前兆(後編)
開け放たれた門の扉部分は頑強な木でできており、いまは城塞都市と外を隔てる川を越える橋の役割を果たしていた。
足元を流れる川は静かなせせらぎを奏でていて、透きとおったスカイブルーの水は太陽の光を煌々と反射させている。そんな川を越えて門に入ると、『トラウム』の都市が視界に飛び込んできた。石畳の舗装路とその両側に均等にならぶ中世ヨーロッパ風の石造りの建物の数々がぼくを迎えた。
ぼくはいつも集合場所として選んでいる噴水広場へ向かいながら、どこかにいるかもしれない孝美と里香に連絡を取るため、チャットモードを起動する。
『孝美、里香。もうログインしているか? ぼくは噴水広場へ向かっているぞ』
ぼくは口を動かさず、孝美と里香に向けて言葉を発した。
同時に、宙に平面なウィンドウが現れ、ぼくが言葉にした内容がそのまま文章になって写し出された。
このチャットモードは念話のように口を動かさず、さらに遠くの人間に話しかけることのできる感覚コマンドの1つだ。ウィンドウに表示される文章は従来のチャットと同じく会話のログを残す機能がある。
孝美か里香か、どちらかの応答を待ちながらぼくは噴水広場を目指した。
すると、広場が視界にちょうど入ってきたところで、声が聞こえてきた。
「アサノだよー。もう噴水広場に到着しているわ」
手を振る少女の姿が見えていた。アサノと名乗るその少女の声は、よく聞けばチャットモードなんて使わずに、大きな声でぼくを呼んでいた。
「孝美、大きな声で呼ばないでくれよ。恥ずかしいじゃないか」
「そんなに気にする必要ないと思うわ。それより私は、こっちでの名前を呼んでほしいかな? まあ、身元がバレなんて私は気にしないけれど、一応礼儀としてね」
「ああ、そうだな。ごめん、アサノ」
アサノは孝美が『リング・オブ・ファンタジア』で遊ぶときに使うハンドルネームだ。
大概は本名と関係のないハンドルネームを使いたがるものだけど、孝美は本名の浅野孝美からアサノを拝借し、ぼくは島田コウのコウから名前を拝借していた。実に由来が単純だけど、少なくともぼくは後悔していない。
それにぼくもアサノも、名前と同じぐらい現実と似たようなキャラクターモデルをこのゲームで作っていた。
ぼくは写真のデータを取り込んでキャラクターモデルを作ってから、ケガの跡やニキビの跡といった不要な部分を取り除いてキャラクターを完成させた。
一方でアサノはどこをどう変えたか本人の口からは聞いたことがないけれど、大きく見開いた瞳は赤くなり、また胸は谷間を強調するようなチュニックを好んで着ていたせいか、学校のとき以上に開放感があり、そして美貌にも満ちていた。こんな姿で学校に来るものなら、どれだけのラブレターをもらうことになるのか、見当がつかない。
「そういや、リッカはまだ来てないのかな? 返事はあった?」
アサノがキョロキョロと周囲を見渡す。しかしリッカは見当たらない。
「いや、返事はまだないよ。もうしばらくしたら来るんじゃないか?」
リッカは里香のハンドルネームだ。里香はぼくやアサノとちがって、そのまま名前を使ってはいない。
『ごめん、ちょっとだけログインが遅くなっちゃった』
どこからともなく聞こえてきたのはリッカの声だった。
方角を伴わない明瞭な声から、それがチャットによるものだということがすぐにわかった。
「リッカの声だ」
「私にも聞こえているよ」
ぼくだけではなく、アサノにもリッカの声が届いていた。
とりあえず会話になるよう、ぼくはアサノとリッカにチャットで言葉を飛ばした。
『リッカ、いまどこにいる?』
『いまトラウム城の3階にいるの。噴水まではちょっと距離があるから待っていてくれる?』
『うーん……いや、リッカはそのままでいいよ。私たちが城に行くよ。今日はせっかくだし、お城のクエストを片付けましょう』
そう提案したのはアサノだった。
『ホント? じゃあ城の2階で待っているね』
リッカはそう言って会話を終えた。
ぼくたちは電話が切れたことを確認するかのように、少しだけ間を置く。
そして少ししてから、ぼくは口を開いた。
「ところでアサノ。お城のクエストって何をやるんだ?」
「リッカ1人では達成できないクエストが1つ残っていたよね? あれをやろうと思ったの」
「トラウム平原のボスモンスターを討伐するクエストだったっけ?」
「そうそう。報酬は微妙だけど経験値はいいから、そろそろかなと思っていたの」
「確かにリッカのレベルを考えるとちょうどいい時期かもしれないな」
