覚醒
近くに寄ってから改めてトラウム城を見ると、崩れることなくまともに建っていることが不思議で仕方がなかった。
トラウム城は1階から最上階まで、各階すべてが前後左右ずれていて、もとの形を保ってはいない。
1階の半分は城を囲んでいる水堀の上に浮かんでいるし、2階から上はズレたことで部屋の内部を下からのぞくことができる。のぞくとそこには、奇妙なことに宙に浮かんだ家具一色と、椅子に座ってお茶をすする貴族の姿が見えた。
「どうなっているの、これ。宙に浮いているわよ」
「たぶん部屋と家具とNPCが一緒のデータとして扱われているんだろう。部屋ごとNPCも移動したんだろうな」
床は天井と一緒にでもなっているんだろう。
しかし宙に浮かぶこの光景は、街以上にシュールだった。現実に近いフォトリアルなモデルで作られた家具やNPCたちを見ていると、今にも地面に落下しそうに見えた。
「どうやって3階へ行く?」
アサノはぼくに言った。
「とりあえず、入り口から入るしかないだろうね」
ぼくはトラウム城の鎧扉を開けた。
ギイイと重々しく扉が開く。
2階の扉が見渡せる吹き抜けで天井の高い大広間が見えるはずだった。
しかし、
「あー……これはひどい。まるで迷路だわ」
アサノの顔色はますます疲労の色が濃くなってきた。
外観のずれから、内部の酷さはある程度想像していた。
しかしいざ見てみると、想像以上にその光景は凄惨だった。
その大広間には、宙に浮かぶ2階の部屋と住民であるNPCたちや、途中で綺麗に輪切りにされて中身のない断面を見せる数々の石柱や、壁へと繋がっている階段があった。
城の外観を見ている時とちがい、これにはめまいがした。
外は何だかんだでほとんどの建物が正気を保っているし、空は青々としていてバグを起こす前と何も変わってはいなかった。
しかしこの建物の中は、まともなものが1つとしてない。
「想像以上に酷いけれど、私は諦める気なんてないわよ」
「ぼくもないよ」
弱々しい返事だと、自分でも思った。
ぼくらは沈んだ気持ちのまま、城の1階の探索をした。
その間、リッカは間断なくぼくら2人にチャットを飛ばし続けていた。
リッカもまた1階へ降りるために悪戦苦闘しているようだった。
このゲームは基本、花や木といった小物は壊せるが、NPCがいる建物など大きなものを壊すことは一切できない。もっと細かく言えば、ゲームの世界観に影響を及ぼすものが壊せない。
もし壊せていれば、リッカはこの城から早々に脱出ができて、ぼくはリッカをすぐに救い出せたに違いなかった。
リッカは一進一退を続ける状況を、ぼくらに逐一伝えてくれた。
『もう少しで2階へ降りられそう』
『降りられそうって、大丈夫なのか?』
『大丈夫、ちゃんと降りる所に足場はあるよ。部屋の位置がズレたおかげで、隙間ができたみたい』
『そうか、まあ隙間にハマったり、フィールドの外側に出たりしないよう、気を付けろよ。そうなると、本当に助けに行けないからな』
フィールドの外側は城の外という意味ではない。ゲームのグラフィックが用意されていないゲームの外側のことだ。
そこに落ちると、あとはゲームのグラフィックを外側から眺めることしかできない。
ただ、最近のゲームでそのバグが起きた例をぼくは聞いたことがないので、それは想定外の事態として語られているにすぎなかった。
しかし今の状況だと、油断すればすぐにでもフィールドの外へ出て行ってしまう気がしていた。
『2階へ降りたよ。いまどの辺にいる?』
『ぼくは大広間の階段のところにいるよ』
リッカの無事をチャットで確認し、ぼくはホッと胸をなでおろす。
そして2階にある柵越しに、ぼくはリッカの姿を捉えた。
「リッカ!」
そう呼ぶとリッカもまた、ぼくの呼ぶ声に応えて手を振った。
リッカは現実世界のビジュアルとはやや違っている。現実世界では丸みのあった顔はわずかにアゴがとがり、鼻梁や目といったパーツも同じように鋭い形になっていたため、現実世界にはなかった凛々しさが強調されていた。またライトグリーンへと変色した髪の色も、現実にはない見た目だった。だけど里香が時おり僕に見せてくれていたやわらかな表情は、そんなリッカの顔でもしっかりと再現されていた。
