22,陽はまた昇る
毎日この時間帯は霧が酷い。一寸先も見えず、太陽の光さえも遮ってしまう。
「全く、本当に死んでしまったのか? 赤坂村よ……」
一太郎が自分の家の玄関前に置いた長椅子に腰を下ろして、独り言を呟く。十年前……この村に住む者が自分一人となってから、この深い霧は季節を無視してこの赤坂村にかかるようになった。村の家々が朽ちていく様と、寒気を感じさせるこの不気味な濃霧は死を連想させる。
「流石罪深き村にお似合いの姿よ――」
不意に、霧でほとんど見えていない林道の奥から、小さな赤い光が動いたように見えた。まるで目の玉のように二つ、赤い光の眼光が林道を彷徨っている様に思えたのである。――いや、気のせいではない。獣の声が聞こえる……大きな体で荒れた地面を踏みしめる音が、静かな廃村に響いている……一太郎の下へ、段々と近付いている様だ。
その獣が視認できる位置まで来ると、一太郎は死を覚悟した。獣は熊だった。それも尋常ではない程の大きな化け熊である。赤い目を光らせ、息を荒くして四足で歩いて来た。
『止まって。絶っ対に襲っちゃ駄目だよ』
化け熊から聞こえてきた、随分と可愛らしい声の意味不明な言語に、一太郎は目を丸くする。すると、熊はその声に従うかのように動きを止めて、何とこの巨大な怪物の背中に乗っていた少女を素直に下ろした。
「おじいちゃん!」
元気良く駆け寄ってくる紺色の着物を着た少女は、綾乃だった。何があったのか髪はボサボサになり着物は酷く草臥れていたが、確かに綾乃だ……巨大な熊に乗ってわしに会いに来たというのか? 夢ではないだろうか。鈴音は一太郎に抱きつくと、彼は困惑しつつも鈴音の頭を撫でた。
暫くそうしてから落ち着くと、一太郎は全く理解できないといった表情で尋ねる。
「綾乃……何がどうなっておる」
鈴音はこれ以上ないような明るい笑顔で一太郎を見上げて、答えた。
「家の中で説明するね」『鬼熊さんは待ってて』
鈴音は鬼熊が頷くのを見て取ってから、困惑している一太郎の手を取って家の中へと入った。
鈴音は一連の出来事を全て一太郎に語った(後にこの事件は鬼熊脱走事件として太陽国中の話題になる)。一太郎は鈴音の話しを聞き終えた後も、目を瞑って何かを考えている。
「それで、あの子をこの赤坂村の山に放して上げたいの。絶対に人間は襲わないって約束してくれたし。それでも、おじいちゃんが駄目って言うなら、別の場所を探すけど……」
鈴音の言葉に、一太郎は瞼を開いて平然と答えた。
「構わんよ。あの熊が信用出来るのならの」
鈴音は一太郎の言葉を聞いてパッと笑顔になった。そして直ぐに真剣な表情になると、言い辛そうに口を開いた。
「あの……おじいちゃん。それでね、あの子を治す為に、わたしを暫くこの村に留まらせてくれない?」
一太郎は妙に驚いて目を開いた。鈴音は一太郎のその様子にこっちも驚いて、焦ったように続ける。
「おじいちゃんが駄目ならいいんだよ。でもね、家事ぐらいだったら手伝えるし、邪魔になったりしないから。出来れば、おじいちゃんの家で、暮らしたい。ちょっとの間でも……」
一太郎は、緊張した様子で必死に訴える鈴音の事が、とても愛しく感じられた。
(この子は……本当に変わらん。ああ、おたつ。この村に太陽が漸く戻ってきたよ。ぬしが何時も言っておったな……「明けない夜はない」と……)
一太郎は涙を堪えながら、無理に作った笑顔で返事をする。
「良いとも。好きなだけ居るといい」
