12 物語くらべ①
その日、アシュラフはナバートが繰り出し続けるお説教と勉強の山に飽き飽きしていた。
いつものお供スィラージュはナバートを避け彼の気配を察知するなり自分の住まいの中へ消えた。薄情なやつめ、とアシュラフは思った。
そうなる以前、スィラージュは当然のようにアシュラフへの干渉についてナバートに不満を訴えた。しかしどれだけ主観的客観的意見を述べようと、ナバートは意に介さなかった。彼はスィラージュの存在をことごとく無視したのだ。あまつさえ『このような者を周囲に置くのは感心しませんなァ』とスィラージュをアシュラフの部屋からつまみ出す始末。
さすがのスィラージュも主にナバートを“黙らせて”もいいかとたずねた。アシュラフはどういう意味で黙らせるのかと気になったが、どうせ魔術で何でも出来る魔神だ、何も聞かなかった。そんな主ににいい訳ないだろうと返され、ナバートに反撃出来ないスィラージュは彼と顔を合わせない事を決めた。
一国の王女であるアシュラフが王宮から一晩以上姿を消した事件の後――ナバートの監視は目に見えて厳しくなった。
アシュラフにはザフラの王族としての自覚が足りないと自学を課し、ナバート本人が日に何度もアシュラフの部屋に様子を見に来るようになった。為政者として学ぶべきザフラの歴史についてから始まり、アスピス語やアーサーン語、天文学や法学や詩、片っ端から書を読め書き取りしろと言いつけた。お陰でアシュラフは自分の部屋から出られなくなった。もちろんナバートの目を盗んでは手を抜いたが、本人がいなくとも彼の配下の者がアシュラフのお勉強を見張っていた。
そんな事が三日も続けばもうアシュラフには充分だった。
ナバートとて一国の大臣、王女にばかりかまけていられない。ナバートの部下をなんとかやりすごすと、アシュラフは自室を出た。
彩釉タイルに表現される花や草の精緻な紋様のある廊下を、アシュラフは歩いていた。廊下が左右に分かれる手前で、アシュラフはハーフィド将軍を見つける。いつものように縦にも横にも大きな将軍は、自分のふさふさした眉に指をあてている。
アシュラフはハーフィドに声をかけようとするが、その前に彼は他の者に出会った。相手はザフラ王国の大臣の一人、ジルジースだ。
ジルジースはやや上背のある男で、四十という年齢のわりに若く見られる溌剌とした面差しをしている。真面目だが人好きの顔もする、評判のいい男だが――アシュラフはあまり話した事がない。そんな相手の前に割り込む気にもなれない。ハーフィドも将軍として話す事があるだろう。アシュラフのいる場からは会話の内容までは聞こえないが、彼らの話が終わるのを待つ事にした。
だがその機会はさほど待たずにやってきた。話を切り上げたジルジースは廊下を先に進み、ハーフィドがアシュラフに向かってやってくる。
将軍になついているアシュラフはすぐに彼の元に駆け寄ろうとするが、アシュラフに今気づいたという様子のハーフィドは驚いた顔になる。視線を逸らしどこか気まずげでもある。
何かあったのかとアシュラフがたずねようとしたところ――
「このようなところで何をしておいでで、殿下?」
ナバートの声がアシュラフの足を動けなくさせる。最近アシュラフがどこに居ても見つけ出す能力を備えはじめた男によって、彼女の自由な時間は終わりを迎えた。
アシュラフは出来る限り平然としてナバートに顔を向ける。
「ナバート。わたしは今からご不浄に行くところで」
「まったく……貴女の言い訳など通用しませんよ」
相変わらず体調がよくなさそうな顔色で、目付きは厳しい。アシュラフは頬をひきつらせる。
審判者のように硬い表情のまま、ナバートはアシュラフをじろじろと眺めはじめる。
「まァ、机の上の勉強でなく、そろそろ実技の時間にしてもいいでしょう」
抽象的なナバートの言葉に、アシュラフは何をさせられるか想像出来ず、身構えた。
「貴女には、ズィヤド人の商人の相手をしてもらいます」
一度部屋に戻って着替えたアシュラフは、秘書官を連れたナバートとハーフィド将軍に迎えられ謁見の間へと向かった。
