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前兆(中編)

 学校の授業は今日も平和に滞りなく終わりを迎えた。

 授業が終わると、あとは帰るだけだ。だからぼくの頭の中はすでに『リング・オブ・ファンタジア』のことでいっぱいだった。


「孝美、今日はいつからログインできる?」

「帰り次第すぐログインするよ。コウは?」

「ぼくも同じく。帰ったらすぐログインするよ。里香はどう?」

「たぶんできると思う。ログインがもしできなかったらゲームのアカウントの方にメールするね」


 里香は持ち前のおっとりとした笑みを見せず、申し訳なさそうに頭を下げた。

 里香の親はきびしく、たまにゲームを許さない時があった。ヘッドマウントディスプレイと『リング・オブ・ファンタジア』が買えたのもたまたまだと、少しまえに聞いたことがある。

 そういう親は全国どこにでもいた。ゲーム機は高価すぎるし、遊ぶために必要な時間が長いからだ。ぼくも遊びすぎて怒られたことがある。親に強制ログアウトさせられたことも二度や三度じゃ済まなかった。

 しかしそれでも懲りずにぼくはゲームをやり続けた。

 そして今日もゲームがやりたくて仕方がないぼくたち3人は、急いで帰路につく。


 放課後になってからもつまらない雑談はしたかったけれど、ゲームの中で話せるのならそこで話せばいい。それにギルドのメンバーと話したほうが楽しいことの方が多かった。

 部活をしなかったこともあって、ぼくたちのコミュニケーションの中心地は完全に学校からゲームへと移っていた。



 ぼくは元気よく「ただいま!」と言うと、「おかえりー」と気さくな返事が聞こえてきた。

 それは妹のリオンの声だった。リビングから顔を出し、玄関をのぞく小柄なリオンの顔が見えた。

 やはり機嫌はもう治っている。それどころか、キダッチ結婚のショックからすら立ち直っているかのような笑顔だった。


「キダッチのことでまだ落ち込んでいるかと思ったぞ」

「ファンはそんなことでクヨクヨしないの。結婚しても『私たちのキダッチ』は変わらないよ!」


 リオンはきっと、いい友だちを持っているのだろう。

 それは兄として誇らしかった。


 ぼくは自室へ入ると、鞄を床に投げて、充電が完了したヘッドマウントディスプレイをさっそく頭に装着してベッドで横になる。

 画面はまだ真っ暗で、とうぜん何も見えない。

 しかし右目近くのボタンを押すと、それは一転した。見える限りの視界に立体的な映像が浮かび上がり、様々な会社のロゴが登場し、神経接続の認証画面が現れ、メニュー画面が起動した。


 高性能、多機能を誇るこのヘッドマウントディスプレイに映し出されたメニュー画面は様々なものがある。中にはスーパーコンピューターについての項目や気象予測計算参加証人の項目といったマニアックなものまであった。

これら数多くの項目を、このディスプレイでは視線と感覚によって選んでいた。テレビゲームのようなコントローラーがなく、また指の位置がわかる透過スクリーンでもないため、このような特殊な操作方法が取られている。そしてこの操作方法には長い正式名称があったけれど、通称名として『感覚コマンド』がよく使われていた。

 感覚コマンドと呼ばれるこの操作方法は、簡単に言えば「右2番目の項目を選びたい」と思えばその通りになるというもので、それがゲームであれば「ステータス画面が見たい」や「空を飛びたい」というものになる。つまり考えることで表示されていない数々のコマンドが不便なく、まるで念力のように使えた。


 とりあえずぼくは、そんな念力のような感覚コマンドを駆使して、多機能な項目は無視し、インストールしてあるゲームを起動する。

 起動するゲームはもちろん『リング・オブ・ファンタジア』だ。

 ゲームを起動すると、さっそくこの手のゲームにはありがちの注意事項が表示された。



『注意!