リッカのレベルは20になったばかりだ。それは初級プレイヤーからようやく抜け出せたと言えるレベルだ。『トラウム』の外にあるトラウム平原のボスモンスター討伐クエストは、そんなプレイヤーに適したクエストだった。
しかし、ぼくのレベルが35で孝美のレベルが30なので、パーティーとして討伐するとなると少し敵側が弱くなってやりがいは薄れてしまう。ゲームにはやりがいが必要なのは百も承知だった。
だけどぼくたちの目標は、リッカをはやく同じぐらいのレベルにすることだった。だからこのクエストは、リッカに適したクエストだと言えた。
「じゃあお城に向かおうか」
豪奢なトラウム城の3階にいる兵士がそのクエストをくれる。
ぼくらはその兵士に出会うため、噴水広場から一歩を踏み出そうとした。
しかし、
「あれ、体が――」
そう言ったアサノは歩みを進めようとはしなかった。
「どうしたんだ?」
アサノを置いていきそうになったぼくは、アサノのもとへと駆け寄った。
「いや、なんだか体がうまく動かないのよ」
「強制ログアウトが始まろうとしているんじゃないか? トイレに行きそびれていたとかで――」
「乙女のまえでそんな話、しないでよ!」
「あ、ゴメン……」
「ついでに言うと、強制ログアウトの忠告とか一切なく動かなくなっているの。これってどうおm――」
突然だった。
アサノの言葉は電源の切れた家電のように途切れた。そしてアサノのキャラクターモデルだけが、ぬけがらのように瞳も口もなにも動かなくなり、ぼくのそばに無言で立っていた。
「おいアサノ……どうしたんだよ、孝美!」
ぼくはアサノの体を揺さぶる。しかしアサノは返事をしない。オブジェのようにぼくの揺さぶりにも動じなかった。
なにかが変だ。
ゲームでは決して表現されない冷や汗が、全身から吹き出そうになる。
ぼくがそう感じると同時に、あちこちから奇妙な声が聞こえてきた。
それはぼくと同じように、隣人を心配する恐怖と不安に抑え込まれた声だった。
「おい、運営どうなってるんだよ! バカみたいなバグ、放置してんじゃねーよ!」
様々な声を押しのけ、神に訴えかけるかのように天を仰ぎ叫ぶ男もいた。続く言葉はすべて罵詈雑言で、普段は聞き慣れないような汚い言葉が多く含まれていた。
誰かが止めることもなく、そして答えることもなかったので、男は言葉を弾雨のように放ち続けた。
しかしそんな言葉もまたアサノの時のようにピタッと急に止まる。
そして男もまた、オブジェのように動かなくなった。
男の叫び声が聞こえなくなった刹那。
沈黙を破るかのように、1人の女の子が言った。
「ログアウトできないなあ」
その何気ないつぶやきが、引き金となった。
ぼくの周囲はざわつきはじめた。不安をなんとか押し殺している声が、あたりからボソボソと囁き漏れていた。
閉じ込められたわけではないのに、こんな変な状況から脱出する手段が今はない。その一種の閉所恐怖がこの不安を生み出している。そしてぼくもまた、そこに不安を覚えた。
ぼくも周りの人と同じように、感覚コマンドでログアウト画面を出そうとした。
しかしログアウト画面は表示されず、文字のない枠だけが表示された。
ぼくはその瞬間、一気に不安の渦へと飲み込まれそうになった。
いったいどうなっているんだ?
これまでのVRMMORPGに、こんな出来事はなかった。
あったとしてもそれは、誰かが作り出した創作話でしかなかったはずだった。
これからどうなる?
ぼくはその不安の先を想像しようとする。
この不安の先が想像を絶望であることが、果たしてあるのかどうか。
それは大げさかもしれないが、なくはないと思えた。
もしかしたらこれは、大きな事件のほんの幕開けにすぎないかもしれない。
だとすれば……と、ぼくは漫画やアニメから得た想像の引き出しを線で結んで像を作ろうとした。
しかしその想像は一瞬にして消え、ぼくの眼前に広がる光景は『トラウム』の街並みから黒一色に変化していた。
その黒一色はゲームの世界と現実の世界を出入りする前に起こる、催眠状態下の正常なブラックアウトに似ていた。
しかしぼくは、ログアウトをした記憶はなかった。
ならこのブラックアウトは、なにを意味するのだろう?
意識が途切れた。
ぼくはその感覚とともに、ゲームの世界にやってきた時と同じような目覚めをぼくは体験をした。
しかし眼前に広がるのは、現実ではなく、変わり果てた『トラウム』の姿だった。