「殿下もズィヤド人とは代々交易で関わっているのはご存じでしょう。王族にお目通りがかなうほどの者もいまして……ま、ズィヤド人は世俗の権力にはあまり興味を持ちませんのでわざわざ王家と関わりたがる珍しい者もいるという訳ですな。その者がこの度代替わりしたというので改めて挨拶を、と。私どもが歓迎してやってもよいのですが、出来るなら王家の方を、などと申しますので」
道中ナバートが説明したが、要はザフラ王国にとって軽んじてはいけないが重要ではない相手との対面を任されるという事だ。
ズィヤド人は確かにこれといった国に拘らずに商いで広範囲を行き来する。ザフラ王家に挨拶に来たからといってザフラの敵対国ガンナームと商売をしない訳ではない。彼らに国と国との緊張状態など関係はない。もしズィヤド人の反感を買ったとしても、ザフラが攻めこまれるような心配などまったくない。彼らの数はさほど多くもないし、ただ商いの相手としては見なされなくなるだけだ。
今まで父アーディルに謁見を求める者を見るだけだったアシュラフでも、ズィヤド人商人ならば一人でも対応出来るだろう。いい練習台が来た、という事だ。
確かにただ写本を読むだけでは物足りなかったアシュラフにしてみれば願ってもない機会だ。
「さあ、アシュラフ殿下。貴女はただ商人に挨拶をし今後も商いを続けていこうと呼びかけるだけでいいのです」
しかしながら、このナバート・ニーザーンの物言いには腹が立つ。
「粗相なく、終わらせてくださいませね……?」
加えて恨みを向けるような目つき。まだまだ未熟な者のためごく簡単な課題を与えたのだと、言外に伝えてくる。その上ナバートは釘を刺すのも忘れない。
(こいつはほんとに一言多いな……!)
ナバートの後ろ頭を叩いてやりたい衝動を、アシュラフはなんとかこらえなければならなかった。
彼女の背後にハーフィド将軍がおり、視線が合えば穏やかに目配せをされる。ハーフィドはアシュラフがどんな事をしようと支える、と言っているかのような眼差しだ。先ほどの様子は気にかかるが、ザフラ王アーディルの信頼する将軍が側にいるのだ。アシュラフは彼の期待にこたえる為にも、胸を張っていなければならない。
そして、傍らにいつもいるはずのスィラージュが今はいない――相変わらずナバートを避けている――事をひそかに恨みながら、アシュラフは謁見の間へと進んだ。
天井も壁も、繊細な幾何学紋様に囲まれた目も眩むような広い空間へ、そのズィヤド人商人はやってきた。彼は恰幅のよい男で、中年ぐらいであろうが肉づきのよさのせいか年齢不詳に見える。豪奢な内装の謁見の間に通されても泰然としていて肝が座っているため、経験が豊富なのだろう。
大理石の床を進む男を、アシュラフは国王の椅子から見下ろしている。
アシュラフは上品な深い青色の被り物と、金糸で縫いとりをした丈の長い上着が自分を威厳たっぷりに見せている事を願った。
額ずく商人に頭を上げさせると、男は肉付きのいい顔を笑みの表情に変える。
「これはこれは。ザフラの王女は明け方の星より美しいと聞いていましたが、これほどとは」
その美辞麗句を使うのは初めてではないと勘づかせるほど滑らかな口調だ。世辞が下手というより当然の如く口にするのでかえってもっともらしく聞こえないのだ。
加えてアシュラフは自分に向けられる容姿の賛美は常に上辺だけのものと思い込んでいる。王宮において王族のご機嫌とりをしない者は少ない為、アシュラフは美しいなどと言われても口先だけとしか受け取らない。
「将来の婿殿は幸せ者ですね、あなた様のような女性に添い遂げられて。今でさえこの美しさ、将来はきっと十五夜の満月のように素晴らしい美貌になるでしょうから」
「そうか。それで、お前はなんという名前だ?」
「ああっ、これはこれは失礼をば。わたくしウスマーンと申しまして、商いで各地を回っております。この度高齢の父アリーに代わりましてザフラの王国のみなさまと今後も変わりなく商売をさせてもらえたらと思いまして、参った次第でございます」
ウスマーンはかしこまった様子で自分の身の上を述べた。ナバートから聞いていた通りだ。
「うん、聞いている。我が国もズィヤド人との交易は古くから続けている。これからもよろしく頼むよ」
アシュラフが人の上に立つ者特有の鷹揚さでもって応じるとウスマーンは感激したように破顔する。