もうこの村に、不気味な霧が掛かる事はないだろう。
霧が姿を消し、暖かな太陽の日差しが照る早朝。鈴音と一太郎は玄関の前に置かれた長椅子に座り、鬼熊はその前に植えてある杉の木の傍に座って会話をしていた。一太郎とも鬼熊とも話す事が出来る鈴音が中心となって話を進める。
『ねぇ、鬼熊さんには名前ないの? わたしは鈴音って言うんだけれど』
『俺様に名前があっても誰も名で呼ばんだろ。俺様と親しい者などいないのだから』
『鬼熊どうしで名前を呼び合わないの? 他の鬼の種族達は名前が皆あったよ』
『あの島には俺様以外鬼熊はいない』
鈴音は僅かに驚いた。神住み島には鬼熊が彼しかいなかったのか……自分一人しか同じ種族がいない寂しさは鈴音にも分かる……その時、鈴音は良い案が思い付き、一太郎の方を向いて頼んだ。
「おじいちゃん。この子に名前を付けて上げて」
「わしが? 鬼の種族の名前の付け方は西洋的じゃろ。ちと苦手じゃな」
「それでも、名前はとても大切な物なんだから。わたしはそういうの苦手だし、おじいちゃんが付けてあげて」
一太郎は「う〜ん」と顎にてを当てて考え出した。鬼熊がその様子を見て尋ねる。
『そこのジジィは何を悩んでんだ?』
『〈ジジィ〉じゃないよ。古瀬一太郎さん。今、鬼熊さんの名前を考えてくれてる』
『ハッ、そんな事は無意味だと、ジジィに伝えてやれ』
『だからジジィじゃないってば〜』
鈴音が呆れていると、一太郎はハッとして、ニヤリと笑った。鈴音は期待をして尋ねる。
「思い付いた?」
「ふむ。先程から〈グルルグルル〉と五月蝿いからの。〈グルル〉でどうじゃ?」
鈴音には意味を持って伝わっても、一太郎にはずっと〈グルル〉と聞こえていたらしい。鈴音はそのままだと内心思ったが、何も言わずに鬼熊に伝えた。
『〈グルル〉はどうって?』
『どうだっていいって言ってるだ……グルル? 何だその弱そうな名前は』
『何でもいいの? じゃあグルルで決まり! 宜しくね、グルル』
『ちょっと待って』
『なぁに? グルル』
鬼熊は面倒臭くなったのか『もう、いい……』と呟いてスヤスヤ眠りだした。相当疲れているのだろう。何せ二十里を夜中の内に走り切ったのだから。鈴音と一太郎は微笑みながらその様子を暫く眺めていた。沈黙の後、一太郎が真面目な声で話しを切り出した。
「これから先、お主はどうするつもりじゃ?」
鈴音は一太郎のほうに目を向けて、首を傾げた。一太郎が続ける。
「お主の夢は遠い所にある。まだまだの……鬼熊が国王に捕らえられた理由も理解しておるじゃろう?」
一太郎の問いに、鈴音は暗い顔をして頷いた。国王が鬼熊を捕らえる理由、それはつまり、人間が鬼を見下して虐げているのだ。戦争の爪痕、鬼熊が捕らえられている様子を見て、楽しそうに湧き上がっていた群集の声は、ずっと忘れずに頭の中に残っている。鈴音は前々から考えていたことを、言うべき時が来たと思った。
「学び舎に行ってみたい。この国の教育を知りたいから……」
一太郎は少し驚いた様子を見せて、次に優しく微笑み、頷いた。そして立ち上がると、鈴音に向かい合って打ち明けた。
「わしは昔、教師じゃった」
鈴音はハッと顔を上げた。一太郎の過去は全く知らなかったのだ。この人は昔から何も変わらず、ずっとこの姿でいるような気さえしていた。
「うむ、学び舎には伝がある。鬼熊の様子が落ち着いたら、どうにか出来るかも知れぬ」
鈴音も立ち上がって頭を下げ、礼を言った。
そうだ……わたしの戦いが、漸く始まるんだ……