 このゲームに接続すると視覚や聴覚といった感覚はすべてゲームに移行します。まず、自分の姿勢を確認しましょう。

 また気分が悪くなったり、一定以上の尿意が観測されたり、周囲から異音が感知されると、強制シャットダウンモードに入ります。適切な体調、環境が保たれているか確認しましょう』


 

 注意事項はイラストつきで、わかりやすい姿勢の図や記号も表示されていた。

 しかしゲームを起動するたびに表示されるので、すでに知っていることばかりだった。

 もちろん、ぼくはすぐさま「OK」の項目をえらぶ。

 すると画面いっぱいに表示されていた注意事項は消え、画面は暗転し、ぼくの意識も闇のなかへと溶け込んでいった。

 


 一瞬の催眠のあと、気がつくとぼくの足元には草がいっぱい生えていた。

 服装もいつの間にか制服ではなく、革でできたジャーキンになっている。体を少し動かすと、ジャーキンの中に着込んでいるチェーンメイルが金属音を立てた。だけど重さはなく、部屋着のような着心地のよさがあった。

 そして顔をあげれば、そこには青々とした空と、クレーターの形がはっきりと見える巨大な月があった。この巨大な月を見ることで、ぼくはようやくここがゲームの世界の中だという実感が得られた。それは巨大な月がもちろん、現実には存在しないからだ。

 ぼくは空にある巨大な月から正面へと視線を移した。するとそこには大きな城塞都市があった。その城塞都市は小山のようにそびえ立つ城を中心に広がっていて、その街全体を人がよじ登れないほど高い城壁で覆っていた。


 この城塞都市は『トラウム』という国名で、堅牢な城壁のわりには門は常に開かれ誰でも入れるようになっている。そしてぼくは、このゲームの中ではそんな『トラウム』の国民でもあった。

 草花が敷き詰められた地表を蹴って、燦々と輝く朝日を背に『トラウム』の門へ向かって走る。まわりに咲いていた美しい花々はぼくの脚に勢いよくぶつかって花弁を散らし、無残な姿をさらけ出したが、ぼくは気にもとめず走り続ける。


 ここはゲームの世界だ。だからいくらモノが本物のように壊れても、やがて再生されるようプログラムされている。それは花だけではなく、このゲームのあらゆる小物に対応していて、切り倒した木もやがて再生されるようになっている。

 だからぼくが蹴った花は、5分もすれば美しい花弁をふたたびもつことができる。最初は現実ではありえないこのシステムに戸惑いがあったけれど、これは数時間で慣れていった。


 ゲームの世界のモノの多くは、現実のようなリアルさがある。こういったゲームに対しては、写真のようにリアルだという意味合いを込めてフォトリアルという言葉がよく使われた。

 しかしそんなフォトリアルも、現実の写真と入念に見比べると、粗はいくらでも見つかった。それはフォトリアルが現実を超えることができないからだった。しかしこんなことでゲームへの興味を失う人間はほとんどいなかった。

 それはハリウッド映画を見ているときに、実物とCGとの差異が気にならなくなるのと同じように、ゲームの世界に入ってしまえば現実との差異がわからなくなってしまったからだ。

 ぼくも例外に漏れず、その差異はわからなかった。それぐらいゲームの世界はリアルに作り込まれていた。そんなリアルなモノが5分足らずで形を変えず復活するのだから、最初は慣れなくても当然と言えた。


 ただ、いまはそれがゲームのプログラムで、ゲームの世界のルールなのだと無意識に割り切ることができる。

 だから空に浮かぶ月も、堅牢な城塞都市も、ぼくの着るチェーンメイルの重さも、そして走り続けても息切れしない体力も、現実的でなかったとしてもすべては現実と同じように感じ取ることができた。

 とくにいくら走っても尽きることのない体力は、現実にはない爽快感だったけれど、このゲームの現実にはあった。


 ぼくはそんな尽きることのない体力を頼りに、足を止めることなく走り続け『トラウム』の門にまでやってきた。

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