「ありがとうございます。実は、この度実に珍しい品を手に入れまたのでぜひに献上したいと思っていたのです」
一国の主に気に入られようと、自慢の品を捧げに来る者はアシュラフにも馴染みのもの。商人に品物を見せるように頷く。
ウスマーンの供の者が布を被せたなかなかに大きな物を運んでくる。人が二人分は入るだろうか。ウスマーンは驚く準備は出来たかでも言いたげにアシュラフへ視線をくれる。ややゆっくりと布に手を伸ばし、勢いよく引き抜く。
「こちら、空を飛ぶ黒檀の馬でございます」
おおっ、とその場の者がどよめいた。
あらわれたるは、本物と見紛うばかりの黒い馬。
“空飛ぶ木馬”――言い伝えでは、呼び名通りに空を駆ける事が出来るとか。今はまだ地に佇んでいるが、この馬の本領は空中で発揮されるのであろう。
だがアシュラフにとってはどこかで聞いたような話だ。
「なんだ、たいして珍しくもないな」
さらりとつぶやかれた言葉に、謁見の間にいた者は番兵も含めて目を剥く。中でもナバートのひきつった顔は珍しく、驚きと苛立ちが内包されていた。
「で、殿下……」
ナバートは明らかにアシュラフが余計な事を言ったと思っている顔だ。
当のアシュラフはそんな事には気づかずに、自分の経験談についてだけ思いを巡らす。
急ぐ旅をしていた時の事だ。スィラージュの知人という謎の女占い師に用意してもらった移動手段が、今目にしているような黒檀の木馬だった。それは実際に夜の空に浮かび上がり、アシュラフが肝を冷やすほどの高さまで飛び上がった。あの時の体験は忘れる事など出来ない。
「空飛ぶ木馬なら見た事がある」
そういえばあの占い師には木馬を弁償しなくてはならないのか、とまで考えてアシュラフは周囲の空気に気づいた。
辺りの人間は、アシュラフがこの場に不適切な言葉を使ったかのように、困惑している。
折角商人が自慢の品を差し出したのに、それを大した事ないとはねのけるのは相手にとって喜ばしい事ではない。
やってしまったか、とアシュラフが言い訳を考えはじめた時、ウスマーンは大きな口を開けて笑いだした。虚勢というよりも、本気で笑いをこらえられないかのようだ。これにはアシュラフや謁見の間にいた者は目を見開く。
「さすが、さすがですねアシュラフ様は。この世にまたとない珍品を一蹴、そうきますか」
まだ口の端で笑いながらもウスマーンは続ける。
「これではわたくしのご用意した珍品ではアシュラフ様を満足させる事は出来ないようですね」
「いや、わたしは別に……」
折角用意したものを馬鹿にするなと怒りをぶつけられても嬉しくないが、笑い出されてもアシュラフは居心地が悪い。
「いいでしょう。こうなればわたくし、商人の名にかけてアシュラフ様のお眼鏡にかなう世にも珍しいものをお目にかけてみせましょう」
ウスマーンは傲慢な目をする。まるで自分に用意出来ないものなど一つもないと言いたげだ。
「と、いいたいところですが」
男は困ったように両手を広げる。
「ただ今のわたくしには木馬の他はアシュラフ様を唸らせるような物を持ち合わせておりません」
わざとらしく悩んだ顔つきで天を仰ぐウスマーン。彼は途中で名案を思いついたように目を見開く。
「物がなければ、そう、そうです。わたくし、アシュラフ様でもご存じないような世にも奇妙な物語を披露いたしましょう」
なんだかアシュラフはこの男が前もってこうなる事を知っていたような気がしてきた。何しろウスマーンはまるで先に書かれた文章でも読むみたいに滔々と語るのだから。
「いや実はわたくし、珍品集めも好きですが、誰も体験した事のないような珍しい物語を聞くのが大好きでして。行く先々でいろいろな話を聞いて回っているのです。きっと空飛ぶ木馬に負けない話をご用意出来るかと」
なんでそうなる。アシュラフは疑問になるよりも理解出来ない。
「もちろんわたくしの話が珍しいとお思いにならない場合もあるでしょう。その時にはアシュラフ様、それをわたくしに納得させられるような、あなた様が知る世にも奇妙な物語をお聞かせいただけたらと思います」
今度もまた、何故そういう事の運びになるのかとアシュラフは引っかかったが、ある事に勘付いた。
