休日報告書②
里に流れる川の、少し上流。
木々のざわめきと、清らかな水音だけが響く静かで長閑な岩場に、わたくしたち三人は並んで座っておりました。
わたくしは2人に勧められいつもの執事服ではなく一般的な若者の服装に着替えていました。タイガさんのお古だそうですが、ところどころ修繕の跡がありました。ゴズさんが直してくれたとのことで、お2人の仲の良さには感服いたしました。
わたくしを真ん中にして、ゴズさんとタイガさんが両脇から長い釣り竿を差し出してくださいます。
「ええか、ユウ。釣りってのはな、気合いや! こうやって手首のスナップをきかせて、ポイッと投げるんや。ほんで、浮きがピクッて動いたら、シュッと引く! わかったか?」
ゴズさんは身振り手振りを交えて熱弁を振るいますが、いささか擬音が多くて要領を得ません。すると、すかさずタイガさんが苦笑しながら補足してくれました。
「ゴズの説明じゃユウが困ってるじゃねぇか。ユウ、浮きを見るのも大事だけど、糸がピンと張る感覚を指先で覚えるんだ。魚が食いついたら、慌てずに一呼吸置いてから、手首を返すように竿を立てる。焦らなくていいからな」
粗削りながらも感覚的で明るいゴズさんと、冷静に物事を観察して具体的な助言をくれるタイガさん。お二人の見事な連携に、わたくしは思わず口元をほころばせました。
「ありがとうございます、ゴズさん、タイガさん。では、やってみます」
見よう見まねで糸を垂らし、水面を見つめます。
しばらくすると、まずはゴズさんの竿が大きくしなり、水飛沫と共に銀色に光る立派な魚が釣り上がりました。
「よっしゃ! まずは一匹や! 見たかユウ、これがオレの腕前やで!」
続いて、タイガさんの竿にも強い引きがあり、ゴズさんよりもさらに大きな魚が力強く跳ね上がりました。
「へへっ、俺の方でけぇな。ゴズ、負けてるぜ」
「なんやと! 次はもっとデカいの釣ったるわ!」
無邪気に張り合うお二人の姿を微笑ましく眺めていると、ふいに、わたくしの手にある竿にも、ブルブルッとした微かな振動が伝わってまいりました。
「おっ、ユウ! 来たで! 引け、引くんや!」
「落ち着けユウ! しっかり竿を立てろ!」
お二人が自分のことのように身を乗り出して声を上げてくださいます。その声援に急かされ、わたくしは心臓を高鳴らせながら慌てて竿を引きました。
しかし、力が入りすぎたのか、魚は水面でバシャリと大きく跳ね、プツンという軽い感触と共に、糸から逃れて川の底へと消えてしまいました。
「あぁ……逃げられてしまいました。せっかく教えていただいたのに、申し訳ありません……」
わたくしが情けなさに肩を落とすと、ゴズさんが笑ってわたくしの背中をバンッと叩きました。
「アホか、何謝っとんねん! 最初はそんなもんや! オレかて最初はそんなんやったわ!」
「そうそう。逃がした魚はデカかったってな。今日は時間はたっぷりあるんだ、何回でもやり直せばいいさ。次、次!」
タイガさんもそう言って、わたくしの釣り糸に新しい餌を器用に付け直してくれました。
お二人の屈託のない優しさに、張り詰めていたわたくしの心が、少しずつ解れていくのを感じました。
それからしばらく、鳥の囀りと川のせせらぎだけが聞こえる静かな時間の中で、再びわたくしの竿に確かな重みが乗りました。
(今度は、焦らずに……)
先ほどのタイガさんの教えを思い出し、糸の張りを保ちながら、魚の引く力に逆らわず、しかし確実に引き寄せていきます。
「おおっ、いいぞユウ! その調子や!」
「よし、そこで一気に引き上げろ!」
お二人の声と同時に、わたくしは思い切り竿を立てました。
水飛沫と共に、陽光を反射してキラキラと輝く、まずまずの大きさの美しい川魚が宙を舞い、わたくしたちの足元で跳ねました。
「おおーっ! やったやんけ、ユウ! なかなかの大きさやで!」
「すごいぞ、ユウ! 初めてにしては上出来だ!」
ゴズさんとタイガさんは立ち上がり、自分のことのように大喜びしてわたくしの両肩を揺さぶり、頭をぐしゃぐしゃと撫でてきました。普段なら「髪が乱れますので」とたしなめるところですが、この時ばかりは、そんな些細なことはどうでも良くなっていました。
「……ありがとうございます、ゴズさん、タイガさん!」
気づけば、わたくしは執事としての端正な笑みではなく、満面の、心からの笑みを浮かべておりました。
釣りの成果は上々で、桶の中には三人で釣り上げた魚が元気に跳ねています。
「よし! 腹も減ってきたし、この魚は後で焼くとして、市場に美味いもん食いに行くで!」
「だな! 先生からもらった小遣いもあるしな。行こうぜ、ユウ!」
お二人に両側から背中を押されながら、わたくしは足取り軽く、市場へと向かって歩き出しました。
それは、わたくしのこれまでの人生において、初めて味わう「友と過ごす休日」の、温かな幕開けでございました。
釣った魚を、最近ゴズさんたちが懇意にしているという蛇獣人の漁師の方に一時的に預かっていただき、わたくしたちは里の市場へと向かいました。
