橘華を見た時、その少年が自分の人生を大きく変える人間になるとは、もちろん考えていなかった。
そもそも第一印象は、決して良いものではなかった。
高野山から都へ向かう途中で刺客に襲われた太政大臣の一子がいるという噂は、英姫の耳にも入っていた。橘華、十四歳。太政大臣・橘秀逸のただ一人の子として育てられ、長く高野山に預けられていた少年。英才の誉れが高く、説庵大僧正から直々に学んだとも聞いていたが、英姫はそうした噂をあまり信用していなかった。
貴族の家に生まれれば、多少字が読めるだけで神童と呼ばれることもあるし、容姿が整っていれば、それだけで才能まで優れているように語られることも珍しくない。
ましてや太政大臣の子である。
周囲が持ち上げているだけだろう。
英姫は、その程度に考えていた。
だから、隣村から息を切らせてやってきた少年が、自分の目の前で左腕の傷を見せた時も、最初に思ったのはただ一つだった。
――この子、自分の怪我を軽く見すぎている。
傷そのものは深くない。
しかし、処置が雑だった。
水で洗っただけ。
布を巻いただけ。
高熱はないものの、わずかに腫れている。
英姫は傷を見るなり言った。
「化膿しかけています」
すると華は、自分の腕を見ながら平然と答えた。
「これ?」
その反応を見た時、英姫は心の中でため息をついた。
この少年は、頭が良いと聞いていた。
だが。
自分の身体については馬鹿なのかもしれない。
そう思った。
◇
ところが。
傷を洗うための水について話した時だった。
英姫が、
「煮沸した水を使います」
と言うと。
少年の顔が変わった。
本当に。
一瞬だけ。
だが、英姫には分かった。
驚いたのではない。
知っている人間の反応だった。
「今、何て言った?」
華が聞いた。
「水を一度煮立たせてから冷ましたものです」
「どうして?」
試されている。
英姫にはすぐに分かった。
ただ質問しているのではない。
こちらが、どこまで知っているかを見ている。
「傷が腐りにくくなるからです」
「なぜ?」
そこまで聞かれた瞬間。
英姫は警戒した。
この時代、傷を清潔に保つことそのものは珍しい知識ではない。酒を使う医者もいるし、煮た水を使う者も一部にはいる。
だが。
その理由を。
なぜ。
と問う十四歳は。
普通ではない。
英姫は華を見る。
整った顔。
まだ少年。
なのに。
目だけが妙に大人びている。
「質問の多い方ですね」
そう返すと。
華は少しだけ笑った。
「よく言われる」
その時点では。
英姫はまだ。
この少年が。
自分と同じように。
別の時代の記憶を内側に持つ存在だとは知らなかった。
◇
橘華という少年は、近くにいると非常に疲れる人間だった。
まず。
人を見る。
普通の人間が気にも留めないところを見る。
すみれが薬草の位置を覚えている。
薬箱の中身を言われる前に出す。
歩き方に無駄がない。
手の置き方が武術を知る者のそれである。
そんなことまで、華は平然と見つけた。
「すみれさんのお父さんが先生の師匠?」
そう聞かれた時。
英姫は本気で驚いた。
「すみれから聞きましたか」
「聞いてない」
「ではなぜ」
「すみれさんの薬の扱いが慣れてるから」
簡単に。
華はそう答えた。
だが。
普通は。
そこまで考えない。
見ても。
流す。
華は。
流さない。
見つける。
考える。
結びつける。
そして。
聞く。
非常に。
面倒だった。
けれど。
その面倒さが。
英姫には少しだけ。
懐かしかった。
自分も。
幼い頃から。
似たようなことをしていたからだ。
◇
華に正体を知られた時。
英姫は。
かなり困った。
刺客の一人が。
戦いの最中。
「英姫を確保しろ」
と叫んだ。
あの瞬間。
英姫は。
心の中で。
完全に頭を抱えた。
よりによって。
本人の前で。
何を言っているのか。
戦いが終わったあと。
当然。
華は聞いてきた。
「先生が関白の娘?」
英姫は答えなかった。
だが。
華は。
もう分かっている。