そんなリッカとの距離は確実に縮まっていた。
しかしリッカを助け出すにはもう一押し足りなかった。2階にいるリッカは1階へ降りることができないし、逆にぼくは2階へのぼることができなかった。
階段の位置がずれているせいだった。
ただ、万策が尽きたわけではなかった。まだリッカが柵を乗り越えて2階へ飛び降りるという方法が一応あった。しかしぼくはこれを口にするつもりは今のところない。
この城の2階から1階は、3階建ての民家が収まるぐらいの高さがある。それだけ高いと飛び降りた時、このゲームだと相当なダメージを食らうことになるし、そもそもそんな飛び降りは普通に怖かった。
死ぬわけじゃなくても飛び降りるのが怖いのは、安全対策がしっかりとなされたバンジージャンプを行うのと同じようなものだ。おかげでゲーム中ではそんな飛び降りを目撃することはあまりなかった。
「1階へ降りられる隙間があればいいんだけど、パッと見渡す限り見つかりそうにないよ」
リッカが力なく首を振って言う。
「私も全然思いつかないわ。このバグが治るか、私がリッカの所までジャンプして助けに行くぐらいしないと難しいわね」
アサノもまた首を振った。
アサノが言う2階まで届くジャンプはこのゲームには存在しない。このゲームは空中浮遊が
できるほどの自由さは備わっていない。
もし自由に飛ぶことができれば、と今のぼくは思う。
「私、飛び降りる!」
リッカは悩んでいたぼくら2人に向かって、堂々と言った。
「ちょっと待ってくれ、リッカ! 今すぐ何とかするから」
「ううん、大丈夫。飛び降りるのは少し怖いけれど、こうしてコウとアサノを困らせたままにしておく方が、私はつらいよ」
リッカの顔はこわばって見えた。このゲームには汗を表示する機能までは備わっていなかったけれど、現実世界のリッカなら恐怖から汗を浮かべていたかもしれない。
間違いなく無理をしている。
「じゃあ飛ぶね……回復とか、あとはよろしく」
リッカは柵に手をかけてよじのぼる。
あとは落ちるだけ。
リッカの表情に、恐怖がやってくる。
リッカの着ている金色の刺繍がほどこされた紫色のローブは、はらりと宙を舞う。
足はもう、地についてはいなかった。
体は傾き、制御を失い、現実世界と同じように重力に引っ張られて、リッカの体は地面へと落ちていった。
「リッカ!」
ぼくは叫んだ。
こんなところで死んだら、良くないことが起こってしまうという、根拠のない予感がぼくの中にあった。
おかげで冷静さはもはや欠片もなく残らず、現実世界でも感じたことのない焦燥感だけがぼくの胸をざわめかせた。
しかし、
「――間に合った!」
地面に落下していたリッカを抱きかかえる人影が現れた。
それはアサノだった。
アサノはリッカを抱きかかえて1階へと綺麗に降りた。
アサノもリッカも、ダメージを受けた様子はなさそうだった。
「リッカ!」
「コウ!」
ぼくはリッカを抱きしめた。
胸のざわめきは収まり、心地よい安心感が広がっていった。
しかし、リッカはぼくからすぐに離れた。
リッカの視線の先には、アサノの嫌らしい笑みがあった。
「あら? 続けてもらっても、私は構わないわよ」
「いや、いいよ……それよりさっきの技、一体何なんだ?」
ぼくは恥ずかしくなったので、話題をそらした。
「これ? 私にもよくわからないけれど、『飛べ』って思ったら本当に飛べたの」
へへっ、と得意げにアサノは笑みを浮かべていた。
「もしかして私もバグっちゃったかな? なんて、そんなことはないわよね」
そう言うアサノの表情に不安は一切なく、またバグに対するいらだちもなく、むしろ宙に浮かんだ花瓶に触れて遊んでいた時の嫌らしい無邪気な笑みだけがあった。
ぼくはアサノの笑みと、安堵したリッカの表情をみて、心が穏やかになった。
そしてぼくら3人は、堰を切ったように一緒になって笑い声をあげた。
やっとぼくら3人は、安心することができた。
ただ、アサノの顔のそばをはしった虹色の光の線と、アサノのキャラクターモデルに生じた一瞬のノイズについては、わからなかった。
ジャンプをしているアサノに、一瞬だけそれは現れていた。
しかしアサノ本人も、助け出されたリッカも、誰も気付いていなかったから、今は黙っていようと思った。