昼時の市場は、色とりどりの天幕が張られ、活気ある声と美味しそうな匂いが入り混じり、大変な賑わいを見せておりました。
わたくしがいつもこの場所へ足を運ぶのは、ニキ様のお食事のための新鮮な食材や、診療所で使う布、薬学の知識に基づく日用品など、あくまで「仕事のための買い出し」の時のみでございます。
いざ「自分のために市場を楽しめ」と言われましても、どうしても頭の中で食材の相場や栄養価を計算してしまい、どこから手をつければ良いのか分からず立ち尽くしてしまいました。
そんなわたくしの背中を、ゴズさんがバンッと勢いよく叩いてニッと笑いました。
「任せとけって。こういう時はな、まずは小難しく考えんと、食べ歩きと相場が決まっとるんや!」
「だな! 先生からもらった小遣いもあるし、美味そうなもんは片っ端から食いまくろうぜ!」
お二人に両腕を引かれ、わたくしは半ば強引に屋台の波へと引き込まれました。
まず手渡されたのは、炭火で香ばしく焼き上げられた巨大な肉串でした。滴る脂と甘辛いタレの香りに誘われるまま一口齧ると、野性味あふれる肉の旨味が口いっぱいに広がります。続いて、鶏の出汁がしっかりと効いた熱々の麺、さらには口の中をさっぱりとさせる瑞々しく冷えた果物。
仕事の時には決して買い食いなどしないわたくしですが、お二人と肩を並べ、冗談を言い合いながら分け合って頬張る屋台の味は、格別なものでございました。
「ほら、タイガさん。口の端にタレがついておりますよ。じっとしていてください」
麺を啜っていたタイガさんの頬の汚れに気づき、わたくしは習慣から、ごく自然に懐から清潔な手巾を取り出して拭おうとしました。
しかし、タイガさんはわたくしの手を軽く手で制すると、ペロッとご自身で舌を出してタレを舐め取ってしまわれました。
「いいんだよ、そんなの。服が汚れたって洗えば済む話だ。……今日は『執事』はお休みだろ?」
タイガさんの優しく、そしてどこか悪戯っぽい笑顔。
わたくしは手巾を持ったまま少しだけ目を見張り、そして、深く安らかな笑みを浮かべてそれを懐へ戻しました。
「……そうでしたね。本日は、お休みでございました。お見苦しいところを失礼いたしました」
ふと、ゴズさんが市場の中心の喧騒から少し外れた、静かな路地裏にある一軒の店の前で足を止めました。
「ユウ。オレな、ユウをずっとここに連れてきたかったんや」
ゴズさんは、巨体を小さくするようにして少し照れくさそうに頭を掻きました。
見上げると、そこは異国の香辛料や、珍しい茶葉を取り扱う専門店のようでした。店先からすでに、鼻腔をくすぐる複雑で芳醇な香りが漂ってきます。
「最近、散歩してて偶然見つけたんやけどな。ユウは料理が好きそうやし、いっつもオレらに美味いもん作ってくれるから……いつか休みの日ができたら、絶対ユウをここに連れてきたると思うとったんや」
「本当だぜ。最近、ゴズの奴『ユウが好きそうな店があるんや!』って、毎日のようにこの店の話ばっかりしてて、俺はもうすっかり呆れてたんだからな」
タイガさんがニヤニヤとからかうように言うと、ゴズさんは「うるさいわ! ばらすなや!」と顔を真っ赤にしてタイガさんの肩を小突きました。
わたくしの胸の奥が、ひどく温かく、そしてくすぐったいような満ち足りた思いで一杯になりました。わたくしが不在の時でも、わたくしのことを考えてくださる友がいる。それがどれほど幸福なことか。
中に入ると、薄暗い店内の壁一面に、見たこともないほど色とりどりの香辛料や、様々な香りの茶葉が木箱に入って所狭しと並んでおりました。
「オレらは外で適当に時間潰しとるから、ゆっくり選んでこい。焦らんでええからな」
お二人は気を利かせて、店の外へ出て行ってくださいました。
最初は拝見するだけだったわたくしも、親切な店主の方に勧められるままに香りを確かめ、ほんの少し味見をさせていただいているうちに、すっかりその奥深い世界に引き込まれてしまいました。
(この鮮やかな赤のスパイスは、今日釣った白身魚の香草焼きのアクセントにぴったりだ……こちらの深く落ち着く香りの茶葉は、寝不足のニキ様のお疲れを癒すのにちょうど良いかもしれない……)
気がつけば、すっかり時間を忘れ、夢中になって香りを選び続けておりました。
「おーい、ユウ。そろそろいいか?」
ポン、と肩を叩かれ振り返ると、外で待っていてくださったタイガさんが微笑んで立っていました。
「申し訳ありません! わたくしとしたことが、つい長居をしてしまって……!」
慌てて謝罪するわたくしに、タイガさんは優しく首を振りました。
「謝ることなんてねぇよ。ユウが自分の好きなことに時間を使える場所が見つかって、本当によかった
な」
その言葉に、わたくしはハッといたしました。
主人のためでもなく、義務でもなく、自分が純粋に心惹かれるものに没頭し、時の流れを忘れる時間。
……これが、「休日の過ごし方」なのだと、わたくしは生まれて初めて実感したのです。




