第隠話 果たす必要のない悲願
丈一郎が教会に戻ったとき、そこは元の形の面影も残さないほど無残な有様だった。建物と呼べるものは存在せず、梶谷の実験体の死体が無数に転がって地面を埋め尽くし、死臭のたちこめる死体の山の中央に梶谷と綾女とガフタスの三人が膝を崩していた。
「これは……何があったのですか?」
「……国士武将隊の襲撃です。なんとか退けましたが……」
梶谷は息も切れ切れに報告した。
「どうやら、このどさくさに紛れてレオさんは脱走したようですねぇ。いやぁ、この有様といい、大失態ですねぇ。うふふ」
ジャックは仮面の顎を撫でながら言った。
丈一郎は無視して教会の残骸へと足を進める。瓦礫をどけ、埋もれていた地下への階段を発掘した。
地下の牢屋には、確かにレオの姿がなかった。縛り付けていた手枷が転がり、蛻の殻となっている。
「ね? いないでしょう? うふふ」
後をついてきたジャックが愉快そうに言った。
しかし、丈一郎の目当てはそれではない。そもそもレオが脱走したのは丈一郎の仕業なのだから、むしろ予定通りの出来事だった。
丈一郎はレオを監禁していた隣の牢屋を開けた。その牢の中にあった布を被せた荷物に手をかけ、布を取っ払う。隠してあったそれは、人肉の山だった。
「おや? いつの間にそんなものを……」
「激しい戦闘になることが予想されていましたから。念のためにね」
「ふぅん……」
訝しむような息を漏らすジャックを置いて、丈一郎は人肉にかぶりついた。調理もせずに肉にありつくのは久しぶりのことだったが、血が枯渇した今ではどんな豪勢な料理よりも美味に感じ、濃厚な肉の味に舌鼓を打って堪能した。
拳大の肉のブロックを食べ終えた頃には、丈一郎の失った右腕が元通りに再生されていた。
丈一郎を呪った餓鬼――『蒼鬼』は、人魚を食べて進化を遂げた餓鬼とされている。人魚の肉には不老不死の力があるとされており、蒼鬼もまた、緋鬼に及ばないまでも脅威的な再生力を持つ餓鬼だった。そのため、丈一郎も肉を食べれば腕を生やせるくらいの治癒力を持っている。
その後も飲むように肉を食し、あっという間に人間一人分程度の肉を平らげた。全盛期とまではいかないものの、体には十分に血が満たされた。
「お待たせしました。さて、戻って状況の整理といきましょうか」
笑みを貼り付ける丈一郎に対し、ジャックは「うふふ」とだけ笑って踵を返し、階段を上っていった。
丈一郎はジャックの後ろをついて階段を上る。二人の足音だけが石造りの通路に響いていく。
その道中。
「――ところで丈一郎さん」
ジャックは振り返り様に刀を振り抜き、丈一郎へと刃を突き立てた。しかしそれを丈一郎は氷の刀によって受け止める。
「そのただならぬ殺気は何でしょうか? うふふ」
やはりこの男が苦手だと丈一郎は思った。まるで心の中を読まれているようだ。あるいは――喜びのあまり、それほど気持ちが露呈してしまっていたのか。
丈一郎もまた、何も答えず笑みを零す。背後からごうごうと唸りを上げる何かがせり上がってきていた。丈一郎の召喚した水だ。
「うーん、ここではあまりに分が悪いですねぇ」
濁流は丈一郎諸共飲み込むものの、術者である丈一郎がそれに流されることはなく、ジャックだけが否応なしに水に連れ去られていく。
出入り口から地上に吐き出された水は龍のように天に昇り、やがて頭から凍結していった。
丈一郎が地上に出た頃、しかしその氷塊の中にジャックの姿はなく、彼は梶谷たちの前に立っていた。
「丈一郎様……? 何を……」
「謀反です。彼は我々を裏切りました。というより、元から私たちのことを仲間だなんて思ってなかったのでしょうけどねぇ。うふふ」
「ジャックさん……? 何を言っているのですか。丈一郎様がそんなことをするはずが――」
戸惑いを見せる梶谷へと鋭い矛を持つ無数の氷撃を放つ。しかしそれらは全てジャックの振るう二刀流の刃により打ち砕かれた。
「そんな……丈一郎様! どうして!」
「丈一郎、てめぇ梶谷様に何しやがる!」
吠える梶谷と綾女を水で包もうとした。が、二人は唐突に姿を消す。見れば、少し離れた場所でガフタスを交えて集結していた。ジャックの瞬間移動の鬼の力だ。ジャックは綾女と同じ力を持っている。綾女は既に血を消耗し過ぎて鬼の力を使えないのだろう。代わりにジャックが全員を纏めて移動させたようだ。瞬間移動の鬼の力は対象に触れてさえいれば一緒に移動できる。
「うふふふ。やっと本性を見せてくれて嬉しいですよ、丈一郎さん。ああ、早く殺り合いたい……! ですが、今ここで大事な戦力を失うわけにはいきません。とても惜しいですが、ここは撤退させて頂きましょう。必ずまた会いに行きますよ、丈一郎さん」
そう言い残して、四人は瞬きの間で姿を消した。
「……ふふふ。はははは!」
丈一郎は笑いを堪えられなかった。瓦礫と死体の山の中で高笑いするその姿は狂気以外の何者でもない。それでも構わず丈一郎は笑った。
本当は不意打ちにより一人でも始末し、餓鬼教に損害を与えてから足を洗いたかった。ジャックの鋭すぎる感性によりそれは阻止されてしまったが……しかしそんな失敗すらもどうでもよく思えた。
二百年に渡る悲願が悲願ではなくなった。緋鬼への復讐を果たす理由がなくなった。
だって兄様は生きているのだから――
体が打ち震えるほどの喜び。これ以上の喜びはこの世に存在しない。
「ああ、今会いに来ます、兄様――」
第三章 紅い糸 完
ここまでお読み頂きありがとうございます。
第四章はまた気が向いたら書き始めようと思います。