「何で関白の娘が、そばかす付けて町医者やってるの?」
その言葉を聞いた瞬間。
英姫は少し腹が立った。
「付けているとは言っておりません」
華の顔が。
完全に止まった。
「本物?」
横で。
すみれが。
笑いを堪えている。
英姫は思った。
この少年。
本当に。
余計なことばかり言う。
けれど。
妙なことに。
嫌ではなかった。
◇
華は、女性に対して驚くほど無自覚だった。
英姫が最初にそれを確信したのは、年齢の話をされた時である。
「先生だって十九くらいに見えないけど」
華は何の悪気もなく言った。
悪意はない。
本当にない。
だから。
余計に困る。
「女性に年齢の話をするものではありません」
そう注意すると。
華は本当に分からない顔をした。
その顔を見た時。
英姫は確信した。
この人。
女性関係では。
将来。
必ず。
問題を起こす。
それも。
本人に悪気がないまま。
すみれも。
同じことを思ったらしい。
「そのまま都へ入られますと、女性関係で刺客より危険な目に遭うかもしれません」
そう言われた華は。
真顔で。
「都の女性って人を殺すの?」
と答えた。
英姫は。
額を押さえた。
駄目だ。
これは。
本当に。
駄目だ。
◇
それでも。
華を見る目が少しずつ変わったのは。
彼が。
自分と同じものを持っていると知った頃からだった。
古寺で。
華は突然。
聞いてきた。
「先生、夢見る?」
「夢?」
「知らない場所」
華は。
見たこともない建物。
妙に明るい部屋。
白い服を着た人々。
そんなことを口にした。
そして。
「手術室」
その言葉を聞いた瞬間。
英姫は。
呼吸を忘れた。
知っている。
その場所を。
見たことがある。
いや。
正確には。
自分が見たのではない。
自分の中にいる。
知らない誰かが。
見ていた。
場所。
華も。
知っている。
その事実は。
英姫にとって。
恐怖でもあった。
自分だけではない。
安堵でもあった。
そして。
何より。
この少年も。
自分と同じように。
「自分は誰なのか」
という問いを抱えている。
そう気づいた。
◇
華が母・優希の研究室を見つけ。
自分がH-01であることを知り。
英姫自身がE-01として作られた存在であることを知った後。
二人の間には。
説明しにくい距離が生まれた。
華は。
英姫を実験体として扱わなかった。
それどころか。
九条雅継が英姫を。
「第一世代は不完全だった」
と言った時。
華は。
明らかに怒った。
「先生は不完全じゃない」
英姫は。
その言葉を。
忘れなかった。
華にとっては。
その場で思ったことを口にしただけだったのだろう。
でも。
英姫には。
重かった。
自分には。
前世と呼ぶべきではない。
誰かの記憶がある。
外科医。
知らない人。
その技術。
その知識。
その感覚。
自分は。
平英姫なのか。
その外科医の続きなのか。
優希が作った実験体なのか。
ずっと。
答えがなかった。
けれど。
華は。
簡単に言った。
先生は不完全じゃない。
それだけ。
だった。
◇
華が刺された時。
英姫の中で。
何かが。
壊れた。
平岳が。
自分の目の前で倒れ。
父の手が。
最後に落ちた。
悲しむ時間さえなかった。
その直後。
平司の刀が。
華の胸へ入った。
血。
大量。
倒れる華。
あの瞬間。
英姫は。
何も考えていなかった。
いや。
考えた。
一つだけ。
死なせない。
それだけだった。
父を救えなかった。
なら。
華まで。
死なせない。
胸を開く。
血管を探す。
縫う。
止める。
前世の外科医。
いや。
自分の中に残された。
誰かの技能。
それを全部。
使う。
すみれが。
隣で補助する。
華の脈が。
弱くなる。
止まりそうになる。
「華様」
英姫は。
何度。
呼んだか分からない。
本人には。
聞こえていない。
それでも。
呼んだ。
そして。
その時。
英姫は。
初めて。
理解した。
自分が。
この少年を。
患者としてだけ。
見ていたわけではない。
ということを。
◇
