【第七十二話】記録の中の少女
重力のない、白い深淵をゆっくりと漂いながら、リクの意識は沈んでいった。
周囲に空間の境界はなく、上下すらも定かでない。けれどその中心に、一つの“窓”が浮かんでいた。
揺らぐ光のように、それは静かに瞬いていた。
そして――その窓の向こうには、一人の少女がいた。
誰もいない研究施設の一室。冷たい無機質な空間に、少女――今よりも幼い姿の“メイ”がぽつんと立っていた。
(……これは、記憶?)
リクがそっと窓へと近づくと、まるでそれを感知したかのように空間がひらく。
次の瞬間、視界が反転し、彼は“その記憶の中”へと引き込まれた。
白衣を着た者たちの会話が飛び交っていた。
「感情反応、変化なし。……やはり、彼女の中枢は固定されているようだな」
「だが、それが“最適”なのか? 観測体であるならば、本来は――」
「必要ない。観測とは“動かないもの”によって成される。変わらないことが、この子の本質だ」
彼らの言葉は、まるで“人”に対するものではなかった。
対象を“機能”として扱う、無感情な断定。
リクはその様子を見ながら、強い違和感と怒りを感じていた。
そして、幼いメイは、ただ静かに、何の反応も示さず立っていた。
(本当に、何も……感じてないのか?)
その時、ふと――彼女がわずかに、拳を握るのが見えた。
誰も気づかないような、ほんの小さな変化。だが、リクの目にはそれが“抗い”の証に見えた。
場面が切り替わる。
今度は広い観測室。壁に並ぶ巨大な魔素モニタと、冷えきった照明。
中央の椅子に、少し成長したメイが座っていた。無表情のまま、無数の“世界の断片”を見つめていた。
崩壊する都市、倒れる獣人の兵士、荒れ果てた砂漠、海に沈む遺跡。
どれも、彼女が記録する“現象”だった。
その映像に、彼女は何の反応も見せなかった。
だが、ある場面でだけ、彼女は微かに眉を寄せた。
それは――ある少年が、仲間を庇って倒れる瞬間だった。
「記録者は、干渉してはならない」
監視官がそう告げ、映像は即座に切り替えられた。
メイは、そのとき、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
その視線に、リクは“揺らぎ”を見た。
(……本当は、見てる。感じてる)
メイは、記録する存在であろうとしながらも、ずっと揺らいでいた。
変わらないふりをして、“変わってしまう自分”を恐れていた。
――そして場面は、現在へと戻る。
闇の中にメイが立っていた。リクと同じ年頃の姿。だが、瞳の奥に宿る光は、記憶の中のそれとは違っていた。
「君は……もう、記録するだけの存在じゃない」
リクは静かに言った。
「君は、“感じていた”。――ずっと、誰にも気づかれないように」
メイは、小さく瞼を伏せた。
「……怖かった。変わってしまうこと。誰かを記録するだけじゃなく、誰かと“関わる”ことが」
「それでも、僕たちと歩いた。旅をして、話して、笑った。――それは、君の意志だ」
リクは、そっと手を差し出す。
「戻ろう、メイ。君は……君のままでいい」
メイの瞳が、揺れた。そして、わずかに――温度を帯びた光を宿す。
「……うん」
彼女がその手を取った瞬間、世界がふたたび揺れた。
魔素の海が引き、空間が光に包まれる。
彼らは、現実世界へと――戻る。