「珍しい話勝負という訳か」
「まあ……結果的にはそうなりますね。でもわたくしはただ単に珍しい物も話も好きなだけでございますがね。好きな事に関しては、耳にするだけでも甘美なものでございますからねえ」
「勝負ごとなら、負けられないな」
普通の人が体験出来ないような事なら、最近のアシュラフには覚えがある。彼女はにやりと笑った。
「……貴女はまた妙なところで負けず嫌いを発揮させますな」
近くでナバートが呆れた声をあげているのも聞こえない振りをした。
「でも、お互いに自分の話が一番だと言いはった場合はどう決着をつけるんですか?」
番兵か誰かの声にウスマーンは頷いた。
「そうですね、わたくしたち以外の人間に判断してもらいましょうか。数が拮抗しないように、奇数の人間に」
「人選次第で審判に偏りが出ないか?」
「ええ、ですがわたくしの弟子はわたくしを嫌っておりますから公正な判断が出来ると思いますよ。まず一人はこの弟子を」
背中を押され、引き合いに出されたのはまだ若い男だ。推薦されて嬉しそうな様子はない。それどころか迷惑そうにウスマーンを見やる。確かに彼らの仲は良好とは言えなさそうだ。
「それならば私も立候補しましょうかね。私はアシュラフ様に何の感慨も抱いておりませんので。なんなら負けてもらっても構いません」
背後から近づいた気配に、アシュラフは振り返る。こちらもまた催しごとを楽しむつもりなどまるでなさそうな表情の男だ。ナバートはつまらなそうに眉を寄せている。
「ナバート……お前」
日頃からアシュラフへの恨みがたまっていてそんな事を言うのかと、彼女は目をすがめる。しかし当の本人は素知らぬ顔。
「もう一人は……」
ズィヤド人商人の助手とザフラ王国の大臣が審判者となった。ウスマーンやナバートの公平な判断をするという言葉が真実でなかったとしても、両陣営それぞれの身内が一人ずつと数えられる。このままであればどちらの陣営にも属さない最後の一人が必要となるが、そんな人物はなかなかいない。かといって、戯れに近い勝負にわざわざザフラ王家にもズィヤド人にも属さない人物を探す事はない。
どうしたものかとアシュラフが唇を尖らせていると、
「私が」
と見知らぬ声が彼女の耳に届く。
いや、アシュラフにとって馴染まぬものだっただけで彼の名前は知っている。
「ジルジース」
先程も見かけた顔だ。健康そうな褐色の肌、太く凛々しい眉、穏やかだが力強い眼差し。ジルジースの表情からは彼の人の好さがうかがえる。体格はよく、小綺麗にしたこの男は正直そうにも見えた。
アシュラフはジルジースが何を言わんとしているのかすぐには分からず、ナバートはまるで彼を嫌がるかのように眉を寄せた。それでハーフィド将軍が口を開く事にした。
「彼は仕事にも私情を挟まぬ、公平な男です」
将軍の簡単な説明に、商人は値踏みするようにジルジースを眺める。それからアシュラフに視線を移すと、彼女の反論を待った。が、それは得られないと分かると頷いた。
「まあ……よろしいでしょう」
ズィヤド人の男は自分が決定権を握っているとばかりに不遜な様子だ。
この頃にはアシュラフもジルジースが商人との勝負の審判役をかって出たのだと分かっていたが、その理由が分からなかった。ジルジースの事を彼女はよく知らないが、なんとなくこのような催しを好む性格とも思えなかったのだ。それとも彼女が知らないだけで冗談や遊びが好きなのだろうか。
ジルジースだけではない、アシュラフはザフラ王に仕える者をよく知らない。これからもっと知っていかねばならないのに。若い後継ぎには課題が多すぎる。
アシュラフが一人考えこんでいると、ウスマーンがわざとらしく咳払いをした。
「では、では僭越ながらわたくしから先にお話しさせていただきますね。アシュラフ様は人前で長々とお話する経験はあまりないでしょうし、気持ちを落ち着ける時間が必要でしょう」
ズィヤド人商人に目を向けると、彼は実に楽しそうだ。ウスマーンは人の話を聞くのも好きなのだろうが、自分が話しをするのも好きなのだろう。アシュラフもつられて少し笑ってしまう。
「これはわたくしが商いの旅先で聞いた話です」




