【第八十七話】渓谷の深淵にて
白く霞む空の下、〈灰の渓谷〉はまるで巨大な獣の口のように、深く切り立った岩壁を両脇に抱え、その中へと誘っていた。
「この先が……目的地、ですよね」
リクが静かに口にすると、ゼルドが大きく頷いた。彼の背には分厚い調査用の鞄。肩越しに見えるその姿には、旅の疲労を一切感じさせない豪快さがあった。
「そうだ。〈灰の渓谷〉――こいつが何百年も前から“越えられぬ場所”とされてきた理由は、中に入ればすぐわかる。お前の解析スキル、頼りにしてるぜ」
「……はい、僕も、全力を尽くします」
リクは静かに目を伏せ、軽く拳を握った。
調査団の先遣斥候たちはすでに一日以上前に先行し、渓谷内部の踏査にあたっていた。リクたちはゼルド率いる本隊とともに、慎重にその後を追う形だ。
入り口からしばらく進むと、空気がまるで別物のように変わっていった。
足元の土は常に灰を含んだようにざらつき、風が一切吹かぬのに、衣服がかすかに震える。重力の異常か、空間の歪みか――。
「……また“揺らいで”ます。空間が」
リクは目を細め、右手をかざす。すると彼の瞳の奥に宿る光が脈動し、灰色の世界に幾重ものラインが浮かび上がった。点と点をつなぐような、見えない糸。
〈解析〉――それは単なる情報収集ではない。物理法則や魔力の流れ、そして“世界に刻まれた真理”にまで触れようとする干渉。
だが、ここに至って、その力が新たな相貌を見せようとしていた。
「ミナ、メイ、ここ……少し下がっていてください」
「わかった。リク、無理しないでね?」
「うん。大丈夫だから」
言いながら、リクは深く息を吸った。指先から光が弾ける。彼の脳裏に、かつて〈扉〉の前で浮かび上がった言葉がよみがえる。
――資格を持つ者よ、選べ。
リクはまだその「意味」を全て理解したわけではない。ただ、その選択が、今まさに新たな回路を開こうとしていることだけは確信していた。
「……射出、構築魔術……始動」
静かな呟きとともに、リクの前方に淡い魔法陣が浮かび上がる。それはただの攻撃魔術ではなかった。
光は鋭く、けれど柔らかく空間を撫で、前方の岩壁をなぞる。すると、それまでびくともしなかった灰の壁が――
「……溶けた……?」
ミナの声に、全員が息を呑んだ。
それは崩壊でも砕破でもなかった。まるで最初から存在していなかったかのように、壁の一部が音もなく“消えた”。
「情報の再構成……? いや、これは……」
リクは言葉を途中で切った。わからなかったのではない。ただ、今ここで断言してしまうには、まだ早すぎる。
魔術とは異なる、“情報の現実干渉”とも呼ぶべき力――。
それがリクの中で、確実に芽生えていた。
だが、変化はまだ始まったばかり。これが“チート”と呼ぶに足る力の前段階であることを、リク自身は薄々感じていた。
ゼルドが笑みを浮かべ、ぽんとリクの背を叩く。
「やるな、お前。すげぇの手に入れたんじゃねぇか?」
「……いえ、まだ始まりに過ぎません。けど、きっとこの先――“本当の答え”がある気がします」
リクの言葉に、ゼルドは「ほう」と唸り、前を指さす。
「なら、その先を見せてくれよ。俺たちも、まだまだ探すもんがあるからな」
そうして一行は、変貌した〈灰の渓谷〉のさらに奥へと足を踏み入れていく。
不気味な静寂の中で、どこかから微かな声がした気がした。
それが風の音か、それとも――