華が目を覚ました時。
英姫は。
泣いた。
本当に。
みっともないほど。
泣いた。
すると。
死にかけたばかりの華が。
自分の顔を見て。
言った。
「先生」
「何です」
「綺麗だね」
英姫は。
完全に。
言葉を失った。
華は。
続ける。
「そばかす、なかった」
英姫は。
心の底から思った。
――今、それを言いますか。
でも。
胸の奥。
少し。
嬉しかった。
それが。
また。
腹立たしかった。
◇
二年後。
華が十六歳になった頃。
英姫は。
もう。
自分の気持ちを。
かなり理解していた。
華は。
理解していなかった。
全く。
驚くほど。
華は。
自然に。
人へ優しい。
でも。
自覚がない。
怪我人がいれば止まる。
子供が泣いていれば近づく。
英姫が疲れていれば、何も言わず薬箱を持つ。
そのくせ。
本人は。
何もしていない顔をする。
そして。
突然。
女性が誤解するような言葉を言う。
「先生なら安心する」
「先生と話してると楽しい」
「先生がいると助かる」
全部。
本人に。
特別な意味はない。
少なくとも。
本人は。
そう思っている。
英姫には。
非常に。
困る。
◇
だから。
華から求婚された日。
英姫は。
驚かなかった。
いや。
少しは。
驚いた。
でも。
内容は。
予想通り。
酷かった。
「結婚する?」
あまりにも。
突然。
「理由は」
そう聞くと。
華は。
本気で。
考えた。
そして。
「一緒にいると楽」
と言った。
英姫は。
思った。
やはり。
この人は。
女心が分からない。
「先生なら俺が変なことしても止めるし、怪我したら治すし、話してて楽しい」
求婚というより。
生活上。
非常に便利。
と言われているようなものだった。
だから。
英姫は言った。
「女性への求婚として、最低に近いです」
華は。
本気で。
驚いた。
「何で!」
それを見て。
英姫は。
笑いそうになった。
でも。
続けた。
「ですが」
華が。
こちらを見る。
あの。
何でも見抜きそうな目。
なのに。
女心だけは。
全く読めない。
目。
英姫は。
その目を。
見ながら。
答えた。
「お受けします」
華は。
また。
驚いた。
「本当に?」
「はい」
そして。
最悪なことに。
「何で?」
と聞いた。
英姫は。
心の中で。
完全に諦めた。
◇
後年。
華は。
時々。
人から聞かれた。
「英姫様のどこに惹かれたのですか」
そのたび。
華は。
非常に。
困った顔をした。
一方。
英姫は。
同じ質問をされた時。
少しだけ。
考える。
華の。
何が。
好きだったのか。
頭がいいところ。
違う。
顔。
それだけではない。
強いところ。
違う。
優しいところ。
それも。
一部。
多分。
英姫が。
最初に惹かれたのは。
華が。
自分を。
「平英姫」
でも。
「E-01」
でもなく。
ずっと。
「先生」
と呼んだことだった。
町医者でも。
関白の娘でも。
実験体でも。
外科医の記憶を持つ存在でもない。
ただ。
目の前で。
人を治そうとしている。
自分。
それを。
華は。
最初から。
見ていた。
だから。
英姫にとって。
橘華は。
最初から。
少し。
特別だった。
ただし。
本人には。
絶対に。
言わない。
言えば。
多分。
華は。
真顔で。
「いつから?」
と聞く。
そして。
英姫が。
さらに答えれば。
「何で?」
と聞く。
きっと。
最後まで。
分からない。
それでいい。
英姫は。
そう思っている。
華は。
未来の知識を持ち。
国を変え。
戦争を止め。
六国の歴史を動かす。
でも。
英姫から見れば。
ずっと。
同じ。
怪我をしても。
大丈夫と言い。
危険な場所へ。
自分から入っていき。
人の秘密には。
すぐ気づくのに。
自分へ向けられた好意だけは。
全く気づかない。
面倒で。
危なっかしく。
放っておけない。
一人の患者。
そして。
英姫が。
生涯をかけて。
隣で見ていたいと思った。
一人の男。
それが。
英姫から見た。
橘華だった。




