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怨恨の崇拝者  作者: 中野南北
第三章
23/58

23,新たな航路

 太陽の光を燦々と受けた青い葉が、清らかな涼しい風に揺られて、林をまるで緑の海の如くに波打たせている。自然が作り出した巨大な山々は、人間のどんな建造物よりも力強く、小さな廃村に大きな影を落としていた。耳を澄ませば、風や葉の音と共に、透き通った川のせせらぎが聞こえてくる事だろう。


 鈴音が人間の大陸に足を踏み入れてから、既に一ヶ月という時間が流れている。一太郎やグルルと共に過ごしたこの期間は、鈴音にとって、とても貴重な時間だった。毎日家事の手伝いや、隣村まで御使いに行ったり、空いた時間には人間の勉強を一太郎に教えて貰う。そして約束通り一週間に一度、グルルに解毒薬を与えた。


 グルルは普段赤坂村の何処か山奥で生活をしているらしい。その為、鈴音が解毒薬を与える際には、〈鬼風響き〉という鬼にしか聞こえない笛を吹くことにしていた。この笛は鈴音が島から持ってきた物で、本来は鈴音が神住み島へと帰る際に、鬼イルカを呼ぶ為に使う道具だった。普段鈴音はこれを首に掛けている。一度吹くと、耳の良い鬼の種族であれば二十里離れた場所でも音が届くという優れた品だ。


 そういった訳で、静かな廃村の外れから大きな笛の音が鳴り響いた。一度鳴らせばもう充分だ。鈴音は笛を胸元に仕舞い、古瀬家の玄関前に置いてある長椅子に座って鬼熊を待っていた。暖かな空気が全身を包む。ゆっくりと静かに舞い落ちる何枚もの青い葉は、幻想的な自然の姿を一層美しく見せていた。


『その笛、全くどうにかならんのか。山奥にいても耳がキンキンする』


 グルルが迷惑そうに小言を呟きながら、山林の奥からのっそりとやって来た。鈴音はフフンと笑んで、巨大な怪獣である鬼熊に、まるで親友に話すかの如く軽い口調で言った。


『じゃあ、一緒に住むしかないね。何度も言ってるじゃない、一緒に暮らそうって』


『俺様は気高い。お前との誓いで、俺様が完全に解毒され、故郷に帰る手筈を組んでくれる約束だからお前らを傷付けはしないが、人間と暮らすなど御免被る』


『……でも、おじいちゃんと仲良くしてよ。わたしは、もう直ぐ赤坂村を出るんだから』


『関係無い。何度でも言う、俺様は……』


『気高いんでしょう。分かってるよ……』


 鈴音は〈鬼狂いの実〉の解毒薬を調合しながら、鬼熊の冷たい赤い目を見て、寂しそうに言った。……もう直ぐ、赤坂村を出る……自分で言ったその言葉が、耐えきれないぐらいに悲しかった。そう、何事にも終わりが来る。鈴音は新たな可能性を胸に、来週、ある村へと旅立つのだ。


 そこは中心都から数里離れた場所であり、旅館〈みやわさ〉が建てられている花宮村の隣村だ。自然豊かな村で周囲は森林に囲まれており、名を月影村という。何故、鈴音がその村へと旅立つのかと言うと、月影村に建てられている〈太陽国月影高等学舎〉の図書館に、鈴音が勤める事になった為だ。この学び舎は一太郎が何十年も前に勤めていた学舎であり、つい最近、図書館指導員が不足していたらしい。


 グルルが苦い薬を我慢して飲んでいる様子を見ながら、鈴音は長椅子に腰を下ろして、期待と不安を相手に戦っていた。同年代の人間と話すなど何十年ぶりだ。それに、年上の人から「先生」と呼ばれるのは何だか申し訳ないような気がする。


『オエッ……オエエッ……』


 グルルは定期的に表現し難い声を上げて鳴いていた。気持ちは分かるが、こればかりは鈴音にもどうしようもない。鈴音が不在の間は一太郎に薬を与えて貰う事になっていた。事前に鈴音が作っておいた解毒薬を使って貰うのだが、それも鈴音の不安の一部であった。


『ねぇ、わたしがいない間におじいちゃんを襲うなんてことしないでね』


 鈴音の言葉に、グルルは嘔吐しそうな中、精一杯強がった口調で返事をした。


『何回……同じ事を……オッ……言うんだ……約束は守……る。お前も……約束は守れ』


『うん……分かってる』


 事前に作っておける解毒薬には限界があった。約二か月分程である。つまり、二ヶ月に一度は、鈴音はこの赤坂村に帰って来なければならない。二ヶ月に一度ぐらいなら帰って来れるだろうと鈴音は安易に考えていた。


『山に帰る……来週呼ぶ時はもっと小さな音で鳴らせ』


 グルルがその赤い目で、鈴音の胸元に仕舞っている笛を憎々しげな眼差しで睨み付けた後、身を翻して山奥へと消えた。鈴音は困ったように微笑んでから、古瀬家のボロボロな茅葺家へと戻った。




 家の中では、一太郎がお茶を煎じていた。鈴音は一太郎の隣に正座をして、お茶が出来上がるまで静かに待ち続ける。すると、一太郎はまだ作業の途中であるのに手の動きを止め、鈴音に向かい合って尋ねた。その声には、鈴音の心の中と同じように期待と不安が含まれている。


「いよいよ来週じゃ……人の学校は初めてじゃろう? 不安かの?」


 鈴音は「う〜ん」と唸った後、笑顔になって元気な声で答えた。


「不安は……ないことはない……けど、それよりも楽しみって気持ちの方が……大きいかな?」


 一太郎は微笑んで、手を動かし始めた。明らかに鈴音の本心には気が付いている。本当は不安で仕方がないということを……出来る事ならここで暮らして行きたいのだと……それでも、何も言わなかった。おそらく「自分で決めろ」と言う事だろう。自分で信じた道を進め。


 それから暫くの間は茶筅の音だけが部屋に響き、二人は一言も発さなかった。長い時間が経過してから、漸く一太郎がゆっくりと話を切り出した。


「仕事についても心配しておらん……お主のことじゃからの。人間関係も、あの学校に来る者は心が広い。お主の性格から考えても面倒なことにはならんじゃろう」


「うん……大丈夫」


「すまんの。家の息子が家を出るときは、こんなに色々心配しなかったのじゃが……もう歳じゃからかの? 心配でならん」


 鈴音は曖昧に笑って見せたが、心の中では戸惑っていた。この落ち着かない気持ちが何なのか……自分でもわからない。それでも、一太郎が自分を心配してくれているのが、どうにも申し訳なく思えた。裏切りの果てに、鈴音は人に心配されるということが、無意識の内に理解出来なくなっていたのだ。




 その日の夜、鈴音は久しぶりに夢を見た。過去に起きた出来事を、誰の視点からでもなく傍観する夢である。そこは、まだ草臥れる前のきちんと整備された公園で、夕暮れ時、まだ幼い鈴音と年が四つ上の兄が向かい合って、何か話をしていた。


「綾乃……手をパーにして、兄ちゃんの手に合わせて」


「こう……?」


「そう。これで、兄ちゃんはずっとお前と繋がってるからな」


 幼い鈴音は不思議そうに兄の顔を覗き見た。兄はいつもの優しい表情で悲しそうに笑って、言った。


「人と人の絆って見えないだろ。だから、こうやって確認するんだ。また綾乃に俺が会った時……何時になるか分からないけど……こうやって絆が切れていないかを確認しよう」


「でも……わたし……」


「大丈夫。見えないからこそ、人の絆ってのは強いんだ」


 そう言って、兄は鈴音の頭を撫でた。



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